受話器を置き、ふぅと小さく息を吐いた梨花はちゃぶ台前に腰掛ける沙都子へと視線を移した。
「いいですか、沙都子。入江を呼びましたから、今日はゆっくり休んでください」
「わ、分かりましたわ……」
自分の家であるというのに居心地が悪そうな表情を浮かべているのは、昨日の件がまだ頭から離れていないせいだろうか。
兎角、末期症状ではなかったにしろ、入江の診察を受けさせることを優先させた彼女は朝一番で彼に電話をかけたのだった。幸い診療所の診察が始まる前なこともあり、入江自ら訪ねてくれることとなり。
(朝の診察前とは言っていたけど、大丈夫なのかしら…?)
いくら雛見沢症候群の患者とはいえ、ただでさえ激務の最中で訪問までしてくれるとは舌を巻く思いである。今日のところはとても助かっているが、もう少し自愛することも考えるべきではないだろうか、とどうでもいいことを考える梨花であった。
「……梨花までお休みにすることはなかったのではありませんか?」
「ボクが学校に行ってる間にまた暴れられたら困りますです」
「あ、暴れませんのよ……っ!」
「みぃ…?恋する乙女は癇癪持ちなのですよ?」
「梨花ぁ!!」
普通の会話が出来るぐらいには沙都子の状態も落ち着いているようだ。末期症状ではなかったにしろ、彼女ほど症状が進行してしまっている現在、些細な要素でさえ惨劇の原因となりうるのだ。
既に止められていない、という点に関しては目を瞑るとして、雪というイレギュラーによって色々と狂っているのだ。何が起きてもおかしくは無い以上、転ばぬ先の杖を用意しておくに越したことはないだろう。
「最近は色々ありましたから、今日お休みしても知恵は怒らないのですよ」
「梨花がそういうのでしたら……」
「みっちりシゴいてあげますですよ」
「お、お手柔らかにお願い致しますわ……」
と、そんな冗談を真に受けてか、沙都子はただただ顔色を青くするのだった。
「……それはそうと、圭一さんは大丈夫かしら」
「雪の風邪が移ったなんて魅ぃは言っていましたが……」
「あれが嘘なのは赤ん坊だって分かりますわよ。きっと、にーにの時と同じように、また大石さんがしつこく取り調べをしているのですわ」
悟史の時と同じように。昨日からずっと気になって仕方がない、だが聞き返す訳にもいかない単語に、梨花はただ歯痒さを覚えていた。
何故沙都子が、いや。部員がそれを知っているのか。詩音や魅音が知っているのなら納得はいく。何処かの世界で詩音が学院を脱走した事がバレた要因だった覚えもある。
そもそも悟史が失踪せず、鉄平が消えているということ自体にも理解が追いついていないが、更に出てくる情報に、もはや頭はパンク寸前だった。
もし仮に、次の世界に雪が出てくるような事態になればこの世界と同じく梨花の知らない流れを辿っている可能性は高いだろう。故に、この袋小路になってしまった世界でも新しい情報を仕入れるに越したことはないのだ。それが使われるかどうか、という問題はさておきとして。
「大石、ですか……」
「にーにが入院する前も大石さんが頻繁に話を聞きに来ていたそうですし…。圭一さんも同じようなことにならないといいのですが…」
「………待ってください、沙都子。どうして大石が来たら悟史や圭一が入院するはめになるんですか?」
そう判断した梨花が安直にその質問を投げかけると、何故か沙都子はキョトンとした表情で首を傾げ。
「どうしてって、梨花が───」
沙都子の言葉を遮るように、玄関の扉を叩く音が室内に響く。恐らくは入江が到着したのだろうが、随分と。いやかなり間の悪すぎる到着だ。
彼を呼び付けた手前、その苛立ちを発露する訳にもいかず。とて瞼をぴくぴくと痙攣させたまま玄関のドアを開いた梨花は、いつも通りの笑顔を取り繕ったのだが。
「やぁ、古手。入江さんが君の家に行くって言うからさ、ついつい着いてきちゃったよ」
そこには、呼び付けた入江と熱が振り返したハズの雪が立っていたのだった。
〇
「いや悪いね、押しかける形で時間を作ってもらって」
「……別に構わないわ。あんたには聞きたいことだらけなのは変わらないし」
「ははは、だろうね。答えてあげるとは限らないけどさ」
そう笑う雪と、不機嫌な表情の梨花。そして、雪と共にいつの間にか現れていた羽入の三人は何故か梨花の家から遠ざかるように歩を進めていた。
着いてきて欲しい、と。その一言だけで有無を言わさず連れ出された状況であったが、ある意味では渡りに船か。教えてくれはしないだろうが、沙都子から聞くはずだった何某を片っ端から聞いてやろうと思う梨花なのだった。
「熱は大丈夫なの?」
「……完全とは言えないね、まあこうして動く分には特段問題は無いかな」
「そんな状況でよく詩音が表に出してくれたわね」
「ああ、魅音と詩音には園崎家から仕事が来ててね。今朝方、車で迎えが来て二人を乗せて興宮に行っちゃったってワケ」
「二人に依頼…?お魎にしては随分珍しい事をするわね……」
「まあ、ね。ただ、困ったことに一週間近くは戻って来れないらしくてね、来週までどっちもサボりになっちゃったよ」
やれやれとわざとらしく首を左右に振る雪の後ろ姿に、梨花はふと羽入が以前言っていた言葉が脳裏に過った。
いや、まさか。仮に雪が二人を助けようと雛見沢の外に追いやったとしても、梨花の身に何かが起これば四十八時間以内に感染者は全員末期症状になり、死に至るはずだ。
少なくとも鷹野の話ではそうなっているはずだし、入江もそれを否定したことは無い。無論、死んだ後に本当にそうなっているのかを確認する術は存在しないが、少なくともかつての雛見沢症候群の研究結果を鑑みるに間違っていると一蹴することは出来ないはずだ。
それを雪だって理解しているだろうに、何故わざわざそんな無駄なことを。
「魅音と詩音を逃がしても、どうせ君の死で末期症状になる。だから無駄な事を、なんて考えているのかな?」
「………っ!?」
「羽入から聞いているんじゃないかと思ってたんだけどね…。僕は
「宵越しだなんて言われても私には……」
雪の言っている言葉を理解出来るはずもない梨花は、ただ彼の言っていた言葉を反芻することしか。
「今の君が理解できないのは、まあ僕も理解したつもりだよ。だから理解できるようになった時に僕の言葉を思い出してみるといいよ」
「………そうね、そんな時間があるならね」
繰り返すことに羽入が巻き戻す時間は短くなりつつある。そう遠くない未来には、巻き戻ることすら出来なくなっているだろう。
それを、彼なら把握していてもおかしくは無いだろうにあえてそんな言葉を選んでいるのかと思うと、やはり苛立ちを覚えるばかりだった。
「それで、あんたは私に嫌がらせをするためにわざわざ連れ出したってわけ?」
「北条や入江先生の前だと言いにくいこともあるだろうと思ったからだよ。ほんの少し寄り道も考えてるけど」
「寄り道?」
「ああ、寄り道さ。そんな長くいるつもりもないし、君も僕も今日は休みだから時間はあるだろう?」
何故それを知っているのか。今日学校を休むことは入江には伝えていないはずだ。ただ、沙都子が雛見沢症候群の兆候を見せた可能性があるから様子を見に来てくれと言っただけに過ぎない。
そして、沙都子が伝える間もなく家から離れた彼がそれを知っているはずもないのに。
「ところで、僕が体調を崩したのがわざとだった、と言ったらどう思う?」
「……そういう性癖があるのかしら、とでも返しておけばいい?」
「ははっ、残念だけど僕はマゾヒストじゃないんだ。苦しい思いはできるだけしたくはない」
やっぱりこいつと話しているとイライラしてくる。話し方といい、話の切り出し方といい、わざと神経を逆撫でしているとしか思えないソレに梨花の瞼は再び痙攣し始めていた。
「……どうしてぇ~、わかんな~い。……これでご希望に添えたかしら?」
「いや、そう来るのか……。ま、まあ、僕が休んだ理由はただ一つ」
そこで言葉を区切った雪は、聞き取れないほどの声量でボソリと何かを呟くと足を止め。そのまま後ろを振り返ると驚いたように同じく立ち止まった梨花の顔をじっと見つめた。
「君が諦めたからだよ、古手梨花」
「私が諦めたから……?」
「富竹ジロウが死に、鷹野三四が鬼隠しに遭い。僕がそれを教えたからと君はこの世界で惨劇を回避することを諦めたんだ」
富竹と鷹野が生きていないとどうにもならない、と言った張本人のセリフとは到底思えなかった。
それなのに、何故雪は梨花を責めるような言葉を選んだのか。
既に助かる見込みのない世界に期待は抱かない。それはこの数え切れないほどの繰り返しの中で親友から授かった唯一の教えだ。これ以外はまともに役に立った覚えはまるでないが。
「確かにこの世界は袋小路だ。だが、次の世界へ活かすための努力ぐらいは出来たはず。ましてや、この世界では君の知らないことが色々と起こっている。辻褄を合わせるために
「……………」
「兎角僕は言ったはずだ、君は犯人の顔を知っている、とね。状況を、証言を精査すればこそ君には既に答えを出せるはずだと言うのに、君はその努力を怠っている。無論、そうなるように誘導した羽入自体にも問題はあるだろうがね」
勝手に期待して、勝手に失望して。呆れを隠さない表情で大袈裟に肩を竦めた雪の姿に、梨花の堪忍袋は限界を迎えるのだった。
「───……言わせておけば、随分と好き勝手に言ってくれるわね」
そもそも、だ。この男が情報を出し渋らなければこうはなっていないだろうが。
何故出し渋るのか、すらまともに説明できていないくせに、全ての責任は梨花にあると。寧ろいらない期待を抱かせた雪の行動が一番の問題ではないのか。
「私がどれだけこの死を、この六月を繰り返したのか!それを知っておいて、あんたは私に手の届かない希望ばかり見せて!!」
堰き止められていたダムの水が放たれるように、梨花の文句は止まることを知らなかった。
「何千何万と同じことを繰り返してきた!!どれだけ足掻いても結末は変わらなかった!!あんたにこの苦しみがわかるの!?」
「……少し静かにしたらどうだい?」
「何が静かによ……!!あんたが私を焚き付けたんでしょ!?」
「焚き付けたって…、ちょっとした
「反省…!?あんたまだ喧嘩売って───」
不意に、ガツンと殴られたような衝撃が頭に。そして目の前で火花が弾けたような錯覚が起こった刹那、梨花の身体は何故か地面に向かって倒れ込んだ。
「だから言っただろう。少し静かにしたらどうかって」
はぁ、と雪が溜息を吐いたような気がした。呆れたような言葉のくせに、少しだけ嬉しそうな声音だったように聞こえた気もしたが。
ただ、グシャリと水分を含んだ何かが潰される音だけ耳に残ったまま、彼女は意識を手放すことしかできなかった。