夜。
都内の閑静な高級住宅街。
黒い影が、塀を飛び越えた。
月光に照らされたその姿は、風のように静かに、確かに美しく――そして、神秘的だった。
金色の髪、白の衣装。
聖なる審判のごとく、悪しき魂を封印しに来たジャンヌ・ダルク。
だがその“祈り”は、すでに知られていた。
屋敷の主から、警察には通報がなかった。
だが、誰かが先に動いていた。
ジャンヌが窓辺に手をかけたその瞬間――
「――そこまでにしなさい」
背後から、鋭く、しかし静かな声が届いた。
ジャンヌの動きが止まる。
ゆっくりと振り返ると、そこには黒いコートを羽織った女性の警察官が立っていた。
白峰あかね。
その表情は、冷たくも、どこか悲しみに満ちていた。
「……どうして、ここに?」
ジャンヌが問いかける。
だが答えは、すでにわかっていた。
あかねは一歩、静かに近づく。
「予告状は出された。だが通報はなかった。
あなたが“ここ”を選んだのは、そこに“悪”があったからでしょう」
ジャンヌは無言で見つめ返す。
その目に、恐れはなかった。
代わりにあったのは、使命への覚悟と、己の正義。
だが――
「……日下部まろん」
その名が、空気を切り裂くように放たれた。
ジャンヌの目が、揺れた。
「あなたが誰なのか。私はもう知ってる。
新体操部の動きじゃない。あの引ったくり犯の時も。
街角での一歩、指の動き、視線の癖――全部、“現場”の人間のものよ」
まろん――ジャンヌは、目を伏せた。
「なぜ、私の名前を……?」
「私は警察官。犯人の名前を知るのは、職務のうち」
あかねは冷たく答えたが、その声には迷いがあった。
「でも……私はそれ以上の何かを、あなたに感じてる」
風が吹いた。
金の髪が揺れ、ジャンヌの肩を滑り落ちる。
あかねの視線が、ジャンヌの目に吸い込まれる。
その瞬間、まろんは――変身を解いた。
金髪が黒髪へ。
白い戦装束が、制服のスカートとカーディガンへと戻る。
日下部まろんが、そこにいた。
「……なんで、止めに来たの?」
小さな声で、でも真正面から問う。
「私は……人を傷つけてない。ただ、悪魔を封じてる。
罪もない人が、堕とされる前に、祈ってるだけ。
あなたたちは、それを“罪”だって言うの?」
あかねは立ち尽くす。
制服姿のまろんが、月光の下で揺れていた。
(なんて目を……)
それは、誰かの命を救おうとした者の目だった。
あかねが知っている。
警察学校で、血と汗の中で育ててきた“正義”の目だった。
だが――
「……それでも、秩序は守らなきゃいけない。
たとえあなたが何のために戦っていても、
法の外で裁いてしまえば、それは次の暴力に繋がる」
「それが、“鬼の姫君”の答え?」
まろんは微笑んだ。
だが、その笑みに、涙が滲んでいた。
「私はあなたを、敵だとは思ってない。
でも、あなたがこのまま逃げ続けるなら――私は、“捕まえに行く”。
あさま山荘の時も、先輩たちは命をかけて突入した。
その意志は、今も私たちの中にある」
まろんは何も言わなかった。
ただ、月を見上げて、目を閉じた。
そして、そっと背を向け、走り去った。
あかねは追わなかった。
ただ、その背中を、誰よりも真剣な眼差しで見送っていた。