───ガツン、と。机を殴った音が月明かりだけが照らす静かな部屋に響く。
その音を産んだ彼女は、机に振り下ろした拳をそのまま後頭部へ持っていき、乱雑に掻き毟るのだった。
「結局富竹と鷹野は死んだのね!?」
「り、梨花ぁ…。静かにしないと沙都子が起きてしまうのですよ…?」
「うるさい!もうどうにもならないって言われたようなものなのよ!?」
梨花が激しく取り乱しているのには当然理由がある。言わずもがな、どの世界でも通例となっている、鷹野と富竹の死。とはいえ、それを羽入に伝えられたからといって、普段ならばただの時報代わりでしかなかったのだが。
しかし、梨花がこうも苛立っている理由は当然雪が教えた一つの答えにある。曰く、富竹と鷹野の死を回避できなければ、どう足掻いたところで梨花の死は免れない。
つまりはこの時点をもって、梨花の消化試合が始まったとも言えるだろう。元より、富竹の死は疑心を産む根源であったのだから今更なのかもしれない、なんてふと脳裏を過り。
「……富竹と鷹野は何を言っても死んでたわね。ごめん、少し焦ってた」
「いいのですよ、梨花」
深い溜息を零し。いつも通りオレンジジュースで割ったワインで、燻る苛立ちを無理やり飲み込むのだった。
「に、苦いのです…」
「そろそろ慣れなさいよ。……そういえば、あんた演舞の前ぐらいから何処に行ってたのよ」
綿流し、厳密にはその祭りの中で行われていた部活の最中。富竹と圭一がクマのぬいぐるみを射的で獲得する寸前、用事があると抜け出した雪とほぼ同時に羽入もまた姿を消していた。
タイミング的にも雪に付いていったと考えるのが妥当だろうが、わざわざ雪の用事、とやらに付いていったのならば情報の共有ぐらいして然るべきではないのだろうか。そんな意図を込められた梨花の問いかけに、羽入は何故か目を逸らし。
「………あまり、言いたくないのです」
「は?」
「…犯人が分かったとか、そういうことではないのです。ただ、ボクはボクの見てきたことを梨花に伝えるべきではないと思ってるのです」
意味が解らなかった。最初からこの事件の解決に協力的ではないことぐらい、数えることが億劫になる繰り返しの中で十分に理解しているつもりだった。
それは正直にもう諦めている。何せ、期待せずに諦めることを教えたのが当の本人なのだから。珍しく今回は協力的な体勢を取っているが、次回も次々回もこの姿勢を貫くかと問われれば、是とは答えられないだろう。
とて、惨劇を回避するとかしないとか。その一点に関係しないのであるのならば、羽入が話したがらない理由などまるで理解はできなかった。いや、正確に言えば予想は出来たのだが。
「…どうせ雪の事でしょう?雪と同じタイミングでいなくなったことぐらい把握してるわよ」
先日、沙都子が雪を誘った際に「やることがある」と言っていた件だろう。わざわざ綿流しの日に腐っても園崎家の人間が祭りを蔑ろにしてまでやらなければならないことなど想像もできないが。
兎角演舞がある以上、梨花がそれを追いかける訳にもいかず、そして頼ろうと考えていた羽入は自分の意思で何処かに行ってしまっていた。
「………」
「沈黙は肯定と取るわよ。それに、今更彼の何かを聞いたところでどうしようもないんだし。私がまた殺されるまでの時間潰しにでも聞かせなさい」
「………分かったのです。雪は、入江診療所に居たのですよ。だからボクは富竹と鷹野が死んだことに気が付くことが出来たのです」
「雪が、入江診療所に…?」
沙都子の様に雛見沢症候群の進行を抑える薬でも貰っていたのだろうか。いや、それならばわざわざ話を渋る必要もあるまい。と、そんなことを考える梨花は、ほんの一瞬だけ羽入の表情が変わったことに気が付くことも無く。
「話が終わるまで落ち着いて聞いていてくださいです。雪が入江としていた話は───」
〇
梨花の予想通り、射的のタイミングで抜け出した雪の後を羽入は追いかけていた。詩音に託を残し、人混みを進んで行く雪は只一直線に入江診療所の門を叩いていた。
「こんばんは、カントク……、いえ入江先生。こんな夜遅くにわざわざお時間を作っていただいてありがとうございます」
看護師すら出払った診療所の診察室で腰を据えた二人を見つめ、ただならぬ気配を感じていた羽入は雪に存在を勘付かれないように息を潜めていた。
普段ならば存在を認識されたところで特段気にしていない彼女ではあったが、今気が付かれると話を聞かせてもらえなくなってしまうような気がしたからだった。
「…園崎さんのお話ともなれば断る理由もありません。そして、今日この時間を選んだのは、鷹野さんを含めて全員が出払うから、ですよね?」
「さぁ。鷹野さんがいようがいまいが僕にとってはどうでもいいことですが…。兎に角、今朝お話した通り、頼み事をさせていただく為です」
そう、わざとらしく肩を竦めた雪は、充分な厚みのある封筒と対照的に薄い封筒の二枚を机の上に取り出した。
「これは……」
「以前からお話しているもしも、の話が現実味を帯びてきましたので行動に移すべきかなと」
「……っ」
もしもの話。その単語にわずかとはいえ狼狽えた様子を見せた入江は、目の前に座る雪の顔と差し出された封筒を見比べた。
「少し手間取りましたが、山狗の数名を買収済みです。荷物を運び出す準備は既に整っています」
「しかし……」
「しかしもへったくりも。これは僕と貴方達との間で交わした契約を遂行していただくだけでしょう?」
「それはそうですが…。私を信用しすぎではありませんか…?」
「魅音と詩音の命を守る為なら僕は自身の命を賭ける事すら厭わない。それに、誰だって信用できる相手だから契約を持ちかけるでしょう?」
「だからと言って、梨花さんか貴方に万が一のことが起きたら魅音さんと詩音さんを無理矢理雛見沢の外へ連れ出せ、なんて……。どれほどの無茶を言っているのか、貴方が一番理解しているはずですよ…!」
入江の発した言葉に、羽入は反射的に息を飲んでいた。入江の言う「万が一」とはそういうことでしかないだろう。
女王感染者である梨花の命に関わるナニカが起ころうとしている。そう暗に伝えている雪の言葉は、入江にとって、そして羽入にとっても信じられないものであった。
梨花の死は雛見沢症候群の罹患者の全てを末期症状へと進行させる、と。その仮説を軸に今日に至っている以上、姉妹を雛見沢の外へ逃がしたところでその努力は水泡に帰すことになるはずなのだ。仮に末期症状に至れば、現状の医学では完治はしない。その意味を目の前の少年は理解しているはずなのに。
「無茶も通してしまえば無茶ではなくなるものです。それに、意外と無茶ではないかもしれませんよ?」
「そんな簡単な話では……!梨花さんに何かが起こるということは、入江機関の解体をも意味します…!そんな中で私に出来ることなど…!!」
「だからこそ、僕も命を賭けているんです。あの二人を逃がすための時間ぐらいを作る工作ぐらい終わっています」
「命を無駄にするつもりですか…!?例え彼女達を逃がせたところで、末期症状になるのは避けられないことなんですよ…!?」
雛見沢症候群の症状が末期に到達した場合、その果てに待っているものは自死以外の何物でもない。少なくとも、入江達が観測した発症者のいずれもがその末路を辿っていたのは言うまでもないことだろう。
前述の通り、少年もそれを理解しているはずなのだ。共通認識としてあれだけ言い聞かせたはず、そう憤る入江の姿に、雪は何故か微笑みを返していた。
「思春期を乗り越えられれば概ね問題ないはずです。僕は
「……悟史君と沙都子さんを守るための行動を罪と数えるんですか?」
「アレは放っておけばあいつが殺していた。だから僕が先に手をかけただけのこと。いくら山狗が揉み消したとはいえ、罪は罪ですし、清算もしないままあの二人と逃げ出すことは僕の矜持が許さない」
それに。そう呟いて一呼吸おいた雪の瞳は、夜の空よりも闇に染まっていた。
「血が繋がっていないからこそ、僕にしか出来ない始末が残っているんです。そのために僕はヒイラギを選んだんだ」
〇
「───そして雪が入江診療所から出てすぐ、入江の元に男の死体を発見した電話がかかってきたというわけなのです」
「………」
何と返していいのか、人の寿命を遥かに超えた年数生きているはずの梨花でさえ言葉を選びあぐねていた。
まさかあの雪が回避できぬ死を嘆く梨花とは違い、死んだ後を見据えた行動を起こしていたとは。
何故自分が死ぬ前提で話を進めているのか、それは分からない、だが、羽入の見聞が正しいのであるのならば、彼はそう遠くない未来に訪れる最悪の結末に対し、たった二人の姉を生かすための行動をとっていたのだ。何をどうすればそんな考えに至るのか、どうやって金を工面したのか、その何もかもが理解できない彼女にとって、雪の行動に対しての言葉など選べるはずもないだろうに。
梨花にとって、幸せというものは生きていられるからこそ実感できるモノであり、死んだ後のことなど考えた試しもなかった。いや、遠い過去には考えたこともあるのかもしれないが、事実考えたところで死ぬことが運命付けられている彼女にとってそんなことを考えるだけ無駄なことでしかない。
例え心の底から愛していたとしても、そこまで自己犠牲に走ることができる理由は、彼女が蓄えている知識では答えを導き出すことなど到底できるはずもなく。
「彼が取っている行動は、梨花にとって知る必要のない話だと思っていたのです。惨劇の答えを知っている彼は自分が助かる為の行動なんてしていなかったのです。だから、雪が何をしていたのか、そして何をしようとしているのか、なんて。次の世界には何一つとして関係のない話なのですから」
それでも、羽入のその言葉はいつもと同じようで。ほんの少しだけ悪意が籠っているような気がした。