Kさんは大学時代、同じサークルで片思いしている女の子がいた。仮に名前をAちゃんとする。
「すごく頭が良い子でした。運動神経も抜群で、でもそれを鼻にかけない親しみやすい子でした」
Aちゃんは奨学生だったが、返済を免除されるほどに優秀な生徒だったという。
「腕っ節も強くて、しつこく絡んでくるナンパを自分で撃退してましたね。いいところ見せようと思ってたんですけど、本当にめちゃくちゃ強くて割り込む隙もなかったというか。あのときは男子の立つ瀬がなかったですよ。Aちゃん本人は照れくさそうに『昔はむしろ貧弱だったんだけどね~』って笑ってました。そういうギャップが魅力的に見えて、我ながらチョロいとは思いますけど、すっかり惚れちゃってました」
KさんはなんとかAちゃんとお近づきになろうとして、頻繁にサークルに顔を出していた。
そのサークルはいわゆる「飲みサー」だったため、酒の席で雑談することが多かったという。
「その日も居酒屋で皆と飲んでました。会話の流れは思い出せないんですけど『小学校の頃なにしてた?』って話題になったんです。地元でしか出ないような給食のおかずとか、ザリガニ釣りに行ったとか、その学校であった七不思議とか、そういう昔話で盛り上がっていたんです」
すると、いつもなら明るく話題に参加するAちゃんが沈黙していることにKさんは気づいた。
「さっきまで楽しそうに笑ってたのに、小学校の話題になった途端、見るからに様子がおかしくなったんです。Aちゃんらしくない反応でした。グラスを握ったまま、ずっと俯いていて。『大丈夫?』って声をかけても『あ、うん』って曖昧な返事しかなくて」
Aちゃんの変化にKさん以外の者も気づいた。もしかしたら触れてはいけない話題だったのではないかと、彼女を慕う者たちは焦ったという。
「いまは明るい子として振る舞っているけど、小学校の頃はいじめられていたとか……そういうことってあるじゃないですか。Aちゃんにとって小学校時代の話は思い出したくないくらいの地雷だったんじゃないかって」
気を遣う周囲に対してAちゃんは「ううん、違うの。そういうんじゃなくて……」と前置きしてから話し始めた。
「思い出せないんだよね、小学校の頃のこと。どんな風に過ごしてたのか……ぜんぜん覚えてないの」
Kさんたちは顔を見合わせた。
「その場はとりあえずAちゃんに合わせる空気になりました。『ああ、そうだよね~。そんな細かく覚えてないよね~』って感じに。実際、ぼくだってハッキリと全部覚えてるわけじゃなかったですし。六年間通っていたとはいえ、だいぶ昔の話ですから。でもAちゃんの場合は、そういうレベルの話じゃないみたいでした」
Aちゃんによると、まるで記憶が抜け落ちたかのように六年間の思い出がないのだという。
「小学校の名前すら思い出せない、って言ってました。いくら物覚えが悪くても通っていた母校の名前すら覚えてないなんて……そんなことあるんでしょうか? ましてやAちゃんは記憶力のいい秀才なわけですから、余計に不思議に思いました」
驚くべきことにAちゃんの両親すら通わせていた小学校の名前が思え出せないのだという。それは明らかにおかしいことだった。
「私、本当は地元の小学校に通うはずだったんだけど、お父さんとお母さんが急にその学校に通わせるためにわざわざ引っ越しまでしたの。『絶対に通わせる』って言って。変でしょ? なのに『思い出せない』って言うのよ?」
子どもを有名な進学校に通わせるために遠方から引っ越す教育熱心な両親。Aちゃんの両親もそのタイプだったのだろう。
だとしたら尚のこと通っていた小学校のことを家族ぐるみで忘れているのは奇妙なことだった。
Aちゃんの話を聞いて、サークルのメンバーから次々と笑顔が消え、気まずい空気になっていったという。
「誰かが『本当に何も覚えてないの?』って尋ねると、Aちゃんは『卒業式』と呟きました。『卒業式のときにすごく泣いた』……それだけは覚えているらしいんです。『なんだ、卒業が惜しいほどその学校が好きだったってことじゃん』って呑気なやつがそう言って話題を明るい方向に戻そうとしました」
ところが、そういうわけではなかったらしい。
「やっとここから卒業できる……その嬉しさで号泣したことは覚えてる。私だけじゃない。卒業生の皆が泣いてた」
そう打ち明けるAさんの表情はまるで天国にいるかのように幸せそうだったという。
「それから『変な校則がいっぱいあった』こともうっすらと覚えているようでした。ほら、ブラック校則とかたまにニュースで話題になりますよね? 校門の銅像の前を通るたびにお辞儀をしろとか、先生が教室に入ってきたら拍手で迎えろとか……Aちゃんの小学校の校則も、そういう感じの内容でした。いや、もっと変というか……本当にそんな小学校あるのか? って疑わしくなるような校則ばかりだったんです」
Aちゃんはその奇妙な校則を渡された生徒手帳で毎日読み返していたという。
「忘れたら卒業できないから。だから頭に叩き込むしかなかったの。なんでいままで忘れてたんだろう。とっても大事なことだったはずなのに……」
そう言ってからAちゃんの顔が真っ白になった。カタカタと体を震わせて「あ……」と頭を抱え始めたという
その様子はまるで「やってはいけないことをやらかしてしまい怯える子ども」のようにKさんには見えたという。
「言っちゃった、言っちゃった、言っちゃった。でも名前は口にしてないし……ああ、でも……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
壊れた機械のように謝り続けながら、Aちゃんは席を立って逃げるように帰ったそうだ。
「それからAちゃんの様子がおかしくなりました。ずっとソワソワしているというか、何かを怖がっている感じなんです。サークルにもあんまり顔を出さなくなってしまって。ぼくは彼女と同じ授業を取っていましたから顔を合わす機会はあったんですけど、ずっと心ここにあらずでノートすら取っていませんでした」
それから数日して、Aちゃんはとうとう大学にすら来なくなってしまった。
「サークルの皆はあの一件以来Aちゃんと距離を取るようになってしまって、気にかけるやつがほとんどいませんでした。でも、ぼくの気持ちはまだ冷めていませんでした。むしろ彼女の力になりたくて何度かメッセージを送ったんです」
そうしているうちにKさんは「部屋に来て」とAちゃんからお呼ばれされたという。
「異性を部屋に招くわけですから、まあ期待しちゃいますよね? とりあえずお土産を持って教えられたマンションの部屋を尋ねました」
最初は気持ちが弾んでいたKさんだったが、いざAちゃんの部屋に入ると背筋が寒くなったという。
「季節は春だったんですけど部屋の中が真冬みたいに寒くて。いえ、冷房はついていませんでした。時間もまだ昼間で日の光が窓から入っているはずなのに、部屋中が薄暗くて……なんというか、山の空気と似ていました。ぼく登山をたまにやるんでわかるんですけど……あのとき入った部屋は、まるで酸素の薄い山にいるみたいでした。すごく息苦しいんです」
憧れの女の子の部屋に来れたというのに、Kさんは早くも帰りたくなったという。
「Aちゃんの見た目もひどい有り様でした。髪は手入れしていないのかボサボサで、肌も荒れていました。ろくに食べてもいないのか、すっかりやつれていました」
思い人の悲惨な姿にKさんは同情心が湧いた。とりあえず話だけでも聞こうと、彼女のそばに寄りそったという。
「数分してからAちゃんはボソっと話し始めました。『眠ると小学校の夢を見るんだ』と。飲み会で小学校のことを話して以来、忘れていた記憶もどんどん思い出しているようで、そのせいで眠れないんだと」
よほど忌々しい記憶なのか、ベッドの上でAちゃんは震え続けていたという。
「私が間違ってたの。卒業したと思ってた。でも違う。本当は卒業なんかできてない。私たちはずっとあの学校に囚われてる。逃げられないんだ。だって……こうしているいまもずっと見られてる!」
そんなことを言いながらAちゃんは頭を掻き回した。
KさんはAちゃんを落ち着かせるべく両肩に手を置いた。
Kさんはゾッとした。Aちゃんには、人肌の温もりがまったくなかったのだ。
「氷のように冷たかったんです」
そんな冷たい手に腕を掴まれて、Kさんは「ひっ」と悲鳴を上げた。
Aちゃんは縋るようにKさんの腕を握りしめたという。
「助けて。お願い。ずっと呼ばれてるの。いやだ。あんなところ二度と戻りたくない。やめてやめてやめて。『イイコ』になりますから許してください。私の居場所を奪わないで。あと少しで『ナリタイモノ』になれるはずなのに。『カワリノモノ』なんかにあげたくない!」
錯乱しているAちゃんに怯えたKさんは掴まれた腕を振りほどこうとした。
だがその握力は女性とは思えないほどに強かったという。
「握りつぶされそうな力でした。こんなに痩せこけている体のどこからこんな力が出てくるんだと、もう恐怖で頭がいっぱいでした」
痛みで意識が遠のきそうになったとき、急に握る力が弱まった。Aちゃんは窓のほうを見て呆然としていた。
「ぼくも混乱していたので、正確には思い出せません。ただAちゃんは何か名前みたいなものを呟いていたと思います。『■■■様』……みたいなふうに、様づけで」
すると、奇妙なことが起きた。
「足音がしたんです。ぼくら以外の誰かが歩く音がズンズンと部屋の中で。すごく、大きな足音でした。まるで巨大な生き物が歩くような。でも部屋には、ぼくとAちゃん以外いないんです」
奇妙なことはさらに起きた。室内の空気がより重くなり、吐く息が白くなるほど寒さも増したという。
ここに居てはいけない。Kさんはそう本能的に思ったそうだ。
アレほど錯乱していたAちゃんは途端に静かになっていた。
そしてゆっくりとKさんのほうを振り向いた。
「これ以上ないくらいの笑顔でした。でも不自然な笑顔でした。まるで貼り付けたみたいな笑顔でじっとこっちを見ているんです」
KさんはゆっくりとAちゃんから距離を取った。
Aちゃんは変わらず不気味な笑顔を浮かべたまま、こう言ったそうだ。
「学校に行きましょう」
それはまるで覚えたての日本語を発音するような、たどたどしい言い方だったという。
Aちゃんの姿をしたナニカが彼女の声を真似て話しているようにも見え、Kさんは逃げるように部屋から出た。
「それからすぐAちゃんは大学に来るようになりました。すっかり元通りになってました。様子がおかしかった頃の面影もぜんぜん無くて、またサークルの間で馴染んでました」
前と同じように明るい性格に戻ったAちゃんに、しかしKさんは違和感を覚え続けていたという。
「AちゃんだけどAちゃんじゃない……どうしてか、そう思えてならなかったんです。サークルは辞めました。講義の時間でも、離れた席に座るようになりました。うまく言えないんですけど、あのAちゃんと一緒に居たくなかったんです」
それから卒業するまでAちゃんと関わり合うことはなかったという。
「こんな風に言ってますけど……ぼくはいまでもAちゃんが好きなんです。夢に見るくらいには」
夢の中でKさんは子どもに戻って学校に通っているそうだ。着たこともない制服を着て、見たこともない校舎に入る夢だという。
「その学校には同じように子どもに戻ったAちゃんがいるんです。そのAちゃんは……間違いなく、ぼくが好きになったAちゃんなんです」
だから毎晩会えるのが楽しみなんです、とKさんは幸せそうに話を締めくくった。