いつだって、人は手に入らないものを渇望し、そこにたどり着くために努力する傾向にある。
でもどうしたって手に入らないものは存在する。
既に、公共の物であるために独占が不可能であったり。
それは、きっと季節にも言えることだろう。
例えるなら、花火と祭りの夏の季節をずっと続けばいいと思う。
大切な人と過ごしながらも雪の降る冬の季節がずっと続けばよいと思う。
これらも、考え方によっては、自分のものにしたいと欲しているとも言える。
或いは、立場であったりもそうだ。
大切な人の隣にいつまでも滞在するという立場や、その環境の中で頂点に位置する地点に存在するという点。
だが、これらのもの等が既に誰かのものになっていたり、誰かが自分を押しのけてその椅子に座っていたりするなんてことはザラにある。
それらを眺めたり、体験したという思い出だけが手元に残り、その本体を手にすることはない。
だからこそ、自分たちに残ったものを思いをはせ、その思い出を拝むようになるのだ。
……それは、きっと教訓のように現実離れしたものではなく、自分の人生においてもそうなのだろう。
☆
散歩道の道沿いに並んでいる紫陽花の花弁たちは気難しいように首を垂れ、滴る水滴のビーズを葉の緑を辿っていく。
雨音は線路のはるか先の電車の音を掻き消すまでに強くなり始め、その根源はアスファルトが湿るどころかその微微たる窪みに池を作り、小さな子供の心をほんの少しだけ上向かせる程に強くなっていた。
普段なら音の溢れるストリートでも、流石の大雨になりを潜めており湿気を吸いとっていたように活気は、内に静まっている。
そんな非常に稀で、日常として換算するには少しだけ特殊な姿を、僕は知り合いのいる喫茶店でぼんやりと窓越しに眺めていた。
「あーあ、止んでくれないかなぁ雨」
「先日梅雨入りのニュースをしたばかりなのに酷なことを言わさんな」
「梅雨もさ、夏なんだから少しくらい晴れてくれたっていいじゃん」
「話聞いてる?」
こちらの発言などお構いなしに、彼女は自身の願望を天気にぶつけている。
大々的に梅雨入りを報じられておいて、一日二日で消滅しましたなんて事が起ころうものならば、流石の気象予報士もやってられないだろう。俺ならば、画面を指す棒を放り出す。
少なくとも、自分が高校生で備え付けた知識でもそのように梅雨が丸ごと消滅なんてする予兆もない。
自分の中の一つの生活ルーティーンである行動を天候という回避不可能のイベントで一つ制限され、この看板娘は大層焦ったいのだろう。
「うだうだ言ったって天気は変わらんぞ」
「むー……」
「むくれたところで変わらんぞ」
「……」
「無言で僕に拳を振るっても変わらん」
「ねえ、すぐに外出て歌うか、ここで歌うかどっちがいい?」
「お前にしか得のない二択を迫るんじゃない」
彼女はどうあっても、この梅雨入りして静かなストリートがお気に召さないらしい。
彼女の過ごしたこの場所はどんな時も音楽があり、それを演奏する者たちがいて、それらの創り出す環境こそが彼女の好むストリートの姿なのだろう。
この季節は、どうにも人に好かれることが少ないらしい。
「まぁ、梅雨が嫌いなことはこちらも同意する」
「……今のすっごい冬弥みたいな言い方」
「……賢くない方がお望みかお前」
「別にそうは言ってないじゃん……やっぱり、雨は嫌い?」
「そりゃな。余計に考えることが増えるし、普通に気分が落ちる」
学校から帰る際、雨が降るという一つの変化が起こるだけで、その帰路は大きく姿を変える。
黙々と帰るだけの特に思うところのない帰路が、雨が降るという変化だけで帰宅までの大規模レースに姿を変える。
身に着けるものに特に気を向けていなかった帰路が、水にぬれたくないという自身の服に対する欲を持つようになる。
身軽に足を進めていた帰路が、雨という変化で水に濡れないように傘や上着を常備するようになる。
僕にとっては、全てが面倒に感じるのだ。
自身の服が濡れることも。
自身の持ち物が増えることも。
自身の気分が鬱屈とするのも。
天候の変化一つで繰り広げられる。
このような変化を起こしておきながら人に好かれたいから好いてほしいと言われても、到底思うことは出来ない。
「それと、もう一つの理由がある」
「もう一つ?」
「洗濯物の乾きが遅くなる」
「……本当にアタシら同級生?」
「今に始まったことか?」
「ソレ自分で言ってて悲しくならないの?」
「……聞くな」
年相応のことのはずなのに、節々に何故か年以上の匂いを感じると目上の人間から言われることがある。
普通に傷つくからどうにかならないものかと思っているが、きっとどうすることも出来ないのだろう。
「どうあれ、雨の日は嫌いなのは同じだ。最も、こちらは生活面での不満点が多いんだが」
そう店内の彼女に言いながら僕は外の景色を眺め続けた。
こちらの気分なんて気ほども知らずに降り続ける雨はさらに強くなっており、完全に外出の気分を消滅させる勢いで水たまりを絶えず巨大なものへと作り続けている。
窓外から見える紫陽花の花もこの強さでは水分補給どころかただの修行僧のように滝のように流れ続ける雨を受け続けるしかないようだ。
彼女の父であるこの店の店主も声には出してはいないが、どこか憂鬱そうな顔が一瞬見え隠れしている。
古来より雨は天からの恵みであると言われてきたが、現代においては好かれることのないイベントクラッシャーである。
彼女とは、この街で同じように育った腐れ縁に近い親友の一人だ。
前述の通りここは音楽の街であり、そこらを適当に歩いても必ず音楽に出会う演奏が飽和した街である。
生憎、彼女のように幼少期から目をかけられて街に愛されたように才能と共に育ったわけではなく、自分は彼女が何かやっているな、というなんとなくに流されて特に芯があるわけでもない。
彼女のように、自分の隣に並び立つような子を見つけ出して、切磋琢磨をしているわけでもない。そんな哀れで怠惰で、愚かと呼んでも良い木端のプレイヤー側の人間が僕である。
本来ならば、この場所にいることすらおこがましいのかもしれない。
そうだと自分の中で分かり切っているはずなのに、懲りずにここに来ては腐れ縁のつもりではない話をしてしまう。
とっくに自分には、彼女の近くに並び立つ資格などないのに。
とっくに彼女は、自分の手で競い合う仲間を得ているのに。
やはり雨は嫌いだ。
どうしたって自分の考えが嫌な方嫌な方へと傾いていく。
きっと自分はこうやって未練がましく彼女の前にあらわれては、こんな距離感を保ちに行くのだろう。
まるで幽霊だ。とっとと成仏してしまえばいいのに。
「あのさ、最近アンタが歌ってる姿見かけないけど……」
「やめるわけないだろ。歌ってるお前たちや先人たちの姿を見ておいて」
ほら。僕の友達はどこまでも周りが見えている。
一ミリだって思っちゃいないことを、自分の立場を守りたいがために何のことのないように息を吐くように嘘をつく。
「ホント?!良かった……」
「何でいきなりそんなことを聞くんだ?」
自分の異変でも気づかれたのだろうか。自分のウソがばれたのだろうか。
そんなことを考えていたが、自分のどの考えも彼女の不安と合致することはなかったようだ。
「なんかさ、最近人の話聞いちゃってさ……」
「ある人がね、ずーっと一緒にやってた子が、急に歌ってる姿を見なくなって、行方も分からなくなっちゃったんだって」
彼女の顔がほんの少しだけ曇った表情になるのを横目に彼女の話す内容に耳を傾け続ける。
「その後、ちゃんとその人は見つけることができたんだけど……その人はもうとっくに歌うことをやめてた」
「それで、どっちも音楽をやめるってなっちゃったって話を聞いたんだ」
この街において、自分の近しい人間とのすれ違いや仲違いはさほど珍しいものではない。
その競争を繰り返し、生存競争のトップにたどり着くことを皆が目標にしているのだからそのマイナスは許容されるのが街のあり方の一つだ。
だが、彼女はそうは思えなかったのだろう。
この街でのあり方の中に生きていながら、その矛盾を受け入れることはしたくない。
彼女自身が備え持った元来の優しさであったり、街の優しさに育てられた末に持ち得たものであるのだろう。
その優しさは、褒めるべき彼女の良いところだと僕は思う。
僕は彼女が聞いてきたという話を、彼女の方を向かずに聞いていた。
彼女の顔を見ることができないという方が正しいのかもしれない。
何故ならば、それはきっと僕の一歩先を行った人間の話だったからだ。
僕の歩もうとしていた道を、進んでしまった人間の話だったからだ。
「……」
何も、言えなかった。
自分のやろうとしていた結末を、先に向こうにそんなつもりがなくても、ピタリと言い当てられたのだから、何を言い訳しようと頭が回ってくれない。
自分でこんなことを言いたくはないが、赤の他人の話でこのように気の落ち込みをするのだ。
自分の近しい人間による出来事として、彼女の語った出来事が再び起こったのならば、僕はきっと彼女に二度と顔を見せられなくなる。
「そうやって、ここを去っちゃうこの姿が、そんなわけないのにアンタの姿を、思い出しちゃった」
「そんなわけないのにね……」
彼女は、僕の方を向いたかと思えばまた顔を逸らして、僕と同じように雨降りの窓を見続けている。
「なんかさ、そんなわけないってわかってるのにアンタには、そうなってほしいと思ってたら気づいてたこんなこと話しちゃってた」
彼女も、気が気でなかったのかもしれない。
もしくは、僕がどこかでそうしてしまうと彼女に思わせてしまってたか、彼女のナイーブな気持ちになった際のふとした意図しないボヤきに等しい何かなのかもしれない。
「なんか、ごめんね。こんなしおらしいこと話しちゃって」
彼女は申し訳なさそうにこちらに謝ってくる。
そんな風に彼女は話を切り上げようとしたが、僕の口は勝手に彼女に言葉を投げかけていた。
「そんなに不安なら、ここで歌ってやる」
そんなことを言うな。お前にはできるわけないのに。
彼女の隣に居続けたいと思い続ける幽霊が勝手に思ってもない言葉を並べて、僕に全てを丸投げしていく。
場所を店の地下のスタジオに移し、彼女と真正面からマイクを握り対面する。
何をしている。今すぐに適当な嘘を並べてこんなことやめろ。
僕の流されてきた今までの自分が頭の中でそう囁いてくる。
「……本当に久しぶりかも、アンタと歌うの」
「そりゃ、お前の前で歌うこと自体が滅多なことだからな」
でも、嫌だ。
何もかもが虚勢の嘘塗れであっても、彼女と向かい合うことだけは噓にしたくない。
そうまでしてしまえばきっと、惰性であっても過ごしてきたその年月の思い出までも、自分で泥を塗ることになるのだ。
そんなことをすれば、ぼくはもう、彼女のそばで笑う資格すら投げ捨ててしまうのだ。
それだけは、嫌だ。
不甲斐ないと思うのなら笑うといい。
「……どういうこと?」
「細かいことを気にしたって変わらん」
「いくぞ」
これは、決意だ。
これだけは、僕が彼女の前で最後まで張り続けると決めた、最初で最後の演技を続けるという証明だ。
「ー!」
「ー!!!」
その言葉を皮切りに僕らの声がスタジオの中で響き合う。
歌の技術は彼女の方が遥かに上だ。
もっと言うのならば、彼女が最も自信の実力を発揮できるのは彼女が見初めたその相棒の隣だ。
彼女と共に歌うことで、彼女の全力は引き出される。
それすらさせていない状態で、僕の実力より彼女の実力が上なのだ。
何を当たり前の事を。
こちらは怠惰に無目的に続けただけの人間だ。突然引き摺り出された勝負に勝てると思ってやれるわけが無いだろう。
……ただ、一つだけ。
例えこの勝負が引き摺り出されて突発的に行われたものだとしてもだ。
僕は、彼女を泣かせていけないのだ。
例え自分がどうしようもなく彼女に劣っていたとしても。
彼女が僕を見限らない限り、彼女が信じている「僕」を僕は張り続けないといけないのだ。
「ー!!!!!!」
腹から、自分でも驚くほどの声が出る。
「……へぇ。だったら!」
「ー!!!!!!!」
杏は一瞬びっくりしたように僕の姿に目を丸くしたが、すぐさま僕の歌声を上回るように歌ってくる。
これでいい。
対等なライバルに何て僕はもうなれやしない。
隣を歩む相棒に何てものにも僕はもうなれっこない。
だからこそ、彼女が少しでもこの時間を有意義に思ってくれるなら。
僕の惨めな見栄が彼女の背中を少しでも軽くできるのなら、僕はもうそれでいい。
それが、彼女に対する僕にできるたった一つの行動であり、
僕にとっての、これ以上ない贖罪なのだから。
あなたの為に踊りましょう。
あなたの為に歌いましょう。
あなたの為に並びましょう。
その役が既に誰かのものであると自覚していても。
その役は既に自分では役不足と知っていても。
雨雲から届けられる通信をただ受け取るだけでなく、こちらが抱く思いだけは渡さずに。
彼女に届けて良いのはその熱量だけだ。
惨めな心情だけは伝えずに、出来るだけ抽象的に取り繕った熱量だけを声に乗せて僕は彼女にぶつけ続ける。
彼女が上回って来たのなら、また僕が上回りに行く。
それをまた彼女が見て実力の枷を外すように全力を出すように上回る。
「ー!!!!!!!!」
ああ、これは無理だとその声を聴いた瞬間に理解してしまう。
「……負けだ」
いたちごっこにも等しい勝負を繰り広げていた中で、僕のほうに限界が来た。
「はぁ……はぁ……」
僕が負けを認めるように両手を挙げて降参の意を示すと、彼女は呼吸を整えながらそんな僕の姿をじっと見つめてくる。
「なんだ。アタシってば要らない心配しちゃってたみたいだね」
「……悩んでるときってのはそういうもんだろ」
ごまかしてみるが、彼女の心配は結果的には的を射ていた。
僕は、彼女にこのことがばれないようにその真実を隠すように彼女のことをなだめる。
「でもさ、久々に聞いた。アンタの歌」
「真っすぐで、胸の熱くなるような歌」
彼女はそう言って僕の歌をそう評価して、にこやかに笑ってくれた。
「……そうでっか」
……なんだ、僕もまだ捨てたもんじゃないのかもしれない。
スタジオの床に膝をつきながら、僕はうれしくなれた。
彼女が僕の歌を変わらずにそう評価してくれたという結果だけで、僕はそう思えたのだ。
「……そういや、外の雨は?」
「わかんない。さっきよりは弱くなったと思うけど、まだ降ってるんじゃない?」
スタジオから上がり、カフェの方で窓を見れば、杏の言う通り雨は降っているが先ほどよりは収まっているようだった。
「まぁ、長くいてもアレだし、気分転換も出来たから帰ることにするよ」
「……付き合ってくれたのは良いんだけど、帰りどうやって帰るの?この雨で」
「濡れて帰るが」
「……バカじゃないの?」
「だから言ってるだろう。この時期は嫌いだって」
急に降って来たものに対策のしようもない。対策がないなら甘んじて肩で風切るのではなく雨切って帰るしかないだろう。
「言っとくけど、ここにだって傘くらいはあるんだから貸してあげるって」
こちらの解答を聞き、どこか呆れたようにそう返した。
「流石に借りるわけにもいかない」
僕は、彼女のそれを断り、カフェの代金を払い扉を開く。
「じゃあな。また来るよ」
「うん!またね!」
雨は嫌いだ。
アスファルトの濡れた匂いが嫌に鼻に残るから。
洗濯物が乾きにくいから。
雨粒の音がうるさいから。
扉を閉めて、濡れた身体で扉越しに彼女を見上げた最後の瞬間、湿った風がふわりと頬を撫でた。
言えなかった想いは、梅雨の空に紛れて静かに降り続き、彼の背中にそっと降り積もる。
「どうか、まだあなたの隣にいさせてください」
言葉は、誰に伝わるわけでもなく雨粒の暗号に紛れていった。