これは、私が田舎に帰省した時の話です。
最近の夏は夜でも蒸し暑く、私はエアコンをつけて寝ていました。けれど、ある夜ふと目を覚ますと、全身汗だくになっていたんです。暑さで目が覚めるなんて変だと思い、エアコンを確認すると電源が切れていました。リモコンをいくら弄っても反応がない。どうやら故障したようでした。
「これではとても眠れない」そう思って、エアコンのある両親の部屋に向かおうとしたその時、不意に、何かの声が聞こえたんです。小さく、か細い声が確かに。
真夜中の田舎です。周囲に営業している店などありません。不審に思い、耳を澄ませました。声は、だんだん大きく、近づいてきます。
そして気づきました。「これは一人の声じゃない」と。
明らかに、男の声、女の声、子供の声、老人の声……さまざまな声が重なり合っていたのです。
それでも、何を言っているのかは分かりません。私は気になって、庭へと続く窓を開け、外に出て確かめてみることにしました。
外の空気は重たく、音はよりはっきりと耳に届いてきました。しかし、それでも声の内容は分かりません。ただ、確かに少しずつ近づいてきている。その時です。あと少しで何を言ってるのか分かりそうだ――そう思った瞬間、声が突然止みました。
代わりに“あれ”が現れたのです。
いつの間にか、“あれ”は庭にぽつんと立っていました。
それを見た瞬間、私は背筋が凍り、全身が震えました。一見すると人のようでしたが、どこか不自然だったのです。
月明かりに照らされているはずなのに、影がない。右腕と左足が欠けているのに、片足で立ち、片手の杖で地面を突いてバランスを保っていました。にもかかわらず、姿勢はびくともせず、異様なほど安定していたのです。
顔は俯いていてよく見えませんでした。けれど――「見てはいけない」と、本能が警告を鳴らしていました。
私は慌てて部屋へ逃げ戻り、窓を閉め、カーテンを引きました。「何もいない、見ていない」そう自分に言い聞かせながら。
その瞬間、部屋がガタガタと揺れ出しました。そして、あの声――悲鳴のような、叫びのような、無数の声が鳴り響いたのです。
私は気づきました。これは、さっきまで聞こえていた“声”なんだと。
きっと、声の主たちは“あれ”から逃げていたのだと。
気づいたその瞬間、カーテンが月明かりに照らされ、あれの姿がぼんやりと浮かび上がりました。少しずつ、確かに近づいてくる――。
足と杖を交互に突きながら、
ドスッ、トン。ドスッ、トン。
そんな音を鳴らして、ゆっくりと。
悲鳴もどんどん大きくなり、家全体が地震のように揺れ始めました。
逃げたかった。今すぐ逃げ出したかった。
けれど、足が動かない。体が縫い留められたように一歩も動かず、目も閉じられず、顔すら背けられない。
ただ、“あれ”を見続けるしかなかった。
やがて、“あれ”は窓の前に立ちました。鍵がかかっている。大丈夫、入ってこられない。そう信じたかった。ただ、それだけを祈っていました。きっとあの悲鳴たちと同じように。
しかし、“あれ”が杖で窓をコツリと突いた瞬間――
窓は、ゆっくり、ゆっくりと開き始めました。
恐怖で頭がおかしくなりそうでした。悲鳴も、揺れも、まるで私の内側から響いているようでした。
そして、“あれ”は部屋の中に入ってきたのです。
気づけば、悲鳴も揺れも止まっていました。けれど、私の視線は“あれ”から外せませんでした。
あれは、こちらを向き、ゆっくりと顔を上げていきます。
目を背けたくても、目を閉じたくても、それすら叶わない。
そして――
“あれ”の顔が、見えてしまいました。
人の顔、ではありませんでした。
いえ、正確に言えば、“人だったもの”の顔です。
目のあるはずの場所には穴が開き、鼻は抉られ、耳はなく、口だけがかろうじて残っている。
その歪な口が、不揃いの歯を覗かせながら開かれ、こう言ったのです。
「目玉み〜つけた」
楽しそうに、笑いながら。
それが、私が見た最後の光景でした。
――気がつくと、私はベッドの上にいて、命が助かったことに安堵しました。
けれど、代償は大きかった。
私は視力を失っていたのです。
この文章は、友人の助けを借りて記した“警告”です。
あれは、私の目を奪いました。
そして、あれに“足りなかった”のは、目だけではなかった。
私はそう考えています。
あれは、自分に欠けているものを、他人から奪っているのだ。
欠けたものを満たすまで、あれは現れ続けるのです。
次に奪われるのは――貴方かもしれません。
どうか気をつけて。
もし、あの声が聞こえたのなら……
その時は――