東京都心、永田町。
総理官邸の奥深くにある執務室では、いつもと違う空気が漂っていた。
桜舞う春の陽差しがカーテン越しに柔らかく差し込み、革張りのソファと重厚なテーブルを淡く照らしている。
だが、その穏やかな風景とは裏腹に――
部屋の中で交わされる言葉は、国家の秩序と“少女の運命”を巡る重大な岐路にあった。
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高城遼子――現代日本において初の女性総理にして、決断を恐れぬ政治家。
その瞳は鋭く、だがどこか母性すら感じさせるまなざしで、目の前の報告書をじっと見つめていた。
そこには“怪盗ジャンヌ”の名と、彼女が巻き込まれた数々の事件、そして――“悪魔”という現実離れした単語が躍っていた。
その横に立つのは、警察庁官房長・小野田公顕。
公安の最高責任者にして、数々の闇を摘発してきた男。
その存在は「冷徹」と表されることが多いが、その奥には、深い洞察と人間味が隠れている。
そしてもう一人、官邸のバランサー――官房長官・萩原真一。
緊張感が支配する中、総理が静かに口を開いた。
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「……検察への指揮権発動は、今はまだ検討段階です。
ただそれは、“ジャンヌ=日下部まろん”を――白峰警視たちが、臨海美術館で確保したその後の話。
あの予告状が本物なら、彼女はまた来る。
そのときが、判断の時だと考えています」
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小野田は無言でうなずく。
長年公安を率いてきた直感が、総理の言葉の裏にある“覚悟”を読み取っていた。
総理は続ける。
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「……今の段階では、彼女を逮捕することはできない。
小野田さん、確認させてください。
現時点でジャンヌ=日下部まろんを、窃盗や不法侵入で起訴できる証拠はありませんね?」
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「……ありません」
小野田の返答は簡潔だった。
だが、そこに含まれる重みは、国家の司法の限界をも示していた。
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「彼女はプロの犯人ではない。
行動は綿密だが、悪意が透けて見えるような痕跡がない。
遺留品も防犯カメラの死角も計算されている。
さらに“霊的要因”――悪魔の影響下にあると推測されるため、物証がほとんど残らない」
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総理は静かに天を仰ぎ、息を吐いた。
目を閉じて、言葉を選ぶように、口を開いた。
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「……なら、彼女はまだ引き返せる。そうですよね?」
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「……はい。これ以上、法を犯さなければ――逮捕はできません。
司法も警察も、“未来を選び直した少女”を責めることはできない」
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その言葉に、総理はわずかに微笑を見せた。
それは政治家としてではなく、“一人の大人”としての表情だった。
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「なら、最後通牒を出しましょう。
“今ならまだ引き返せる”と。
“これ以上法を犯し、人生を棒に振るな”と。
彼女が一線を越える前に、こちらから差し伸べる“最後の手”を出すべきだと思います」
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小野田は少しだけ眉を動かし、静かに言った。
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「……公安を通じて非公式接触を行いますか?
警告という形で、直接、彼女に伝えます」
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だが、総理の答えは意外なものだった。
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「いいえ――ここに連れてきてください。
官邸に、私の元に。私の口から、直接伝えます。
“あなたは国家の敵ではない”“今なら戻れる”と――それを私が言うのです」
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執務室の空気が一瞬にして張りつめた。
萩原官房長官が驚愕の表情を浮かべる。
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「そ、それは……! 総理、お待ちください。
官邸に“怪盗”を招き入れるなど、前代未聞です。
警備体制上の問題もあります。
何より、政権運営に致命的な傷を与えかねません」
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だが、高城遼子の決意は揺るがなかった。
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「……私は、“罪を犯そうとしている少女”を止めたいのです。
国家の指導者としてではなく――一人の大人として。
“怪盗”ではなく、日下部まろんという名の少女に、話したいことがある」
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静かな口調に、逆に圧倒される二人の男たち。
総理は机の上の資料をそっと開いた。
そこには、白峰警視から提出された報告書の一節があった。
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「……『初めての接触時、日下部まろんは白峰警視と共にひったくり犯を逮捕した』
――これが、彼女の“本当の姿”なのでは?」
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小野田の目が静かに揺れる。
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「……その通りです。
白峰の報告でも、“正義感があり、他者を救おうとする本能”が強いと書かれていました。
“ジャンヌ”としての行動も、ある種の“救済”なのかもしれません」
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総理は続けた。
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「“悪魔”と戦っているという事実――それも、私たち大人の世界では理解しきれない。
でも、彼女はその中で、懸命に“何か”を守ろうとしている。
だったら……私たちも、その手を取ってみる価値はあると思いませんか?」
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沈黙が落ちた。
やがて、小野田がゆっくりと頭を下げた。
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「……わかりました、総理。
私の責任において、日下部まろんを安全に官邸へ。
そして――彼女が“戻る”ことを、信じてみましょう」
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総理は、微笑んだ。
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「ありがとう、小野田さん。
この国の未来は、法律だけじゃなく、私たち一人一人の“選択”でつくられるのだと――
彼女に、それを伝えたいのです」
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春の陽は、窓の外で揺れる桜に反射して、執務室を優しく照らしていた。
だがその光の中で、“ひとつの運命”が静かに動き始めていた。
それは、国家と少女――両方の未来を賭けた、最後の交渉だった。