勇者パーティーを追放されたビーストテイマーと魔法使い 作:海原凛
夜の冒険者ギルドは、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
夕方までかかって漆黒の牙――盗賊団に関わるさまざまな後始末を済ませたレインとリーンは、ギルドからの呼び出しを受け、カウンター前でナタリーの前に立っていた。
二人の後ろには、黙ったままのカナデが控えている。
受付嬢のナタリーは手元の書類を確認しながら、二人に柔らかな笑みを向けた。
「おめでとうございます、シュラウドさん、リーンさん」
突然の言葉に、レインは小さく目を瞬かせ、リーンも目を丸くした。
「おめでとう、って……どういうことだ?」
レインが問いかけると、リーンも不思議そうに首をかしげる。
ナタリーは微笑を深めて答えた。
「この度、お二人の冒険者ランクアップが正式に決定されました」
「え?」
レインが思わず間の抜けた声を漏らすと、リーンはふっと笑ってレインの肩を軽くつついた。
「よかったじゃん。あたしたち、頑張ったもんね」
「シュラウドさんとリーンさんは、FランクからEランクに昇格となります」
「そう、なのか?」
レインが問い返すと、ナタリーは笑顔で答える。
ナタリーの説明を聞きながら、後ろでカナデは黙ったまま、二人をじっと見守っている。
「ランクアップには、一定数の依頼をこなすことが条件です。ただ、お二人はまだ規定の数を満たしていません。しかし今回は特例が適用されました」
「特例?」
レインが首をかしげると、リーンが小さく頷いてナタリーに視線を向けた。
「漆黒の牙のこと、よね?」
「そうです。ご自分たちの功績をお忘れですか? 他の冒険者も手を焼いていた漆黒の牙を壊滅させたのは、お二人のおかげです。それに、魔物の群れが現れた際には、カナデさんと一緒に仲間を逃がすために立ち向かってくださったと伺っています」
「そ、それは……」
レインが視線を逸らすと、リーンはくすっと笑って、そっと袖を引いた。
「恥ずかしがらないの。もっと堂々としてなさい」
「当ギルドとしては、お二人の功績を正式に認め、規定を超えた形でランクアップを決定しました」
ナタリーが深く頭を下げると、リーンは小さく息を吐いて微笑んだ。
だが、ナタリーはすぐに顔を曇らせる。
「ただ、本来ならば謝罪をしなければなりません」
「どうして?」
レインが眉をひそめ、リーンも首をかしげた。
「漆黒の牙はCランクに相当する依頼です。それをお二人で達成されたので、本来ならCランク相当の実力があると判断されます」
リーンは小さくため息をついて、レインの顔をちらりと見た。
「だったらCランクにしてくれればいいのに……」
「『冒険者のランクアップは一段階ごとでなければならない』という規則があります。今回は例外として一段階分の昇格を認めましたが、それ以上は前例を作りすぎると問題になってしまうのです。本当に申し訳ありません」
レインがかぶりを振ると、リーンもナタリーに向かって優しく笑った。
「大丈夫。あたしも文句なんてないよ。あんたもそうでしょ?」
「まあ、な」
ナタリーはほっとしたように微笑んだ。
「そう言っていただけると助かります」
レインが小さく笑みを返すと、リーンも頬に手を当てて笑った。
その後ろで黙っていたカナデがゆっくりと腕をほどく。
じっとレインの手元を見つめ、低く抑えた声で口を開いた。
「じゃあ、詳しく話してくれるんだよね?」
真剣なカナデの視線に、レインとリーンは同時に振り返った。
問いかけの意味は言うまでもない――
彼女の手に浮かんだ、あの紋様のことを。
◇
場所を移し、三人は宿に移動する。表の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
木造のロビーには、小さな暖炉の灯りと壁にかけられたランプの明かりだけが、揺れる影を生んでいる。
レインとリーン、そしてカナデはロビー奥の小さなテーブルを囲んで座っていた。
昼間の戦いの疲れと、思いがけない出来事の余韻がまだ三人の体にまとわりついている。
レインは椅子に深く腰を下ろし、テーブルの上に両肘を置いた。
手に刻まれた紋様を、指先でそっとなぞりながら、小さく息を吐く。
「……カナデ」
レインが視線を向けると、カナデはぴくりと耳を動かした。
長い尻尾が、床の上で小さく揺れる。
「やっぱり……あれは俺が何かしたからってわけじゃないんだよな?」
カナデは、ゆっくりと目を伏せた。
「私がわかるなら……最初からこんなに困ってないんだよ」
彼女の声は、いつもの明るさとは違って低く沈んでいる。
卓上のランプの明かりが、カナデの鮮やかな緑の瞳を照らすと、そこに映った光はどこか不安げだった。
リーンは、そんな二人のやり取りを黙って見ていたが、ふと小さく溜め息をついて声を発した。
「普通ならあり得ないわよね……」
椅子の背もたれに体を預け、腕を組むと、リーンは自嘲気味に小さく笑った。
リーンは視線をレインに向けたが、睨むような鋭さはなかった。ただ、どこか自分を責めるように目を伏せた。
「……あたしも知らなかったんだ。あんたのことも、ビーストテイマーのことも、全然」
レインは小さく息を吐き、苦笑いを浮かべた。
「わかってるようで……わかってなかったんだと思う」
リーンも同じように椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「……俺さ、子供のころから両親に『少し人より優れてるだけだ』って言われてたんだ」
ぽつりと漏らした声に、リーンが眉をひそめた。
「少し、ね。……カナデみたいな上位種族を、何の儀式もなしにテイムできる“少し”なんて聞いたことないけど」
カナデは項垂れたまま、尻尾をぱたぱたと揺らすだけだった。
「……にゃ。私もさ……普通なら、そんな簡単に縛られたりしないんだよ」
低い声で、耳を伏せたカナデが言った。
「猫霊族の中でも、私はまだ若いけど……それでも契約の儀式もなしに“主従”なんて……聞いたことない」
リーンは腕を組み直し、テーブルを指先でとんとんと叩いた。
「……カナデ。あんた、本当にレインと契約した覚えはないのよね?」
「ないよ」
短く言い切るカナデの声には、はっきりとした苛立ちと不安が混じっていた。
「レインと一緒に洞窟で魔物と戦ったとき、確かに……私、レインに守られたのは間違いない。でも……」
そこで言葉を切り、カナデは顔を上げた。
「私が“従う”って、どこでも言ってない。……言った覚えなんか、ないにゃ」
耳の先が小さく震えている。
リーンは小さく肩をすくめると、レインに鋭い視線を向けた。
「……やっぱり、原因はあんたなんじゃないの?」
リーンはぽつりと呟くように言った。レインは目を伏せて自分の手に視線を向けながら、
「俺だって……自分から無理やり従わせたつもりなんかない。ただ……守りたいって思っただけで……」
リーンは小さく首を振った。
「その“守りたい”ってのが、ちょっと引っかかるのよね」
背もたれから体を起こし、リーンはレインをじっと見つめた。
「詳しいことは、あたしだってわからない。ただ……見てると、なんだか無理してるように見えるっていうか……。カナデが、あんたに引き寄せられすぎてる気がして……」
カナデは肩を震わせて、思わず声を上げた。
「そ、そんな……!」
レインも驚いたようにリーンを見つめる。
「ちょっと待て、リーン。俺はそんなつもり……!」
「わかってるわよ。だからこそ、余計に怖いの」
リーンは小さく息を吐き、テーブルに両手をついた。
「レイン。あんたの“守りたい”って気持ちは、誰よりもあたしが知ってる。でも……」
リーンは視線を落とし、長い睫毛の奥にかすかな不安を滲ませた。
「……その力が、本当に相手のためになってるかは、別の話かもしれないでしょ」
ロビーの奥で薪が弾け、小さな音を立てた。
静寂が戻ると、カナデは両手で耳を覆って、尻尾をぐるりと自分の足に巻き付けた。
「……解約、できないの?」
か細い声で呟くカナデに、レインは目を伏せる。
「試したんだ。紋様に魔力を流しても、何をしても……無理だった」
リーンは目を細めて小さくため息をついた。
「じゃあ、当面は……」
カナデは顔を上げ、唇を噛んだ。
「……私、レインと一緒にいるしか……ないんだね」
「そうなるな」
レインの言葉に、カナデはかすかに笑った。でもその笑みは、どこか無理をしているように見えた。
リーンは立ち上がり、カナデの頭を軽く撫でる。
「しょげてても仕方ないわよ。こうなった以上……調べるしかないでしょ」
「調べる……?」
「ビーストテイマーって職そのものを、よ」
リーンはレインに視線を向け、静かに言い切った。
「私たち……何も知らなさすぎた。今まで“便利な能力”だと思ってたけど、実際は全然わかってなかったじゃない」
レインは黙ってリーンの目を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。わかった。ちゃんと調べよう」
カナデも小さく耳を動かし、力なく笑った。
「にゃ……しょうがない、か……」
小さく灯ったランプの明かりが、三人の顔を柔らかく照らしていた。誰もが不安を抱えたまま、それでも同じテーブルを囲む。やらなければならないことははっきりしていた。
暖炉の薪がぱちりと音を立てるたびに、三人の沈黙が小さくほぐれた。
カナデは尻尾を膝の上に丸め、じっとランプの灯りを見つめている。
レインは無言のまま、自分の手首に残る紋様を指でなぞった。
どこからともなく木造の梁が軋む音がして、リーンは椅子の背にもたれながら、ゆっくりと声を落とした。
「……ねえ、レイン。ビーストテイマーについて、あんた本当に何も習ってこなかったの?」
問いかける声は、責めるというより諦め混じりだった。
レインは苦笑して、少しだけ視線を逸らす。
「俺はビーストテイマーの両親に教わっただけだったからな。たしかに他のビーストテイマーに比べてテイムできるってのは自覚あったけど、それも人よりすこし適正が高いからってことしか教わらなかったし……」
「そんなアバウトな……」
リーンは思わず呆れたように声を漏らし、カナデも苦笑した。
「……そりゃ何も知らないはずだにゃ」
ランプの灯りに揺れる瞳には、遠い日の村の景色が浮かんでいるようだった。
「……」
レインは何も言えず、指先でテーブルを叩いた。
カナデは小さく息を吐き、立ち上がるとレインの隣まで歩いてきた。
猫耳をぴくりと動かして、じっとレインを見下ろす。
「レインは、悪くないよ」
唐突な言葉に、リーンが眉を上げた。
「何よ、急に」
「多分……レインと一緒にいると楽しいって思った気持ちとか、とっさに助けてって思ったことも、原因だったかもしれない」
カナデは少しだけ自嘲気味に笑った。
「私が勝手に繋がっちゃったんだよね。気を許しすぎたのかもしれない、にゃ……」
「カナデ……」
レインが小さく息を漏らすと、カナデは指先でレインの頬をつついた。
「だからさ。そんなに落ち込まないで?」
耳の先だけが恥ずかしそうに震えていた。
リーンはそんな二人をじっと見つめ、肩を落とした。
「……まったく。お人好しと甘え上手の組み合わせって、本当に面倒ね」
「ひどいな」
レインが苦笑すると、リーンはテーブルに置いていたマグカップをぐるりと回す。
「でも……考えてみれば、勇者パーティーの頃だって似たようなものだったわ」
「似たようなもの?」
レインが首をかしげる。
リーンは、かすかに視線を伏せて呟いた。
「……あたしもさ。あんたと一緒にいると、不安が少しだけ消えた。どこかで、依存してたのかもしれない」
その横顔に、レインは何も言えず、ただ目を伏せた。
カナデがふっと微笑む。
「私も似たようなものだよ。だから……にゃ」
言いかけて、カナデは唇を引き結ぶ。
「……この契約、解約できなくても仕方ない。どうせ私、しばらくレインのそばにいるつもりだったし」
「……カナデ」
レインの声に、カナデはくすっと笑う。
「にゃ。どうせなら……ちゃんと知ろうよ、レインのこと。ビーストテイマーのことも」
リーンは小さく息を吐き、指を鳴らした。
「決まりね。明日はギルドに行って、文献も資料も片っ端から当たるわよ」
「ああ!」
レインがすぐに応じると、カナデも大きく頷いた。テーブルの上に三人の手が重なる。
ランプの灯りが、その手元を優しく照らしていた。
「……ありがとな」
レインが、少しだけ照れたように笑った。
リーンはわざとらしく鼻を鳴らす。
「感謝するのは全部終わってからにしなさい」
「にゃはは……」
カナデの尻尾が、くるりとレインの腕に絡んだ。
ロビーの奥では暖炉が静かに燃え続けている。
三人の影がゆらゆらと壁に映り、また重なった。
どこか不安は残ったままだ。
それでも――三人でなら、何とかできる気がした。
「……さて。明日に備えて、そろそろ寝ましょうか」
リーンが立ち上がり、軽く伸びをする。
「明日は一日がかりになるわよ」
「にゃ。私も……もう眠いかも」
カナデが小さくあくびをし、レインの袖をつまんだ。
「俺は……少しだけ、ロビーに残るよ」
「……ダメよ。あんた、一人で考え込む癖があるんだから」
リーンが手を伸ばして、レインの髪をくしゃりとかき乱す。
レインは小さく笑った。
「わかった。じゃあ一緒に戻ろう」
ロビーのランプが、小さく明滅した。夜の帳が、少しだけやわらかく降りてくる。
三人は立ち上がり、並んでロビーを後にした。
三人は並んで、宿の二階へと続く木の階段をゆっくりと上がっていった。
夜更けの廊下はしんと静まり返り、誰も通る気配はない。軋む床板の音だけが、三人の足音に重なる。
リーンが先頭を歩き、後ろからレインとカナデが続く。
カナデはレインの袖を小さくつまんだまま、何かを考え込むように小さく耳を動かしていた。
「……カナデ」
レインが小さく声をかけると、カナデはぱちりと瞬きをして顔を上げた。
「にゃ?」
「さっきは……その、ごめんな」
唐突な謝罪に、カナデは瞬間だけきょとんとした。
「何が?」
「……お前に、無理させてるみたいだから」
レインは、ぎこちなく笑ってみせた。
カナデはほんの一瞬だけ眉尻を下げ、それから不意に笑った。
「にゃは……バカだね、レインは」
「……?」
「私が気を許しすぎたのかもしれないって思ったんだから」
そう言って、カナデはレインの袖をぐいと引っ張り、そっと肩に額を預けた。
「だから……もう謝らないで。にゃ」
レインは、どう返していいかわからずに小さく息を吐いた。
その様子を振り返りざまに見ていたリーンが、わざと大きな声を上げる。
「ちょっと! 何いちゃついてんのよ!」
「い、いちゃついてないだろ!」
「にゃ……ちょっとだけ甘えたかっただけだもん」
カナデが小さく笑うと、リーンはじと目でレインを睨みつけた。
「……あんた、昔からそう。すぐに誰かを甘やかすから、こうなるのよ」
「俺は……」
「まあ、だからこそ助けられてるんだけどね」
リーンはふっと笑って、手を腰に当てた。
「いい? あんたの“守りたい”は誰かの救いだけど、時には枷にもなる。……それだけは忘れないで」
レインは小さく頷いた。
「わかってる。……つもりだ」
「つもりじゃなく、わかりなさい」
リーンは小さく鼻を鳴らすと、踵を返した。
廊下の突き当たりにある部屋の扉を開けると、三人はそれぞれの荷物を抱えたまま中へ入っていった。
本当は二部屋借りるつもりだったが、あいにく空きがなく、仕方なく四人部屋の一室に身を寄せる形になっていた。
室内には、かすかな蝋燭の香りと、寝台の清潔なシーツの匂いが漂っている。
リーンは自分のベッドに腰を下ろすと、振り返りもせずに言った。
「明日はギルドで資料を漁る。その後は図書館。場合によっては街で聞き込みね」
「うにゃ……朝から動くの?」
カナデがベッドの上で丸くなりながら、耳をぴくぴく動かす。
「当然でしょ。早く解決するに越したことないんだから」
レインは荷物袋を脇に置き、ふっと笑う。
「……そうだな。まずは、知るところからだ」
「にゃ。レインの秘密、全部暴いてやるにゃ!」
カナデがにやりと笑うと、そのままじゃれつくようにレインに抱きついた。
「おいおい……」
レインが苦笑して肩をすくめた瞬間、リーンが立ち上がり、呆れたようにため息をついた。
「ちょっと、あんた……どさくさに紛れて何甘えてんのよ!」
そう言うなり、リーンはカナデの襟首を掴むと、ぐいっとレインから引きはがした。
「にゃーっ!? ひどいにゃ!」
尻尾がびくりと跳ね、カナデは抗議するように耳を伏せた。
「……お前ら、元気だな……」
レインが思わず笑うと、リーンも肩の力を抜いて、小さく微笑んだ。
しばし、三人のささやかな笑い声が、薄暗い部屋にぽつぽつと響いた。
けれど、その笑い声の奥に隠れた不安が消えたわけではない。
明日から向き合うのは、もしかしたらレイン自身の“知らなくていい真実”かもしれない。
リーンはふと、ランプの火を見つめる。
心の奥に残る冷たい棘を指で撫でるように、言葉を胸の中で転がした。
――あたしは、あんたが何者でも構わない。
――でも、あたしを置いていかないで。
声にできない弱さを隠すように、リーンは小さく目を閉じた。
◇
漆黒の牙の拠点の一つ、山岳地帯に穿たれた巨大な洞窟の最奥部。
そこは夜の吐息を閉じ込めたように冷え切り、壁を覆う苔がじわりと湿った息を吐き出していた。
松明の炎だけがかすかに揺れ、その影が岩肌に長く伸びるたび、空気は獣の生臭さと血の匂いを混ぜて重く漂った。
洞窟の中央には、粗末な岩の玉座が一つだけ置かれている。
磨かれているのか、崩れかけているのか判別もつかない石の座面に、灰褐色の斑点模様を纏った巨大な影が無造作に腰を下ろしていた。
山猫の獣人の体躯は、しなやかでありながら筋肉の線を隠さない。
金緑色の双眸が焚き火をじっと見つめ、その視線の奥が笑っているのか、飢えているのか、部下には到底わかりはしなかった。
「……ニャァ……」
尾の先がゆらりと揺れ、玉座の足元に跪いた小柄な影の肩に触れる。
膝をつく男は《漆黒の牙》の一隅を任された下位の頭目だったが、今はその肩も背筋も震えが止まらない。
湿った空気の奥で、喉が唾を呑み込む音さえ殺していた。
「夜鳴きが足りんニャ。何を聞かせに来たニャ? 群れの声は……もっと甘く泣くはずニャ」
「も……申し訳ありません!バルガ様……」
獣人――バルガの声は囁きのように低く、冷たい洞窟の壁に当たって湿った音に変わる。
尾が滑り、男の顎を持ち上げた。
光に照らされ、バルガの頬に刻まれた三日月状の白い牙の文様が鈍く輝いた。
その刻印が獲物の心を砕き、甘い悲鳴を吸い上げるための器官だと、誰もが知っている。
「……森の……街道沿いの洞窟が……っ!」
喉から絞り出すような声が落ちた瞬間、洞窟の奥の獣たちが息を潜める気配を見せる。
焚き火の向こうの影には、裏切りを疑われた仲間を喰らう役目を与えられた牙の番犬が尻尾を揺らしていた。
「森ニャ……どの檻のことか、鳴いてみろニャ?」
尾の先が喉元から耳の裏へ撫で上げられ、甘い仕草に反して部下の背筋は氷のように冷たくなる。
「お前の檻は……鳴くか、裂くか、どっちが好きニャ……?」
「街道沿いの……物資の中継所に……!あそこが……何者かに……っ」
尻尾の圧が緩む。
首筋に血の気が戻り、男は冷たい汗を滲ませながら声を震わせた。
「全部……全滅です……!飼い魔物も……全部……!」
玉座の上で、バルガの爪がゆっくり石の肘掛けを叩く音がした。
黒く染まった爪が焚き火の赤に反射して、刃のように光る。
「ふん……百匹分の夜鳴きが……お流れニャ……。誰が割ったニャ……?」
低く絞られた声が、空気を刺すように鋭くなる。部下の首筋の毛穴が逆立つのがわかった。
「そ、それが……正体は……まだ……」
尾の先端が爪を立て、男の喉をわずかに裂いた。
血が一筋、襟元へと垂れていく。
「檻の外から牙を突かれたニャ……裏切りじゃないニャ……。誰かが群れを試したニャ……良いニャ……!」
バルガはゆっくりと玉座から立ち上がり、爪を岩に立ててずりっと滑らせた。
洞窟の奥で牙の番犬たちが低く唸り声をあげる。
だが彼は制止しなかった。
むしろ檻の奥で牙を磨く群れの匂いを嗅ぎ取り、口角を吊り上げる。
「牙を突かれたら、牙で裂き返すだけニャ……。夜鳴きを止めた檻の代わりに……他で鳴かせればいいニャ……」
「と言いますと、報復という、ことですか? しかし砦塞都市が……」
バルガの金緑色の瞳が細められた。
その奥には、遠くに灯る街の明かりが映っているかのようだった。
「……なら砦塞都市を落とすニャ。奴らは油断しきっているだけだニャ。どうせ魔族は襲ってこない。そんな慢心にほうけている匂いがプンプンするニャ。それが奴らの命取りニャ。夜鳴きを集めてやるニャ……」
尻尾が部下の頭を押さえつけ、鋭く爪が背に刻まれた。
血の雫がぽとりと落ちる。
「他の檻どもにも言えニャ……牙を磨けニャ。砦塞都市を裂きに行くニャ……。そしてその先の中央の街に侵攻するニャ!」
呻き声を漏らしながら崩れ落ちた部下に背を向け、バルガは焚き火の奥の獣たちを見やった。
その目は獲物の影を追い、舌の先で血の味を想像している。
「檻に牙を突く虫けらも……街の影も……全部、裂いて夜鳴きに変えるニャ……。獣は夜鳴きが好きニャ……腐った声でも……甘いニャ……」
洞窟の外では、山風が血の匂いを連れて唸りを上げた。
バルガの背中に刻まれた斑点模様が、焚き火の影で夜の獣影のように揺らめいていた。