「───羽入!?」
突然床に倒れ込んだ羽入に、梨花は思わず声を張り上げる。
何をした───。そう続けて問いかけようとした彼女の口は、雪の人差し指によって押さえつけられていた。
「静かにしてくれってば。北条が起きたら、困るのは僕だけじゃないだろう?」
何度叱っても悪戯を止めない子供を叱るように、呆れと侮蔑を孕んだその声音に梨花はただ彼の目を睨み付けることしか出来なかった。
騒がせた当の本人が発するべき言葉ではあるまい、という眼差しに彼はただフッと鼻で笑い。
「相変わらず古手梨花らしいと言ってしまえばまさしくだけど、やはや君らしくは無いね。もう少し冷静になった方がいい」
「どういう意味よ、それ……!」
「だから落ち着けってば…。そんなんだから今日も見逃してばかりなんだよ、君は……」
やれやれと、口をへの字に歪ませた雪は、ゆっくりと梨花の口から指を退け。汚らしいものを触ったかのように指を払い、そのままポケットへと手を忍ばせた。
その行動に、梨花の神経は尚更逆撫でされているような錯覚を覚え、思わず歯軋りの音を鳴らしてしまう程度には怒りを見せ始めていた。
「今日も見逃した、ですって……?」
「そうだねぇ…、聞き逃した、の方かもしれないけど…。兎も角、君か羽入が見聞したものが奇跡の材料なんだからさぁ、普段から気を張るべきなんじゃないのかい?」
「……聞き逃すどころか、まだ羽入の話を聞いている途中だったんだけど?」
「聞いている途中、ねぇ…。彼女がしていた話は、僕からしてみれば無駄話でしかないと思うんだけど」
この羽入と共に居た古手梨花が昭和五十八年の六月以降にどんな旅路を経たのか。それを知る必要は無い、と言外に滲ませた雪だったものの、その意図は当然梨花に伝わるはずもなく。
羽入が口走った「まるで」の意味を聞き出すことができなかった梨花は、その怒りを雪にぶつけることしか出来なかった。
得られるはずだった巨大なヒント、或いは答えそのものを失ってしまったこの衝動をぶつけたいと思うのは至極真っ当な思いではあった。
「無駄かどうかは私が決めること。羽入が昭和五十八年の七月を迎えたのなら、聞くべき話はいくらでもあるわ」
「……そうだねぇ。
「だったらなんであんたは邪魔を───ッ!?」
その先の文句は喉から先に出て行ってくれなかった。いつかと同じように怒りに身を任せて、選ばないままに言葉を吐き出す。
そのつもりだったのだが、彼女の喉は驚愕か或いは恐怖か。ヒュッ、と息を吸ったまま吐き出すことを忘れてしまったかのように固まってしまったのだった。
「なぁ、古手。何度も同じ事をいうのは無駄だと思わないかい?」
冷たい金属が額に押し付けられる。痛みを感じる程強くは無いが、身体は恐怖を示していた。
手が、足が、身体が震える。この蒸し暑くなってきた時期にも関わらず、彼女の身体は小刻みに震えていて。
「
何かが繰り返し当たる音と雪の溜息が混ざる。何かを掻く音も梨花の耳に届いた気がした。
「
わざとらしく
抵抗するより先に殺される。その根拠の無い確信に、梨花の歯は依然としてガチガチと音を立てていた。
「園崎家からの縁切りを認められていない。なら、
───物言わぬ梨花の身体にバットを振り下ろし、殴り殺す圭一を撃ち殺した。
それが雪が生き延びた理由だ、と。額に押し付けられたニューナンブと彼の雰囲気がそう語っていた。
「警官が使ってるミニリボルバーは扱い易いし、持ち歩きやすい。それに、詩音が改造モデルガンをこれみよがしにぶら下げてくれているお陰で本物だってバレにくいから、末期症状者から身を守ることすら出来る。便利だろう?」
「………っ!」
「ついでに人の話を理解しない馬鹿を黙らせることも出来る。ま、普段の仕事中ならこういう奴にはお構いなく腕や足に一発ぶち込んで痛い目を合わせるんだけどねぇ」
不敵な笑みを浮かべ、梨花の額から銃口を外した後ハンマーを指で押さえながらトリガーを引き。ゆっくりとハンマーを元の位置に戻した雪はあっけらかんとした様子で続けて口を開いた。
「どうだい?酔いは覚めたかい?」
「………さい、あくよ」
やっとの思いで喉から出た声は普段からは考えられないほど掠れていて。
思わずぺたりと床に腰を下ろしてしまった彼女は、情けなく雪を見上げるようにして睨み付けるのだった。
そもそも羽入との話をしている時点で酔っ払ってすらなかったことぐらい理解しているだろうに。この思いついたかのような冗談に、雪は満足気な表情をほんの一瞬だけ伺わせた。
「こうでもしないと話すらまともに聞いて貰えない様子だったからね。結論を急ぐのも、君らしくない」
「私、らしい、ね………」
それは雪の知る古手梨花なのか。それとも繰り返す者である古手梨花の事なのか。或いは───。
「それで、羽入は無事なの…?」
「……、ああ。恐らくは少し負担がかかりすぎたんだろう」
何故かほんの少しだけ口篭った雪は、それでも羽入の無事を認めた。どんな負担なのか、それを理解するには未だ頭の整理が追いついていない故、梨花はそれを問うことを諦めた。
「ただ、次に目を覚ました時にルチーアやらポラリスやらの話を覚えている保証は無い。ペナルティがいつまで続くのか、試すわけにはいかなかったしね」
「……ペナルティってなんなのよ。まるで誰かが罰を与えているみたいじゃない」
「そう、さね……。君に、かつてルールXYZの話を少ししたのを覚えているかな。ペナルティはこれに大きく関係している、とだけなら伝えられるかな」
ルールX、部員から末期症状者を出さない。
ルールY、鷹野と富竹を殺させない。
もう少し別のニュアンスだった気もするし、もっと小難しく言っていたはずだが、さておき
部員達以外の末期発症者をフォローする必要は無いと、またしても言外に込められた意図であり。そして、これはあくまで昭和五十八年六月を超えていない古手梨花が
「………Zについてはまだ教えてくれないのね」
「教える理由が無いからさ。厳密に言えば、僕としてはそこまで辿り着いて欲しくは無い気持ちもある」
「………またいつもの秘密主義かしら?」
「秘密主義であることは否定しないけど、僕にとってルールZの突破は唯一
「………相変わらず、何を言っているのかサッパリだわ」
「ま、ヒントは必要ないって事さ。前向きに、能動的に動いてみればルールZに関してはあっという間になんとかなるよ。錠前は開けたらもう役に立たなくなるものだからね。僕のペナルティ対策の為にも、頑張ってもらう必要はある」
ふと、ふわりと大きな欠伸を零した雪は床に転がしていた靴を手に取り、床にへたり込んだままの梨花の頭に手のひらを起き。
「じゃあ眠いから帰るね。また、羽入がやばそうな話を始めたら口止めに来るかもしれないけど」
と、言い残すと再び窓から部屋の外へ飛び出し、そのまま夜道へと消えていったのだった。
まるで嵐のように現れ、あっという間に去っていってしまった少年の背をぼんやりと眺めていた梨花は、普段よりも数倍は重く感じる身体を引きずるようにして同じく床に転がる羽入の側へと近寄る。
呼吸はある、とはいえ酸素が必要な生命体なのかすら梨花にも分かっていないことだが、兎角生きてはいるのだろう。
何時目が覚めて、何時続きの話をしてくれることやら。そんな願いを込めて意識を失ったままの羽入の頬をつつく梨花なのだった。