結局、羽入は帰ってこないまま翌日。父親の書斎から持ってきた本を明け方まで読み漁っていた梨花は、弁当を食べながら船を漕ぐのだった。
「だからだらしないですわよ、梨花。寝るならせめてお弁当を食べ終わってからにしてくださいまし」
「みぃ…」
「あまり夜更かししていると、梨花まで風邪をひいてしまいますわよ?」
「み、みぃ……」
ノックスの十戒についてもう少し理解を深めようと本を開き暫く。ふと外を見て空が白んでいることに気が付いた瞬間、思わず額に手を当てていたのはここだけの話だ。
悔しいが、誕生日にわざわざ送っただけあったためか、ちゃんと面白かった。
ノックスの十戒どころか、ヴァン・ダインの二十則なるものがあることを知ってしまう程度には夢中になってしまい、目の下には立派なくまが出来上がっているのだった。
「雪の次は圭ちゃんかと思えば、次は梨花ちゃんの番…?」
「縁起でも無いことを言わないでくださいまし!梨花が倒れたら次は私ではありませんこと!?」
「まーまー、もしかしたら風邪が治った雪が看病しに来てくれるかもしれませんよ?」
「っ!?り、梨花!?私に風邪を移してくださって!!」
「あーあ、詩音ったら余計なことを…」
一人騒ぐ沙都子と、最早居ることに誰も疑問を抱かなくなった詩音とを交互に眺めた魅音はやれやれと首を振り。そのまま今日は空席となっている圭一の机へと視線を移した。
いつも通り迎えに行ったレナの話では体調が悪い、との事だったらしいが、昨日の帰りからどうも様子がおかしかったらしい。当主曰く大石が接触を図ったようだが、何か余計なことを言われてしまったのやもしれない。
とて、これに関しては元より「もしも今年、オヤシロさまの祟りが起きても騒ぎ立てない」という前約束を破られた故、抗議の連絡は入れてはあるらしく。これ以上魅音に出来ることも無い現状、余計な事は口に出すべきではないと与太話を続けるのだった。
「そういえば詩音、雪の熱はどうだったの?」
「うーん、微熱って感じですかね。大人しく休んでてくれれば、明日には来れると思いますよ」
「あの雪が大人しく寝ててくれると思う?」
「縛り付けておけばよかったですね」
「だよねぇ……」
下手をすれば親よりも雪の性格を熟知しているであろう姉妹は顔を見合せた瞬間に肩を竦めた。
大人しく寝ていればいいものを、昨日もわざわざリビングで小説を読みながらミルクティーを嗜んでいたようだし、昨日よりも熱が下がったとなれば大人しくしている道理はあるまい。
「何か夜な夜な本家と電話していたみたいですし」
「あー…。婆っちゃが心配してたからお見舞いの電話だと思うけど…」
「病人に夜中電話をかけますかね。これだから鬼婆は…」
「しょーがないじゃん、昨日は忙しかったみたいだし」
これ以上本家に文句を垂れたところでいい事など無いことを把握している詩音は溜息で会話を終わらせ。
「それにしても梨花ちゃまが本を持ってくるなんて珍しいですね」
「昨日、本宅のお掃除をしてて見つけたのですよ。朝まで読んでしまいましたです…」
「雪さんが梨花のお父様に贈られたものですわね。流石は雪さんが選んだだけはありますが、睡眠不足はレディーの大敵ですのよ?」
「みぃ……」
もう一度ふわりと欠伸を零し。目尻に溜まった涙を拭いながら、一人落ち込んだ様子のレナへと視線を向ける。心ここに在らず、と言わんばかりに窓の外を眺めるレナの姿には流石の魅音ですらかける言葉を悩んでいるようにも見えた。
昨日の帰りから様子がおかしい圭一のことを考えているのだろう。恐らくは雛見沢症候群の症状が進行した事による幻覚、幻聴がもたらした状況であるだろう、と容易に想像が着いてしまった梨花であったものの、魅音同様かける言葉を持ち合わせない彼女もまた、レナに触れることはしていなかった。
そもそも時期に終わる世界、自身が死ぬことを回避出来ないのであれば残った人間のことなど気にしていても無駄な労力とも。
「まあレディーじゃなくても夜は寝るべきなんですけど」
「詩音さん!?余計なことは言わなくてよろしいのよ!?」
「───そうそう、夜はちゃんと寝ないとね。体調を崩してからじゃあ遅いんだし」
聞こえるはずの無い人間の声に、心ここに在らずだったレナを含めて一斉に声の方向へと視線が動き。いつかの詩音を彷彿とさせるポーズを取る雪の姿を視界が捉えるのだった。
「雪さん!?寝てなくて大丈夫ですの!?」
「熱は下がったから大丈夫でしょう。昨日のうちにカントクから熱冷ましも貰ってきてるし」
「ちょっ、私が家を出てからまだ四時間ぐらいしか経ってないですよ!?」
「まぁまぁ。
「あんたが一番嫌いな根性論じゃん……」
「時と場合によって主張する論を帰るのも男子の特権さ……」
と、休みだったはずの雪が突如昼休みに現れたことにやんややんやと騒ぐ彼女達を尻目に、梨花はじっと雪を。正確には、雪の背後を着いて歩く羽入を見つめていた。
意思疎通をすることが出来ない雪の後を着ける理由など、今までの世界だったなら一つしか無いだろうが、正直に言って今の羽入を信じられる要素は欠片すら無い。
何を考え、何を思って梨花から離れ、雪の元にいるのか。状況が状況でなければ怒鳴りつけていたやもしれず。お互いに首の皮が一枚繋がった状態とも言えた。
「看病してくれた魅お…、園崎と北条には悪いけど休んでる状況じゃないらしくてね」
「熱を出してる奴が休んでる状況じゃないって…。どういう事なのか、ちゃんと説明してもらわないと困るよ!」
バン、とわざとらしく音を立てて机を叩いた魅音に、雪はただ小さく頷きを返した。
珍しく真剣な表情にたじろぎかけた魅音であったものの、次期当主としてのメンツか、はたまた姉としての意地か。どちらにせよ梨花には戸惑いを隠したような表情に見えていた。
「前原の様子が随分おかしいらしい、と聞いたからね。君達が余計な事をする前に忠告をしとこうと思った次第かな」
「余計な事って……。いくら雪さんとて、随分な言い草ですわね」
「婆ちゃんの話が正しいなら、僕達が今の前原にすることは全て余計な事だからだよ。何をしても、何も言っても、その全てが言い訳と届いてしまうだろうからね」
園崎家当主であるお魎から聞いた。その言葉の意味を十全に理解出来てしまった彼女達は口を噤む他無かった。
園崎家当主の言葉は雛見沢の意志そのものと言っても過言では無い。それを理解しているからこそ、これ以上の言葉は不要だった、とも言える。
「もう既に新聞やら噂やらになってるから知ってるだろうけど、富竹さんが亡くなり、鷹野さんが失踪した。その件で大石さんが頻繁に前原と連絡をとっているらしい」
「……叔母様と
「園崎家を通して未成年に対する過剰な捜査へは抗議を入れてある。勿論、それで止まるような大石さんでは無いだろうけどね」
確かに、と納得しかけた梨花であったが、それよりももっと大事な事を聞いてしまったような気がして。しかして聞き直すことが出来ない梨花は黙ったままでいるしかなく。
それに加えて、やはり富竹と鷹野の話は広まっていたらしい。当然の事として受け入れてしまっている梨花に対し、残りの部員の面持ちには緊張が走っていた。
「色々と僕達の過去を粗探しして前原に伝えているらしい。軽くは伝えちゃいたが、園崎がデモに参加して補導されたり、なんて話は教えちゃいなかったしね」
「あれは詩音でしょうが!?」
「お姉の格好をして、お姉の名前で捕まったのでお姉の前科ですぅ~」
「余計な喧嘩をしないでくれ…。兎角、警察から伝えられた情報ってのは僕達が訂正したところで無駄だろう。園崎にしろ、竜宮にしろ、
やれ園崎魅音はダム建設反対デモで補導されただの、やれ竜宮礼奈は転校前の学校の窓ガラスをバットで割ったり男子生徒に怪我をさせただの。そんな情報を今の心理状態で聞かされた圭一の状態は、雛見沢症候群的にも宜しくないだろう。
「だから、竜宮や園崎は気を使って見舞いに行こうとしてたかもしれないけど、申し訳ないが数日の間は控えて欲しい。寧ろ刺激になってしまうかもしれないんだ…」
申し訳なさそうに眉を顰めた雪に、レナは何かを言おうとしていたようにも見えたが、結局無言のまま頷いた。
「じゃあ僕、熱上がってきたみたいだから帰るね」
「───えっ、んん?」
「なんかね、目眩してきたんだよね、無理矢理動いたからかなっ」
親指を立ててニッコリと笑った雪の顔は、確かになんだかさっきよりも赤いような。
「だから大人しく寝てろって言ったのに…!!ちょっ、ちょっと待ちなさい雪!!」
フラフラと体を揺らしながら廊下へ出ていく雪を、慌てて詩音が追いかけて行って暫く。やっと我を取り戻した魅音は、
「は、ははっ…。とりあえずお昼休み終わっちゃうし、次の授業の準備しよっか……」
と、掠れた声で苦笑いを作ることしか出来ず。
各々が与えられた情報を咀嚼しようとする中、梨花は雪の後を追って再び消えた羽入がほんの一瞬だけ見せた、冷めた紫色の瞳に何故か悪寒が止まらないのだった。