ぷくぅ、と風船のように膨れた羽入の顔を眺め、梨花は何食わぬ顔で左手のワイングラスを傾けた。
数日間も頑張って帰ってきた羽入を真っ先に迎え入れたのが、まさか口内に広がるアルコールの味だとは思ってもいなかった、と言わんばかりに彼女は怒っていた。シュークリームを食え、と迫力を微塵にも感じられない顔で凄まれる梨花は何の悪びれもなさそうに口を開いた。
「…別に、これを飲んだ後に食べるんだからいいでしょう?」
「よくないのです!シュークリームの味が薄れるのですよ!!」
「めんどくさい神様ね。これがあのオヤシロさまだなんて、誰も信じちゃくれないわよ」
「今はそんなことどうでもいいのですよ!しゅーくりーむ、はりー!はりー!なのです!!」
「……あんた、そういうキャラだったかしら」
目尻に涙を浮かべながら冷蔵庫を指差す羽入の姿を肴に、ワインをもう一口。過去にもワインと一口飲むと何処からともなく駆け付けてお小言を始めたり、しわくちゃな表情でもだえ苦しんでいたり、と芸人顔負けのリアクションに飽きを感じさせないものだ。
と、いつまでも羽入で遊んでいるわけにもいかず。左手に持っていたワイングラスを机に置いた梨花は、「はりーはりー」と連呼し続ける羽入を遮った。
「それより。あの後はどうだったの?」
「…あの後、雪達はダムの建設現場に向かったのですよ」
「まぁ、いつも通りね。それで富竹が来て圭一がバラバラ殺人事件を耳にしたと」
それもまた、いつも通りだと。羽入の言葉に溜息を零した梨花だったのだが、状況を知っている羽入の表情に悲観的な感情は含まれていなかった。
「その件に関してなのですが、雪が圭一に教えていたのですよ。ダム建設現場で何が起きたのか、を」
「へぇ、雪が。そういうことも……。待って、あんた今なんて言ったの?」
「だから雪が圭一に教えたのですよって言ったのです。圭一はあそこで何が起きたのかを知っているのですよ」
「そ、そう…。そんなこともあるのね…。だとしても、この惨劇を回避できるような決定だとは言えないわね」
圭一にバラバラ殺人事件の事が隠されなかった。それは確かに圭一が雛見沢症候群の症状を進行させる一つの理由を排除できたと言っても過言ではないだろう。かつて、同様の事態に陥った時には圭一は疑心を抱き、そのまま雛見沢症候群の末期まで進行させた後にレナと魅音を殺し、首を掻き切って死んでいる。
あくまで一つの結末に過ぎず、そしてその結末を迎える可能性をほんの僅かに低くすることが出来たというだけの事。
たった一つを避けたところでまだ両手の指では全く足らない程度には村のそこらに原因が存在しているのだ。過度の期待を抱いたところで、その期待が無残に散ったことなど既に数える事すらも億劫でしかない。
「所詮はその程度。で、その後は?」
「レナと圭一を送って、そのまま魅音の所に行ったのです。そこで魅音と話をしてそのまま帰ったみたいなのです」
「……みたいって?」
「梨花が寝てしまうといけないと思いましたので、急いで帰ってきたのですよおおおおお!?」
「……あら、このキムチ意外と美味しいわね」
パリポリと子気味のいい音と、安売りにしては思いのほか味のいいキムチに感心しながら、ワインでそのキムチを流し込む。
ただのキムチだというのに、火を吐くのではないだろうかと錯覚してしまうほどに顔を真っ赤にしてのたうち回る羽入の姿を、梨花は真顔のまま睨みつけていた。
「見張れ、と私は言ったの。中途半端に投げ出してくるなんて、あんたは一体何を考えているの?」
「あぅあぅ……」
「それに魅音と彼がどんな話をしたのかを言うべきでしょう?」
「は、はいなのです…。圭一にバラバラ殺人事件の話をしたことを伝えに行ったのです。ビンタされていました」
「へぇ、魅音が」
「そうなのです。圭一に教えたことを怒っていたのですよ」
へぇ、と再び口から零れる。確かに少なくとも、雛見沢に歓迎した相手に教えるには時期尚早であろう、というのは確かな話だ。
梨花や魅音とは違い、精神も肉体年齢と同等であろう中学生男児が受け入れられるのかは、正直難しい話だろう。
加えて異性的好意を抱きかけている相手だ。惚れやすい云々は見なかったこととしても、そんな相手に自分達の家が多分に関わってきたダム建設反対運動と、そこから始まってしまったであろう事件を教えたくなかったという彼女の気持ちは、女としても友人としても理解できるつもりだ。
「なら喧嘩別れってことなのかしら?」
「そういう感じではなかったのですよ。寧ろ圭一と魅音の関係を応援しているような様子もあったのです」
「あ、あらそう…」
「たまたま本家に居た茜とも普通に話していましたし…、魅音からも泊まっていくことを勧められていましたし。あれは絶対シスコンなのですよ」
「……シ、シスコンかはさておくとしても、やっぱりこの数日で彼について得られた情報はまともに無いわね。精々魅音と姉弟であるってことと苗字を変えて一人暮らしをしてるってことだけ…」
まさか羽入の口から飛び出してくるとは思わなかった言葉に、ワインを吹き出しかけた梨花であったものの、何とか彼女の尊厳は保たれた。
兎角、義理ではあるとはいえ、母親である茜とも。そして姉である魅音とも仲が悪くない状態で、わざわざ苗字を捨ててまで別居を選択しているのか。魅音の言葉が正しいのであるならば、あのお魎ですら苗字を捨てることを認めていないらしい。と、なれば雪が警戒していた「やっかみ」はお魎の一声で撃退できそうなものだが。
御三家当主の一人とはいえ、このカケラの事を何一つとして掴み切れていない梨花はやはり首をかしげるしかなかったのだった。
「とはいえ、わざわざ気にするような相手ではないのかもしれないわね」
あくまで、ここ数日だけでの話だが。それでもここ数日分の羽入からの報告を聞く限りはあえて羽入を尾行させる必要はないように思えた。
「一先ず監視は止めていいわ。ご苦労さま」
「いえいえ。ボクも梨花の為に頑張ったのですから、お礼なんて要らないのですよ」
「あらそう?なら、シュークリームはいらないわね」
「………?」
瞬間、なんだかんだと言いつつも照れくさそうにしていた羽入の瞳から光が消えた。
何を言っているんだこいつ、と。聞き間違いであることを願いつつも、頭の片隅では梨花のセリフを正確に認識しているのか、羽入は冷蔵庫と梨花を交互に見比べていた。
「梨花」
「何かしら?」
「労働に対する報酬が払われていないのですが」
「お礼なんて要らないんでしょう?本人がそう言っているから、その申し出を採用しただけよ」
「約束と違うと思うのですよ」
羽入が今日まで頑張ってきたのは、シュークリームという報酬が待っていたからだ。基本的に、自分の身で物理的干渉を起こしていない現状、梨花の協力なくしてあの感覚を味わうことは当然叶わない。
そんな、唯一ともいえる楽しみを確約したはずの梨花はそれを一方的に破棄したのだ。
「お礼は確かに要らないと言ったのです。でも、約束していた報酬は払うべきなのです。そんなワインよりシュークリームを食べるべきなのです」
「あんただって途中で監視を辞めて来たじゃない。それで満額納めろってのは話が違うと思うんだけど?」
「一口だけ!先っぽだけでいいのです!!」
「………」
目尻に涙を溜め、威厳などまるで感じさせない形相で必死にシュークリームを請う羽入の姿に、梨花は観念したように両手を上げた。
「わかった、わかったわよ」
「やったーなのです!いますぐ取りに行くのですよ!冷蔵庫はあっちですよ!足元には気を付けて下さいなのです!!」
「シュークリームは明日ね。今日はもう寝ましょう?」
「………は?」
「こないだ買ってきたシュークリーム、沙都子が食べちゃったでしょう?あれから買い足してないのよ。だから明日。おやすみ、羽入」
固まったままの羽入の脇を通り抜け、ワイングラスを手際よく洗い。沙都子には見つからないように棚の奥へと隠した梨花はそのまま布団へともぐりこんだ。
アルコールの力か、はたまたある程度の安堵を得られたが故か。直ぐに穏やかな寝息をたてはじめた梨花の姿に、羽入は膝から崩れ落ちた。
あれだけ楽しみにしていたシュークリームを買っていなかった、なんて。食べ物の恨みは恐ろしく。いつか必ず梨花に仕返しすることを決意する羽入であった。