悪夢収集箱   作:灰音ヒビキ

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タダより高いものはない

 

 

仕事がうまくいかず、私はいつもの居酒屋で一人、酒を飲みながら延々と愚痴をこぼしていました。

少しでも鬱憤を晴らしたくて、酔いがまわるのも構わず、グラスを重ねていました。

 

帰り道のことです。

ふと、誰かに声をかけられました。

 

「そこのお兄さん、ちょっと寄っていかないかい? 仕事がうまくいかないあなたに、ピッタリのものがあるよ!」

 

最初は鬱陶しいとすら思いました。

けれど、妙に気になる言い方でした。

「つまらない物だったら怒鳴りつけてやる」――そんな気持ちで、私はその店に足を踏み入れました。

 

中は、古物商ともガラクタ屋ともつかない、不思議な空間でした。

 

キョロキョロとあたりを見回していると――

 

「お兄さん、こっちだよ!」

 

その声の主は、顔をお面で隠した男。

店の奥で手招きしていました。

 

不審に思いながらも、客引きの一環かと思い、警戒せずに近づきました。

 

「で、俺にピッタリのものってのは?」

 

私は酔った勢いもあり、横柄な口調で尋ねました。

 

しかし、店主はまるで構わず、むしろ楽しそうな様子で商品を差し出してきました。

 

「これだよ、これ! これ!」

 

彼が机に置いたのは――一本の万年筆でした。

 

私は万年筆に詳しくありませんが、それでも一目で“ただならぬもの”だと分かりました。

とても、こんな店に雑に置いてあるような代物ではない。

 

「……いくらだ?」

 

私は気づかれないように冷静なふりをして尋ねました。

 

すると店主は、子供のようにはしゃぎながら言いました。

 

「お金は要らない! 欲しいなら持っていっていいよ! 欲しいかい、お兄さん?」

 

私はその言葉に戸惑いましたが、「売れば生活が楽になる」と思い直し、念を押しました。

 

「本当にいいんだな? 金は払わないぞ? 後から文句言うなよ?」

 

すると店主は、心から嬉しそうに――

 

「ありがとう!」

 

その声を聞いた瞬間、私は“目を覚ましました”。

 

気づけば――いつもの、自分の部屋にいたのです。

 

「変な夢を見たな」そう思って、水でも飲もうとベッドから起き上がった時でした。

 

手の中に、万年筆があったのです。

 

あの万年筆。

 

私は必死に思い出そうとしましたが、居酒屋で飲んでいたところから記憶がありません。

 

「まさか、盗んだ……? いや、そんなはずは……」

 

恐怖に駆られ、私は万年筆を押し入れに隠しました。

「誰にも見せなければ、きっと大丈夫」――そう思い込もうとしました。

 

そして、私はいつものように仕事へ向かいました。

 

椅子に座り、PCの電源を入れる。すべてが“いつもの通り”でした。

……鞄に、あの万年筆が入っていたことを除いて。

 

怖くなって、捨てようと思いました。

けれど、「警察が来たら?」「盗んだと思われたら?」――そんな事を考えつつも何故か不思議とその万年筆を捨てることは出来ませんでした。

――今にして思えば私は既に魅入られていたのでしょう。

 

鞄に隠したまま、私は仕事を続けました。

 

――それから、不思議なことが起き始めました。

 

仕事が、嘘のようにうまくいくのです。

 

何をやっても成功する。

どんな契約も、商談も上手く進む。

あれほど私を嫌っていた上司すら、私を褒め称えました。

 

私は確信しました。

「この万年筆のおかげだ」と。

 

それからというもの、私は万年筆を片時も離さなくなりました。

肌身離さず、どこへ行くにも、何をするにも。

 

そして、私は成果を出し続けました。

「このまま出世街道まっしぐらだ!」と、有頂天になっていた頃――

少しずつ、異変が起き始めたのです。

 

人に気づかれない。

自動ドアが開かない。

飲み物が、自分の分だけ来ない。

 

最初は些細なことでした。

でも、それが日常的になっていきました。

 

それでも私は、万年筆を手放せませんでした。

あの惨めだった日々に戻ることだけは、どうしても許せなかった。

 

やがて――

私は誰からも、完全に存在を認識されなくなりました。

 

どんなに叫んでも、ぶつかっても、誰も気づいてくれない。

 

私は誰かに気づいてほしくて、街をさまよいました。

けれど、誰一人として、私の存在に気づかない。

 

声が枯れ、足が動かなくなる頃――

私はあの店の前に立っていました。

 

「……あいつのせいだ」

 

私は怒りにまかせて、店に飛び込みました。

 

中は、あの時と何も変わっていませんでした。

店主がいないことを除いては。

 

何度呼んでも、影も形もない。

私は苛立ち、机を叩きました。

 

その瞬間、店主の仮面が机から転がり落ち、足元まで転がってきたのです。

 

何気なく手に取った瞬間――

 

仮面はまるで生きているかのように、跳ね上がり、私の顔に張り付きました。

 

いくら引き剥がそうとしてもびくともしない。

やがて、私は力尽きて、店主の椅子に座り込みました。

 

「どうすればいいんだ……?」

 

そう呟いた声は、自分のものではありませんでした。

 

――あの店主の声だったのです。

 

傍らにあった鏡を見て、私は愕然としました。

 

そこに映っていたのは、私ではなく、あの店主の姿でした。

 

「これは一体……?」

 

何が起きたのか分からない。

頭の中で“なぜ? なぜ? なぜ?”と、言葉が反響し続けます。

 

そして、ふと思いました。

 

あの店主も、かつては自分と同じだったのではないか?

 

万年筆で成功を手にし、その代償に“この店”に辿り着いたのではないか?

 

だとすれば――

同じように、万年筆を誰かに譲れば、自分も……?

 

私は万年筆を探しました。

本来なら会社に置いてあるはずのそれは、なぜかポケットに入っていました。

 

「これで……助かる!」

 

心の底から、そう信じました。

そして、私はあの店主と同じように、誰かに万年筆を渡しました。

 

「ありがとう!」

 

そう言って、心から喜んでいたのです。あの店主と同じように。

 

誰かが店から出ていきました。

 

私は救われるのを、ただじっと待ちました。

 

いつまでも――

いつまでも――

 

そして、私は今も待っています。

 

“私”が救われるその時を。

あの店主の姿のままで、この店の中で。

 

いつまでも――

いつまでも――

 

 

 

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