勇者パーティーを追放されたビーストテイマーと魔法使い   作:海原凛

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第8話 奇襲

 

 

 

 ストライドブリッジを渡り切ってから、南大陸の街道を進む旅も、既に一日が過ぎていた。

 季節の移ろいを抱え込んだ濃い森と、湿った空気が荷馬車の帆布をしっとりと重くする。

 崖沿いに伸びる街道は、昨日までの陽光とは打って変わって霧雨に煙り、白い靄が馬の吐く息と溶け合っていた。

 

 ロイクは御者台の上で手綱を握り直し、時折、足元のぬかるみを確かめるように目を細めた。

 荷馬車の車輪は、ときおりぬかるみの土を巻き込み、くぐもった音を立てて軋んでいる。

 

「……これ以上、天気が崩れなければ良いのですがな」

 

 ロイクの呟きは、馬の背を叩く雨粒にかき消された。

 前方ではレインが外套のフードを深く被り、霧の向こうへ鋭く視線を走らせている。

 その傍らで、カナデが小さく鼻を鳴らし、濡れた耳をぴくりと動かした。

 

「雨、止まないかな……砦塞都市って、もうすぐなんだよね?」

 

 レインは小さく頷き、口元にわずかな笑みを浮かべた。

 

「ああ。あと一日もしないうちに着くはずだ。もう少し我慢してくれ」

 

 カナデの瞳がぱっと輝く。

 

「うん! 着いたらおいしいもの食べるんだぁ!」

 

 彼女の尻尾が濡れた荷台の上でふわりと揺れ、湿気を含んでしっとりと重そうに垂れた。

 

 リーンは荷台の縁に腰をかけ、紫の髪を帽子の下で指で抑えながら、じっと森の奥へ視線を投げている。

 時折、風に紛れて何かを探るように耳を澄ませていた。

 

「……食べ物の話はいいけど、油断はしないで」

 

 カナデは一瞬耳を伏せたが、すぐに小さく笑ってみせた。

 

「大丈夫だよ! いざという時は私が蹴散らすから!」

 

 カナデは鼻息をフンっと鳴らして拳を交互に前に出し、軽くファイティングポーズを取る。

 ロイクは御者台の端で肩を竦め、小さく咳払いをした。

 

「カナデ様、道は崖沿いでございます。どうか荷台の中央に……」

 

「はーい」

 

 素直に応じて荷台の麻袋の上に座り直したカナデは、膝に尻尾を巻き付け、少しだけ空を見上げた。

 霧雨に煙る雲は低く、山肌にまとわりつくように道を飲み込んでいる。

 折れた枝先には、ぬかるんだ土を踏みしめた靴跡がうっすらと残っている。

 単に馬車や歩行者が通ったにしては、荒れて乱れた形跡に近かった。

 

「……ロイクさん、この跡って」

 

 ロイクは目を細め、レインの言いたい事を察して険しい表情を見せた。

 帽子の庇を押さえ、周囲を見渡す。

 

「はい。ただ通ったにしては不自然でございます。おそらくこれは何か揉めた跡」

 

「魔物に襲われたか、或いは盗賊ってことだろうけど」

 

 リーンが視線を靴跡に落とし、唇をわずかに動かした。

 

「……ここを通った誰かがいる」

 

 ロイクは小さく唸り、手綱を握る指先に力を込めた。

 

「隠れるなら霧の中が都合がいい。カナデ、何か感じるか?」

 

 カナデは尻尾をぎゅっと抱き寄せ、小さく首を振った。

 

「……何か、匂いが混じってる。獣みたいな……でも遠い……」

 

「様子を伺ってるかもしれないわね。どうする?」

 

 レインは足跡を一瞥し、静かに短剣を構えた。

 確証はない。ただ状況だけが疑念を深める。

 レインはロイクに尋ねた。

 

「ロイクさん、どうします? 一旦戻りますか?」

 

「そうしたいのも山々ですが、この道では戻るにしても……容易ではございません」

 

 ロイクは御者台の上で長く息を吐いた。

 足元の馬は霧雨に濡れた蹄で小さく地を蹴り、落ち着かない鼻息を漏らしている。

 

「……できるだけ足場が崩れぬよう慎重に参りましょう。ここは……油断すれば谷底でございます」

 

「……わかりました」

 

 再び荷馬車が軋みを上げ、湿った崖路をゆっくりと進み出した。

 霧はますます深くなり、薄暗い森の影が時折、何かの形に見えては溶けていく。

 

 カナデは膝に巻いた尻尾をそっと撫で、小さく息をついた。

 砦塞都市の活気に胸を弾ませる気持ちは変わらない。

 

 だが――霧の奥に潜む獣の匂いが、微かな不安を心の奥に落としていた。

 

 霧は街道の先を白く覆い隠したまま、晴れる気配を見せなかった。

 荷馬車の軋む音と馬の蹄音が、湿った空気に溶け、遠くへと吸い込まれていく。

 

 ロイクは御者台の上で身じろぎをし、手綱を握る指に汗が滲むのを感じた。馬の耳が何度も後ろを向き、鼻を鳴らすたび、背筋を撫でる冷たい感触が増していく。

 

「……どこかで誰かが見ている」

 

 カナデが誰に向けるでもなく吐き出した言葉に、レインが静かに頷いた。

 霧の向こうで、湿った土の匂いに混じって獣臭がわずかに強くなる。リーンは荷台の縁に腰をかけたまま、視線を何度も崖下へ滑らせていた。

 

「上か下か、どちらからでも襲える。最悪の場所ね……」

 

 カナデは荷台の中央に小さくうずくまり、尻尾を膝に巻きつけたまま耳をそばだてた。レインが短剣を鞘からわずかに引き、鍔を鳴らす。

 思い過ごしは、ついに確信へと変わった。

 白い霧の中にぼんやりと人影が揺れ、すぐに形を失ってはまた現れる。

 

 ロイクが小さく声を潜めた。

 

「……街道の盗賊……にしては様子が……」

 

 霧の奥から、ザリ……と湿った音が響く。

 道脇の獣道に、ぼろ布の外套を纏った人影が一つ、じっと立っていた。

 

 頭から深くフードをかぶり、その顔は影に飲まれて見えない。

 気配は確かに人の形だが、どこか人のまとう空気とは異なる、獣のような歪さがそこにあった。

 

「……あれは?」

 

 ロイクが声を漏らすと同時に、霧の奥から似た影が二つ、三つとさらに現れた。

 レインは足を半歩引き、荷馬車の前に立つ。

 

「来いってか……」

 

 カナデは声を落とし、尻尾の先を小さく揺らした。

 リーンは短く舌打ちし、荷台の縁を蹴って立ち上がった。

 

「奇襲するわけでもなく堂々と待ってるなんて、盗賊にしては随分落ち着いてるようだけど」

 

 フードを被った人影たちは霧の中で何も言わないまま、ゆっくりと円を描くように荷馬車を取り囲んだ。

 ロイクの馬が不安げに嘶き、蹄でぬかるみを掻く。

 レインは荷台から飛び降り、前に出る。次いでリーンとカナデも降りて、馬車を囲うように展開する。

 

「……ロイクさん、下がってください。ここは俺たちが何とかします」

 

 レインの低い声に、ロイクは短く頷き、手綱を強く握り直す。

 雨は弱まる気配を見せず、霧は逆に深さを増していく。

 カナデは両耳を伏せて霧の向こうを睨んだ。

 

「……来る……何か、出てくる……!」

 

 霧の中のフード姿が一人、ふらりと中央へと歩み出た。

 足元を泥濘が濁し、その水音だけが不気味に響く。

 フードの奥で、鈍く光る二つの目がレインを捕えた。

 

「……道を譲るつもりはなさそうだな」

 

 レインが低く息を吐いた瞬間――

 その影のフードが霧に揺らめく風でふわりとめくれ上がった。

 

 暗いフードの下に隠されていたのは、人の顔ではなかった。

 くすんだ灰色の皮膚を裂くように生えた獣の毛、裂けた口元から覗く牙。

 

 獣人の姿がそこにあった。

 

「……やっぱり、獣人……!」

 

 リーンが息を呑み、指先に紫の魔力を帯びさせる。

 霧の奥で、ほかのフード姿も次々にフードを脱ぎ、毛並みを逆立てながら牙を剥いた。

 ぬかるんだ崖道に、低い唸り声と獣の咆哮が重なる。

 

 ロイクは御者台で唇を噛みしめ、手綱を抑え込んだ。

 

「皆様……お気をつけを……!」

 

 雨脚はいつの間にか強まり、霧と混ざってあたり一面を白く包む。

 獣人たちの影は、土と血の匂いを纏いながら、獣じみた四肢で泥濘を蹴った。

 

 次の瞬間――獣の咆哮が谷に響いた。

 

 霧に溶けた咆哮が崖沿いの道を震わせる。

 ぬかるみに踏み込んだ魔族たちの蹄にも似た脚音が、泥を蹴って一斉に迫ってきた。

 レインは腰の短剣を抜き放つと、前に躍り出た一体の獣人の懐に踏み込む。灰色の毛並みが雨に濡れ、裂けた口から獣臭い息が漏れた。

 

「っ……!」

 

 唸り声と同時に振り下ろされる鉤爪を、レインは身体を捻って避けた。短剣の刃が獣人の脇腹を浅く切り裂き、血混じりの獣毛が泥の中に散る。

 リーンが両の掌に紫の魔力を集め、息を整えた。

 

「……全方位で来る気ね……!」

 

 獣人たちは、獲物を追い詰めるように低く構え、足音を消して霧の中を跳ね回った。

崖道に生えた潅木がばきりと折れ、霧の奥から一体が飛びかかる。

 

「来なさい……!」

 

 リーンの掌から放たれた魔力の矢が獣人の胸元に突き刺さる。紫の光が雨を切り裂き、短い悲鳴と共に獣の影が崖下へと落ちていった。

 

 ロイクは御者台で手綱を抑え、落ち着かない馬を必死で宥めている。馬の耳は伏せられ、蹄がぬかるみを掻いて今にも暴れそうだった。

 そんなこともお構いなしに、獣人たちは馬車にも襲い掛かる。それをカナデは何とか防いで獣人たちを除けるが、数が減るわけではない。

 

「カナデ様!」

 

 ロイクの声に振り向いたカナデは、瞳をぎゅっと細めた。

 

「……大丈夫……守る……!」

 

 カナデは足元に忍び寄る獣人の気配を捉え、荷台の端へと飛び乗る。獣人の爪が木箱を割り、泥の中から牙を剥いた。

 

「……にゃっ……!」

 

 カナデはしなやかに身を翻すと、鋭い爪で獣人の顔を掻き裂く。血飛沫が雨に流れ、獣人は呻き声をあげて後退した。

 相手が殺す気で来ている以上、こちらも手加減はできない。

 霧と泥が混ざる道に、獣と人の匂いが充ちていく。

 レインは短剣を握る指に力を込め、荒く息を吐いた。

 

「リーン……!」

 

「分かってる!」

 

 リーンは魔力の弾を編み上げ、荷馬車の周囲を旋回する獣人たちへ放つ。

 雨粒を裂いて飛ぶ光が、霧の白に紫を滲ませた。

 

 だが、獣人たちは霧に紛れては姿を現し、獰猛に肉薄する。

 泥濘に足を取られたレインは、間合いを詰めてきた一体の肩口に刃を突き立てた。

 

「……おおおっ!」

 

 獣人の咆哮が崖道に響き、重量に押されたレインの足場が崩れる。土塊と水飛沫が霧に散り、崖沿いの道の縁がじわりと軋んだ。

 

「レイン!」

 

 カナデの叫び声に、リーンが足場を蹴ってレインの背に駆け寄る。

 だが、霧の奥から現れた魔族の一体が横からリーンに襲いかかり、泥水を跳ね上げた。

 

「邪魔ッ……!」

 

 リーンの魔力の弾が獣人の胸を撃ち抜くが、爪の一閃が外套を裂く。

 背をかすめる鋭い痛みに、リーンの呼吸が乱れた。

 レインは短剣を振り抜き、獣人を崖際に弾き飛ばした。獣人はそのままバランスを崩して崖から転落。

 しかしレインの足元のぬかるみが悲鳴を上げ、崖沿いの道の縁がごそりと崩れ落ちる。

 

「まずい……ッ!?」

 

「レイン!!」

 

 リーンの声が雨音を裂いた。

 レインの体が土塊と共に崖下へ傾ぐ。

 咄嗟にリーンは泥を蹴り、崩れかけの縁へ飛び込んだ。必死に伸ばした指が、レインの腕を掴んだ。

 リーンは崖道に張り出した潅木の根をもう片方の手で掴み、爪を立てて泥に食い込ませる。

 雨と土が滑る指を叩き、潅木の根がぎしりと鳴った。

 

「離せ……リーン……! 一緒に……落ちる……!」

 

「離すわけないでしょ!! あんたがいないと……あたしは……!!」

 

 声が震えた。体格でわかる通りリーンにレインを引き上げるほどの力はなく、持ちこたえる体力も無い。よってこのままでは直ぐに落ちてしまうのは明白だった。

 さらに霧の奥から獣人たちの咆哮が響く。彼らも黙って見ているわけではない。

 二人を支える潅木の根が、泥の重みでばきりと悲鳴を上げる。

 

「やだ……やだやだ!! お願い……レイン!! お願いだから……!!」

 

 リーンの目に涙が滲み、泥に混じって頬を伝った。腕を引き寄せようとした指が、泥でずるりと滑る。

 爪が割れ、血が泥に滲んだ。

 潅木の根がぱきりと折れる音が雨に混じった。

 

「……いやああああああっ!!」

 

 

 

 崩れた土の層と共に、二人の身体は白い霧の奥へと引きずり込まれた。

 

 

 

 

「レイン!! リーンッ!! 嫌あああああっ!!」

 

 カナデは落ちていく二人を見て叫びを上げる。目の前で仲間が落ちたのだ。

 尻尾が大きく逆立ち、喉の奥からかすれた声が漏れる。

 

「うそ……嘘だ……レイン……リーン……!」

 

 獣人たちを蹴散らし、崖の縁に這いつくばり、爪を割って泥を掻いた。

 白い霧の底からは何の気配も返ってこない。

 

「レイン!! リーン!! 返事して!! 聞こえてるの!? お願い……っ、返事して……!!」

 

 谷底へ落ちていった仲間に向かって、カナデのかすれた声が雨に滲む。

 

「返事してよ、お願いだから……!!」

 

 崖の縁に爪を立てた手が震え、何度も泥を掻き乱す。霧の奥からは何も返らない。

 

 背後では馬の悲鳴と、ロイクの叫び声も聞こえる。

 

 声は白い深淵に吸い込まれ、ただ獣人の低い唸りだけが近づいて来るのみだった。

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