場所:内閣総理大臣官邸・総理執務室
午後4時。
窓の外では霞が関の庁舎群が影を伸ばし始めていた。
だが、この部屋に注ぐのは、政治家たちの緊張と憂慮ばかりだった。
長机の上には分厚い資料。
「神風怪盗ジャンヌに関する分析報告書・内閣府版(非公開)」
報告書には、以下の文言が太字で記されていた。
> 「ただの“怪盗”ではない。
犯行は緻密で、象徴的、そして“力による秩序転覆の兆候”を伴う。」
室内にいるのは、6人。
内閣総理大臣
官房長官
国家公安委員長
警視総監・真鍋剛
警察庁長官
警察庁警備局 警備対策室長・小野田公顕(モデル:『相棒』小野田官房長)
書類をめくる音すら重く響く室内。
総理の前には、最新の世論調査とSNS分析の資料が置かれていた。
「……“ジャンヌに共感する”が、全体の31%……。
“警察は無力”が、14%。“ジャンヌを応援したい”が9%……?」
総理の指が止まり、顔が歪む。
「……これはまずい」
官房長官が深く頷く。
「はい。ネット上では“現代のロビンフッド”という言い方も出始めている。
“美術品を盗んでいるだけ”“殺人も暴力もない”“むしろ祓っているのでは”という陰謀論すら……」
公安委員長が低く呻いた。
「模倣犯が出る。確実に。
ジャンヌのような“非暴力の英雄像”に憧れた青少年や過激思想者が、同様の手口を真似しかねない」
警視総監・真鍋が重厚な声で言葉を重ねる。
「このままでは、“治安を乱すのがかっこいい”という空気が若者に蔓延します。
しかも対象が“高価な美術品”に限られていることで、“一般市民に危害はない”と誤解されている」
「……だが、我々は見ている。
あの女の行動の奥にある、“意図された象徴性”を」
と、資料を片手に立ち上がったのは――小野田公顕。
眼鏡越しに資料を掲げ、冷笑気味に語り始めた。
「……ジャンヌの行動は、“破壊”ではありません。
しかし、明確な“現状否定”です。
――彼女は国家の制度、法律、執行機構そのものを飛び越えて、“正義”を独自に行使している」
小野田は一拍置き、総理の目を真っ直ぐに見て言った。
「……法と秩序への“力による現状変更”を、前例として認めるわけにはいかない。
それは、警察官の命と汗の歴史を否定することになります」
総理は、ゆっくりと椅子に背を預けた。
「……ええ。わかっています。
だからこそ、命令します。――“必ず生け捕りに”してください。
――暴力ではなく、秩序の証として。“正義”の名を、国家の側に留めておかねばならない」
その言葉に、全員が沈黙のまま頷いた。
ただ、国家公安委員長が一つだけ質問した。
「……本当に、生け捕りで済むと思っておられるのですか?
正体も動機もわからぬ相手に――“話し合い”が通じる保証など、何一つない」
そのとき、小野田が静かに微笑した。
「――ならば、聞き出すまでです。
あらゆる手段を使って。
“誰がジャンヌなのか”を。
“なぜ、こんなことをするのか”を」
総理が言う。
「捕らえ、問いただし、裁く――
それが、この国がこの百年かけて築いた秩序だ。……その理念は、絶対に曲げない」
時計の秒針が、音を立てて一つ進む。
静かに、だが確かに――日本政府が“本気”を出し始めた音だった。
――重い沈黙を破るように、総理がゆっくりと机に身を乗り出した。
瞳に宿るのは、政治家としての毅然たる意志。
「官房長」
低く、静かな声だったが、室内の空気を震わせた。
「先ほど“あらゆる方法で”とおっしゃいましたね」
「ええ」
小野田が即答する。眼鏡の奥の眼差しは、相変わらず冷静で、感情を感じさせない。
だが――その次の瞬間。総理の声に、わずかな厳しさが乗った。
「ただし――法に抵触するようなやり方は、認めませんよ」
その一言に、空気がぴたりと止まった。
公安委員長がわずかに姿勢を正す。警察庁長官の目線が机上の資料に落ちる。
「……相手はまだ、爆弾を使ったわけでもなければ、刃物や銃器で武装しているわけでもない。
ましてや人命を奪ってはいない。テロリストでも、過激派でもない。
――そのことを、私たちは忘れてはなりません」
総理の言葉は、法治国家としての原則を突きつけていた。
「たしかに、“神風怪盗ジャンヌ”の行動は、公共秩序への挑戦であり、警察権の象徴をすり抜けるものです。
しかし――それでも、我々は“国家の側”でなければならない」
全員の視線が、総理に集中する。
「放水や催涙弾で動きを封じるのは構いません。
それは、警察がこれまで幾度も、デモ、暴徒、群衆の混乱を最小限に抑えるために用いてきた手段です」
「ですが――捕縛が前提です。
あくまで、“法の場”に引きずり出す。それが、秩序の意味です」
公安委員長が低く頷く。
「……その線は、我々も認識しています。
ジャンヌの“犯罪”が社会の支持を得る構造こそが、より危険なのです。
あれを力で押し潰せば――それは逆に、秩序に対する不信へと転化する」
小野田が口を開く。
「……承知しております。
“掴んだ手は離すな、だが握り潰すな”――それが我々の基本姿勢です。
正義を盾にして法を越えた存在に、法の手で届かせる。
その一線は、決して越えません」
総理はうなずき、さらに続けた。
「そして、もうひとつだけ。
――これは、政治家である我々の“管理責任”でもあります」
一瞬、小野田の目がわずかに細まった。
「本件の一挙手一投足が、メディアに、SNSに、国際的な人権団体にまで監視されている。
そのなかで、過剰対応や冤罪のような形が発生すれば、最終的に責任を負うのは“私たち”です」
「我々政治家が、暴走を止める最後の盾であり、逆に、判断を誤れば崩壊を招く“扉”にもなる」
厳然とした言葉に、警視総監・真鍋が力強く頷いた。
「ですからこそ、投入される機動隊、そして特科車両隊には改めて通達します。
――捕縛を前提とした包囲・制圧行動。発砲、強制排除は一切不可。
“生け捕り”。それこそが、我が国の原則であり、誇りです」
資料の最後のページには、こう記されていた。
> 「我々は正義ではない。だが、正義を語る者に法を示す者であれ」
総理が最後に口を開いた。
「“彼女”がどういう理由でその行動に出ているのか、それは私にはまだわかりません。
だが、どんなに高尚な理念でも、手段が間違っていれば“暴走”と同じです」
「だから、必ず――生きて、法の前に立たせなさい。
“正義”とやらが、いかに未熟で危ういものかを、証明するために」
会議は静かに、しかし重く終了した。
――そしてその夜も、予告状はまだ届かなかった。
だが、誰もが感じていた。
この国が「秩序」を問い直される瞬間が、すぐそこに迫っていることを。
執務室の扉が閉まり、参列者が去っていく。
警視総監も、警察庁長官も、公安委員長も無言で頭を下げ、出ていった。
一人、総理は机に残り、もう一人――
内閣官房長・小野田公顕だけが、静かに残されていた。
窓の外に、黄昏の影が濃く落ちていく。
時計は午後4時52分。
カーテンも閉じず、照明も落とされないままの執務室。
沈黙の中、総理は一枚の資料を手に取り、視線を上げた。
「……小野田さん。確認したいことがある」
「はい、何なりと」
「――もう一度、“犯行状況”と、“被害者の状態”を教えてください。
“ジャンヌ”が、これまで何をどう奪い、何をどう残してきたのか。
あなたの目から、正直に聞きたい」
小野田は、静かに頷いた。
そして背筋を伸ばしたまま、淡々と、しかし確かな声音で語り始める。
「はい。ジャンヌによる犯行は、現時点で6件。
いずれも予告状を犯行前に送付。“神の名のもとに封印する”という文言が共通です。
対象はすべて、美術館や個人蔵の宗教美術・魔術的装飾品・伝説起源の遺物など。いずれも高額です」
「――だが盗品として転売された形跡は、まったくない」
「その通りです。現場には“浄化された”ような形跡があり、被害者――所有者や関係者の一部は、事件直前まで精神的な異常行動を起こしています。
――過度な執着、怒り、破壊衝動、幻覚、鬱症状……症例はさまざまです」
総理が眉を寄せた。
「……まるで、“美術品に取り憑かれていた”ようだな」
「そう捉える捜査官も、実際に現場にはいました。
だが、我々は“霊的現象”や“憑依”を法的に認めるわけにはいきません。
それを理由にすれば、誰も裁けなくなる」
小野田は書類を一枚差し出した。
「最新の分析資料です。ジャンヌが狙った品は、いずれも由来に**“呪い”や“血の逸話”が残る美術品”**でした。
偶然とは、言い難い相関性があります」
総理はそれをじっと見つめた。
「つまり……ジャンヌは、ただ盗んでいるわけではない。
“何か”を、祓っている。あるいは――“正している”」
「……そう、“祈っている”ようにすら見える、と、捜査現場の一人が言っていました。
犯人ではなく、“聖職者”のようだった――と」
部屋が沈黙に包まれる。
「小野田さん。あなたは……彼女が“悪”だと思いますか?」
その問いに、官房長はわずかに口元を引き結び、そして――
「“悪”かどうかは、私の判断ではありません。
ただし――法の外で行われる“善行”は、やがて社会にとって“毒”になります」
「なぜ?」
「“私刑”だからです。
どれほど正義に見えても、それを国家が許せば、“次”が出ます。
次はもっと粗雑で、もっと過激で、もっと暴力的な模倣犯かもしれない」
「……だから、生け捕りにして、法の場に立たせる」
「はい。“神の名のもとに”などというものが、現代の法秩序を越えてはいけない」
総理は一度目を伏せ、そして静かに頷いた。
「……“本物”かどうかは、捕まえた上で判断すればいい。
ただ――この国の正義は、“神”の言葉じゃなく、“人間”の手で作ったものだ」
「ええ、総理。だからこそ、政治が最後の防波堤なのです」
沈黙のまま、窓の外に東京の夜が降りてくる。
街のどこかに、“彼女”がいる。
正体も、動機も、目的も、まだ誰も掴めていない“少女”が――空を舞う準備をしている。
そして、誰よりも静かに、「その瞬間」を見つめているのは、この二人の大人たちだった。