ありふれた癌   作:Matto

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06:ベヒモス

 ベヒモス。

 体長が約十メートルにもなるそれは、オルクス大迷宮での観測史上最大の魔物であり、かつて迷宮に挑んだ古の勇者すら屠った最強の魔物でもあった。古の勇者は、その硬い外殻に攻撃を阻まれ、燃える角の一突きで絶命したという。

 そのベヒモスと、対峙している。すなわちこの場が、生徒たちの実力を遥かに超えた下層であることを意味していた。

 

 

(ベヒモス――確か六十五層? 拙いな、戻るのも一苦労だ)

 

 

 怪物との遭遇に憔悴する一行とは裏腹に、慧斗の思考は冴え渡っていた。ここを突破するのは勿論のこと、その上層に逃げるのも大変だ。安全確保に加え、脱出までの長時間移動にも慣れていない生徒たちでは、とても保たない。――皮算用は後だ。今はとにかく、目の前の魔物の群れを押し退けなければ始まらない。

 

 

「グルァァァァァアアアアア!!」

 

 

 そんな慧斗の思考さえ遮るように、ベヒモスの咆哮が轟いた。びりびりと石橋全体を揺るがすような咆哮が、生徒たちを委縮させる。

 だがそれが、逆にメルドの思考を取り戻させた。

 

 

「アラン! 生徒達を率いてトラウムソルジャーを突破しろ! カイル、イヴァン、ベイル! 全力で障壁を張れ! ヤツを食い止めるぞ!

 光輝、お前たちは早く階段へ向かえ!」

「待って下さい、メルドさん! 俺たちもやります! あの恐竜みたいなヤツが一番ヤバイでしょう! 俺たちも……!」

「馬鹿野郎! あれが本当にベヒモスなら、今のお前たちでは無理だ! ヤツは六十五階層の魔物、かつて“最強”と言わしめた冒険者をして歯が立たなかった化け物だ!

 さっさと行け! 俺はお前たちを死なせるわけにはいかないんだ!」

 

 

 混乱する生徒たち越しに始まる、天之河とメルドの押し問答。その猶予は与えられなかった。がりがりと地面を蹴ると、ベヒモスが勢いよく突進してきたのだ。

 

 

『全ての敵意と悪意を拒絶する、神の子らに絶対の守りを、ここは聖域なりて、神敵を通さず――“聖絶”!!』

 

 

 騎士たちの魔法が間に合ったのは、間違いなく僥倖と言っていいだろう。四小節の詠唱に三人がかりの同時行使。純白に輝く半球状の障壁が、ベヒモスの突進を塞いだ。

 インパクトの瞬間、石橋全体を轟かすような衝撃が走った。撤退中の生徒たちから悲鳴が上がり、転倒する者が相次ぐ。

 階段の前に現れたトラウムソルジャーは、三十八階層の魔物だ。今までとは一線を画す戦闘能力を持っている。前方に立ちはだかる不気味な骸骨と、後ろから迫る恐ろしい気配に、生徒たちは半狂乱に陥った。隊列など無視して、我先にと階段を目指してがむしゃらに進んでいく。騎士の一人アランが必死にパニックを抑えようとするが、耳を傾ける者はまるでいない。誰一人転落しなかったのは僥倖と言っていい。

 そのうち、一人の女子生徒が後ろから突き飛ばされ、盛大に転倒した。うっと呻きながら顔を上げると、眼前で一体のトラウムソルジャーが剣を振りかぶっていた。

 

 

「あ」

 

 

 そんな間抜けな一言が、断末魔になる――そう自覚するほどに、彼女の感覚は引き延ばされていった。ゆっくりと、しかし確かに振り下ろされる剣が、彼女の脳天を砕く――

 

 

「――ふんッ!!」

 

 

 それを黒鉄が塗り潰した。

 ごおと風を斬る重厚な刃が、トラウムソルジャーを横薙ぎに砕き、ついでに吹き飛ばした。その刃の主――慧斗はグレートソードを担ぎ直すと、生徒たちに振り返り、すうと息を吸った。

 

 

「お前ら障害物競走とかしたことないのか、このバカタレ共!」

 

 

 エリアを駆け巡るように木霊する慧斗の大喝が、生徒たちの意識を一瞬停止させ、冷静さを取り戻させた。

 その間にも、ベヒモスの衝突は続く。石造りの橋が悲鳴を上げる。障壁も既に全体に亀裂が走り、砕けるのは時間の問題だ。メルドも障壁の維持に加わっているが、効果が足りないのは明らかだった。

 

 

「ええい、くそ! もうもたんぞ! 光輝、早く撤退しろ! お前たちも早く行け!」

「嫌です! メルドさんたちを置いていくわけには行きません! 絶対、皆で生き残るんです!」

 

 

 未だ押し問答を続ける天之河は、むしろメルドに歩み寄るように引き返し始めている。まるで、自分の手でベヒモスを始末せんと言わんばかりだ。まさに今日初めて遭遇した敵であるにもかかわらず。

 

 

「光輝! 団長さんの言う通りにして撤退しましょう!」

「へっ、光輝の無茶は今に始まったことじゃねぇだろ? 付き合うぜ、光輝!」

「龍太郎……ありがとな」

 

 

 必死に天之河の腕を掴み、撤退させようとする八重樫。ところが、そんな天之河に坂上が同調した。頼れる仲間の応援を受けてやる気を増す天之河に、八重樫は分かりやすく舌打ちした。

 

 

「状況に酔ってんじゃないわよ! この馬鹿ども!」

「雫ちゃん……」

 

 

 いよいよ苛立つ八重樫の隣で、白崎はただおろおろとしているばかりだ。他の生徒たちも、どうすればいいか分からない様子だった。

 そのやり取りは、階段前でトラウムソルジャーを薙ぎ倒していた慧斗にも届いていた。

 

 

「――ああ、もう、しゃらくさい!」

 

 

 どいつもこいつも、まるで話にならない!

 最後に一度大きく薙ぎ払うと、その勢いで反転しつかつかと生徒たちへ歩み寄る。極力押し退けないようにすり抜けながら天之河の許へ到達すると、こちらに注意を払っていない彼に向けて、力いっぱい拳骨を振り下ろした。

 

 

「うぐっ!?」

「天之河! こいつら率いて、さっさとここを突破しろ! アランさん後お願いします!」

「待て! まだメルドさんが――」

「今そういう時間ねえから! 『皆で生き残る』んだろ!? だったらお前が道を切り拓け!」

 

 

 突然の拳骨に狼狽えながらも、咄嗟に掴みかかろうとするその手を振り払う。そのまま天之河の視線を誘導し、一度だけ階段側を振り向かせると、慧斗は助走をつけて飛び出した。その先は――騎士たちの障壁の先、ベヒモスの頭上。

 

 

「なっ!?」

「ほ、穂崎!」

 

 

 重武装をまるで感じさせない大跳躍は、しかしベヒモスの頭上で到達点を迎えた。足りない。もう少し、向こう側。

 

 

「“風波”!」

 

 

 ぼん、と衝撃波を飛ばし、慧斗は無理矢理自らを跳ね飛ばした。足りた。慧斗が着地したのは、未だ障壁に向けて突進するベヒモスの背後。

 

 

「慧斗! 何をしている!?」

 

 

 その暴挙に、障壁越しのメルドは叫んだ。めぎり、と障壁が軋んだ。慧斗は構わず鎖分銅を取り出すと、鞭のようにしならせ、ベヒモスの尻を叩いた。

 

 

「おいこら猪野郎! ケツ丸出しで何やってんだァ!?」

 

 

 鎖分銅の鞭打に気付いたのか、それとも慧斗の罵声に気付いたのか。ベヒモスは障壁への衝突を止め、ゆっくりと振り向いた。がりがりと石橋を削り、咆哮を上げながら突進する。

 

 

「だめ――」

 

 

 女子生徒の悲鳴が走った。何人かが目を瞑った。真上に大跳躍する慧斗と、ベヒモスの角がかち合い――

 

 

「“風波”!」

「……え?」

 

 

 ぼん、と生じた衝撃波が、慧斗を突き飛ばした。目標を見失ったベヒモスの角が、すかりと空を切る。

 突進の勢いを止められず、ごろごろと轟音を立てて石橋を滑っていったベヒモスを置き去りに、慧斗はすたんと石橋に着地した。

 誰もが目を疑った。誰もが唖然とした。あの怪物と真正面から対峙して、躱してみせた?

 

 

「――真っ正面から受け止めようとするから劣勢になるんだよ、バーカ!」

 

 

 つんのめってようやく止まったベヒモスに、慧斗は中指を立てて叫んだ。効果は特になかった。

 

 

「慧斗、戻れ! 危険だ!」

「寝言言ってる暇があったら退路作ってください!」

 

 

 悲鳴じみたメルドの命令を、慧斗は背を向けたまま拒否した。

 そろそろベヒモスがこちらに向き直る。騎士たちが撤退するには、次の突進までに距離を稼いでもらわないといけない。戸惑う天之河たちに見せつけるように、慧斗は無言で階段を指差した。――すなわち、「進め」と。

 メルドは思考を切り替えた。障壁に費やしていた魔力を解き、反転して生徒たちに向き直る。

 

 

「――行くぞ!」

「メルドさん!?」

「慧斗が時間を稼いでいる間に、トラウムソルジャーの群れを突破する。全員で掛かれ!」

「でも……穂崎が……!」

「あいつなら大丈夫だ! ――そう信じるしかない!」

 

 

 戸惑う相川の言葉を掻き消すように、メルドは鋭く号令を下した。自分に言い聞かせるような叫びだった。

 その間にも、ガチャガチャと乾いた音を立てながらトラウムソルジャーが迫ってくる。未だ戦意を取り戻せていない生徒たちに向かって、剣を振りかぶる――

 

 

「――“天翔閃”!」

 

 

 その骸骨たちを巻き込んで、白い眩光が迸った。幾体ものトラウムソルジャーを巻き込み、吹き飛ばしていく。

 

 

「皆! 諦めるな! 道は俺が切り開く!」

 

 

 勇者、天之河光輝。その威光は生徒たちを奮い立たせ、戦う気力を取り戻させる。

 

 

「お前たち! 今まで何をやってきた! 訓練を思い出せ! さっさと連携をとらんか、馬鹿者共が!」

 

 

 そこにメルドの叱咤が飛び、生徒たちは再び武器を手に立ち上がった。その脇を背後を守るように、騎士たちが追い付く。

 

 

「皆、続け! 出口を確保するぞ!」

 

 

 天之河の気迫に応えるように、その手の聖剣が煌々と輝いた。その光に励まされるように、生徒たちは叫び声を上げながら骸骨たちに突進していった。

 

 

 一方、ベヒモスと対峙している慧斗。相変わらず石橋を陣取る巨体の突進に対し、力いっぱいの跳躍で対処していた。

 

 

「“風波”!」

 

 

 空中で軌道を変えて吹き飛ばす衝撃波は、燃える角を掠らせもしない。巨体と重量ゆえに大幅な姿勢変更ができないベヒモスは、苛立つかのように本日何度目かの咆哮を上げた。

 ――要は、闘牛と同じ理屈だ。相手の注意を惹き、怒りを煽り、一気呵成に突っ込んだところを、ひらりと躱す。一歩間違えれば即死だが、もとより遥か上位の強敵だ。正面から受け止めることなどできない。

 着地ついでにその尻をぺしりと叩いてやれば、もうベヒモスは慧斗の事しか頭にない。背筋が凍る闘牛ごっこに、しかし慧斗は一抹の快感のようなものを見出していた。

 さあ、猪野郎がまた反転する。機を違えずにしっかり跳べ。一瞬でも間違えたら死ぬぞ。集中を切らすな。

 

 

 他方、トラウムソルジャーを突破した天之河たち。襲い来る恐ろしい戦士たちを力ずくで薙ぎ払い、一行はようやく階段周辺を確保した。

 

 

「よし、全員階段を上れ! アラン、カイル! 前方の安全を確保しろ!」

「ま――待ってくれ! まだ、穂崎が――」

「でも……穂崎は……」

 

 

 メルドの指示、相川の叫び、誰かの絶望が錯綜する。誰もが思わず石橋を振り返ると――

 

 

「――ちょっと退路まだァ!? そろそろ辛いんだけど!!」

「……え?」

「い、生きて……る……?」

 

 

 さすがに顔を真っ青にしている慧斗が、相変わらずベヒモスを相手に飛び跳ねていた。

 ここまで来ると胆力がすごいというか、いっそ生き汚いまである。異常なまでの生命力に戸惑う生徒たちに、メルドが素早く叫んだ。

 

 

「アラン、カイル、イヴァン、向こう側の安全確保! 前衛組、トラウムソルジャーを近寄らせるな! 後衛組、遠距離魔法準備! アイツの離脱に合わせて一斉攻撃を行い、あの化物を足止めしろ!」

 

 

 彼をここで失うわけにはいかない――その一念で、メルドは号令を下した。後衛組が、弾かれたように詠唱を始める。その様子を見て、慧斗はもう一度ベヒモスを挑発すると、奥へと続く通路に突っ込ませた。

 今だ走れ走れ走れ走れ。慧斗は脇目も振らず駆け出した。後方から死の気配が迫ってくる。怒り狂いながら慧斗を狙ってくる。その巨体に見合わぬ力強い疾走が慧斗を捉えようとしたその瞬間――

 階段側から、幾筋もの光が炸裂した。生徒たちの魔法斉射である。全力を込めた魔法の数々が慧斗の頭を掠め、次々にベヒモスにぶち当たった。

 

 

「グゥオオオオオ!?」

「ギャー!? 角度考えて撃てよ馬鹿共!!」

 

 

 ベヒモスの悲鳴に重なるように、慧斗は悲鳴と罵倒を上げながら疾走した。こんな低い射角で撃たれちゃまともに走れな――今炎魔法が頭掠った!

 ベヒモスの怒りは頂点に達した。自慢の突進を何度も弾かれ、こんな小物にいいように弄ばれ、挙句玉粒のような魔法で視界を妨害されている! 何たる羞恥! 何たる屈辱!

 

 

「グゥオアアアアア!!」

 

 

 ベヒモスが咆哮とともに前脚を地面に叩きつけた。全ての怒りを込めた一撃は橋を激しく振動させ、ベキベキと亀裂が走る。大地を割らんばかりの一撃に、石橋は一度だけ大きくたわみ――ベヒモスを中心として、崩壊を始めた。

 

 

「グウァアアア!?」

「マジかよくそったれ!!」

 

 

 悲鳴を上げながら、崩壊し傾く石橋を引っ掻くベヒモス。その重量を支える力を失った石橋は、ばきばきと崩れながらベヒモスとともに落下していった。

 これは堪らぬと飛び出したのは慧斗だ。どんどんと崩れていく足元を、八艘飛びよろしく駆けていく。間に合わない。最後に大きく跳躍し、辛うじて断崖に手を伸ばす――

 掴んだその断崖が、がらりと崩れ落ちた。

 

 

「えっ」

「えっ」

「えっ」

 

 

 誰もが、思考を停止させた。メルドも、生徒たちも、慧斗自身も。

 

 

「――ウソだろこんなのぉぉぉぉ!?」

 

 

 がらがらと瓦礫を零しながら、慧斗は落下していった。黒洞々たる、果てのない闇へと。

 

 

「ほ……穂崎……?」

「うそ、でしょ……」

 

 

 後には、呆然とする生徒たちが残されただけだった。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 

 

「メルド団長! 周囲の安全を確保してきました! ……メルド団長?」

 

 

 階層周辺の安全を確保し、報告に戻ってきた騎士イヴァンは、異常な沈黙に違和感を覚えた。同様に戻ってきた騎士アランと騎士カイルも、呆然と階段下を見下ろすメルドたちを不審げに見やる。

 

 

「穂崎! 穂崎ぃぃー!」

 

 

 相川は身を乗り出して叫んだ。漆黒の闇に木霊するばかりで、応答はなかった。

 

 

「ど……どうします……!?」

 

 

 今にも落ちそうな相川を押し止めながら、戸惑う騎士ベイルはメルドの指示を仰いだ。まだ周辺小範囲の安全を確認しただけだ、無事には程遠い。天之河や坂上、八重樫も、どうすればいいか分からない様子だった。

 メルドは決心した。

 

 

「――全員、撤退するぞ!」

「待って下さい、穂崎がまだ!」

 

 

 なおも食い下がる相川のみぞおちに、メルドの拳が突き刺さった。

 

 

「うっ……」

「相川! メルドさん――」

 

 

 肺から空気を押し出す衝撃に、相川の意識が飛ぶ。そのまま担ぎ上げたメルドに、仲間を傷付けられた天之河が掴みかかろうとし――八重樫に無言で止められた。

 

 

「すいません。ありがとうございます」

「礼など……止めてくれ。全力で迷宮を離脱する。もう一人も死なせるわけにはいかない」

 

 

 八重樫の礼に対し、メルドは沈痛な面持ちのまま、踵を返して歩き出した。口を挟めず憤然とする天之河に向かって、八重樫がきっぱりと告げる。

 

 

「……ほら、あんたが道を切り拓くのよ。全員が脱出するまで。穂崎君も言っていたでしょう?」

 

 

 その言葉は、天之河の心胆に深く突き刺さった。天之河は思わず、生徒たちを見た。誰もが茫然自失といった表情で、崩れた石橋を眺めるばかりだった。座り込んで泣き出す生徒もいた。

 そうだ。みんなのために、道を切り拓かなくてはならない。それができるのは、自分だ。託されたのは、自分だ。

 

 

「皆! 今は、生き残ることだけ考えるんだ! 撤退するぞ!」

 

 

 天之河は己を鼓舞し、生徒たちに向かって声を張り上げた。

 その言葉で現実に引き戻されたかのように、生徒たちはのろのろと立ち上がった。トラウムソルジャーの魔法陣はまだ健在で、続々とその数を増やしている。これ以上戦うことはできない。

 

 

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