これは、私が就職を機に実家を出て、一人暮らしを始めた時の話です。
小さなワンルームの賃貸ですが、それでも一人暮らしにはずっと憧れていたので、気分は弾んでいました。
本来なら面倒なはずの引っ越し作業も、楽しくて仕方ありませんでした。
「これからここで、新しい生活が始まるんだ」
そんな希望に満ちあふれて、社会人生活への不安も、いつの間にか薄れていったのです。
荷物を片付けようと押し入れを開けると、中に一冊のノートがぽつんと置かれていました。
前の住人の忘れ物でしょう。
私は特に気にも留めず、「後で大家さんにでも渡せばいいか」と、ノートを机の上に置いて荷解きを続けました。
作業を終えて一息つこうとお茶を入れ、ふと机を見ると――
あのノートが目に入りました。
「そういえば、何が書いてあるんだろう?」
気になって、少し悩んだ末にノートを手に取り、中を開いてみました。
そこには、まるで機械で印字されたかのように整った、同じ筆跡の文字が、ページいっぱいに並んでいました。
びっしりと、余白もなく、繰り返し繰り返し書かれていたのは――私の名前でした。
私は思わずノートを投げ出しました。恐怖で震えが止まりませんでした。
まるで、私に宛てて書かれていたかのような、それは“誰か”の記録。
そんなはずはない。
私がこの物件に決めたことも、そもそも引っ越すことすら、誰にも話していないのです。
あの両親――私から搾取し続けてきた人たち――から逃れるために、私は誰にも告げず、密かにこの部屋に来たはずでした。
だから、私の名前が書かれているわけがないのです。
そう、自分に言い聞かせようとしました。
けれど、いくら否定しても、そのノートはそこにあり続けました。
「何かの間違いだ。目の錯覚だったんだ」
私はそんな希望にすがって、もう一度ノートを開きました。
――そこには、私の名前はありませんでした。
代わりにあったのは、黒く塗り潰された文字の跡。
最初のページから最後のページまで、すべての行が、真っ黒に塗り潰されていたのです。
呆然としながらも、背筋がぞっとして、私はノートを取り落としました。
すぐにスマホと財布だけを掴み、部屋を飛び出しました。
「これは何? 一体何なの? どうして? どうすればいいの?」
頭の中は混乱でいっぱいでした。
そんな時、スマホが鳴りました。
画面を見ると、友達からの着信でした。
私は少しでも気を紛らわせたくて、電話を取りました。
そして――引っ越したこと、ノートのこと、すべてを話しました。
友達は信じていないようでしたが、それでも“誰か”と話しているというだけで、私は少し落ち着くことができました。
けれど、しばらく話しているうちに、私はある違和感に気づきました。
彼女が私の名前を呼ぶときだけ、音声がノイズになって聞き取れないのです。
まるで、私の名前だけが存在していないかのように。
私は不安になって、「私の名前、ちゃんと聞こえてる?」と尋ねました。
すると友達は何度か私の名前を呼んでくれたのですが――やはり、そのたびにノイズが走り、名前だけが聞こえません。
「どういうこと……? じゃあ、私の声は?」
私は逆に、友達に試すように自分の名前を呟いてみました。
「私の名前は………………」
その瞬間、電話は途切れました。
――それが、私が聞いた友達の最後の声でした。
彼女はまるで、最初から存在していなかったかのように、この世界から消えてしまったのです。
彼女の両親も、通っていた学校の先生も生徒たちも、誰も彼女のことを覚えていません。
写真の中の彼女の姿も、ぼやけるようにして消えていきました。
私はどうしても彼女がいたことを証明したくて、彼女の住んでいたアパートを訪ねることにしました。
大家さんには申し訳ないと思いつつも、「内見をしたい」と嘘をついて、空き部屋になっているその部屋を見せてもらいました。
部屋の中には、何も残されていませんでした。家具も私物も、何ひとつ。
けれど――私は気づいたのです。
押し入れの扉が、わずかに開いていることに。
私は大家さんに断りを入れて、押し入れを開けました。
そこには、一冊のノートが置かれていました。
あの時、彼女が語っていたノートとまったく同じものです。
私は、震える手でそのノートを手に取り、ページを開きました。
そして、そこに並んでいたのは――
彼女の名前ではなく、私の名前。
それだけが、びっしりと書き連ねられていました。