「はあ、はあ、はあ」
人混みの中を、一人の少女が走っていた。
日に焼けた肌は健康的で、普段なら眩しい笑顔を見せていたはずが、今は血の気が失せたような有様だった。
「すい、すいません!」
「どうしました、何か問題でも」
少女『日向 夏』は最寄り駅の駅員室へ駆け込むと、慌ててドアを閉めた。
誰かが追って来ていないか、それを確認するような迂闊な真似もしない。
「ふ、不審者です。追いかけられてて、それで」
「不審者ですか、どういう見た目か分かりますか」
現在詰めていたのはのは男性駅員が二名。治安が悪化し続ける昨今、駅には今も犯罪が絶えない。
ストーカーや痴漢、突発的な暴力や性犯罪など日常茶飯事である。痴情の縺れから来るものなどは日中でもお構いなしだ。
「赤い、人間みたいなの、怪物みたいな」
「分かりました、奥の方で話を聞きます」
二人組の内、高齢の駅員が夏を駅員室の奥へ招き、若い方は窓口に戻る。
「少々お待ちを」
高齢の駅員は警察に連絡を入れた。内容は不審者が女性を付け回しているというもので、意図的に正確さを欠いた情報で呼び付けることにした。
こうしないと彼らは祓魔師に連絡をしろと言って切ったり、最悪最寄りの警察に連絡することさえ怠るからだ。
「これでよし、それでその怪物っていうのは」
応接用の小さなテーブルを挟んで、二人が向かい合うようにして座る。
「はい、あの、何ていうか、赤い人影で、服とかじゃなくて、肌が。あと顔も」
夏の言葉は要領を得ないが、それでも人間でなさそうなことは十分伝わった。
界異の存在により怪談や都市伝説、伝承の怪物の幾らかは実在、ないしは本当に発生することが認められた。
「血塗れとかですか」
「血、血は出てないと思います」
古来より駅に纏わる話は多く、平成の時代を生きた者などは、人の飛び込み自殺も毎日のように見聞きしている。
実際に亡者が現れ人を線路に引き摺り込んだ例も有る。
緊張感に包まれながら、駅員たちは冷静だった。
「いきなりうちにやって来て、代償がどうとか言って、訳わかんなくて……!」
「なるほど、少々お待ちを」
高齢の駅員は席を立つと、今度は最寄りの境界対策課の詰所へと連絡する。警察に連絡したことは伏せて。
そうしないと管轄の違いから、彼らが出動を渋る場合があるのだ。
かくも行政というものはアテにならない。
「取り敢えず警察と祓魔師に連絡をしましたので、もう少し様子を見ましょう。最近はこういうことも増えましたので、きっと大丈夫ですよ」
「はい、ありがとうございます」
何も大丈夫では無かったが、拒絶されないだけマシだった。
夏はどうにか落ち着きを取り戻しかけて、鞄からスマホを取り出した。
梢に連絡をしようと思ったのだ。しかし。
――ごめん、遅くなる。
そんなメッセージに目を見開く。時間はほんの数分前。
『おいなんだアレ!』
『誰かケーサツ、ケーサツ呼んだほうがいいって!』
俄かに外から聞こえて来る恐れを含んだ声、伝わるのは様子のおかしい空気。
「夏!いるの!いたら返事して!」
「管理人さん!」
「あっ待ちなさい、危険だ!」
夏は駅員室窓口のドアを開け、改札の向こうを見た。
そこには自分を追って来たであろう、赤い人影。そして敢然と立ちはだかる梢の姿が在った。
「こっち!ここ!」
「無事なの!?」
「警察とお坊さんたち呼んだから!」
「オッケー!」
梢はここに来るまでの間に、その辺の学校から拝借したバットに、鞄から取り出した数珠を巻き付けて構える。
釘バットならぬ数珠バットである。
「それとこれ、配信状態にして千春に繋げて!」
「分かった!」
梢は携帯電話を、地面を滑らせるようにして夏へと放った。夏は携帯電話を受け取ると、言われた通りに行動をし始める。
(これでこの状況を千春に中継できる。時間稼ぎをしながら、必要ならサポートを受ける)
「代償……受け取る……」
「ダメよ」
夏へと近付こうとする赤い人影に、梢は容赦なく数珠バットを振り抜いた。
皮を叩いたような音と共に、影の一部が抉られ後ろへ爆ぜ飛ぶ。
――うわー!キャー!
――なんだあれ、バケモノじゃん。
――誰か警察呼んで!
界異の一部が飛んできたことで、外野から悲鳴が上がる。
「効果は無さそうね。けっ」
梢は改めて赤い人影を見た。爛れたように真っ赤な全身に、泥のように滴る何か。
顔は先日の動画で見た鬼に似ていたが、知性や意識は感じられない。
攻撃されたことを意にも介さず、歩みを止めない。
「なら足!」
二度目のフルスイングで片足を叩き折る。否、正確にはぐずついた肉が零れ、両断される。
赤い影はその場に倒れるが、這いずり前進を止めない。
「しつこいっての!」
倒れた影に繰り返し攻撃を繰り返すが、手足を潰そうが動き続け、徐々に再生してしまう。
頭を潰してもさしたる意味が無く、流石に彼女も衝撃を受けた。
(倒すということができない? それとも術しか通じないのか?)
祓魔師の中には霊的な功徳により、自身の肉体を強化したり、或いは界異を直に攻撃できる術を使えたりする者たちがいる。
二度の修羅場を潜り抜けたとはいえ梢は肉体派であり、相性というものにおいて打つ手が無かった。
「こっち、こっちです!」
駅の外から何人もの人間が雪崩れ込んで来た。片や警察、片や祓魔師である。
「気を付けて!殴っても死なないし追跡を止めないわ!」
見る間に赤い影を取り囲む公僕たち。梢は彼らにその場を任せ、夏の元へと下がる。
「管理人さん!」
「夏、どこも変なことない?気持ち悪いとか、体にアザが浮かんでるとか」
「そういうのは無いと思うけど……」
携帯電話を返して貰いながら、夏の体を検める。人目が有ることなど、この際気にしている場合ではない。
「呪いの印とかは無いのね。もしもし千春」
『梢ちゃん大丈夫?さっきから見てはいたけど』
携帯電話の配信を通し、友人の戦う姿を見ていた千春が心配そうに尋ねる。
通話料さえ不問にすれば、サポートと密に連絡が取れるのは、文明の進歩と言えた。
「あのバケモノはたぶん、例のアプリから来た取り立て人よね。そして代償の支払いが終わらない限り消えないし、無敵と思った方が良さそうだわ」
「私最近何か頼んだりしてないんだけど!」
「分かってる。これはそういんじゃないわ」
自分の欲望のツケを無責任に他人に擦り付ける。
古来ならば神や悪魔を召喚し、望みを叶えるならば代償を支払い、それは自分の物に限られていた。
しかしこれは勝手に他人の者や、他人そのものを指定している。
今までは到底通らないやり方だったが、現実それが起きている。
(人類で真っ先に進歩するのは悪事だって言うけどね……!)
因果関係を持たない無制限の儀式。背筋が寒くなる思いがした。
「どうしよう。あんなのにずっと付き纏われるのか……」
「打つ手は、あるわ。たぶん」
「えっ本当!?」
『梢ちゃんまさか』
駅内では人々の退避が始められ、赤い影の封じ込めが始まった。
消せなくてもこの場に圧し留めようというのだろう。
その後ろで梢は『Devil or Daemon?』のアプリを立ち上げた。
(可能性は二つ)
投稿フォームに画面を進め、願いの欄には『日向夏を代償に選んだ者の動機と個人情報、あと生死の状況』。
そして代償の欄には。『日向夏を代償に選んだ者の命』
――送信。
「管理人さん、今何したの?」
「あんたを呪った奴を呪い返してやった。上手く行けば死んで、この騒ぎは無かったことになるわ」
「え!?」
夏は知人の容赦と躊躇の無さに戦慄した。
咎めることは出来なかったが、それでも殺害を宣告・実行されることは受け入れ難いものがある。
「……来た。やっぱりね」
送られてきたのは加害者の個人情報。それは売春婦管理アプリ『血統書(ペディグリー)』に登録されていた女だった。
理由はありふれた嫉妬と焦燥。
最後に『代償の支払いにより死亡』と表示される。
「これでどうにか、ダメか」
呆気ないほど簡単に済んだ、利用者の暗殺。彼女は駅員室の外をそっと覗き見たが、件の界異は未だそこにいた。
「少なくとも術者は別ね……。案の定っていうか」
アプリの利用者が死んでもこの儀式は中断、或いは破棄されない。
当然ながら胴元がいる。現代における人間関係の見直しが、このアプリ型儀式を完成させたと見て良かった。
(これの元栓を追うにも犠牲がいるわね。或いは秘匿されているか、差し当たってやることは……)
溜息を吐いて再度『Devil or Daemon?』の投稿フォームを見る。
願いには『代償:日向夏の支払い破棄』、代償は。
(もう利用者は使ってしまった。迂闊だった。指定をするなら、最低でも人間の命よりも価値がある何か。価値基準が分からないのが辛い)
死刑囚の名前を調べて書くか、それとも穢淫たちの誰かを捧げるか。
神ならばどうか。若き祓魔師の予備役は思案する。邪悪な山の神はこの前倒してしまった。
他に自分が縋れる者は。
「……」
「かっ管理人さん?」
梢は自分の体を見た。自分の、下半身を。
そこには本来なら、あるはずのないモノが眠っている。
『かなまら様によって齎された逸物から出る精液。1ℓ(分割払い)。不足分も同様の方式で追加払い』
字面だけならふざけた内容だが、豊穣祭などで牛や馬の睾丸と竿が、振り回されることもある。
性的な奉仕は原始的でありつつ、現在も価値を保ち続けている。
「命の値段を探るのって嫌ね」
自分自身の個人情報と顔写真を添えて、梢は願いを送信した。
そして。
――あっ消えた!
――すっげえ、本物のお祓いって初めて見た!
――良かった~!
もう一度駅員室の外を見た時、安堵した人々の笑顔が有り、逆に赤い人影はいなくなっていた。
願いは受理されたのだ。
「えっあっ本当だ消えてる! やったよ管理人さん!」
集まった祓魔師たちは怪訝な表情で、何が起きたか分からないようだった。
夏も理解は出来なかったが、自分の身の安全が確保されたのだと判断した。
『梢ちゃん、もしもし?大丈夫?』
「ああ千春、一応は何とかなったわ、ただ」
『ただ、何?』
「ううん、後で話すわ。とにかく一旦帰る」
近所のドラッグストアで漏斗を買うことを決めると、彼女は溜息を吐いて、携帯電話の電源を切った。