勇者パーティーを追放されたビーストテイマーと魔法使い 作:海原凛
砦塞都市を占拠した魔族の拠点、かつての騎士団の指令室は、薄暗い燭台の明かりに照らされていた。獣人の部下たちに押されて進むカナデの足音が、石床に乾いた音を落とす。
砦塞都市の騎士団指令部だった部屋は、今や《漆黒の牙》の根城だ。剥がれかけた壁の紋章の上に、盗賊どもが持ち込んだ粗末な戦利品が雑多に積まれ、あちこちに血の臭いが漂っている。
その中央に据えられた玉座めいた椅子に、山猫人族のバルガが胡坐をかいていた。
しなやかな灰褐色の体躯を無造作に開き、長い尻尾をくねらせながら、金緑色の瞳を細めてカナデを眺める。カナデの背中を、獣人の見張りが背後から押した。
両頬に刻まれた三日月状の牙が、薄暗い燭台の光にぎらりと光る。
「へぇ、こりゃ珍しいニャ。まさかこんなところで猫霊族に会うとは思ってもみなかったニャ」
囁くような声が、爪先から首筋までを舐めるように絡む。
「あなたがこの集団のボス? まさか山猫族とは思ってもみなかったけど」
カナデは視線を逸らさず、獣の如く背を伸ばして睨み返した。その睨みが気に入ったのか、バルガはにやりと牙を覗かせて笑う。
「怯えないのは良い声ニャ。泣き声も良いが、強がりの声も好物ニャ……」
「好まれたくないから結構」
尻尾の先を気まぐれに跳ねさせながら、バルガは椅子の背もたれにのけぞった。
「それで、なんで人間と仲良くしているニャ? お前たち猫霊族は確かに昔は人間と群れていた種族ニャ。けど近年は傲慢な人間共と相容れず山奥で暮らしていたと聞くが」
バルガの言葉にカナデは沈黙する。たしかに彼の言うことは事実だ。今は猫霊族は人間と関わらずに生きている者がほとんど。それは精霊種をはじめ、人間に対して見切りをつけた上位種が多かったからだ。
だからカナデのように好んで人間の街へ旅に出るなんてのは種族が近い山猫族からしても酔狂に見えるのだろう。
「群れに縛られるのは檻ニャ。裏切られるのは当たり前ニャ。人間どもなんざ、お前の力に縋って生き血を啜るだけニャ」
ぐっと身を乗り出し、金緑色の瞳を細める。
バルガの指先がカナデの頬に伸び、しかし触れる寸前に止まった。
「どうニャ? お前ほどの上位種が、人間に縛られて夜鳴きするのは滑稽ニャ」
笑い声が、爪の先で鉄を弾くように鋭く響く。
「俺の牙になれニャ。檻を喰い破れ。人間どもになんか期待するニャ……そうすれば……」
バルガの尻尾がゆらりと揺れる。獣人の部下たちが息を呑んだ。
「……俺がこの砦ごと、お前に獣の王座をくれてやるニャ」
低く囁く声が、部屋の空気をひやりと震わせた。
その目は、カナデを獲物としてではなく、同じ檻を喰い破る“牙”として値踏みしている。
「夜鳴きはもう要らないニャ……。お前の泣き声も、お前が従っていた人間の絶望も……ぜんぶ俺が喰ってやるニャ」
瞳が、暗がりの中で嗜虐に光った。
「お断りだよ!」
「ニャ?」
カナデは即答した。思わぬ言葉に、バルガの瞳がわずかに丸くなる。
拍子抜けしたように尻尾の先がぴたりと止まった。
「たしかに私たち猫霊族は、今は人間とはほとんど関わらずに山奥で暮らしてる。それは事実だよ……でも、だからって人間を傷つけたいわけじゃない!」
カナデは肩を押さえる獣人の手を振り払おうと、ぐっと身体を捻った。だががっちりと捕まれ、爪先が石床を擦っただけだった。
「私は人間を知りたいんだ。この世界を、もっと広く知りたいの! 誰かを力で屈服させて、奪って、喰い物にする……そんなことのために生きる気なんて、少しもない!」
その瞳は、怒りとほんの少しの恐怖を押し込めた光を帯びていた。
バルガはカナデの反発が面白いのか、喉の奥でクククと笑い声を漏らした。
「はっ……結構だニャ! やはり猫霊族はお人好しニャ! だから我ら山猫族にも見捨てられたんだニャ!」
バルガは立ち上がると、尻尾をゆらりと振りながらカナデに近づき、無造作に肩を押し込む。
カナデの小柄な身体は簡単に後方へ弾かれ、背中から床に倒れ込んだ。
冷たい石床が背に痛みを伝える。
それでもカナデは唇を噛みしめ、瞳だけは逸らさずにバルガを睨み返した。
「人間と魔族……この二つに、我らがどっちに付くべきか、もう明白だニャ!」
牙を剥いて笑うバルガの声が、石壁に反響する。
カナデは息を切らせながら目を見張った。
「……!? 魔族……!」
思わず絞り出した声が、小さく震えた。
「そうだニャ……漆黒の牙は、俺が統べる組織だニャ。そしてこれは【リベル・ファング】の爪に過ぎんニャ。お前らがどんな夢を見ていようと、世界は俺たちが引きずり下ろすニャ!」
嗜虐に輝く瞳を細め、バルガは倒れたカナデにゆっくりと顔を近づけた。
爪先で顎をつつこうとするが、カナデは顔を背けて拒絶する。
「くく……いいニャ。どうせお前が転がり込んできたのも、獲物を連れてきたようなもんだニャ……」
バルガは口元を吊り上げ、ちらりと背後の獣人たちを一瞥する。
「お前も、ここの人間共共々、【アビス】に送ってやるニャ。猫霊族のサンプル……あいつらなら喉から手が出るほど欲しがるニャ……」
「……くッ……離して……!」
カナデは床を蹴って立ち上がろうとしたが、すぐに獣人の手が両肩を押さえ込んだ。
背中に冷たい石床の感触が戻る。指先に爪を立てられ、皮膚がじわりと引きつった。
「連れて行けニャ。檻の中で……可愛い夜鳴きを聞かせてくれるニャ……」
バルガが振り返ると、部下たちが素早くカナデの両腕を掴む。
カナデは爪を立てて抵抗するが、鋭い牙を持つ獣人たちに容赦なく引きずられ、指令室の扉がきしむ音と共に暗がりへと連れ去られていった。
◇
北外壁の獣道へと足を進めたレインの肩には、すでに仮契約した鴉が小さく鳴いていた。
湿った夜気を孕んだ霧はまだ晴れそうにない。草の匂いと錆びた土の匂いが混じり合い、白い靄が月明かりを蕩かす。視界を覆う白さは、潜入者にとって都合のいい隠れ蓑だった。
レインの後ろでリーンが小声で呟く。
「……案外、静かなもんね。警備が巡回する足音も薄いわ」
「ああ。陽動が囮になっているおかげだな。残り、あと十数分――いや、正確には八分だ。焦るな、でも急げ」
立ち止まったレインは、霧の向こうに霞む外壁を見据えた。
青鋼の格子は夜露に濡れ、冷たい光を弾いている。水滴がぽたりと落ちる音さえ、息苦しいほどの緊張を煽った。
側にいた仲間が革手袋を嵌め直し、無音鋸を背負い直す。刃に刻まれた符字が淡く脈動し、湿った空気に微かな燐光を浮かべた。
「封印符、切り離しまで十五秒……よし、合図を待つ」
レインは壁に寄りかかり、鴉に意識を移す。同化によって感覚が拡張され、夜空の霧を掻き分けるようにして上空を旋回した。
南門前の街道、西壁下の凹地。そこに潜む射手たちの姿がぼんやりと映る。弓弦を撓ませる微かな震えまで伝わり、指先が冷えた。
息を呑む。緊張の糸が張り詰める。
数拍の後――鴉の視界に、弓を引き絞る影が並んだ。
レインは胸の奥に小さく息を送り、鴉へ命じた。
「……鳴け」
カァ、と低い声が二度響いた瞬間、無音鋸が淡く輝く。
格子に刃を当てると、金属を削るはずの音はほとんど聞こえない。代わりに、封印符を外す乾いた音が霧に溶けていった。
――閃光。
南と西で閃いた光が霧の奥を真昼のように照らし、続いて大地を割るような轟音が響いた。湿った土に反響し、周囲の気配が散っていく。
「よし……これで外は動く。こっちは切断を急げ」
レインは同化を解き、意識を自分の身体へ戻す。鴉は依然として潜ませたまま、巡回の動きを探らせる。
別の獣にも指示を送り、地下水路の奥から漂う生臭い空気を感じ取った。
隣でリーンが小さく息を吐く。指先から青白い霧が溢れ、格子周辺を覆い隠した。
「この程度ならまだ余裕……霧化と幻惑膜、第一段階。残り二分で霧が切れるわよ。頼んだわよ」
「任せろ」
二本目の格子が外れた頃、鴉が短く鳴いた。三度――巡回が近づいている合図だ。
レインはすぐに指示を飛ばした。
「一旦止めろ、潜伏だ」
鋸を持った仲間たちは格子を背に霧へ溶け込む。壁の向こうからくぐもった足音が響き、二つの影が前を通り過ぎた。
息を潜める間にも、リーンの額には薄く汗が滲む。霧膜の内側で脈動する魔力の光が、刹那だけ紫の髪を照らした。
「……いい子にして通り過ぎなさいっての……あと二分よ、本当に急ぎなさい」
ほどなくして足音が遠ざかる。
レインは肩の鴉を撫で、低く命じた。
「再開だ。急げ」
無音鋸が再び縦桟を削る。湿気の中で空気は冷たいが、仲間の呼吸は熱を帯びていた。
三本目の格子が外れた瞬間、レインは軽く顎を引く。
「先頭、行け。左右を固めろ。後ろは備えておけ。爆裂光弾は封印符を絶対に外すな。状態確認」
「了解」
短く確認の声が交わり、仲間たちは切り開かれた格子を潜った。膝下まで濁った水が冷たく染み込む。地下水路に入ると、外の閃光と轟音は遠い夢のようだ。
壁面の石が汗をかき、苔の匂いが鼻を刺した。足を踏み出すたび、水面に月の残滓が揺らめく。
リーンは格子の外で両手を広げ、霧を水路へ流し込んだ。
水の中を進む彼らの足音が、霧の奥で静かに響いていた。
地下水路を抜けた潜入班は、倉庫区画の裏口で足を止めた。湿気を吸った木箱の迷路には、血と油の匂いが重く漂っている。壁の割れ目から漏れる灯火の影を、リーンの幻惑膜が白く包んだ。
レインはそっと膝をつき、濡れた土の床に指を触れた。遠くで鳴る鐘の音が、霧越しに鈍く響く。
「……隠れてるな。来い」
指先に応えるように、壁際の影から数匹のネズミが顔を覗かせた。毛並みを震わせる僅かな動きさえ、霧の膜に呑み込まれて消える。
「お前たちの鼻が頼りだ――隅々まで探れ」
ネズミたちは尻尾を震わせ、木箱の隙間を音もなく走り出す。
「……どうだ?」
レインはネズミの視界に意識を潜らせた。
積まれた木箱の奥、腐った縄の擦れる音。内部には捕らわれた人々が多く存在し、全員が弱っている様子が見て取れる。その奥の一角に、見知った顔が映った。
弱々しい吐息を漏らす男の姿――背中の傷からにじむ血が霧に溶け、冷えた床に暗い模様を描いている。
(……よかった、生きてる)
治療薬の瓶がかすかに鳴り、硝子の音が霧の奥に吸い込まれた。
別の群れが奥をかぎ回り、鼻を鳴らしたが、カナデの気配は見当たらない。木箱の向こうに吊るされた小さな灯火の下、鎖につながれた黒い枷だけが揺れていた。
かすかに唇が動いた。
「……カナデ殿は……連れて……いかれた……」
レインは唇を結び、目を伏せる。縄を切る音だけが霧の中に響いた。
剣を握り直す影が奥を睨む。
「残党が潜んでいないか、俺が前を確認する」
「頼む。警戒を切らすな――霧の残りは一分だ」
縄が解かれた男を支え、水袋が差し出される。乾いた唇が水滴に濡れ、震える喉が僅かに動いた。
レインは鴉を肩に呼び戻し、仲間を見渡す。
「先に梯子を使って補給隧道へ運んでくれ。搬出口は封鎖されてる――最短で外へ出よう」
「了解」
剣が構え直され、封印符が霧を吸い、湿った紙が指に張り付く。
リーンの霧が白く揺れ、灯火をかき消した。
「……さっさと行きなさいよ。あたしの魔力、無駄にしたら許さないんだから」
レインは短く息を吐き、霧の奥の補給隧道へ視線を向ける。
「……カナデ」
その声は白い幻惑膜に溶け、倉庫の闇に凛と響いた。
潜入班は薄闇の中へ滑り込み、霧がかすかに千切れる。その向こうで、遠い鉄扉の軋みが静かに鳴った。
◇
砦塞都市の指令室近辺――霧と土埃が交じる廊下に、外の爆裂光弾の残響が鈍く響いた。
レインは補給隧道を抜け、冷たい石の壁に背を預ける。
肩の鴉が小さく鳴き、すぐ先の角を曲がった奥に二つの影が映った。
レインは息を潜め、陰の奥で耳を澄ませる。
「おいおい、えらく騒がしいな?」
「大方生き残りの騎士どもが砦を取り返しにきたとかそんなだろう? まあ奴らだけで何ができるって感じだが」
「違ぇねぇ」
獣人二人は、砦が奪還されつつあることも知らずに、油断しきった足取りで通路を進んでいた。その間、手首を鎖で繋がれたカナデは顔を伏せたまま、引かれるようにして歩かされている。
小さく震える肩。尻尾の先がかすかに揺れ、光を拾っては影に溶けた。
彼らが向かうのは先ほど解放したばかりの倉庫区画。このまま角を曲がれば、仲間たちの存在が気取られてしまう――レインは壁に背をつけたまま息を潜め、わずかに空気の流れを読む。
(今だ)
レインは壁を蹴って飛び出した。霧の残滓を纏った身体が低く弧を描き、足音を殺したまま獣人たちの背後へ滑り込む。
手綱を握る獣人の肩口を掴むと同時に、カナデの目が大きく見開かれた。
「カナデ!!」
「……ッ!? レイン!!」
振り返った獣人の首元へ、レインの肘が鋭く叩き込まれる。骨が鳴る鈍い音が霧に溶け、獣人の身体が後ろへ跳ね飛んだ。
もう一人が咄嗟に鉤爪を振り上げ、レインの脇腹を狙う。
「な、なんだこいつ!? 見張りは何をしていた!?」
「今はもう寝てるよ!!」
刃のような爪がレインの腕をかすめたが、その前に足首をすくう低い蹴りが獣人の体勢を崩した。
だが完全には倒れず、獣人の鉤爪が半身をひねってレインの胸元へ迫る。
「させないよ!!」
鎖を繋がれたままのカナデが、一瞬の隙を見逃さなかった。
鎖を引かれる勢いを利用して身を翻し、低い姿勢から蹴りを獣人の膝裏へ叩き込む。崩れた体勢に追い打ちをかけるように、レインの拳が顎を撃ち抜いた。
短い呻き声とともに、廊下には二人分の獣人が動かなくなった。
レインはカナデに駆け寄り、繋がれた鎖を握り込む。
腰元の小袋から取り出したのは、仲間が事前に用意した簡易の拘束解錠符だ。封印符を鎖の錠に貼り付けると、符の紋が微かに光り、金属のはめ込みが外れていく。
鍵がなくとも魔力障壁の薄い簡易錠ならば、レインの符術知識で十分だった。
「カナデ……大丈夫か……」
「レイン……レイン……!」
錠が外れた瞬間、カナデは泣き声を漏らしながらレインの胸に飛び込んだ。
小さな肩がびくびくと震え、尻尾が何度もレインの腰に絡みつく。
「怖かった……でも信じてたにゃ……ずっと……レインが来てくれるって……!」
喉の奥に引っかかる声が、胸元を熱く濡らした。
レインは片腕でカナデの背を支え、もう片手で外れた鎖を払い落としながら低く囁く。
「遅くなってすまない」
「……ううん! 大丈夫……信じてたから!!」
遠くで鉄扉が軋む音がした。
霧の残滓が二人の影をそっと覆い隠す。
「行こう……カナデ!」
「……うん……!」
レインはカナデの手を引き、カナデも手を握った。