「朝になっちゃった」
桜之千春は呟いた。梢の言い付けを守り、朝までその帰りを待っていた。
雨音の聞こえる外は薄暗く、時計を見なければ今が朝の七時とは思えなかった。
(言われた通り、通報するね)
もしも自分が戻らなければ祓魔師たちに通報し、今回の件を伝えるよう千春は言われていた。
そのためにまとめた資料を抱え、頭の中で何度も繰り返した応答を思い出しながら、彼女は朝食も摂らずに家を出ようとした。
丁度その時、玄関のチャイムが鳴った。
「梢ちゃん!?」
慌てて玄関のドアを開けると、そこには確かに森塚梢がいた。そしてその隣には、見知らぬ女が立っていた。
「ただいま、千春」
「梢ちゃん、大丈夫なの?」
「しんどいから、一旦中に入れて頂戴」
「うん、分かった。どうぞ」
家内にトンボ返りをすると、三人は来客用の応接室へと移動した。
梢は既に足取りがフラフラとしており、隣の女性に支えられてやっと歩いているような有様だった。
「取り敢えず横にしましょう」
「ごめんなさい、うちの椅子だとちょっと」
「この際床でいいわ」
手摺りのない椅子ならば横付けするだけで簡易ベッドになるが、ちゃんとした椅子だとそんな行儀の悪いことはできなかった。
止むを得ず床に寝転がり、梢はようやく人心地をつく、
「はあ、はあ、ああ~~……死ぬかと思ったわ」
「実際私が手伝っていなければそうなっていた可能性は有りました」
「あの、それであなたは」
ぐったりとしている梢を横目に、千春は改めてもう一人の女性を見た。
長い黒髪にクマの有る目。長身だが猫背で眼鏡を掛けており、千春と梢を足して割ったような姿だった。
「この姿で会うのは初めてですね。あなたたちがハカセと呼んでいる穢淫です」
「えっあなたがあの!?」
千春は目の前の女性が、梢の受験勉強用に胎に寄生させられている界異だと初めて知った。
「ええ。梢さんがこちらにお戻りになる際に力尽きまして、私が肩を貸したことで、ここまでどうにか辿り着いたのです」
「そうだったんですか、どうもありがとうございます」
「いえ、礼には及びません。あのまま儀式が進んでいたら、私もどうなっていたか分からない。単なる自己防衛ですよ」
深々と頭を下げる梢に、ハカセは丁寧に断りを入れた。
「儀式というと?」
「梢さん、お話ししても?」
「構わないわ。自分からは言い難いし」
「畏まりました」
ハカセはそう言うと、千春に夜宴のことを話した。
儀式の内容と梢の身に起きたことを。
「正直危ない所でした。梢さんに注ぎ込まれる力は膨大で、余った分は彼女を変質させるように働きかけていましたので、私がそれをちょろまかしつつ、適宜調整をして還流させることで難を逃れたのです」
宿主が変化した際、自分もどうなるか分からない。だからこそ、ハカセは夜宴によって生じた霊力、魔力、生命力といったものを、必要に応じて横取りしていた。
「あの女悪魔は私の存在に気付かなかったので、梢さん一人のポテンシャルのように思っていることでしょう。古来からあのような儀式では、自らの内に穢淫を宿すことで生存率や強化率を高められるのです。まあこれは内輪だけの知識なのですが」
そして横取りした力も、披露した梢を助けるために、ほとんど帰したと言う。
「どうしてあのサマナっていう人は、梢ちゃんを実験動物みたいにしたんだろう」
「みたいじゃないわ。実際そうよ。あと千春、悪いんだけど飲み物と食べ物を頂戴。胃に優しい奴から」
「うん分かった」
梢は一度退室し、幾つかの飲食物を手にして戻って来る。梢はそれを少しずつ接種すると、半死人めいて衰弱した容態が僅かに回復する。
「では、話を続けます」
『どーぞ』
ハカセは軽く手刀を切ると、自分にも差し出されたお茶を一口してから、会話を再開する。
「私みたいな学問畑の界異には、人類の進化を促したい勢力というものが、少なからずいるのです」
「そんな漫画の秘密結社みたいな……」
千春は唖然としたが、梢はスポーツ界隈における選手の品種改良が、真面目に現実の話として存在していることを想い出した。
大それた話ではない。れっきとした学術的・商業的な分野なのだ。
「雑種強勢という言葉をご存知ですか?」
「雑種だと親の良い所取りが起き易いってことですよね」
「その通り」
博士はお茶の湯飲みを置くと、茶菓子に手を付け始めた。些か無遠慮だったが、千春は咎めなかった。話を中断してまで躾を優先する意味が無いからだ。
「本来は人類全体でそれを起こした場合、より強力な身体能力や発想力の飛躍、霊的な素養や特殊な環境下で発現・変容した臓器など、現在の人類よりも遥かに強力な種となっていたはずなのです」
世界規模、いや、正に人類が人類のために進化をした姿を、博士は説明した。
「しかし現実は分布による分断が進む一方でした。貧富の差は文明を推し進め、より効果的な育成手段と望ましい環境を明らかにしました。ですがより原始的な質という点では後退しているのです」
ハカセは煎餅をぼりぼりと食べつつ、どうやってか眼鏡を光らせる。
本来ならば性欲にかまけて、堕落の限りを尽くす穢淫のはずが、長い長い時間を学問に傾倒して来た異常個体が、人類を俯瞰して語る。
「突然変異のような個体が次々に出現しているのは、種としての危険信号に他ならないのです。然るに霊的素養を持ち、かなまら様の神徳を受け、悪魔の夜宴を越え、陰陽一体となっている梢さんは、人類にとっての万能薬になる可能性を秘めている」
「それこそ実験と儀式と改造の後にね」
梢はこの二日間での乱交で、女悪魔ことサマナの熱狂と、自分に向けられた切望のようなものを感じていた。
人間を生命に特化させたとき、何処へ行きつくのか。
「科学的な処置や儀式、加護によってあなたは後天的に、人類の雑種強勢の限界へと辿り着かされるでしょう。まあ個人的には只管に健康ということに尽きるのでしょうが、他者と子を成すという段になって、最も力を発揮するでしょう」
淡々と女淫魔が告げる。結論がただ健康というのは格好が悪かったが、病に覆われた久しい世界情勢を鑑みれば、その価値は計り知れない。
況してや子孫までそうとあれば。
「一族の形成という点において、品質が保証され集団を数段引き上げるとなれば、完成した梢さんのクローンを量産するだけで人類という種は安泰となります。これは人に存在を依存するタイプの界異にとっても朗報なのです」
人は数多の派閥を作り、そして消えて行く。
気候変動と戦争により、既に二桁近い滅亡の危機に瀕した。困難を抱えていない時代など存在しない。
優秀な人類の下が作れるとなれば、その価値は如何ばかりか。
「品種改良用の優れた動物は大事にされるものね」
「そんな馬とか牛じゃないんだから」
「正に。その扱いなのです」
千春の目にやり場の無い怒りが灯る。手元に刃物が在れば間違いなく握っていただろう。
「あの女悪魔はこれからも、あなたを様々な神と引き合わせたり、今回のような儀式に参加させたりするでしょう。ですがあなたの受験の邪魔も、しないとは思います」
「どうして?」
「自分から所有物の格を下げたがる者はいません。壊したがる者はいても」
そこまで言うと、ハカセはお茶をまた一口啜る。
当事者とはいえ理解の及ばない出来事を、界異側から説明されたことで、千春は元より梢もまた事態を把握出来そうだった。
「そういうことなら、今回の事件は解決ってことで終わりにしましょう」
「本当にいいの梢ちゃん。このまま行くと梢ちゃんは」
「まあ良くて種馬コースだろうけど、明日のことは明日の私に任せるわ。今の所は」
精に溺れ、雨に打たれ、社会に束の間の安息を齎した彼女に、祝福は無い。
それでも梢は、自分たちの今には、まだ幾ばくかの時間が残されていることを知った。
それだけで満足だった。
「千春、あんたはどうするの?」
「そんなこと言ったって、離れないからね」
「……ありがと」
汚れて穢れた身に床からの寒気が広がって行くが、それでも彼女の胸中は温かかった。
空に太陽が無くとも、今が夜ではないと分かるだけで、梢には十分だった。
<了>