沙都子が寝静まった深夜。月明りだけが照らす室内で一人、床に聖ルチーア学園のパンフレットを広げた少女は顎に手を添えたままぼんやりとそれを眺め続けていた。
聖ルチーア学園。雛見沢に一番近い、全寮制の所謂お嬢様学校かつ、かつて詩音が園崎家の方針で幽閉されていた学園だ。
そして、行方不明になった羽入曰く、いつか梨花も通うことになるとも。
「私が、ルチーアに、か……」
興味が無いわけではない。寧ろ、何事もなく成長できたのであれば、きっと進路先として選んでいた可能性が高い場所だったことは間違いないだろう。
その証左に、パンフレットを眺める彼女の体だけは何処となく浮かれているような感覚を覚えていた。学校と言われるよりも、教会と言った方が余程しっくりくるような建物と、エントランスを飾るシャンデリアが特に目を引くだろうか。
だが、体が浮つくのに反し、梨花の頭は何故か興奮の一つすら覚えてはいなかった。それどころか、寧ろ。
「……あまり近寄りたくない気がするわね」
何処となく嫌悪感すら抱いている始末であった。
この光景を見たことなんてないはずなのに、梨花は背筋を走った嫌悪感と、見慣れない筈のルチーアに抱き続けている既視感に襲われているばかりで。
ああ、そういえばと。ふと思い出しかけたのは、アレも通っていたと小耳に挟んだ記憶で。やっぱりどうでもいいかと浮上しかけたその記憶を沈め直すのだった。
理由は分からないが、ほんのちょびっとだけ苛立ちも思い出してしまったし、とも。
───ルチーア、エウア、宗教問題。
さておき、羽入に対して、雪が口走ったそれを理解しようと、知恵に無理を言って回収したこのパンフレットには意味があったのだろうか。そう、頭を過ったその疑問を、ワインで無理やり流し込む。
今の時点で梨花が意味を求めることこそ、意味が無いのだ。例え結果的にこのループを抜けることに役に立たなかったとしても、何時か訪れることが決定しているその未来を希望とすることぐらいは出来るだろうと思い込むだけ。
では、雪が口にしたこれらが本当であった場合、問題になるのは何か。
単純明快である。羽入は「
沙都子が敵だった、なんてことは少なくとも今把握している状況ではありえない。彼女が裏で全ての糸を操っている、なんてことがあるのならば、鉄平が来る世界があるのはおかしいだろう。
となれば、沙都子が何某を起こすのは梨花がルチーアに入学した後の話か。
「シャンデリアに潰される……。まさか沙都子がそんなイタズラをするわけないだろうし……」
人の生命に関わるイタズラを、沙都子が。
裏山に仕掛けられた罠でさえ、せいぜい怪我をする程度。
無論訳もわからず罠に引っかかり、落とし穴から出られなくなるような事態でも起こればその限りでは無いだろうが、兎角置いてある罠は避けられ難いものではあるものの、すぐさま命に関わるようではないことは確かだ。
それぐらいの常識はいくら沙都子とて持ち合わせている。
更に言ってしまえば、今の勉強嫌いな沙都子がわざわざ受験をしてまでルチーアに行く未来があるのだろうか、とさえ。
「……私が説得すれば、あるいは」
おもむろに吐き出してみて、納得する。
それは有りうる、むしろそれしか有り得ないだろう。
あの羽入が居た世界の梨花は、沙都子を説得してルチーアへ入学し、そして
羽入の言う、シャンデリアやら鉄平やらの疑問はまだ残ったままだか、一つの可能性は得た。
「ったく、羽入は何処で何をしてるんだか…」
しかして、その可能性を証明出来うる存在は再び行方不明で。
はぁ、と大きな溜息を零し、梨花はグラスを片手に台所へと足を運ぶのだった。
これ以上飲んだところでストレス解消になるどころか、二日酔いになってしまう。幾百年と飲み続けてきたワインの経験値がそう囁いていることを悟った梨花なのであった。
とりあえず今日はもう寝る。込み上げてきた欠伸をそのまま吐き出しながら、濯いだグラスを戸棚の奥へと仕舞い。
ぺたぺたと小さな足音を立てながら、布団が敷かれた部屋に戻った、その瞬間の出来事であった。
「───こんな夜中に進路の悩みですの?」
「さと、こ……」
先程まで梨花が座っていた場所に腰をかけ、床に広げていたルチーアのパンフレットを月明かりに透かす沙都子の姿がそこにあった。
何故起きているのか、何故そこにいるのか、いつの間に部屋に来たのか。
湧き上がる疑問を吐き出すことすらままならない梨花に視線を移さないまま、沙都子は平坦な声音で続ける。
「身体に悪いですわよ、夜更かしなんて」
「ね、寝れなくて……」
「寝れないから頭を使う、なんて。もっと寝れなくなるでしょうに。私でも分かりますわよ、そんなこと」
呆れた口調に対し、声音は相変わらず平坦なままだった。
かつて、沙都子が夜な夜な部屋に忍び込んでくることはなかった。それこそがワインを煽りながら羽入に怒りをぶつけることができていた理由だと言うのに。
もしや、今までも見られていたのか───。
そんな予感が脳裏をよぎり、梨花は思わず生唾を飲み込む。
もしも、沙都子が梨花の行動を見ていたのなら、先日の「初心を忘れている」という言葉の意味が変わってくるのではないだろうか。或いは、本当に沙都子がこのループに関わっている可能性すら出て来てしまうのではないか、とさえも。
「梨花はルチーアに行きたいんですの?」
「み、みぃ…。興味はあったのですよ…」
「詩音さんが抜け出してきた学校に興味を持つなんて、梨花は変ですわね」
「詩ぃが変なのですよ。学校に閉じ込めておくにはじゃじゃ馬が過ぎたのです」
「それは…、確かにそうですわね。詩音さんを閉じ込めておくには少し狭かったみたいですし…」
本人に聞かれたら一体どんな反応を示すのやら。そんな軽い会話をしながらも、梨花の警戒は未だに薄れていなかった。
「沙都子こそ、こんな夜中にどうしてボクの部屋に…?」
「そうですわねぇ…。ふと目が覚めて、水を飲みにだいどころに行こうとしたら、襖が開きっぱなしになっていたから。そんなところ、でしょう」
「ボクが、襖を開きっぱなしに……?」
そんなはずはない、と心の中で一蹴する。いくらアルコールが入っていたとはいえ、こんなあからさまな状況で襖の締め忘れをするほど抜けてはいないはずだ。
ましてや、つい寸前までアルコールを嗜んでいたのだから、尚更戸締りには気を付けているはずなのに。
「気を付けてくださいまし。私だったから良かったものの、圭一さんみたいな不審者でしたら、何をされていたかも分かりませんわ」
「みぃ…、圭一はロリコンさんでしたね…」
「そういう事ではないのでしてよ…。まったく、私の眠気も何処かへ行ってしまいましたわ」
月明かりに透かしていたパンフレットを床に投げ捨て、沙都子はようやく梨花の顔を見つめてから肩を竦めた。
「言っておきますが、ルチーアへは一人で行ってくださいまし」
「沙都子は来ないのですか…?」
「私のテストの点数は知っているはずですわよ。残念ですが梨花に着いていけませんわ」
それは、梨花の予想とはまるで違う、沙都子らしからぬ諦めであった。
成績に関して、嘘偽りは無いものの、沙都子であればきっと無理やりにでも着いてくる勢いがあると思ったのだが。
「無理に着いて行ってもきっと大喧嘩になりますわ。夕日の射す河原で殴り合いですわよ」
「そ、そんな事は起こらないのですよ!」
「親友こそ、喧嘩をするものですわ。殴る蹴るのような暴力である必要はございませんが、私達もそろそろ喧嘩の時期かもしれませんわね」
「み、みぃ……。ボクは痛いのは嫌なのですよ……」
「お腹にビックバンですわ!」
シャドウボクシングのポーズを取る沙都子に、梨花は苦笑いを浮かべる。
どこからそんな語彙を覚えてきたのか、と考えるまでもなく悪影響を及ぼしていそうな雪の姿が思い浮かび。
「ボクは後で雪に文句を言わないといけないのです」
「どうしてここで雪さんが出てきますの!?」
「沙都子に余計なことを教えたからです。レナのお持ち帰りの刑なのです」
「私がお持ち帰りしてはダメですの?」
「みぃ。寝ろ、なのです」
ふざけたことを抜かす沙都子を部屋から追い出し。床に投げ捨てられたルチーアのパンフレットを机の上に置き直した梨花は、ようやく出戻ってきた欠伸を一つ。
「……沙都子は兎も角、ルチーアは関係無さそうね」
布団に潜りながら、確認するように独り言ちる。
そもそもルチーアに関連するのは詩音だけなのだから、此処にヒントになるようなものはあまり無いだろうとは分かりきっていたことではあるが。
無論、沙都子の不可解な言動についてはもう少し様子を見る必要はあるだろう。
(……ホタル、か)
───暗闇に蛍火が灯る景色を見れば、この身体は何かを思い出すだろうか。
そんなことを考えながら、梨花は今度こそゆっくりと意識を手放すのであった。