「………居ないんだけど、あいつ」
台所から仄かに届く味噌汁の香りと沙都子の鼻歌でかき消されてしまう程、小さな声が無気力のままに喉から漏れた。
目が覚めたのは何時なのか、あの状況で何処へ向かったのか。いや、もっと言ってしまえば、何故此処を離れたのか。
羽入がどれだけ間抜けだったとしても、あの状況で家から離れることを選択するほど馬鹿では無いと、梨花でさえ思っていたのだが。
しかし、現実の彼女はここにはいない。何処へ行ったところで悪影響しか及ぼさない駄目な神様の癖に、彼方此方へ行きたがるあの癖は治すべきだろうに。
「誰かが発症したのか確認しに行った…。それとも」
───雪の所へ向かったか。
自分を視認出来る二人目の存在となれば接触しようとしてもおかしくはない。
無論、それを認めるとなれば「羽入別人説」もまた同様の扱いをしないとならないのだが、と溜息を零す。
「役目の無い舞台装置」、と。雪はあの羽入の事をそう呼んでいた。
であれば、役目のある舞台装置が元の羽入とでも言うつもりだったのだろうか。
「役目、ねぇ……」
オヤシロさまに出来る役目など、祀られること以外に無いだろうに。
いや、そもそも神様が出来ることなど何も無いのだ。かつての人々は神のお告げだなんだと騒いでいたらしいが、神にはお告げなんて立派なことが出来るはずもあるまい。
羽入が何でも出来る神様だったのならば、梨花がこんなループに囚われる、なんてことは起きなかったはずだ。
あの神様は、神様と呼ばれているだけで神様でも何でもない。ただ
「……ったく、こんな時ぐらい早く帰って来なさいよ」
昭和五十八年の七月を迎えた、と。羽入の自称ではなく、雪も認めたその事実の続きを話す義務が彼女にはあるだろうに。
そう、独りごちた瞬間の出来事であった。
「───これ以上誰が帰ってくるんですのよ」
「ッ!?」
いつの間にか部屋の入り口に現れた沙都子は、左手に携えたおたまを揺らした。
「にーにが退院する予定はまだありませんわ。それと、雪さんが婿入りする予定も、ですわ」
じとりと、自身を薄い目で見つめてくる沙都子に、梨花はただパクパクと口を動かしていた。
らしくない失敗だと、心の中でしか吐き出すことの出来ないその言い訳を聞き取ったと言わんばかりに、沙都子は肩を竦めた。
「本当に最近の梨花は抜けていますわね」
「……そうかもしれませんね」
「初心忘るべからず、なんて。私がお説教するようなことではありませんわよ。ましてや梨花、
「……ど、どういう意味なのですか?」
わざわざ兄に負担をかけまいとしていたが為に始めた、お嬢様口調をほんの一瞬やめてまで、沙都子は何を言おうとしているのか。思い当たる点は残念ながら見付からず。
確かに、沙都子が梨花に説教をするようなことは今までほぼ無かったと言っても差支えは無いだろうが、それを言及することに意味があるとは到底思えなかった。
「それは梨花が思い出すことではありませんの?ボケるには千年は早いですわよ」
「……ボケてなんかいないのですよ」
「あら、本当ですの?」
沙都子の口が、三日月に歪む。
「
おたまをバトンのように回しながら、悲しげに呟く。どうして気が付いてくれないのか、どうして気にしてくれないのか。
そんな感情の籠った言葉に、梨花は───、
「───そんな微妙なニュアンスじゃあ気が付かないのですよ」
と、ただ一蹴するのだった。
「どーして気が付きませんのよ!?おかしいじゃありませんの!!私のことしっかり見てるんでしょう!?」
「にーにーをねーねーと呼んでいるのなら分かりますですが、伸ばし棒が付くか付かないかなんて聞き間違いぐらいの感覚なのです」
「ぐっ、ぐぐぐ……っ!」
「何かを匂わせるには弱すぎる伏線なのですよ……。それじゃあ誰もツッコンでくれないのです……」
「私は立派なミステリアスな女性なのですわよ!!それはもう立派な伏線の十個や二十個ぐらい張りまくりですわ!!」
「どうして伏線を張る必要があるのですか……?お夕飯の準備に伏線は必要ありませんですよ……」
「シャーロック圭一さんがいらして、モリアーティ雪さんもいらっしゃるんですから、伏線だらけではなくって?」
「そんなの部活の中だけのお話なのですよ……」
梨花の独り言はどさくさに紛れて何処かへ消えたのか。コロコロと表情の変わる沙都子に、呆れながらも笑みを零した梨花は沙都子の両肩に手を置き。強引に彼女と共に台所へと向かうのだった。
〇
ふぅん、と。どうでもいいと言わんばかりに声を漏らした少年は、耳に当てていた子機を大きめの音を立てながら充電器に戻す。
「ちょっと、電話機ぐらい丁寧に扱いなさいよ」
「じゃあ本家に電話すんなって言ってきてよ。何かあるとこうやってすぐ電話してくんだからさぁ」
口を尖らせながら電話の相手に対して不満を口にする雪に、魅音はやれやれと首を振った。
「すっごい音したけど……」
「雪が乱暴に電話の子機をかたした音。多分、もうすぐ綿流しだからって、雪に声かけてきたんでしょ」
髪の毛をタオルで拭きながら部屋を覗き込んできた詩音に、魅音は呆れた様子のまま雪を指で示す。
口を尖らせながら冷蔵庫を漁る彼の姿に、詩音もまた苦笑いを浮かべるのだった。
「あんたのプリンならもう食べちゃいましたよ」
「……食べたならもっと早く言ってよ魅音。帰りに買い足せたじゃんさぁ」
「まさか今日電話してくるなんて思わないじゃないですか。どうせ、母さんか鬼婆でしょう?」
「まぁ…、そんなとこだね…。綿流しが近いから余計なことすんなってさ」
仕方なしと椅子に戻った雪は、二人の顔を順繰りと眺めながら諦めるようにそう呟いた。
綿流しが近い、余計なこと。その意味を理解できていない彼女はさておき、と魅音と詩音は納得したような雰囲気を見せていた。
「今は手を出すなって?」
「暫くはそんなとこみたいだね。っていうか、髪ぐらいちゃんと拭いて来いってば、垂れてるよ」
「雪が大きな音立てるから慌てて様子を見に来たんですってば。お姉も入ってきちゃったらどうです?」
「今お姉って言われると何かムズムズするなぁ~……。うん、でもそうだね、ひとっぷろ浴びてくるよ」
「もう少し女らしく言ったらどうかな、詩音…。そんなんだから前原に男扱いされるん───」
「───圭ちゃんは関係ないでしょ!!!お風呂行ってくる!!!」
耳を真っ赤にしながら部屋から出て行った魅音に、思わず二人は顔を見合わせてニヤリと微笑んだ。
「恋愛事情は沙都子にすら負けてますね、アレは」
「そうだねぇ…。前原が貰ってくれりゃ完璧なんだけどねぇ…」
「レナさんの方が優勢なんじゃ?」
「そうだからあの人形貰い損ねかけたんでしょ。僕から見てもそれなりのアレが男友達扱いされてるって相当だよ」
「圭ちゃんがホモって可能性は?」
「みんなのコスプレ姿に鼻の下を伸ばしてたからそれは無いね」
「雪……。お尻、気を付けなよ~?」
「魅音、冗談じゃすまなくなるって、ソレ」
圭一に襲われるところでも想像したのか。ブルリと身体を震わせながら、雪は両腕を擦るのだった。
無論、圭一にそんな気がないというのはわざわざ言うことでもないが、一体どんな想像をすれば身の危険を感じるところまで追い詰められるのやら。と、冷蔵庫から取り出した麦茶を口に含みながら疑問を抱く詩音なのであった。
「話を戻すけど、本家がピリピリしてるから魅音も気を付けるんだよ」
「何かしたらすぐ爪って言われそー……」
「あの慣習もやめろって言ってんだけどねぇ…。じゃけえ家に帰りたくないんだって」
「鬼婆も大変なんじゃないんですか?知らないですけど」
「分かっちゃいるんだけどさぁ…。それでも、園崎家のくだらない慣習は見直すべきとこばっかだよ。仕分け大臣みたいなの用意しない?」
「どうせ園崎家の息がかかって終わりってとこですかね」
「おっしゃる通りで。この時代じゃ、メンツが潰れたら終わりだからねぇ……」
小さな村を事実上支配していると言っても過言では無い園崎家のメンツが潰れる。
そんなことが起きてしまえば、色々な意味で雛見沢村はひっくり返ることになってしまうだろう。
雪の言うくだらない慣習を撤廃するのは今ではない、ということぐらいは提案者の雪自身よく理解していることで。
「二人の入れ替わりも見抜けない奴らの言うこと聞く必要ある?僕は例え婆ちゃんでも母さんでも譲らないよ、そこは」
「バレない私達が凄い、に舵を切ればいいのでは?」
「僕には通用しないから言ってるんだからね」
見抜ける雪がおかしいのでは、と。指摘しかけた詩音であったものの、それに助けられたから今があるのだと仕方なしにその言葉を飲み込むのであった。
「僕がおかしいんじゃないからね」
「人の心を自然に読むのやめてくれます!?」