転居したはいいが、同居人の顔面が恐すぎる!   作:Mr.You78

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星雲荘へようこそ!

 

 増田屋を辞して、二人は星雲荘への帰途についていた。

 

 もっとも、ロンはともかく三郷にとっては初めて赴く場所なので、帰途という言葉が正しいかは定かでないけれど。

 

 黒いハットを被り、ステッキをリズミカルにつきながら、上機嫌に『蛍の光』の鼻歌を奏でるロンは見るからに不審だ。

 

 既に今は夕暮れ時とは言え、そもそもこの季節にその格好は暑くないのだろうか……?

 汗一つかいていないように見えるのだが……

 

 首筋にじっとりと張り付くシャツの感覚に辟易しながらも、先を行く大家の背中にふと、三郷は自分が重大な懸念事項を伝え忘れていた事に気付く。

 

「あの……ロンさん」

 

「ん? どうしたね?」

 

「いや……」

 

 こちらを振り返るロンの微笑みに全く邪気が無かったものだから、三郷はついつい口を噤んでしまった。

 

 これは、三郷がこれから何を告白するか知らないが故の表情だ。たわいも無い世間話を振られただけだと、彼は思っていることだろう。

 

 一瞬、このまま言わないでおくべきかとも考えたが……やはり、不可能だ。自分はそこまで器用になれそうにない。

 

 なにしろこの大家は先ほど、三郷に対して真摯な態度で瑕疵の存在――つまり家賃が低い理由は、件の隣人どころかアパートの住人全体が、何らかの事情を抱えたあぶれ者達だからという可能性――を明かしてきた。

 

 だったら、こっちだって最大の瑕疵について伝えておかないのは……フェアじゃない。

 例え、それで入居の話がご破算になろうとも。

 

 隠したって、どうせ後でバレる事だ……それで揉めるなら、早い方がいい。

 

「実は言い忘れてたんですが……自分、記憶が無くてですね……」

 

「ほぉーう。そうかいそうかい、記憶がね。そんなのよくある話さ。キミにとっては大変な……」

 

 三郷のそれなりに気合いの入った告白を、まるで財布か何かを落とした愚痴かのように受け流し、後ろ手に腕を組んで再び歩き始めたロンの頼もしさに、三郷は少なからず感動した。

 

 なんという人生経験の豊富さだろう!

 

 ……流石だ。この人はもはや、記憶喪失程度ではまったく動じないんだ。

 伊達に三郷のような社会の落伍者を集めては、住むところを提供してやろうなどと考えていないという事か。

 

 これまでにも、僕のような奴をたくさん見てきたのだろうな。

 その見た目通りに、さぞや波瀾万丈な人生を……

 

「……どうしました?」

 

 そうして感心していたら、いつの間にかロンを追い越していた三郷。

 どうしたのかと振り向けば、頼もしき大家は道の真ん中で急に立ち止まり、こちらを呆然と見つめている。

 

「待てよ? 何が無いって……? 記憶? ハハハ、冗談だろう。私の聞き間違いかな? もう一度言ってくれるかい?」

 

「ええはい。自分、ここ一週間より前の記憶がすっぽり抜け落ちてまして」

 

「…………なにっ!?」

 

 たっぷり時間をおいて発された驚愕の声に、三郷は悟った。

 

 あー……さては本当に聞き流してやがったなコイツ。

 

「待て待て待て! 記憶が無い!? じゃあ今まで私の話を何だと思って聞いていたんだ!?」

 

「え? 何って……アパートの勧誘では?」

 

「いやそれはそうだが……はみ出し者同士、我々はもはや同輩のようなものだと言った部分……!」

 

「そりゃあ、俺みたいな訳アリにも積極的に声かけてくれるわけですから、ロンさんも若い頃よっぽど苦労されたんだろうなって……」

 

 三郷が自分の鼻筋を上下に何度もなぞりながら言えば、サングラスの上から両手でサッと正中線を押さえるロン。

 

「だからね、せっかく貴方からこれだけのご厚意を頂いたわけですから、そのありがたさを思えば、隣の人がどんな人だろうと我慢できるだろうし、なるべくロンさんに迷惑かからないようにしようって……そういう決意を固めながら聞いてたわけですけど……違いました?」

 

「う、う~~む……」

 

 ……どうやら違ったらしい。

 

「待て待て、じゃあキミは……自分の事をいったい『なに人』だと思ってるんだね?」

 

「え、そりゃ日本人……あ、そうか。もしかしたら俺、実は外人の可能性もあるのか……」

 

「に、ニホンジン……日本人と来たか! …………ハハハ! これは傑作だ!」

 

「ええっ!? 俺ってそんな日本人離れした顔してます!? ま、まあ……アジア系のハーフとかなら分かりませんけど……じゃあ尚更のこと確信できんでしょ!」

 

 鏡を見る限り、さして彫りの深い顔はしていなかったと思うが……逆にそのせいで、この可能性へまったく思い至れなかった。

 

 いや、それとも顔ではなく言葉なのか!?

 自分では完璧な日本語を話していたつもりでも、実は母国訛りが前面に出てしまっていたとか……!?

 

 だから中華系と思われるロンさんが、同郷だと思って声をかけてきたと、そういうこと!?

 

 もしかして俺は、記憶よりも先にパスポートを見つけねばならないのでは……

 

「いやいやすまない。心配せずとも、恐らくその肉体は日本人の遺伝子情報に基づいて構成されていると思うよ」

 

「はぁ?」

 

「時に三郷君。これは何本に見える?」

 

 徐々に笑いを押し殺しながら、再び真剣な表情でピースサインをこちらに向けてくるロン。

 

 ああ、よくあるよねこういうの。

 しかし流石に記憶喪失と言っても、ここはドコ? 私はだぁれ? のレベルではない。

 

「あの、そこまで酷いわけではなくてですね……」

 

「だから、何本?」

 

「……二本」

 

「そうか、二本か。二本に見えるのか……」

 

 残念そうな表情で手をひっこめる大家。

 

 エッ!? 違うの!?!?!?

 

 いや、今のはどーみても人差し指と中指だっただろ!? あれか? チョキって言わなきゃいけなかったやつ!?

 

「ハアアアァ~~……もう!!」

 

 ついにロンは盛大なため息を吐き出すと、完全に頭を抱えてその場へしゃがみ込んでしまうではないか。

 

「あの……ロンさん? そんなにダメでしたか? やっぱり記憶喪失はお断りですかね……?」

 

「……いや、いい。違うんだ。私は今、自らの迂闊さに対して憤っている。それに比べればキミの責任は4割にも満たないだろう」

 

 あ、そこは言い切らないんだ……

 

 まあ三郷としても、言い出すタイミングを掴めずに流されるがまま入居を決めてしまい、大いに責任を感じているところなので、「キミのせいではない」と言われたところで気にしないのは無理であるが。

 

「よぅーし! 今更悔やんでも詮無き事さ! むしろ新鮮味があって大変宜しいのでは無いかな? なんなら私は、キミを放り込まれた時に、奴らがどんな顔するか楽しみになってきたぞ。ハッハッハ!」

 

「なんか……半分くらい自棄になってませんか? ロンさん?」

 

 この際、自分も半分自棄で入居を決めた事は棚に上げる。

 

「いいや? 全く? ……第一、この期に及んでせっかくの奇貨を投げ捨てるなど沽券に関わるからね!」

 

「……僕にとったらその方がありがたいですが……」

 

「マァマァ……長い人生、時にはこんな事もある。ケセラ・セラさ!」

 

 そう宣言し、大袈裟なくらいステッキを振り回しながら再び歩き出したロンについて行く。

 

 空元気に見えなくも無いが……大家が良いと言ったら良いのだろう。

 三郷も対して細かい事を気にする質ではない。

 

 なるようになれ、だ。

 

 顔をあげれば、ちょうど西日が目に入って眩しかった。

 

―――――――――

 

「改めてようこそ、三郷君。我が細やかなる領地へ。歓迎するよ」

 

「ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 

「安心したまえ、他の連中も不束具合ではさして変わらんさ」

 

 ガラガラと玄関扉を引いて、中へ入っていくロン。

 

 彼の後を追う前に三郷はもう一度、星雲荘の外観を眺めた。

 

「……一軒家?」

 

 外から見る限り、昔ながらの日本家屋のように見える。

 

 アパートと聞いて真っ先に思い付くような、外階段の先に部屋の入り口が並んでいて……と、いう雰囲気ではない。

 

 塀があって、縁側があって……

 

「なにしてるんだ? 早く入り給えよ」

 

「は、はい……」

 

「おーい、諸君! 戻ったぞー! 久々の客人だー!」

 

「あ、中はフローリングなんですね……」

 

 玄関で靴を脱ぎ捨てながら、ロンが奥に向かって大声を張り上げるも、電気の消えた廊下の先からは、ひんやりとした空気しか返ってこない。

 

 先ほどまで外の熱気にやられていた三郷にとっては、非常にありがたい事この上無かったが、同時にどこか空虚な寂しさも覚えるのだった。

 

「さ、上がって上がって」

 

「お邪魔します……」

 

「一応言っておくと、この先がリビングで、隣が台所ね。レンジその他は好きに使っていいが、冷蔵庫はしばらく開けない事をオススメする。李下に冠を正さずと言うじゃないか。キミもデザートの所有権で難癖つけられたくは無いだろう?」

 

「新参者の分際で、デカい顔する気はありませんよ」

 

「良い心掛けだ。分を弁えていると見えるね」

 

 廊下を進んで案内されたダイニングには、大人数が座れそうな立派なテーブルが我が物顔で鎮座しており、すだれの向こうに流しが見える。

 

 忠告されるまでもなく、三郷には縁遠い場所だ。しばらく寄りつく予定はない。

 

 そんなダイニングからチラリと視線を横に逸らせば……

 

「畳みだ……」

 

 リビングの半分が段差で区切られ、畳敷きの和室になっているではないか。

 床から一段上がった場所に小さなちゃぶ台が置いてある様は、飲食店の座敷席を彷彿とさせた。

 

 ……もっとも、三郷の覚えている限りだとそのような場所で食べた記憶は無い。

 先ほどの増田屋も、残念ながら全てカウンターかテーブル席だった。

 

 はたして自分は、座敷席をどこで利用したのだろうか。

 

「テレビもあるんですね……って、ブ厚ッ!? え? コレ……まさかブラウン管!?」

 

「誰も見ていなかったら好きに見て構わないぞ? ……ただし、大抵は常に私が座っているし、その場合のチャンネル権も私にあるがね」

 

「は、はあ……」

 

 はたしてちゃんと映るのか……?

 

「あと、和室隣にある扉の先が、私の居住空間だ。用があるなら気兼ねなくチャイムを鳴らしたまえ。勿論そうするからには、有りと有らゆる自助努力が実を結ばなかった末での判断だと、私は認識するとも」

 

「……それは気兼ねしなくて良いのか悪いのかどっちなんです?」

 

「困窮した時は迷わず頼りなさい。店子の生活を手助けするのもまた、大家の務めであるからして」

 

 つまり、そもそも自分に迷惑のかかるような状態に陥るな、と……

 いちいち遠回しにしか言えないのだろうか。面倒くさい人だな。

 

「それから……これは言うまでも無い事だが、無断で入った場合は命の保証が出来ないぞ。比喩ではなくな。……ま、三郷君に限っては、あまり心配していないがね」

 

「は、はは……それはええ、もちろん。肝に銘じます」

 

 ……やっぱりそのスジの人なのかなぁー!?

 

「キミ達の部屋は二階だ。ここの階段を上がってもらう。急だから足元に気をつけるんだよ」

 

「うっ……」

 

「……荷物は一旦置いておいたらどうだね?」

 

「いや……いけ……ます……!」

 

「そうか。ならば頑張り給え」

 

 キャリーケースを抱えて赤い顔の三郷を尻目に、スタスタと上がっていくロン。

 上からは、やれ「キャスターで階段に傷をつけないように」だの「水がこぼれそう」だの……手伝う気が無いなら無いで、ほっといてくれませんかねぇ!?

 

 別にケースの中味をバラして何往復かするのが賢かったのだろうし、無理して運びきる選択をしたのは三郷なので自業自得ではあるものの、力仕事の最中に茶茶入れされるとイラつくのは人間みな同じ。

 

 ふぅふぅ言いながら登り切った先で、「おおー」などと呑気な拍手で出迎えられたもんだから、軽く睨んでしまった。

 

 本来ならば逆恨みも甚だしいが、ロンには全く堪えた様子が無かったので、三郷も反省はしないでおく。

 ……というか、絶対わざと煽って楽しんでただろ。

 いい性格してんなこのクソ大家。

 

 三郷の中で、ロンに対する好感度が急降下し、海老天一本分が早速チャラになった。

 

「さて、君の部屋はこの203号室だ。えっーと……鍵はどこだったかな……?」

 

 大家がポケットをちゃりちゃり弄る隣で、三郷は二階の廊下をざっと見渡した。

 突き当たりのガラス窓から西日が差し込んで、廊下全体を赤く染める中、左右に四つずつ、計八つの部屋が並んでいた。

 

 どうやら三郷に宛がわれる部屋は、階段を上がって左手側の二番目。あるいは奥から数えれば三番目の部屋らしい。

 

 今、階段を上がったばかりの三郷のすぐ左手には204号室。右手には205号室。

 左の奥から始まって、反時計回りに番号がついているようだ。

 

 なんで奥からなんだろう。

 

 こういうのって、普通は入り口近くから数えていくもんなんじゃないのか……?

 

 そんな素朴な疑問がぼんやりと浮かんだが、それより目下一番気になるのは……

 

「あの……ここ、ドア開いてますけど……」

 

「ああ、開いてるね」

 

 三郷の部屋のちょうど真向かい、206号室の扉が半開きのまま、廊下にせり出していることだ。

 そのせいで、別に通れないわけではないが、ただでさえ狭い廊下のスペースが削られてしまっている。

 

 ところがロンの返事は「それがどうかしたか?」と言わんばかりで……恐らく、いつもこうなのだろう。

 

 ドアの蝶番は全ての部屋で左側についているため、206号室の扉は階段に向かって開いており、特段覗くつもりがなくたって、階段側から歩いて来た人間からは、普通に部屋の中がガン見え状態なのだが……

 

 いいのか? それで?

 

 いや良くないだろ。

 

 流石に悪いと思って扉を閉めようとすると、半ばまでいったところで妙な弾力に押し返された。

 

 よく見れば、扉の隙間にトイレットペーパーの芯が挟まっており、扉が完全に閉まらないようにされているではないか。やはり、この部屋の住人がわざと開けているようだ。

 

 ……プライバシーの概念とかないのかな。

 

 いったいどんな変人が住んでいるんだと、チラッと薄目で見てみれば……薄暗い部屋の中に、モニターらしき明かりがぼんやり光っており、ゲーミングチェアに腰掛けた住民のシルエットを逆光となる形で映し出している。

 

 こちらへ背中を向けたソイツは、イヤホンでもしているのか三郷達の会話には気付いていないようで、椅子のヘッドレストからは大きな耳がぴょこんと……

 

 ……耳?

 

 

 バタン!!

 

「おいおいおい。引っ越しの挨拶には気が早過ぎるだろう。それとも、さっきの話をもう忘れたのかい? ご近所トラブルは自分の首をしめるだけだぞ? 好奇心は猫を殺すと言うじゃないか。もしもここがレディの部屋だったら、終わってたぞキミィ……?」

 

「す、すいません……」

 

 ロンが凄まじい勢いで扉を閉めたので、トイレットペーパーは完全にひしゃげていた。

 

「あんまりにも全開だったもので……申し訳ない。軽率でした」

 

「だからってねぇ……まあ、悪いのはコイツもか。何度言っても聞きやしない……そんなに気になるなら、強く言って止めさせるか?」

 

「因みに……開けてる理由はご存知で?」

 

「完全に閉めたら息苦しいんだと」

 

「あー……閉所恐怖症的な?」

 

「……まあ、そんなもんだろう」

 

「じゃあ……僕の方で気にしないようにします。なんか変な人かと思っただけなので……体の事は仕方の無い事ですし」

 

「おおー……! うん、それが良い。気にしない気にしない! ご近所付き合いで大事なのは寛大な心さ!」

 

 何かを誤魔化すかのように、妙なハイテンションでそう締めくくったロンは、手元の鍵で203号室を開放する。

 

「さ、今日からこの鍵はキミのものだ。三郷君。……くれぐれも落とすんじゃないぞ? 万が一、落としたら直ぐに報告するように。もしも隠蔽などしようものなら……」

 

「ものなら?」

 

 途端に顔を至近距離まで近付けてきた大家が……ドスの効いた声で囁いた。

 

「……命の保証は出来ない」

 

「なくさない、なくさない! なくしませんよー、もー!」

 

「そうだろうねぇ……ま、三郷君に限っては心配していないがね。ハハハ!」

 

「は、はは」

 

 金が入ったらキーチェーンを買おう。それなりのやつ。

 

「部屋に入る前にちょっといいかな?」

 

「はい? なんです?」

 

 こっちこっちと、ロンに手を引かれるまま廊下を少し移動して……彼は202号室の扉を軽くノックした。

 

「おーい、笠田。いるか? 私だ。冥導・龍だ。合わせたい客がいるんだがね」

 

 返事はない。……留守か?

 しかし、その割にロンはここの住人が在室である事に確信を持っているようだが……

 

 その証拠に、扉の前で耳を澄ましてじっと動かず待っている。

 

 その状態のまま、きっかり1分くらいしてようやく、中から短く「待テ」の声が聞こえた。

 

「着替えに時間がかかりそうか? それなら待つが」

 

「……いや、良イ」

 

 やがて、202号室のドアに小さくギィと隙間が開き、その向こうから、いかにも辛気臭い雰囲気を纏った男が、不機嫌そうに半分だけ顔を出す。

 

「……何ダ」

 

「笠田。今日からキミの隣に住む三郷君だ」

 

 ロンが柔やかにそう紹介すると、ドアの向こう側で半眼に開かれた瞳が、無言でギロリとこちらを睨んだ。

 

 うわあ……なんて無愛想なんだ。

 

 三郷は直ぐに悟った。この男こそが、例の陰険ド偏屈野郎なのだと。

 

「初めまして、三郷 悠です! よろしくお願いします!」

 

「……そうカ」

 

 努めて明るく元気に頭を下げた三郷を一瞥するなり、それだけ言って、にべも無くドアを閉めようとする笠田。

 

 隙間が完全に閉じてしまう前に、ロンがドアノブを外から引っ掴み、それになんとか抵抗する。

 

「笠田。とりあえず、話が、あるんだ、が……下で、話さ、ない、か?」

 

 ドアノブを掴んだロンの腕が、プルプルと小刻みに震えているのを見るに、相当な力を込めて引っ張っているらしい。

 ドアがそれ以上動かないという事は、この笠田という男も中から同等の力で引いているようだ。

 

 凄まじい抵抗である。

 どんだけ話したくないんだよ……

 

 二人はお互いに無言のまま、しばらくそうして無意味な綱引きに興じていたが、遂に笠田の方が観念したのか、真っ暗な部屋の中から盛大な溜息が聞こえてきた。

 

「……分かっタ。引くのをヤメロ。ノブが壊れル」

 

「はじめから素直にしておけば良いものを……そういうわけだ、三郷君。キミは部屋で荷解きでもしていたまえ」

 

「……わかりました?」

 

 部屋からうっそりと出て来た笠田という男は、しゃがれた声と目付きだけから三郷が想像していたようなブ男ではなく、予想に反してスラリと長い手足を持つ、細身の優男だった。

 

雑に伸ばした髪を後ろで括り、真っ黒で薄手なレギンスとTシャツの上から、白いベストを一枚羽織っただけという、本当に最低限度の簡素な格好なのだが、不思議と様になっている。

 

 ただ……彼が三郷の隣を横切る際、その顔にチラリと見えたのは……

 

 連れだってイソイソと階段を降りていく二人。

 

 今のは見間違えだったかと思いながら、言われた通りに荷解きを開始する三郷。

 荷解き……と言っても、殆どが着替えくらいしかないので、解くほどのこともない。

 

 そんな荷物の中で、最も大切なのは……

 

「うーん……コンセントあるし、とりあえずこの辺でいいよな? ギョタロー?」

 

 彼がキャリーケースに入れて後生大事に運んでいたのは、ギョ太郎の水槽一式だった。幸い、どこも割れていない様子。

 

 早速、洗面台からホースで水を溜め、そこに巾着の口を絞ったままつける。

 いきなり水槽に放したりはしない。今日のところはこうして水道のカルキを抜きながら、水温を慣らしていくのだ。

 

 ……と、その時である。

 

「どういうつもりダッ!!」

 

 階下から大きな怒鳴り声が聞こえてきた。

 

 ロンがあのように声を荒げるところは想像できないので、恐らくさっきの笠田という男だろう。

 

 ……やっぱり三郷が隣に入居してくるのが気に入らないのだろうか。

 

 そりゃそうだよなぁ……今日の今さっき決まったんだから、事前説明もなんも無い状態だったわけだしなあ……

 

 三郷はそうしてちょっとの間だけ、自室でやきもきしていたが……意を決して階段を降りていくことにした。

 

 こうなったら面と向かって頭を下げ、なんとか分かってもらうしかない。

 なんなら一週間だけ置いてもらうとか……その間に次の家を探すとか……最悪の場合、今日一日だけ我慢してもらえないか頼むのである。

 

 流石に今日は一日歩き疲れてヘトヘトだ。せめて今日だけはこのまま寝かして欲しい……

 

 そんな覚悟を胸に、コッソリと音を立てないよう注意して階段を降り、リビングに忍び足で近付いていく。

 

 できれば、土下座で頼み込む前の段階から、相手が何に怒っているのか分かれば、勝率も上がるのではないか……つまり、まずは二人の会話を盗み聞きするところからだ。

 

「す……と……では……星人……ので……はない……カ?」

 

「いや……あの種族……メスしか……ない」

 

「……よく聞こえないなあ」

 

 流石にあれほど激発する事は無くなったのか、今はずいぶん落ちついた様子の会話が繰り広げられている。

 

 そのせいで壁越しでは内容が拾えない。

 ロンはともかく、肝心な笠田は声が妙に掠れているため、特に聞こえづらい。

 

 ……とりあえず様子だけでも先に見ておくか。

 クールダウンした後なら、腹の括り方も随分とマシになろうというものだ。

 

 角からちょっとだけ顔を出して、和室を伺うと……

 

 

「……えっ?」

 

 

 そこには、ちゃぶ台を挟んで議論する赤と黒がいた。

 

 座布団に胡坐をかいて座り、白い花弁のような細長い指が幾重にも重なった腕を振り回しつつ、何事かを力説する異形。

 聞き慣れたロンの声がする度に、赤い顔の下側に並んだ黄色い発光体が点滅する。

 

 その向かい側で、長い足を投げ出すように段差へ腰掛けながら、不満そうにちゃぶ台の上へ肘をつく異形。

 黒く細長い顔の先端から、左右へ突き出した三白眼は、まるで先ほど向けられたあの視線の鋭さを彷彿とさせるようで。

 

「…………ッ!!??」

 

 三郷は咄嗟に両手で口を塞ぎ、悲鳴を物理的に押し殺した。

 

 彼の頭を混乱が支配する。

 

 何故? あれは何? 彼らは何処へ?

 

 ありとあらゆる不可解がグルグルと三郷の脳で渦を巻くが……そんな彼でも、あるひとつの仮説を天啓のように閃く事だけはできた。

 

(あれってもしかして……宇宙人!?)

 

 地球を狙って度々現れては、その都度、警備隊に撃退されている宇宙人がいるらしい事は聞いていた。

 

 だが……まさかこんな街中で、それも自分が出くわす事になろうとは!?

 

 待て……彼らが宇宙人なら、さっきリビングへ降りていったロンと笠田は何処へ行った?

 まさか……すでに殺……

 

(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!?!?)

 

 慌てて後退る三郷。

 

 しかし、逃げようと振り返った後ろに、思いもかけず人影を発見して、今度こそ心臓が飛び出るかと思った。

 

 いったいいつからそこにいたのか。まったく気付かなかった。

 

 いつの間にか、眉を吊り上げた高校生ぐらいの少女が、こちらを非常に怪訝な表情で観察していたのだ。

 

 逆に恐怖が一周回って、喉を含んだ体のほとんどが麻痺していたのが功を奏したのか。

 人間、恐すぎると声も出ないらしい。

 

「き、キミは……シーッ!」

 

 とにかく目の前の彼女だ。

 白いワンピースを来た黒髪の少女は、非常に険のある目つきで口をパクパクさせている。

 

 なんと、もしや喋れないのか……?

 

 もしかすると、ロンが言っていたはみ出し者とは、こういう者も言うのだろうか。十中八九、ここの住人だろう。

 

 彼女はまだ、リビングに侵入してきた恐ろしい宇宙人の存在に気付いていない。

 

 俺が、逃がさなければ……

 

「い、いいかい、良く聞いて。リビングにう……宇宙人がいるんだ。早く逃げて。まだ気付かれてないうちに! そっと……音を立てずに外へ!」

 

 少女の肩を押さえ、震える声をなんとか絞り出し、出来る限り冷静に見えるように。

 

 いきなり家に宇宙人がいるなど言っても、信じて貰えないだろう。ただでさえ初対面なのだし。

 

 しかし、絶対に彼女をこの先に行かせるわけにはいかない。

 奴らに見つかったら、こんな幼気な少女など、あっという間に……

 

 だが、そんな三郷の真剣な思いも、内容があまりにも荒唐無稽すぎた為か信じて貰えなかったらしい。

 

 現に、潜めた声で耳打ちされたワンピースの少女は、なにを言っているんだ溜息をついて……

 

『……アンタ、馬鹿なの? ウチに宇宙人がいるですって?』

 

「なんだキミ、喋れるんじゃ……! いや、それどこじゃない。そうなんだよ! そこの茶の間で宇宙人が――」

 

『……知ってるわよ。そんな事』

 

「へ?」

 

 少女の姿がブレたと思った瞬間、三郷の全身を浮遊感が包み込む。

 

 彼の目に写ったのは、天地が逆になった少女の姿で――

 

 ……衝撃。

 

 彼の意識はそこで途切れた。

 

 

―――――――――

 

 

「……ハッ!?」

 

 六畳一間に敷かれた布団の上で、三郷は目を醒ました。

 

「おや。起きたかい?」

 

「あれ? 俺なんでこんなとこ……」

 

「三郷君。これ……何本に見える?」

 

「……二本」

 

「ダメかぁ……」

 

 いきなりチョキを突きつけて、謎の問いかけを発する謎の男。

 三郷の返事に、謎の落胆を示す黒スーツの男が誰か。

 

 混濁した意識の下から直近のものをなんとか取り出して……

 

「あ、ロンさん?」

 

「一応、ソレは覚えてるみたいだね。良かったよ。同じ説明を二度せねばならぬかと思った」

 

「俺……ロンさんのアパートに入居させてもらう事になって……それで……」

 

「……ここへ着くなり、ぶっ倒れタ。熱中症でナ」

 

「え?」

 

 横からもう一つ、聞き馴染みの無い声に振り向けば……

 

「うわっ!?」

 

 思ったよりも随分近くにあった顔、その凶悪さに思わず仰け反った。

 

「すごい傷ですね……痛くないんですか?」

 

「……ただの古傷ダ」

 

 この部屋にはロンともう一人、仏頂面でありながら、こちらを心配そうに覗き込む人物がいる。

 

 右の瞼から顎にかけて、大きな鉤裂きのような向こう傷を頬に拵えた謎の男だ。

 

 引き攣れた肉が蚯蚓腫れのように盛り上がって、見ているだけで痛々しい。

 

 顔の造形は悪くない。むしろ充分に美形といって差し支えないのだろうが……右頬の巨大な傷痕と、彼の纏う陰気な空気がすべてを台無しにしてしまっていた。

 

「こちら、笠田 黒男君。住人の健康管理は彼の担当でね。倒れたキミを介抱してくれたんだよ」

 

「そうなんですか!? これはどうも、ご迷惑をおかけしたようですいません……ありがとうございます」

 

「……いや、いい。感謝など……イラン」

 

 三郷が頭を下げると、キュッと眉根を寄せてそっぽを向く。

 

 ……凄く無愛想だけど、めっちゃ良い人じゃん。

 

 初対面にもかかわらず、この笠田という男は、三郷の中で既に高感度が青天井であった。

 

「……因みに。さっき話していた『キミの隣人になるド偏屈』でもある」

 

「……あの、最悪の他己紹介から始めるのやめて貰えます?」

 

 ロンが半笑いになりながら言うと、笠田はさらに憮然とした表情になり、鋭い三白眼でギロリと大家を睨む。

 

 すると、傷のある側の頬がこちらを向いて、ますます迫力が増すわけで……

 

 三郷はいきなり介抱させた申し訳なさと、気難しい隣人とのファーストコンタクトに失敗した事の絶望に頭を抱えながら、内心でこう呟いた。

 

 転居したはいいが、同居人の顔面が恐すぎる!

 

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