勇者パーティーを追放されたビーストテイマーと魔法使い 作:海原凛
夜気がまだ湿り、濃い霧が林床を這うころ、仮設の天幕に囲まれた小さな焚き火が橙の脈動を刻んでいた。布地は風にそよぎ、薬草と焦げた薪の匂いが入り交じる。
その一隅で、レインは硬い寝台の上に身じろぎし、重い瞼を押し上げた。
薄明かりが傷を洗った跡が白布の下にかすかに透き、額には氷の粒ほど小さな汗が浮かんでいた。周囲には、鎧の軋む音と短い号令が絶え間なく往復している。
「……ここは?」
レインはまだ身体を思うように動かせないまま、今の状況を把握しようと辺りを見渡そうとした。
その気配に気づいた甲冑姿の男が近寄ってきた。
焚き火を跨いで膝をつくと、騎士は兜を外した。若く鋭い眼差しを湛えた男で、肩当ての紋章には砦塞都市の守備隊の印が刻まれている。
「ご無事か、冒険者殿」
レインは上体を起こそうとしたが、痛みに耐えきれず男に支えられる形で再び寝台へと身体を預けた。包帯で固められた肩に走る鈍い痛みを奥歯で飲み込む。
「ここは……」
「森の仮設拠点です。都市を追われた我らが、撤退の最中にあなた方を発見しました」
「都市を、追われた……?」
騎士は小さく頷き、状況を説明し始めた。
「現在、砦塞都市は魔族の手に堕ちております。情けない話ですが、都市を放棄し撤退するしかなかったのです。こうして森に拠点を築き、何とか逃げ延びました」
「都市、が……!」
衝撃のあまりレインは目を見開き、再び身を起こそうとしたが、痛みに顔をしかめてすぐに騎士に身体を支えられた。
「何とか奪還の作戦を立てているところです。外から援軍を呼ぼうとはしておりますが、奴らの兵がこの森を包囲しているため、容易にはいきません」
騎士は一息つき、焚き火の奥に目をやった。
「そんな折、崖下の川で横たわるあなた方を発見したのです」
レインは息を詰め、騎士の視線の先へ顔を向けた。そこには、白布をまとい静かに寝息を立てるリーンの姿があった。
「リーン……!」
声にならない安堵が胸を満たした。死んでいてもおかしくなかった状況で、こうして共に生き延びている。
「どうやら、彼女が咄嗟に魔法で障壁を張ったおかげのようです」
「そう……なのか……」
レインは改めてリーンに対する感謝の念を噛みしめた。
「今はとにかく休んでください。この天気です。どのみち我らもここでしばらくは待機するしかありません」
「わかり、ました」
レインが小さく頷くと、騎士はそっと微笑み、焚き火を跨いで天幕の外へと去っていった。
レインはもう一度隣のリーンを見やり、微かに笑みを浮かべると、静かに瞼を閉じて意識を深い闇へと沈めた。
◇
霧が深く沈む森の中、砦塞都市から撤退した守備隊の仮設拠点では、
若い騎士たちが交代で夜の見張りにつきながら、わずかな焚き火を囲んでいた。
その焚き火のそばに、探索から戻ったばかりの数人の騎士が泥まみれの外套を脱ぎ、隊長へと小さな袋を差し出す。
「崖路の上で、破壊された二台と馬の死体を発見。悲惨な状況でしたが、人の死体は見つかりませんでした」
「……やつらの追撃が崖路まで迫っていたか」
若い兵士が一人、吐息を漏らす。
「じゃあ、あの冒険者たちは……」
「そうだ。崖の縁の抉れは深い。争った末に川へ落ちたのだろう。命を拾えたのは奇跡だ」
隊長の言葉に、焚き火の火の粉が小さく舞った。
やがて、森の奥から数人の偵察兵が駆け足で戻ってきた。
その足取りは疲労と焦りを滲ませていた。
「偵察隊戻りました」
「報告しろ」
隊長の一声に、偵察兵の隊長格の男が膝をつく。
「砦塞都市……外壁の監視塔には魔族の旗が何重にも掲げられています。外周には見張りの異形兵が常に巡回し、簡単に近づける状況ではありませんでした」
「内部の様子は?」
「正面門からは確認できませんでしたが、逃げ遅れた民は恐らく地下に潜伏している可能性があります。住居の煙はほとんど途絶えていましたが、一部の倉庫付近で人影を見たという者もおります」
「……そうか。完全に制圧されたわけではないか」
隊長は地図を卓上に広げると、指先で市街の門と監視塔をなぞった。
しかし、集まった数人の若い騎士たちは互いに顔を見合わせ、小さく声を漏らす。
「無理だ……あんな数の魔族を相手に、今の我々だけでどうやって……」
「奪還なんて絵空事だろ……兵の数も装備も足りない……」
その言葉に隊長はじっと目を細めた。
焚き火の光が、かすかにその横顔を照らす。
「……弱音を吐くな。確かに我らだけでは無謀だ。だが……」
隊長は視線を天幕の奥へ向けた。
その先には、応急処置を受けて横たわる冒険者たちの寝台がある。
「崖下から救い上げたあの二人……崖から落ちても生き残れるほどの障壁を張れるほどの魔法の能力。あれほどの魔法を一人で制御できる者がどれだけいる」
若い騎士の一人が小さく息を呑んだ。
「噂で聞いたことがあります。勇者パーティーにいた魔法使いに、天才がいると……」
「真偽は確かめる。だが、どのみち我らだけではじり貧だ。生き延びるためにも、あの二人に力を借りるしかない」
誰もが黙り込んだ。
頼りたいという想いと、他人に縋ることへのためらいが交錯している。
隊長は静かに拳を卓上に置いた。
「……この砦を見捨てたまま引き下がるわけにはいかん。奴らの首領が内部を固め切る前に、必ず隙を突く。そのために、今夜は情報を整理し、奪還の骨子を立てる」
天幕を叩く雨音が少しだけ強まった。
焚き火が小さくはぜ、隊長の目が奥の寝台へと向いたまま動かない。
眠るレインとリーンの寝息が、かすかにその先に響いている。
そして霧深い森の外では、また新たな号令が短く交わされた。
◇
仮設の天幕を叩く雨音が、夜明け前の薄闇に微かに滲んでいた。
熾火となった焚き火はかすかな赤を宿し、湿った空気に焦げた薪と薬草の香りを溶かしている。
粗末な布の天幕が風に揺れ、時折、水滴がぽたりと土の床に落ちた。
レインは浅い眠りの縁を彷徨いながら、背後に聞こえるかすかな寝息に気づいた。
微かに寝具が軋む音がして、隣のリーンがゆっくりと体を起こした。
布の擦れる音とともに、リーンの長い紫の髪が肩から滑り落ちる。額には小さな汗が滲み、冷たい夜気に触れてわずかに震えていた。
「……起きたのか」
かすれた声でそう言ったレインの視線を、リーンははっとしたように受け止めた。
焚き火の残り火が、彼女の濡れた瞳をかすかに赤く染める。
「レイン! 生きてて……ほんと、よかった……」
吐息のように漏れた声には、いつもの皮肉も棘もなく、ただ滲むような安堵だけがあった。
リーンは言葉の続きを探すように唇を震わせ、視線を何度もレインの顔へ戻した。
「助かったのは……お前のおかげだって、騎士から聞いた」
レインの声がかすかに揺れると、リーンはかぶりを振った。寝具の上に置いた自分の手をぎゅっと握りしめる。
包帯に覆われた指先が赤くなり、震えが止まらない。
「……崖の下に落ちたアンタを見た時……あたし、もう……だめかと思ったんだから……」
その声はどこかに引っかかるように弱く、小さな嗚咽に変わりそうになる。
リーンは歯を食いしばって吐息を飲み込むと、視線を落とした指先に落とした。
「間に合って……ほんとに……よかった……」
その言葉が空気に溶けた後、レインはゆっくりと手を伸ばし、彼女の肩に触れようとしたが、力が入らずに断念した。
代わりに少しだけ上体を傾けて、言葉を紡ぐ。
「無理するな。お前まで倒れたら困るだろ」
かすかな笑みが、レインの唇に浮かんだ。
リーンはその顔を見て、小さく息を吐いた。
乾いた髪の先が震えながら揺れ、焚き火の熾火に照らされてほのかにきらめく。
「……心配性なんだから……アンタこそ……痛むんでしょ?」
言葉とは裏腹に、リーンの目尻には安堵の色が残っていた。かすかな苦笑を浮かべたレインが、息を吐く。
「痛むに決まってるだろ……でも、生きてるだけで十分だ」
二人の間に、再び静寂が降りた。
天幕の外では、鎧の擦れる音と小さな号令が遠く、雨音と混ざり合って途切れ途切れに響く。
リーンは寝具の上でそっと身を寄せると、遠慮がちにレインの手へ指先を滑らせた。
冷たいはずの手が、かすかな熱を帯びていて、焚き火の赤い光に照らされて震えている。
「……あたし、何がなんでも……あんたを離さないんだから」
声は細く震えたが、そこに滲む想いだけは確かだった。レインは目を伏せると、弱々しくも彼女の手を握り返した。
互いの手を通して伝わる温もりが、霧のようにまとわりついていた恐怖を、少しずつ溶かしていった。
互いの手を離さないまま、リーンはレインの顔をゆっくりとなぞるように見つめた。
触れ合った指先は微かな震えを帯び、熱が脈打つたびに二人の呼吸が重なる。リーンは小さく息を吸い込み、胸をすくませた。
「……このままじゃ、まだ……ダメだから」
囁くような声に混じって、吐息がかすかに震える。彼女はレインの手を一度だけ優しく握り直し、それから寝具の上へそっと戻した。指の腹で布を撫で、呼吸のリズムを整えると──
レインの肩口へと、自分の指先をそっと滑らせる。そこに包帯が巻かれているのを確かめると、肩越しにレインを一瞥し、小さくうなずいた。
「少し……動かないで」
寝起きの身体を支えるように膝を寄せ、背筋を伸ばす。紫の髪が頬にかかり、しっとりと冷えた夜気でわずかに張り付いた。リーンは額の前髪を指で払うと、唇を引き結んで短い詠唱を紡ぐ。
「リジェネレイト」
呟きと同時に、指先へ真珠色の光粒が吸い寄せられ、焚き火の赤と溶け合って淡い綾を描く。粒は柔らかな光膜になり、包帯の隙間からじわりと染み込んだ。レインの肩がわずかにぴくりと動き、張り詰めていた呼気が小さく漏れる。
リーンの額には再び汗が浮き、ひと筋がこめかみを伝った。それでも彼女は指を離さず、自分の肩口へ手を移す。包帯越しに脈の鼓動を感じ取り、そちらにも同じ光を注いだ。
「平気よ。あたしまで倒れたら……笑えないし……」
わざと吐き捨てるように言いながらも、声の奥に滲む柔らかな響きは隠せない。光膜が溶けるように消えると、リーンは胸の奥でほっと息を落とした。治癒の余波で熱を帯びた指先を、そっと握り込む。
雨脚が少し強まり、天幕の布を連続して打つ音が低く響き出す。焚き火の熾火が揺らぎ、赤い灯が二人の影を長く伸ばした。
「そうだ、カナデたちが……!」
「落ち着いて。まずは状況を……」
そのとき、外から鎧の擦れるかすかな金属音が近づく。雨に濡れた足音が土を踏み、幕を押し分ける布のざらついた音が続く。
若い騎士──銀の肩章を濡らし、黒髪の房が額に張り付いた男が現れた。水滴が肩当てから滴り落ち、土床に散る雫が小さな輪を描く。彼は焚き火の手前で一歩進むごとに泥を払うように足を止め、控えめに頭を垂れた。
「お二人とも……目を覚まされて何よりです」
低い声ながら安堵が滲み、熾火の赤が彼の頬を仄かに照らす。鎧の継ぎ目からは雨水がほそい糸となってしずくを落とし、火に近い鉄板からはかすかな蒸気が立った。
「砦塞都市守備隊、隊長代行のギルバートと申します。昨夜、あなた方を崖下でお助けした者です」
砦塞都市守備隊、隊長代行のギルバートと名乗る男が、一度礼をし、二人に向き直った。
「失礼を承知で尋ねますが、もしやお二人は勇者パーティーにいた方ではないですか」
リーンは苦虫を噛んだような表情を浮かべ、ギルバートに鋭い双眸を向けた。
「あの崖から落ちて、生き延びたその魔法の力。ここらでそのような力を持っている魔法使いは限られます」
「そうだと、言ったら?」
ギルバートは柄の欠けた短剣を背に回したまま膝をつき、片手で寝具の縁をそっと押さえた。濡れた手袋の革が、布に滲みを作る。
「勇者パーティーにいたお力を、どうかお貸しください。無理を承知のお願いですが──作戦幕で状況を説明させていただけないでしょうか」
言葉の末尾がわずかに掠れた。焦燥と礼節、その双方が宿る眼差しは、焚き火の陰影で一段と深みを増していた。
リーンは隣に横たわるレインの手を再び握り、指を絡めた。震えはすでになく、温かなぬくもりが掌で脈打つ。レインも小さくうなずき、力の抜けた呼気で応じた。
「レイン・シュラウドです。改めて助けていただいたことに感謝します」
「リーンよ。あなたの言う通り、勇者パーティーにかつていた魔法使いよ」
天幕を叩く雨音がひときわ大きくなる。揺れる焚き火の朱が三人の影を重ね、冷たい空気の中にわずかな決意の熱を灯していた。