――警視庁・第四機動隊隊長室 午後11時過ぎ
白峰あかねは、重く静かな空気の中で一人、机に広げた資料と向き合っていた。
壁掛け時計の針が、静かに「11時10分」を指していたが、彼女の集中は微塵も揺るがなかった。
捜査本部から警備部に共有された「ジャンヌ関連の参考人聴取記録」。
目撃証言、現場状況、報道記録、東大寺氷室が独自にまとめた報告メモ。
どれも一度は確認したものばかりだった――ただし、形式どおりに。
(……おかしい。どの犯行現場でも、“彼女”の行動パターンが一貫してる)
視線は、メモの隅に記された「第三予告事件」――国立近代美術館での一件へと滑っていく。
> 『予告30分前に、校外学習の高校生が施設を見学』
『日下部まろん(16)らが引率教師と共に記帳』
『事件発生後、逃げ遅れた一般客の中にいたとの証言あり』
『同様の目撃情報、第四・第六事件においても記録』
何度も読み飛ばしていた“ただの学生”の名前が、繰り返し現れていた。
日下部まろん。
新体操部に所属する、優等生。
ジャンヌの予告とは何の関係もない――はずの、普通の女子高生。
だが――
(なぜ“あの時間”に、彼女は毎回現場付近にいる?)
(しかもそれが、偶然“何度も”重なる?)
ふと、あかねの脳裏に蘇る。
――あの日、オープンカフェで出会った日下部まろんの動き。
突発的な引ったくり犯に対して、一瞬の迷いもなく飛び出し、正確な動きで制止したあの姿。
普通の女子高生が、“あの動き”を?
あかねは、デスクに置かれた新体操部の大会記録を開いた。
市の代表選手。確かに運動神経は群を抜いている。だがそれでも――
「それにしても、出来すぎてる」
自分でも驚くほどの低い声が口から漏れた。
「偶然」が3度続けば、それはもう“必然”に変わる。
彼女の直感――あの「鬼の姫君」とまで呼ばれた執念と勘が、警鐘を鳴らしていた。
(この子は……何かを“隠している”)
――その正体が、まさか“ジャンヌ”だなどとは、まだ断定できない。
けれど、あかねは知っていた。
“仮面”とは、他人の目に映る「無垢」の姿を指す。
その仮面の下に、強く美しい「正義」が宿るとき、人は時に法を越える。
だからこそ、あかねは心の奥でこう呟いていた。
(あなたは……誰? 日下部まろん)
ページを閉じる音だけが、静寂の夜に落ちた。
晴れた午後、春の陽射しが交差点を柔らかく照らしていた。
並木通りに面したオープンカフェのテラス席で、三人の女性がコーヒーカップを手にしていた。
みやこが笑顔で紅茶を口に運びながら、テーブルの中央に視線を向ける。
「まろんって、最近ちょっと雰囲気変わったよね。落ち着いたっていうか、なんか……大人っぽくなった?」
「えっ、そ、そうかな?」
まろんは少し驚いたように笑う。いつもの柔らかい笑顔。いつもの受け答え。
しかし、白峰あかねは、内心で別のものを見ていた。
(目の動きが早い。周囲への意識が常に張っている。息遣いも――訓練されてる)
カップを持つ指先が、迷いなく、緊張感のない振る舞いに見えて――**その実、まるで軍人のような“準備された動作”**だ。
一見すれば何の変哲もない少女。だが、この“自然さ”こそが仮面だと、あかねの勘が告げていた。
「新体操、最近はどう? 大会とか近いんじゃない?」
「うん、でもまだ先かな。今は部活もゆるめの練習だから」
まろんは微笑むが、その笑顔の奥にほんの一瞬だけ、“警戒”の影がよぎった。
(会話をリードしようとしている。自分に話題が向かないように、自然に流れを変えてる)
(……バレたくないことがある)
あかねの視線がまろんの右手の小指に向く。
テーピングの痕がかすかに残る――普通の新体操の練習ではつかない位置。
むしろワイヤーやグリップを扱った痕跡に近い。
(やはり、ただの学生じゃない)
「そういえば、前に助けてくれたじゃない? 引ったくりの時」
みやこが唐突に切り出した。
「え、あれは偶然っていうか……」
まろんは笑って誤魔化そうとする。
だが、あかねは思い出していた。
あの瞬間。
通りすがりの引ったくり犯が逃走を図った時、まろんは迷いなく身体を反転させ、左足を一歩、鋭く踏み出した。
重心移動、腕の角度、姿勢の低さ――
あれは警察学校でも教えられない、「実戦の動き」だった。
(あなたは、訓練されてる。――何のために?)
あかねは目を細め、静かにカップを口元に持っていく。
そして心の中で、はっきりと確信した。
(――この子は、ジャンヌだ)
確信はしても、証拠はない。
だが、“動き”と“空気”がそう語っていた。
あかねの中に、警察官としての冷たい職務感情ではなく、**一人の人間としての“静かな怒り”**が滲んでいた。
(あなたは、他人を傷つけないようにしてる。でも、法を無視してる。
それを許したら、“秩序”は誰にも届かなくなる)
会話は終わり、みやこが席を立った。
まろんも続く。
最後に立ち上がったあかねが、ふと小さく、しかし確かに呟いた。
> 「……次の“祈り”のとき、私は待ってるわ。ジャンヌ」
まろんは振り返らなかった。
けれど、その背筋がわずかにこわばったのを、あかねは見逃さなかった。
(気づいたか……? それとも、気づかれたと“思った”だけか?)
その小さな“きざし”こそ、勝利への鍵。
警察官、第四機動隊隊長――白峰あかねは、その瞬間から真に“標的”を定めた。