転居したはいいが、同居人の顔面が恐すぎる!   作:Mr.You78

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狙われた選択

 

「あの~……とりあえず、ありがとうございました」

 

 三郷は、ガラガラとスーツケースを引きながら、奥のテーブルへ近付き、そこで座る黒ずくめの怪しいサングラス男におそるおそる声をかけた。

 

「ただ……今ちょっとホントに持ち合わせが無くてですね……あとで絶対お返ししますんで連絡先とか……」

 

「ズズズズズ~ッ!!」

 

 返事の代わりは、盛大に茶を啜る音。

 絶対に意識して立てないと出ない類の大きさであり、実際に先ほどまでこの男は、非常に優雅な飲み方をしていた。

 訳も無くこんな下品な真似をするような雰囲気ではない。明らかにこちらの言葉を遮る意図で発されたのだと分かり、鼻白む三郷。

 

「ぷはぁ……!」

 

「…………」

 

 わざとらしく一息ついて、ようやくコチラへ向いた男は、いまの遣り取りなど最初から無かったかのように、あたかも知人へ挨拶する際の気易い調子そのままで口を開いた。

 

「いやあ……実に良い苦みだ。やはりこの店の少し甘いツユには、ダッタン蕎麦茶のキッパリとした深みのある風味こそが、お互いを引き立てる。私は以前までの単なる蕎麦茶が呈す琥珀色も嫌いでは無かったが、今ではこの、透き通ったまるでペリドットの如き輝きこそが、真に尊いものと感じられるよ」

 

「ダ……ダッタン……?」

 

「その上、健康にも良いときた。知っているかね? ダッタン蕎麦茶に含まれるルチンには、動物が取り込めば、強い抗酸化作用や血管の強化を齎すだけでなく、植物にとっても、果実の肥大を促進したり糖度を増したりといった効果が期待できるのさ。そんな素晴らしい栄養素を、こうして食事の度に摂取できるとは……まさしく、マスターのフロンティア精神に乾杯だな」

 

「は……はぁ……?」

 

 いったい、この人はいきなり何を語ってるんだろう……と、三郷は思った。

 あまりにも脈絡がなさ過ぎて、呆れるとかよりも先に怖さが来る。

 

 そりゃそうだろ。初対面で自己紹介よりも先にお茶の味について講釈たれてくる奴がいたら見てみたいわ。

 いやまあ、目の前にいるんだが……

 

 こりゃ間違いなく変人の類だ。三郷は今の自分も他人から見たら相当なものだろうなという自覚くらいあるが、コイツは輪をかけてひどい。

 

 そして、そのどっからどう見ても胡散臭い変人が、今の三郷にとってはちょっとした恩人にあたる。

 だからこのままろくに会話もせず、知らん顔で通り過ぎるという事もまた、三郷が持つなけなしの矜持が許さない。それはスジが通らない事だからだ。

 なので三郷はここから逃げ出す選択も出来ないというわけ。……参ったもんだぜ。

 

「おまけに安いとくれば、もはや出先で目兎龍茶が飲めない場合の代用品は、ダッタン蕎麦茶こそが相応しいとすら言えるだろう……君もそう思わないか?」

 

「はあ……それってムギ茶じゃ無かったんですね」

 

 いきなり話を振られた三郷が、とりあえずの返事をしてやれば、男は黙って口をへの字に曲げ、両手を広げつつ肩を竦めた。

 

 言葉が無くたって、今のジェスチャーは分かるぞ。

 おおかた「これだから違いの分からん奴は」とでも言いたいのだろう。

 失礼な人だな……。

 

「まあいいさ。ところでキミは、いつまでそうして突っ立っているつもりかね? はやく座りたまえよ」

 

「あ、座って良かったんすね……」

 

 男が鷹揚に着席を促すのに甘えて、どこか釈然としない気持ちを抱きながらも、相手の対面へと腰掛ける三郷。

 

 その拍子に、彼の鼻を柔らかく甘い香りがふわりとくすぐった。

 いかにも「老舗です」みたいな内装の蕎麦屋にはまったく似つかわしくない香りなので、どうやら目の前の男が発する匂いらしい。

 

 はじめはシャツの柔軟剤かとも思ったが、それにしてはやけに甘ったるい。

 

 フローラルな花の香りだけではなく、桃やバナナといった、果物が熟した時のような芳香を強く感じるのだ。

 

 まあ、三郷はもとから鼻炎持ちで、嗅覚にはあまり自信が無いため、それ以上の詳しい事はよく分からないけれど。

 

 ちなみに三郷は桃が好きだが、バナナは嫌いだ。

 つまり、この匂いは特別好きなわけでも、だからといって不快になるほど嫌いでもないってこと。

 

 えらくフルーティーな体臭のする奴だなとも思ったが、流石にそんな訳はないし、もしもそうなら糖尿病か何かだろう。少なくとも、こんなところでざる蕎麦に舌鼓を打っていて良い健康状態ではない。

 

 そこではたと気付く。最近は、男性用の香水というのが流行っているらしいので、もしかするとそれかもしれない。

 ということはつまり、目の前の男は、そういうお洒落を楽しむくらいは懐に余裕があって、なおかつ、普段からプライベートでもこうして身嗜みに気を使う程度には、頻繁に人と会う仕事か何かをしているのだろうか。

 

 いわゆる上流階級の人間という奴である。

 ……もしかして、どっかの社長とか? それならば、こんなあっつい日に仕立ての良さそうな黒スーツで全身ぴっちり固めてるのも納得だ。

 

 なんとなく男の風体からそう結論づけ、遠慮がちにもう一度頭を下げる三郷。金持ちは嫌いだが、だからといって睨まれるとろくな事が無い。いきなりクビにされるとか。

 

 すると男はようやくサングラスをとり、目尻に笑いシワを湛えた、人好きのする笑顔を浮かべながら、こちらを歓迎するかの如く、大袈裟に腕を広げた。

 

「やあやあ、そんなに警戒することはない。袖振り合うも多生の縁と言うじゃあないか。ただでさえ、我々のような者にはなにかと生き辛い世の中だ。同じくこの星で細々と暮らす仲間同士、困った時にはお互い様というわけだね」

 

「あ、ありがとうございます……?」

 

 おや? と三郷は首を傾げる。

 思ったより随分とまともな事を言うな……と思ったからだ。

 もちろん『思ったよりまとも』というのは、いきなりお茶の蘊蓄から会話を始める変人にしては……という枕詞がつくけれど。

 

 感心すると同時に、内心では警戒度を引き上げた。

 

 「みんな同じ地球に生きる仲間なんだから、争わず仲良くしましょう」……などと言うお題目は、いかにも腹に逸物抱えた詐欺師みたいな奴らが、口先だけの薄っぺらい建前として利用する代表格だからである。

 

 特に目の前の男が経営者の類であるならなおさらだ。

 奴らは人を二束三文で働かせて、とにかく私腹を肥やす事しか考えていないので。

 

 つまり、依然として彼は胡散臭い。

 

「あの……お気持ちは有難いんですけど、ホントに返せるものが……」

 

「ああ、分かってる分かってる! キミが施しに対してただ甘んじるでなく、なんとか報いようという気概を持っていることは。みなまで言うな。見上げた心がけじゃないか! 私はね、キミのような立派な若者にこそ、細やかな幸福が訪れるべきだと考えているんだ。ま、暇人の道楽とでも思ってくれ」

 

「そうですか……?」

 

 うーん……ホントにただ気前の良い人なのか……?

 ごくたまに、見ず知らずの客へ奢る常連というのは存在する……らしいし。

 奢るという行為は、広義においては相手へ対するマウントという側面が無きにしもあらずなため、それを道楽の一種としているならば、まあ不思議ではない。

 

「見たところ、旅人のようだが? ははあ、自分探しの旅という奴かな? 若さってのは素晴らしいね」

 

「ああいえ、実はお恥ずかしい話、賃貸を追い出されまして……まあ、ある意味では自分探しの真っ最中とも言えるんですが、先に腰を落ち着ける場所を探さないといけないわけで……」

 

「ほう……つまり、行く宛てが無い……と?」

 

「まあ、はい……今日は多分、ネカフェかカラオケですけど……」

 

 恐縮して顔を下げた三郷は、男の目に一瞬だけキラリと鋭い光が灯るのを見逃した。

 

「……即日入居可能なアパートがあったら……キミ、入りたいかね?」

 

「え? そりゃもう! ま、そんな都合の良い部屋があればの話ですけど……あと、条件とかもあるし」

 

「条件……? キミにとって、即応性以外に魅力のある条件とは、何かな?」

 

「あー……とにかく家賃が安い事と……ペット可かどうかとかですかね」

 

「ペット? ペットとは……その魚かね」

 

 テーブルの下、スーツケースに吊り下げられた水入り巾着を指先す男。

 

「そうです。ギョタローって言うんですけど、とにかく水槽の光熱費が高くてですね……」

 

「そんなに珍しい魚なのかい? お世辞にも、あまり鑑賞向きの色彩をしているようには見えないが……」

 

「なんかハイギョ? って魚らしいです。あんま詳しくないんですけど、水が干上がっても、泥の中で何年も眠って生きれるとか……ドジョウとかナマズの親戚みたいな?」

 

「ほう泥の中で……そんな魚が、この日本にいたとは」

 

「いや、普通に外来種ってヤツだと思います。だからあんま不用意に逃がせなくて」

 

「ふぅん……そうかい。ま、鳴かないなら問題無いだろうな」

 

 三郷がそう答えると、興味を失ったようにギョ太郎から視線を逸らし、懐をまさぐる男。

 

「挨拶が遅れてすまない。私はこういう者だ。微力ながら、キミのお役に立てると思うよ」

 

 そうして彼が差し出したのは……一枚の名刺だった。

 そこに書かれた、人名としてはあまり見慣れない漢字の並びを、怪訝そうに読み上げる三郷。

 

「ん? 冥導(めいどう)……リュウ?」

 

冥導(メトゥ)(ロン)だ。よろしく。あれだよ、烏龍茶のロンね。見たことあるだろう?」

 

「あ、中華読み的な! 中国のかたなんですか? その割には日本語お上手なんですね。こっちに住んでからは長いんで?」

 

 納得した三郷が尋ねれば、ロンと名乗った男は曖昧な笑みを浮かべて、紅茶のポット……では無く、ナントカソバ茶の急須を優雅に傾けた。

 

 その所作は洗練されており、傍から見たら貴族のティータイムにしか見えないが、中味は純然たる日本茶である。

 いや、もしかしたら中国茶の作法なのかもしれない。あの茶器にお湯ぶっかけるやつ。

 

「……まあ、そんなものかな。故郷から遠く離れて、ふと気が付けば異国の空……キミもそうではないのか? そちらはどのあたりから来たんだい?」

 

「いやーそれは……」

 

「ふむ、言いたくはないと。これはミステリアスだね。俄然、キミに興味が沸いてきた」

 

「ははは……」

 

 言わないのではなく、言えないだけなのだが……

 

「さて、私はこうしてキミに名乗ったのだが?」

 

「え……あ。そうですね。三郷 悠です。どうも」

 

「よろしい。キミが礼儀も知らん粗忽者ではなかったのは、非常に喜ばしい事だ」

 

 そう言って、三郷の方へ急須を掲げるロン。

 

 いきなり茶をぶっかけられるのかと身構えたが、彼はそのままの姿勢で微動だにしない。

 なんだかよく分からないまま首を傾げれば、ロンは視線だけで三郷がさっきまで座っていたカウンターを指す。

 

「あ、そういう事ですか」

 

 ようやくその意図を察した三郷が、まだ片付けられていなかった湯呑みを手に戻ってくれば、ニコニコと好々爺じみた笑み――因みにロンは、初老と言うにはまだまだ覇気があり、壮年と言うには泰然自若が過ぎるため、なんとも判別が難しいが、少なくとも老人と称するのはいささか失礼に当たるだろう。あくまで言葉の綾だ。もっとも、三郷の見立てが間違っていなければの話だが――でダッタン蕎麦茶を注いでくれた。

 

 どうやら正解だったらしい。

 

「では三郷君、我々の出会いを祝して乾杯」

 

 なんとなくだが、このロンという男が分かってきた。

 相手に自分の考えを汲んで動いて貰う事に喜びを見出す質なのだろう。要は、他人を意のままに操る事が得意なタイプ。

 こう言ってしまうと、あまりお近づきになりたくない人物のようにも思えるが、ロンの場合に限れば、自分の要求に応えた相手に対しては、それに見合った何らかのメリットをちゃんと提示する手合いのようだ。

 そうでなければ、店主からあのように気に入られたりはすまい。

 ギブ&テイクがハッキリしているというか、商人気質というか……ああいや、お貴族サマって感じがしっくりくるな。

 

 敬意を欠かさない限りは、こちらに恩恵を与えてくれる。それが分かってさえいれば、むしろ付き合い易いぐらいだろう。

 

 問題は、三郷があまり察しの良い方では無いという点だが……

 

「さ、名前なんかは別にさほど重要ではない。真に注目すべきは、その下だよ三郷君。なんと書いてある?」

 

 ロンの促す通り、名刺にデカデカと書かれた名前の下方を見れば……

 

「……黄昏アパート……星雲荘?」

 

 三郷がそう述べるのを聞いて、ロンは満足げにニヤリと笑った。今のがなにか、彼の琴線に触れるような事だったのだろうか? ただ、書いてある文字を読み上げただけなのだが……?

 

 そうして、しばらく我が意を得たりと言わんばかりに頷いていたロンだったが突然、はたと動きを止め、今までの余裕に満ち溢れた態度を崩して、心底不思議そうな表情を見せる。

 

「待て……今なんと? すまないが、もう一度だけ読み上げてくれるかね?」

 

「はあ。黄昏アパート、星雲荘」

 

「え? ほんとぅ? ……あ、そうなの……」

 

 いかにも想定外ですという風に、少しばかり慌てた様子で身を乗り出すと、三郷の手の中にある名刺を覗き込んでは、首を傾げるロン。

 

「いや、失礼。ちょっと手違いでね。古い方を渡してしまったらしい。ハハハ、たまにはそういう事もある」

 

「なるほど。どっか誤字ってますかね?」

 

「いやいや大丈夫。星雲荘は星雲荘だから。特に問題はそれほどない」

 

「そうですか……」

 

 あれかな、おおかたリニューアルしてカタカナの洒落た感じに改名したのに、ついうっかり慣れ親しんだ方のバージョン渡しちゃったとかかな。

 

「……で、もしかして僕にこのアパートをオススメして頂ける感じですか?」

 

「おお、話が早いのはお互いにとって都合が良い。まさしくその通り! なんとこの星雲荘、私が大家をやっているんだが、今ちょうど一部屋空いているのさ! 普段はいろいろと準備があるが、三郷君の状況を鑑みて特別に即日入居可としようじゃないか」

 

 ……なるほど、社長じゃなくて大家さんだったか。

 当たらずとも遠からず。どっちも自分の手は汚さずに、他人に稼がせた金を掠め取って生きているという点では同じことだ。

 

 ……ダメだな。この前追い出されたばかりだから、ついつい悪者のように言ってしまう。

 思っていた以上に、今の自分が批判的思考へ傾いているのを自覚しつつ、その考えを頭の中から追いだそうと努力する三郷。

 

 そうだ、目の前にいるロンのように、親切な大家だっているんだから。

 

 ……親切? 本当に?

 

「あー、気持ちはありがたいんですが……自分、クビになったばかりでして。家賃が……」

 

「まあそこは心配だろうね。ではひとまず次の職場が見つかるまでは……そうだな、このくらいでどうだい?」

 

「……えっ!? やっすっ!!??」

 

 ロンが携帯の電卓機能に打ち込んだ値段を見て、三郷は我が目を疑った。

 

「残念ながら風呂とキッチンは共有だが、トイレは全部屋についてる。流しと兼用ではあるがね。もちろん、光熱費も含む」

 

「それでこの値段!? ウッッ……ソでしょ!? ……や、待った」

 

 おかしい。あまりにも都合が良すぎる。

 確かに三郷は、直ぐに入れてなるべく安い部屋を求めていた。なんなら今を逃せば、これ以上の物件など、この地球どこを探しても見つからないとすら思える。

 それぐらい破格の好条件だったのだ。

 

 ……しかし、なぜそんな優良物件に空きがある?

 うまい話には裏があるものだ。格安賃貸の代名詞と言えば……そう、事故物件。

 

 安いからにはなんらかの理由があるはず。

 

「冥導さん、失礼ですが……」

 

「他人行儀だねぇ。ロンで構わないよ」

 

「じゃあお言葉に甘えましてロンさん。甘えついでに聞かせて頂きたいんですが……この部屋、前はどんな人が住んでたんですか?」

 

 三郷がそう尋ねた途端、ロンは困ったように眉を下げ、自らの額をポンと叩いた。

 

「同居人が賢明である事も、本来は歓迎すべき事態なのだが、聡すぎるのも困りものだな。つまりキミはこう言いたいわけだ。この部屋が安いのには理由……どこか致命的な瑕疵があるはずだ、と」

 

「不躾なのは重々承知なのですが、流石にこの値段は……」

 

 瑕疵……まあざっくり言うと部屋の価値を下げる汚点というか、マイナスポイントの事だが、瑕疵といってもいろいろだ。

 例えば先ほど言った事故物件というのは、いわゆる心理的瑕疵という奴に含まれるが、気にしない人はとことん気にしないだろう。

 

 ところが実は、この事故物件というのが単なるカモフラージュで、本当の問題は物理的瑕疵……雨漏りとか隙間風とか害虫とか、健康被害に繋がりかねない欠点を覆い隠す為に、わざと言っている場合があるとかないとか……

 

 オカルトを信じない人間が、「安くてラッキーじゃん」と飛び付いたら、実際はムカデの一家が団体旅行してくる部屋だった……となると目も当てられない。

 幽霊が恐くない人間も、虫はイヤという奴は案外多い。そういう層に、事故物件の安さはまさしく誘蛾灯のように働く。

 

 そうでなくとも、一時期は手抜き工事だアスベストだと、建築の問題が世間を騒がせた事もある。それこそ最近は下火だった怪獣被害も再び耳にするようになったくらいなので、耐震性や耐火性が藁屋レベルであったなら、それはすなわち死に直結するのだから。

 

「仮にもこれから同じ家に住むんだ。私も入居者には常に誠実でありたいと思っているよ。だから白状してしまうとだね……瑕疵はある」

 

「やっぱり」

 

 思った通りだ。問題は、それが三郷にとって許容可能な範囲であるかどうか。

 

 この際、ムシの類はギョ太郎のエサ代が浮くと思って我慢するが、隙間風は受け入れられない。室温を一定に保てなくなるので。

 

 逆に日当たりが絶望的に悪いとかなら、むしろ大歓迎だ。暑すぎるのだけは耐えられないし……いやでも、確か日当たりが悪いと鬱になりやすいんだっけ? 嘘か本当か知らないが、事故物件の大半はそれが原因とかなんとか……。

 

 少なくとも、現代人にとって一番のストレスである仕事からは解放されてるので、恐らくその辺りの心配は無用のはずだ……多少のストレスはギョ太郎が癒してくれるため、メンタル面に不安はない。

 もっとも、ギョ太郎が死んだりしたら即座にペットロスで発症するかもしれないが。

 

 とにかく、その部屋の瑕疵が三郷にとってのマイナスかどうかは別問題。

 さて、鬼がでるか蛇が出るか……

 

「……隣にド偏屈が住んでる」

 

「……は?」

 

「キミが入る事になる部屋の隣は、陰気で頑固で口煩いひねくれ野郎の部屋だ」

 

「……え、それだけ?」

 

「それだけと言ったかい!? ご近所トラブルは引っ越し理由の最たるものだぞ!?」

 

「ま、まあ……それは……そうですね」

 

 しかし、それでこの値段というのは相当だ。はたして偏屈で済まして良いレベルなのかそれは?

 

「キミの前の住人も、彼と騒音問題で少し揉めてね……」

 

「そういう事でしたか……ま、そこらへんはよっぽどで無ければ我慢できると思いますし……」

 

 先ほど、ロンがギョ太郎を見て「鳴かなければ大丈夫」と呟いた理由が分かった。

 その隣人とやらは、かなり神経質に違いない。

 

 その点、三郷の休日は日がな一日ゴロゴロしながらネットサーフィンか、さもなくばずっと昼寝しているだけなので、特に問題ないと思われる。

 

「それに、逆もまた有り得えるしな」

 

「逆……というと?」

 

「当然だろう? 他の住人からキミに対しての苦情が殺到した場合も、残念ながら即刻出て行ってもらう。邪魔だからね。考えなかったのかい?」

 

「確かに……」

 

「流石の私も、新入りと古参が揉めた場合は、申し訳ないが付き合いの長い方を優先させてもらうよ。現に、この部屋のケースではそうだった」

 

 つまりこの大家の胸先三寸で、再び風来坊へ逆戻りになるリスクも込みの値段ということか。

 この好条件な部屋へ居着けるかどうかは、三郷が先住民とうまくやれるか次第と……

 

「マァマァ、そう深く考え込む事はない。キミはとりあえずの住み家が手に入る。私は部屋が埋まって気持ちが良い。これぞwin-winの関係というやつさ」

 

 このロンという男は、なによりも体面を重視するようなので、持ち家に空き部屋を抱えているのが我慢ならないらしい。

 しかし……解せない。

 

「どうして……そんなに良くして下さるんですか?」

 

「ん? というと?」

 

「この条件なら、希望者を募ればすぐに集まると思います。わざわざ僕みたいな収入に不安のある奴じゃなくて……」

 

「ああ、そんな事か」

 

 ロンは、言い淀む三郷を事も無げに笑い飛ばすと、うまそうにダッタン蕎麦茶を啜りながら目を細めた。

 

「わざわざ言葉にする必要など無いと思っていたから言わなかったがね……ウチは入居者の募集なんかしないさ。この私が『これは』と思って声をかけた奴しか入れない。正確にはその資格が無いと言うべきか」

 

「資格? それはどんな? 僕にはその資格があると……? さっきまで他人だった貴方に、なぜそんな事が分かるんです?」

 

「もちろん! それはね……ニオイだ」

 

「え?」

 

「そんなにプンプンさせていれば、嫌でも分かってしまうよ」

 

 ニヤリと自分の鼻を指さし、得意げに流し目を送ってみせるロン。

 彼の言葉を受けた三郷はというと、自分の襟を嗅いだり、ギョ太郎の巾着をもう一度キツく縛ってみたりと、慌てて身の回りを確かめた。

 

 まさかそんなに臭かったとは。一応、出てくる前にギョ太郎の水は新しいものに取り替えたのだが、先ほど座っていたカウンターから、奥まったこのテーブルまで匂っていたとするならば、相当な悪臭だ。

 

 そりゃ店主もいち早く立ち去って欲しいと思うに決まってる。気付かぬうちに営業妨害レベルの迷惑をかけていたなんて……ごめんなさい、大将。

 

 その様子を見て、ロンはからからと笑うばかり。

 

「ハハハ! 違う違う! そういうんじゃない。普通の人間には分からないかもしれないが……キミからは、お仲間の匂いがする。つまり……この人間社会からの、はみ出し者ってヤツの匂いがね。いや、この場合は鼻つまみ者かな?」

 

「はみ出し……」

 

「人の世に馴染めず、かと言って元の古巣に帰ることもできず、ただうたかたの夢追い求め、闇を彷徨う半端者……ここ星雲荘は、そういう奴らの寄り合い所帯なのさ。いわゆる駆け込み寺……ま、一種の慈善事業というヤツだね」

 

「僕もそうだと?」

 

「おや、違ったのか。それは失敬。随分と芳しかったもので、つい」

 

 言葉とは裏腹に、全く悪びれた様子のないロン。

 だが三郷の心にも、そんな彼に対する怒りは湧かなかった。

 

 そりゃそうだ。記憶もなければ、金も家も無い今の自分が、社会からのはみ出し者でなくて一体なんなのか。

 

 三郷は、いつのまにかコチラへ身を乗り出していたロンの顔をまじまじと見つめる。

 そうして真正面から改めて彼を観察した時になってようやく、ロンの眉間や鼻筋、顎といった正中線をなぞるように、薄らとだが荒い縫い目のような古傷が走っているのだと気付いた。

 

 もしかしたら……彼自身もまたそうなのか。

 

 こうして一見、整った身なりの紳士として振る舞っていても、実は裏稼業の人間なのかもしれない……それこそ頭文字にインテリと付くような。

 あるいは、むかし……三郷のような若者だった時期に、彼も何事かの苦労をして、その経験から同じような境遇の者達を憐れみ、このような施しをしているのか。

 

 詳しい事など、三郷には何も分からない……分からないが、分からないなりに彼の提案を受け容れてみようという気になった。

 

 今の自分にはもう何もないのだから……ある意味で自暴自棄だ。なるほど、恐らく人はこうして簡単に道を踏み外すものなのだな……とぼんやり思う。

 

「いえ、何も違わなくないです。是非、入居させていただけませんでしょうか」

 

「それは重畳。マァマァ、そんなに畏まることはない。ほら、頭を上げて。マスター! 天ぷらの盛り合わせを追加頼むよ!」

 

「そうだろうと思ってもう揚げてるよー!」

 

「流石だムッシュー! さあ三郷君、共にこの喜びを分かち合おうではないか。見たところ、キミはここの天ぷらをまだ味わっていないようだからな。絶品だぞ?」

 

 厨房からの大声に、口笛を吹きながら店主の手際を湛えたロンは、両手を擦り合わせながらニッコリと笑う。

 

「え、そんな。ただでさえ部屋まで紹介していただいてこれ以上ご馳走になるわけには……」

 

「なぁに、どうせ蕎麦代も奢る約束だ。それが天ざるになっただけのことさ。若人が遠慮するもんじゃない」

 

「はいよ、盛り合わせおまち」

 

「おお、来たぞ来たぞ! そうだムッシュー、このダッタン蕎麦茶は素晴らしいね! 前の蕎麦茶もまろやかでホッとしたものだが、こちらの風味の方が私にはより好ましく感じるよ。客の健康にまで気を遣ってくれるとは、流石はマスターだ。他の店とは気配りの質が違う」

 

「旦那。褒めてもらってるとこ悪いけどね、ただそっちの方が安かったって話で」

 

「その分の利益を客へ還元しようという姿勢の表れだろう? 何も間違ってはいないさ」

 

「やれやれ、旦那の褒め殺しにはかなわねぇや。そんなに気に入ったんなら好きなだけ飲んどくれ。ほら、注いでくるよ。どうせ安いんだから……」

 

「ありがたいね」

 

 空になった急須をヒョイと持っていく店主の背中に、笑顔で手を振るロンの姿を見て、三郷は素直に感心した。

 なんと鮮やかな手並みだろう。要領が良くて羨ましい事だ。三郷もこうして器用に生きられたら良かったのに。

 

「さ、入居の前祝いだ。遠慮することはない」

 

「なんか、ありがとうございます。じゃあ……」

 

 ためらいがちにではあるが、既に三郷の視線はざるの中で一際存在感を放つ野菜揚げに固定されていた。流石に空腹には抗えない。

 

 そして三郷がずっと見ている天麩羅というのが……茄子だ。天麩羅の中だと三郷はこれが一番好きだった。

 衣を纏ったソレを天つゆへドポンと浸してから、油とツユをたらふく吸った罪なる果実に齧り付いて、じゅわっと溢れてくる旨みに口の中を蹂躙されながら、とろりとした果肉の舌触りを楽しむのが堪らなく好きなのだ。

 

 この店は、いかにも舌が肥えてそうなロンが気に入るというだけあって、天麩羅にもしっかり力を入れているようで。

 うひょー! 見ろよ、大振りな茄子なんて、切れ目から綺麗に広がって、ちょっとした子供用のグローブみたいじゃないか。

 

 三郷は内心で歓喜の声を挙げつつ、籠に載った五つの天麩羅の中から真っ先に好物へ箸を伸ばした……ところで。

 

「ダメだ。それは私のだからな」

 

「えっ」

 

 鋭い制止に、思わずポカンとしたままロンを見つめる三郷。

 

「遠慮するなって……」

 

「それは私の奢りで食べる事に対してであって、せっかくの天ぷらを、キミが余計な罪悪感を抱えたまま食べるのは勿体なかろうという配慮だ。チョイスまで自由にしろと言った覚えはない」

 

「はぁ……それなら……ししとう」

 

「ダメだ」

 

「なんでぇ!?」

 

 茄子と似た理論でいくならば、次点はししとうだ。内部が空洞だからツユをよく吸いやすい。

 それに、どちらかと言えばサブというか通好みというか、まあ天麩羅のドラフト会議で真っ先に名前が挙がるポジションではないだろう。

 今のは三郷なりに遠慮した末の答えだったのだ……それをこの男は!

 

 では仕方ないと、恐る恐る大葉へ箸先を向けてから顔色を窺ってみても、口を真一文字に結んだまま箸先をじっと見つめるばかり。

 

 いやシソ天で駄目なら、何なら良いんだよ!?

 

 もしやこの男、気前の良さをアピールするだけしておいて、三郷が貰えませんと辞退する事を見越し、結局ひとつもくれないつもりなのでは……

 

「……えびなら良い」

 

「えっ!?」

 

 海老くれんの!? この人!?

 

 海老なんて天麩羅界のベーブ・ルースとかイチローとかオータニショーヘイじゃん、そんなの。

 つまり野球にまったく詳しくない三郷ですら知っている超一流選手という事。それは頼んだ本人であるロンが食べるべきだと思って、最初から無意識に除外してしまっていた。

 

 そんな海老を譲ってくれるというなら、話は180度変わってくる。

 いや、メッチャいい人じゃん。

 

 なるほど、これが三郷に対する祝いだという建前を尊重するならば、盛り合わせの一番のメインをプレゼントするというのは道理に叶っている。

 三郷に格上を食べさせ、自分は常に次点を取る事で、歓迎の意を遠回しに伝えようという計画を考えていたのだろう。

 

 ところが、遠慮するなと言ったのに、三郷が変に遠慮をしたまま彼の予定と真逆を突っ走ったため、思惑通りにいかず不機嫌になったと。

 うん、この人もだいぶ面倒くさいな。

 

 盛り合わせのチョイスで意図を示そうとか、戦国武将や三国志の世界じゃねえんだからさ。

 

 ……ただ、面倒くさいが良い人だ。多分。

 

 ぷりぷりとした身を思う存分に楽しむ為、あえて先に噛みちぎった尻尾を奥歯でバリバリと砕いて磨り潰しながら、三郷はすっかりロンに対する警戒心を失いつつある自分に気が付いた。

 

 これが相手の狙い通りだったとしても……まあ悪いようにはなるまい。なんの根拠もない勘ではあるが。

 

 例えポーズであったとしても、こんな旨い海老天をわけてくれる相手なら、それ1本分くらいは信用してもバチはあたらないよね。

 

 本心を言えば茄子が食いたかったが、まあここは相手の顔を立ておいた方がロンも喜ぶだろうから、あえて言い出したりはしない。奥歯には既に海老の尻尾がキチンと挟まっているので今更だ。

 それくらいの器用さは三郷にもあった。

 

「となると……」

 

 今度はなかば確信を持って、れんこんに箸を伸ばす。

 ロンは何も言わずししとうに舌鼓を打っているので、これが正確ということらしい。

 

 れんこんも、茄子には及ばないが充分に好きなネタだ。

 しゃくしゃくとした歯触りだけでなく、その後のネットリと舌に残るでんぷんの粘りが、「ああ、俺はいま旨いものを食っているんだ」という実感を齎してくれる。

 

 ふふん……どうだそっちの思惑はお見通しだぞと、謎の優越感と共にれんこんを掲げてみれば、ひとつだけ衣で塞がっていなかった穴の向こうで、奇矯な大家が揚げた青シソを振りながら明るい声で笑う。

 

「ようこそ、三郷君。我々はキミのような男が来るのを待っていたのだ。歓迎するよ」

 

 歯をたてた天ぷらが、サクリと鳴った。

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