勇者パーティーを追放されたビーストテイマーと魔法使い 作:海原凛
ストライドブリッジを渡り切ってから、南大陸の街道を進む旅も、既に一日が過ぎていた。
季節の移ろいを抱え込んだ濃い森と、湿った空気が荷馬車の帆布をしっとりと重くする。
崖沿いに伸びる街道は、昨日までの陽光とは打って変わって霧雨に煙り、白い靄が馬の吐く息と溶け合っていた。
ロイクは御者台の上で手綱を握り直し、時折、足元のぬかるみを確かめるように目を細めた。
荷馬車の車輪は、ときおりぬかるみの土を巻き込み、くぐもった音を立てて軋んでいる。
「……これ以上、天気が崩れなければ良いのですがな」
ロイクの呟きは、馬の背を叩く雨粒にかき消された。
前方ではレインが外套のフードを深く被り、霧の向こうへ鋭く視線を走らせている。
その傍らで、カナデが小さく鼻を鳴らし、濡れた耳をぴくりと動かした。
「雨、止まないかな……砦塞都市って、もうすぐなんだよね?」
レインは小さく頷き、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「ああ。あと一日もしないうちに着くはずだ。もう少し我慢してくれ」
カナデの瞳がぱっと輝く。
「うん! 着いたらおいしいもの食べるんだぁ!」
彼女の尻尾が濡れた荷台の上でふわりと揺れ、湿気を含んでしっとりと重そうに垂れた。
リーンは荷台の縁に腰をかけ、紫の髪を帽子の下で指で抑えながら、じっと森の奥へ視線を投げている。
時折、風に紛れて何かを探るように耳を澄ませていた。
「……食べ物の話はいいけど、油断はしないで」
カナデは一瞬耳を伏せたが、すぐに小さく笑ってみせた。
「大丈夫だよ! いざという時は私が蹴散らすから!」
カナデは鼻息をフンっと鳴らして拳を交互に前に出し、軽くファイティングポーズを取る。
ロイクは御者台の端で肩を竦め、小さく咳払いをした。
「カナデ様、道は崖沿いでございます。どうか荷台の中央に……」
「はーい」
素直に応じて荷台の麻袋の上に座り直したカナデは、膝に尻尾を巻き付け、少しだけ空を見上げた。
霧雨に煙る雲は低く、山肌にまとわりつくように道を飲み込んでいる。
折れた枝先には、ぬかるんだ土を踏みしめた靴跡がうっすらと残っている。
単に馬車や歩行者が通ったにしては、荒れて乱れた形跡に近かった。
「……ロイクさん、この跡って」
ロイクは目を細め、レインの言いたい事を察して険しい表情を見せた。
帽子の庇を押さえ、周囲を見渡す。
「はい。ただ通ったにしては不自然でございます。おそらくこれは何か揉めた跡」
「魔物に襲われたか、或いは盗賊ってことだろうけど」
リーンが視線を靴跡に落とし、唇をわずかに動かした。
「……ここを通った誰かがいる」
ロイクは小さく唸り、手綱を握る指先に力を込めた。
「隠れるなら霧の中が都合がいい。カナデ、何か感じるか?」
カナデは尻尾をぎゅっと抱き寄せ、小さく首を振った。
「……何か、匂いが混じってる。獣みたいな……でも遠い……」
「様子を伺ってるかもしれないわね。どうする?」
レインは足跡を一瞥し、静かに短剣を構えた。
確証はない。ただ状況だけが疑念を深める。
レインはロイクに尋ねた。
「ロイクさん、どうします? 一旦戻りますか?」
「そうしたいのも山々ですが、この道では戻るにしても……容易ではございません」
ロイクは御者台の上で長く息を吐いた。
足元の馬は霧雨に濡れた蹄で小さく地を蹴り、落ち着かない鼻息を漏らしている。
「……できるだけ足場が崩れぬよう慎重に参りましょう。ここは……油断すれば谷底でございます」
「……わかりました」
再び荷馬車が軋みを上げ、湿った崖路をゆっくりと進み出した。
霧はますます深くなり、薄暗い森の影が時折、何かの形に見えては溶けていく。
カナデは膝に巻いた尻尾をそっと撫で、小さく息をついた。
砦塞都市の活気に胸を弾ませる気持ちは変わらない。
だが――霧の奥に潜む獣の匂いが、微かな不安を心の奥に落としていた。
霧は街道の先を白く覆い隠したまま、晴れる気配を見せなかった。
荷馬車の軋む音と馬の蹄音が、湿った空気に溶け、遠くへと吸い込まれていく。
ロイクは御者台の上で身じろぎをし、手綱を握る指に汗が滲むのを感じた。馬の耳が何度も後ろを向き、鼻を鳴らすたび、背筋を撫でる冷たい感触が増していく。
「……どこかで誰かが見ている」
カナデが誰に向けるでもなく吐き出した言葉に、レインが静かに頷いた。
霧の向こうで、湿った土の匂いに混じって獣臭がわずかに強くなる。リーンは荷台の縁に腰をかけたまま、視線を何度も崖下へ滑らせていた。
「上か下か、どちらからでも襲える。最悪の場所ね……」
カナデは荷台の中央に小さくうずくまり、尻尾を膝に巻きつけたまま耳をそばだてた。レインが短剣を鞘からわずかに引き、鍔を鳴らす。
思い過ごしは、ついに確信へと変わった。
白い霧の中にぼんやりと人影が揺れ、すぐに形を失ってはまた現れる。
ロイクが小さく声を潜めた。
「……街道の盗賊……にしては様子が……」
霧の奥から、ザリ……と湿った音が響く。
道脇の獣道に、ぼろ布の外套を纏った人影が一つ、じっと立っていた。
頭から深くフードをかぶり、その顔は影に飲まれて見えない。
気配は確かに人の形だが、どこか人のまとう空気とは異なる、獣のような歪さがそこにあった。
「……あれは?」
ロイクが声を漏らすと同時に、霧の奥から似た影が二つ、三つとさらに現れた。
レインは足を半歩引き、荷馬車の前に立つ。
「来いってか……」
カナデは声を落とし、尻尾の先を小さく揺らした。
リーンは短く舌打ちし、荷台の縁を蹴って立ち上がった。
「奇襲するわけでもなく堂々と待ってるなんて、盗賊にしては随分落ち着いてるようだけど」
フードを被った人影たちは霧の中で何も言わないまま、ゆっくりと円を描くように荷馬車を取り囲んだ。
ロイクの馬が不安げに嘶き、蹄でぬかるみを掻く。
レインは荷台から飛び降り、前に出る。次いでリーンとカナデも降りて、馬車を囲うように展開する。
「……ロイクさん、下がってください。ここは俺たちが何とかします」
レインの低い声に、ロイクは短く頷き、手綱を強く握り直す。
雨は弱まる気配を見せず、霧は逆に深さを増していく。
カナデは両耳を伏せて霧の向こうを睨んだ。
「……来る……何か、出てくる……!」
霧の中のフード姿が一人、ふらりと中央へと歩み出た。
足元を泥濘が濁し、その水音だけが不気味に響く。
フードの奥で、鈍く光る二つの目がレインを捕えた。
「……道を譲るつもりはなさそうだな」
レインが低く息を吐いた瞬間――
その影のフードが霧に揺らめく風でふわりとめくれ上がった。
暗いフードの下に隠されていたのは、人の顔ではなかった。
くすんだ灰色の皮膚を裂くように生えた獣の毛、裂けた口元から覗く牙。
獣人の姿がそこにあった。
「……やっぱり、獣人……!」
リーンが息を呑み、指先に紫の魔力を帯びさせる。
霧の奥で、ほかのフード姿も次々にフードを脱ぎ、毛並みを逆立てながら牙を剥いた。
ぬかるんだ崖道に、低い唸り声と獣の咆哮が重なる。
ロイクは御者台で唇を噛みしめ、手綱を抑え込んだ。
「皆様……お気をつけを……!」
雨脚はいつの間にか強まり、霧と混ざってあたり一面を白く包む。
獣人たちの影は、土と血の匂いを纏いながら、獣じみた四肢で泥濘を蹴った。
次の瞬間――獣の咆哮が谷に響いた。
霧に溶けた咆哮が崖沿いの道を震わせる。
ぬかるみに踏み込んだ魔族たちの蹄にも似た脚音が、泥を蹴って一斉に迫ってきた。
レインは腰の短剣を抜き放つと、前に躍り出た一体の獣人の懐に踏み込む。灰色の毛並みが雨に濡れ、裂けた口から獣臭い息が漏れた。
「っ……!」
唸り声と同時に振り下ろされる鉤爪を、レインは身体を捻って避けた。短剣の刃が獣人の脇腹を浅く切り裂き、血混じりの獣毛が泥の中に散る。
リーンが両の掌に紫の魔力を集め、息を整えた。
「……全方位で来る気ね……!」
獣人たちは、獲物を追い詰めるように低く構え、足音を消して霧の中を跳ね回った。
崖道に生えた潅木がばきりと折れ、霧の奥から一体が飛びかかる。
「来なさい……!」
リーンの掌から放たれた魔力の矢が獣人の胸元に突き刺さる。紫の光が雨を切り裂き、短い悲鳴と共に獣の影が崖下へと落ちていった。
ロイクは御者台で手綱を抑え、落ち着かない馬を必死で宥めている。馬の耳は伏せられ、蹄がぬかるみを掻いて今にも暴れそうだった。
そんなこともお構いなしに、獣人たちは馬車にも襲い掛かる。それをカナデは何とか防いで獣人たちを除けるが、数が減るわけではない。
「カナデ様!」
ロイクの声に振り向いたカナデは、瞳をぎゅっと細めた。
「……大丈夫……守る……!」
カナデは足元に忍び寄る獣人の気配を捉え、荷台の端へと飛び乗る。獣人の爪が木箱を割り、泥の中から牙を剥いた。
「……にゃっ……!」
カナデはしなやかに身を翻すと、鋭い爪で獣人の顔を掻き裂く。血飛沫が雨に流れ、獣人は呻き声をあげて後退した。
相手が殺す気で来ている以上、こちらも手加減はできない。
霧と泥が混ざる道に、獣と人の匂いが充ちていく。
レインは短剣を握る指に力を込め、荒く息を吐いた。
「リーン……!」
「分かってる!」
リーンは魔力の弾を編み上げ、荷馬車の周囲を旋回する獣人たちへ放つ。
雨粒を裂いて飛ぶ光が、霧の白に紫を滲ませた。
だが、獣人たちは霧に紛れては姿を現し、獰猛に肉薄する。
泥濘に足を取られたレインは、間合いを詰めてきた一体の肩口に刃を突き立てた。
「……おおおっ!」
獣人の咆哮が崖道に響き、重量に押されたレインの足場が崩れる。土塊と水飛沫が霧に散り、崖沿いの道の縁がじわりと軋んだ。
「レイン!」
カナデの叫び声に、リーンが足場を蹴ってレインの背に駆け寄る。
だが、霧の奥から現れた魔族の一体が横からリーンに襲いかかり、泥水を跳ね上げた。
「邪魔ッ……!」
リーンの魔力の弾が獣人の胸を撃ち抜くが、爪の一閃が外套を裂く。
背をかすめる鋭い痛みに、リーンの呼吸が乱れた。
レインは短剣を振り抜き、獣人を崖際に弾き飛ばした。獣人はそのままバランスを崩して崖から転落。
しかしレインの足元のぬかるみが悲鳴を上げ、崖沿いの道の縁がごそりと崩れ落ちる。
「まずい……ッ!?」
「レイン!!」
リーンの声が雨音を裂いた。
レインの体が土塊と共に崖下へ傾ぐ。
咄嗟にリーンは泥を蹴り、崩れかけの縁へ飛び込んだ。必死に伸ばした指が、レインの腕を掴んだ。
リーンは崖道に張り出した潅木の根をもう片方の手で掴み、爪を立てて泥に食い込ませる。
雨と土が滑る指を叩き、潅木の根がぎしりと鳴った。
「離せ……リーン……! 一緒に……落ちる……!」
「離すわけないでしょ!! あんたがいないと……あたしは……!!」
声が震えた。体格でわかる通りリーンにレインを引き上げるほどの力はなく、持ちこたえる体力も無い。よってこのままでは直ぐに落ちてしまうのは明白だった。
さらに霧の奥から獣人たちの咆哮が響く。彼らも黙って見ているわけではない。
二人を支える潅木の根が、泥の重みでばきりと悲鳴を上げる。
「やだ……やだやだ!! お願い……レイン!! お願いだから……!!」
リーンの目に涙が滲み、泥に混じって頬を伝った。腕を引き寄せようとした指が、泥でずるりと滑る。
爪が割れ、血が泥に滲んだ。
潅木の根がぱきりと折れる音が雨に混じった。
「……いやああああああっ!!」
崩れた土の層と共に、二人の身体は白い霧の奥へと引きずり込まれた。
「レイン!! リーンッ!! 嫌あああああっ!!」
カナデは落ちていく二人を見て叫びを上げる。目の前で仲間が落ちたのだ。
尻尾が大きく逆立ち、喉の奥からかすれた声が漏れる。
「うそ……嘘だ……レイン……リーン……!」
獣人たちを蹴散らし、崖の縁に這いつくばり、爪を割って泥を掻いた。
白い霧の底からは何の気配も返ってこない。
「レイン!! リーン!! 返事して!! 聞こえてるの!? お願い……っ、返事して……!!」
谷底へ落ちていった仲間に向かって、カナデのかすれた声が雨に滲む。
「返事してよ、お願いだから……!!」
崖の縁に爪を立てた手が震え、何度も泥を掻き乱す。霧の奥からは何も返らない。
背後では馬の悲鳴と、ロイクの叫び声も聞こえる。
声は白い深淵に吸い込まれ、ただ獣人の低い唸りだけが近づいて来るのみだった。