ありふれた癌 作:Matto
ふと目を醒ました。
まだ仄明るい部屋に、チチチと鳥の声が聞こえてくる。慧斗はゆっくりと起き上がった。
時刻は午前五時半。登校にはまだまだ早いが、日課の走り込みがある。Tシャツとジャージに着替え、彼はゆったりとした心地で家を出た。
そのまま、街を一周する勢いで走り込む。最初は軽く、身体が暖まったら全力、あとは気を抜いてゆっくりと。朝のひやりとした心地は、慧斗の心身に爽やかな清涼感を与えた。
そうして、家に戻ってくる。時刻は六時半。シャワーを浴びる前に台所に寄ると、そこには案の定ユエがいた。ご丁寧に、エプロンと三角巾を着けた姿で弁当を拵えている。
「おはよう、ケイト」
「おはよう。――だから、俺の弁当作るなって。じいちゃんからどやされるだろ」
「ん。私のついで」
「はいはい、もういいよ」
たおやかで、しかし決して譲らない一言。いつも通りの彼女に、慧斗は両手を上げて降参するしかなかった。
そのまま朝のシャワーを浴び、案の定祖父から「ユエちゃんに甘えるな」と怒られ、心地よい疲労感を覚えながら、学校への道のりをユエと一緒に歩く。校門を通り抜けたその時、慧斗のもとに人影が駆け寄ってきた。
「ケイトさ~――うぎゃー!?」
背後に飛び掛かろうとするその手を取り、身をしならせて投げ飛ばす。不意討ちもへったくれもない飛びつきを投げ飛ばされた人影は、そのまま地面に墜落し、潰れたカエルのような声を上げた。
「ん。おはよう、シア」
「お、おはようございますぅ……」
その仕手といえば――やっぱりシアだ。艶のある兎耳を、地面の砂粒で汚している。ユエの他人事のような挨拶に、律義に返している。慧斗は呆れてしまった。
「後ろから襲うなっていつも言ってんだろ。反射で投げ飛ばすんだって」
「そんなぁ~、私から朝の幸せを奪おうなんて、酷いですよぉ! これはもう責任をとって結婚してもらわないと!」
「どんな飛躍だ!」
毎朝毎朝これを仕掛けてくるのだから、頑丈というか何というか。ぎゃいぎゃいと喚き散らす二人のもとに、長身のスーツ姿が歩み寄ってきた。
「おやおや、毎日楽しそうじゃのぅ」
「分かってんなら先生も止めて?」
魅惑の肢体をスーツに閉じ込め、朝から騒がしい姿を愉快そうに見やるティオ先生。そろそろ他人の仲裁が介入するべき事態だと思っているのは、どうやら慧斗ひとりらしい。
そうして賑やかな足取りで、2-Bの教室に入る。窓際の席に、涼しげな金髪の同級生が待っていた。慧斗の姿を捉えてぱぁっと明るくなるその笑顔を見た瞬間、
「おはようございます。慧斗さん」
「おはよう、リリィ」
(――ん?)
ずきり、と。
慧斗の胸に、僅かなひらめきが走った。
されど、その違和感は一瞬。
まさに瞬きよりも早く、慧斗は朝の喧騒に呑まれた。やがて始業の電子ベルが校内に響き渡り、ぱたぱたと教室に駆け込んでくる小さな影があった。
「はいはい、早く席について! 授業を始めますよ~!」
予定された科目割に従って畑山が教壇に立ち、生徒たちはがやがやと着席した。教室後方の席に座る慧斗には、規則正しく座る生徒たちの姿がよく見えた。その席は、誰一人欠けていない。相変わらず清水が挙動不審だったり、檜山が悪ぶってみせたり、南雲が早速居眠りを開始していたり。
(あれ?)
慧斗の胸に、疼痛のような違和感が走った。
そのまま、授業が続いた。
途中、教師の講談に目を輝かせたり、参考書の難解な問題と格闘したり、つい気を抜いて舟を漕いだり――そうして、昼休み。がやがやと喧騒が大きくなる教室を横切り、リリィが弁当箱を携えて歩み寄ってきた。
「――慧斗さん。一緒にご飯食べましょう」
「わざわざ言うこっちゃないでしょ。俺らの仲なんだし」
にっこりと柔らかな笑顔をほころばせるリリィに、慧斗も思わず口角が上がったのを、誰かが見咎めたか、どうか。
慧斗とリリィ、そしてユエとシアの四人は、がたがたと机を動かして弁当箱を囲んだ。慧斗とユエの弁当の出来に残る二人が圧倒され、ユエが得意げな顔をしていたり、シアの弁当が青物野菜いっぱいなのを慧斗が指摘すると、「ダイエット中なんですぅ!」と怒られたり、何故か教員であるはずのティオ先生まで混ざっていたりして
シアが慧斗に向かって箸を突き出しあーんさせようとしたり、それを見咎めたユエと箸をぶつけあう格闘を始めたり、不行儀を窘めつつリリィがちゃっかり抜け駆けを試みたり
「――そんなわけないだろ!!」
その瞬間、世界が凍り付いた。
まるで時が止まったかのように、生徒たちは音もなく硬直した。シアもリリィもティオ先生も凍り付いた。無と静寂が支配する世界で、慧斗はぎりぎりと拳を握り立ち竦んでいた。
その姿に違和感を抱いたユエが、心底不思議そうに問いかけた。
「どうしたの、ケイト」
「お前がどうしたのだよちくしょう! いいや俺自身だった!」
「何があったの? 変だよ、ケイト」
「ああそうだな変だらけだ!」
まるでカマトトぶっているユエの言葉に、慧斗は箸を圧し折りだんと拳を叩きつけた。その箸すら中空でぴたりと止まり、虚像の中で凍り付いた。
「こんな穏やかな日常があるはずがない!
虚像の理想は剥がれ落ちた。ここにあるのは、決してあり得ない夢想の楽園。薄皮一枚で表面を誤魔化しただけの、都合のいい妄想。
「俺は清水を見殺しにした! 檜山や南雲を死なせた! そして谷口の目の前で、中村を殺そうとしてる!
――それだけじゃない、何人も何人も殺した! 戦争だの、歴史だの、生き残るためだの、下らない言い訳で自分を誤魔化して!!」
胸を掻き毟る疼痛は止まらない。
当然だ、慧斗の意志ではないのだから。清水の遺志であって檜山の遺志であって南雲の遺志であって無数の魔物たちの遺志であって無数の兵士たちの遺志であって、すでに
「ここにいていいんだよ。ここにいれば、ケイトはずっと幸せ」
奥歯を噛み締める慧斗に、ユエがやさしく語りかけた。
それに縋ることができるのなら、どんなに幸福だろうか。彼女でさえ、慧斗の魂の内側は癒せない。すでに亡者たちが巣食っているが故に。
「これはあなたの理想。これはあなたの夢想。あなたが本当に求めているのは、ここにある」
「許されないから、理想なんだ」
だんだんと虚飾が剥がれていくユエに対し、慧斗は真正面から言い切った。
「戻れるはずがないんだ。戻っていいはずがないんだ。俺のこれからの人生は、贖罪の中にしかない――
甘い理想は、いつか朽ちて枯れ落ちる。甘い腐敗に微睡むことは、決して許されない。苦痛の中を生きて、突き進んで、最期まで醜く足掻くしかない。
「それでも、前に進むの?」
「進むしかない。冷たい泥濘の中だろうと、底のない沼に溺れようと、そこにしか俺の道はない」
いつの間にか、慧斗の姿は白い制服から黒い旅装に変わっていた。敵を殺し、敵を殺し、敵を殺し、血と泥の中を突き進むだけの、死装束。この異世界トータスで生まれて死ぬ、その道筋を証すように、慧斗は汚れたグレートソードを握りしめた。
その姿を見届けたユエは、硬い笑みを浮かべ――次の瞬間、跡形もなく溶けた。
『
知らぬ女の声が、慧斗の耳に突き刺さった。
ユエだけではない。シアも、リリィも、ティオ先生も、生徒たちも次々に溶けていく。どろどろに溶解していく灰色の景色の中で、慧斗はただ一人、否定を突き付けられた。
『甘く優しいだけのものに価値はない。与えられるだけでは意味がない。辛くとも苦しくとも、現実で積み重ね紡いだものが幸せをもたらすのです。
――
未来の展望すら許されない――これも慧斗に課せられた、劫罰の一つだろうか。我欲のために他者の未来を奪った、その報いだろうか。
「――上等だ。それでも、進まなきゃいけない道がある以上は」
慧斗は決然と言い放った。
戻ることは許されない。立ち止まることすら許されない。ただ歩み続け、
その先に、絶望しかないとしても。
『それでもいいなら、進んでみなさい。――人の未来が、自由な意思のもとにあらんことを、切に願う』
どろどろに溶けていく慧斗の視界を、眩い光が斬り裂いた。
◇ ◇ ◇
光が晴れた先にあったのは、黄橙色の世界だった。
ごふ、と肺から苦しみが込み上げる。慧斗は咄嗟にグレートソードを振り回した。どろりと粘着く感触を返しながら、黄橙色が斬り裂かれ、慧斗は前方に身を投げ出された。
急激な空気の流入に、慧斗はげっほげっほと咳込んだ。慧斗を包んでいた黄橙色の液体は、やがて魔力を放散しながら消失していった。
呼吸を整えると、慧斗はグレートソードを支えに立ち上がった。周囲を見渡せば、樹壁に埋まった黄橙色の塊が五つ。それぞれに、ユエが、シアが、ティオが、天之河が、谷口が閉じ込められ、呼吸ひとつせずに眠り続けている。染み出した瞬間を固形化されたような、まるで琥珀そのものだ。
(さながら琥珀牢ってか。これも、迷宮の罠の内なのかな)
魔法で灯りを照らしてみたが、出入口はない。挑戦者全員が脱出するまで通さないつもりだろうか。
さてどうしようか、と慧斗は悩んだ。先ほどまで見せられていた幻が迷宮の試練の内なら、自力で振り解けば脱出できるのだろう。だが甘く柔らかな誘惑に、ヒトは容易く打ち勝つことができない。かと言って外部からの干渉が可能だとすると、試練としては片手落ちのような気がする。
しばらく迷っていると、黄橙色の琥珀牢の一つが溶解し、ずるりと中身が出てきた。そこにいたのは、黄橙色の液体に塗れたユエ。
「ユエ!」
「……ケイト……?」
慧斗はすぐさま駆け寄り、ユエを助け起こした。その瞳は、寝起きのようにぼんやりと揺らいでいる。まあ寝起きと同じだよな、と慧斗は思い直した。
ユエは焦点の合わない瞳のまま、ぼんやりと慧斗を見つめた。
「……ほんものの、ケイト……?」
「さて、どう思う? お前が偽物だと思うんなら、偽物だろうさ。――偽物扱いされるのも、ちょっと辛いけどな」
直前まで見せられていた幻を引き摺っているのだろう。慧斗の意地悪な返しに、ユエはしばらく無言で見つめると、やがて慧斗をぎゅっと抱き締めた。
三百年を無明の闇に閉じ込められてきた彼女には、少し酷な言い方だったかもしれない。静かに抱き締め返していると、視界の隅でもう一つ、琥珀牢がどろりと溶け出した。今度はシアだ。
「シア、無事か」
「……ケイトさん……? ケイトさんだぁ~!」
「わっぷ!」
シアに駆け寄り助け起こすと、彼女も同じように焦点の合わない瞳で慧斗を見つめ――はっと気づいた瞬間、歓喜とともに慧斗に飛びついた。急な飛び掛かりに、彼は思わず尻餅をついた。
「ちょ、近い! 離れろっての!」
「ふふ、この照れ方は本物のケイトさんですねぇ~! 良かったぁ~!」
「どこで判断してんだこのバカウサギ!!」
「あだっ!」
愛おしそうに撫でまわすシアの手や、柔らかな双丘の感触を堪能している場合ではない。すこーんと顎をかち上げられたシアは、しかしえへへとだらしない笑顔を浮かべていた。
この分だと、ユエやシアも似たような幻を見せられていたのは間違いなさそうだ。
「どうも、『苦しみのない理想の世界』を見せる罠だったらしいな」
「なるほどぉ、それで……」
慧斗の推測に、気を取り直したシアは、しかしどこか不愉快そうな表情を浮かべた。
「なんか、あったのか」
「夢の中では、家族が追われる前にケイトさんたちと出会って、一緒に暮らしていることになってました。私はただ、守られているだけで良かった。
でも、そうじゃない。そんな愛でられるだけの生き方は嫌だって、心の奥が叫ぶんです。『守ってあげる』『心配しないで』って抱き締めてくれて……確かに甘やかで優しくて、心地よかったけど……でも、そう言われれば言われるほど違和感は広がって……気が付けば、戦うことを選択してました。皆さんの隣で」
「……そっか」
シアの言葉に、慧斗はかける言葉が見つけられなかった。
それは果たして、幸福と言えるだろうか。間違っていると言えるだろうか。彼女の――ハウリア氏族の人生を狂わせてしまった慧斗には、よく分からない。今はただ、彼女の決断を受け入れるしかない。
慧斗は目を背けるように視線を巡らせた。あと三人――出てくるのを待つべきか、どうか。三人で悩んでいると、琥珀牢の一つに、ぴしりと亀裂が入った。
「ぬがぁー! ご主人様の折檻はそんなに生温くないわァーー! 一から出直して来るんじゃな!」
絶叫とともに、琥珀牢が内側から破壊された。溶解も不完全な黄橙色をかち割りながら飛び出してくるのは、ティオ。
「…………」
「…………」
「…………」
慧斗たちは沈黙した。……大体の流れからして、彼らはティオが見せられていた幻の内容を察してしまった。脳がその受容を拒んでいた。
そんな姿は露知らず、とばかりにティオが起き上がり、素早く慧斗を見つけてにじり寄ってきた。
「ご主人様よぉ~、ただいま戻ったのじゃ~! 愛でておくれ~!」
「死ね!!」
「あふんっ!」
這いずりながら甘い声で縋り寄ってくるティオの頬めがけて、グレートソードの横っ腹が力いっぱい振り抜かれた。並の大岩なら容易く粉砕する一撃を浴びて、長身美女が吹き飛んでいく。
「おほぉ、これよこれ! 起き抜けに容赦ない引っ叩き! ゴミを見るような眼差し! 偽物のような甘さなど一切ない、この絶妙な痛み! これぞ我が生涯の主様なのじゃ! もっとぉ! もっとぉなのじゃ~」
「俺の唯一の慈悲を取り上げたいのか!?」
「あれ普通の人は死ぬと思うんですぅ……」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ二人の背後に、辛うじてシアのツッコミが届いたか、どうか。ユエはもう思考を放棄していた。
ともあれ、脱出に成功したのはよいことだろう。あと残るは、天之河と谷口。
「あの二人はどうする?」
ユエが二人の琥珀牢を指差して問うた。こちらはユエやシアのように溶解する様子がなく、ティオのようにかち割られる様子もなく、昏々と眠り続けている。
「……まあ、時間かかるだろうし……ついでに休むか」
そういうことになった。
◇ ◇ ◇
寝床の用意をし、食事の準備も一通り済んだ頃。
「それで……ティオさんはだいたい想像できるとして、お二人はどんな夢を見てたんです?」
「ぬふふ、褒めんでおくれ」
「褒めてません」
ねっとりと厭らしい笑みを浮かべるティオを躱しつつ、シアが口を開いた。
こういうところが余計腹立つ、と慧斗は思った。自分の
それはそれとして。先に口を開いたのは、意外にもユエだった。
「みんなで、旅をしてた」
「旅?」
「ん。わたしと、ケイトと、シアと、ティオで。使命に囚われず、いろんな町を歩き回って、いろんな風景を見て――とっても、楽しかった」
そう語るユエの横顔は、どこか名残惜しそうだった。王権という名の責務に囚われ、身内に裏切られ、その果てに幽囚の身になった彼女。自由を求めることは、決して悪とは言えない。
「よかった――って、言っていいのかな、そりゃ」
「
「――――」
すぐさま付け足された言葉は、慧斗の胸を鋭く射抜いた。
「でも、そのためにやらなきゃいけないことがある。
それに果たした先には――ケイトやリリィと別れないといけないかも知れない。そう思い出したら、目が覚めた」
それきり、ユエは口を閉ざした。夢は、所詮夢。果たされなくても、仕方ない――そんな諦観が滲んでいるようだった。
それを聞き届けたシアは、次に慧斗に水を向けた。
「ケイトさんは、どんな夢を見てたんですか?」
「――地球に帰った、夢を見ていた」
逃げ場がない。慧斗は、ぽつりと語り始めた。
「でも、お前たちがいたよ。うちの学校の制服着て、同じクラスに通ってた。あ、ティオは先生やってたみたいだな。
で、リリアーナ様も何故かいて、そんで、いつも通り授業が始まって――誰も、欠けてなくて……」
その記憶を辿るほどに、鮮明に思い出すほどに、慧斗はぎゅっと胸を締め付けられた。
望んではいけない。願ってはいけない。分かっているのだ、誰よりも。
「そんなわけねえだろって否定したら、
「……え……?」
俯いた慧斗の言葉に、シアは思わず二の句が継げなかった。
失格――? いの一番に脱出した、強い心の持ち主なのに――?
「そんな未来があっていいはずがない。そんな幸福があっていいはずがない。
何人も殺した。何人も死なせた。そしこれから、何人も殺す――そんな俺が、幸福な人生を求めちゃいけない。そう言ったら、『失格』って言われた」
「そんな……!?」
「『理想を求めない者に、未来を語る資格はない』とさ」
愕然とする三人の表情を見ないまま、慧斗は無感情に言い捨てた。仕方ない、という諦観すらなかった。
……本当にそうだろうか? ぐっと唇を噛み、俯いたまま何かを堪える当の本人が、何の感情も抱かずにいられるだろうか?
「――でもさ……
果たして、その後悔は決壊した。
――望んではいけない。願ってはいけない。分かっていても、止められない。
「……ご主人様……」
「……ケイト……」
その姿に、三人はどんな言葉を掛ければいいか分からなかった。
誰よりも悔いている。誰よりも悼んでいる。だが誰よりも、罪を重ねている。それしか知らない幼子のように。
「ユエとのんびりやってるのも楽しい。シアと騒いでるのも楽しい。ティオと馬鹿やってるのも楽しい。リリアーナ様と穏やかに過ごしてるのも楽しい。
欲しくてやまない。求めてやまない。願っちゃいけないって分かってるのに、その想いがずっと燻ってる。
――……俺って、我儘だったんだな……」
慧斗は拳を握りしめ、必死に後悔を押し止めながら、しかしその渇望を零していった。焼き切れた涙腺だけが、最後の誠意であるかのように、感情を堰き止めていた。
先に堪え切れなくなったのは、シアだった。
「……いいんじゃないですか?」
「……え……」
「求めて、いいんじゃないですか?」
シアの言葉に、慧斗は呆然と顔を上げた。その顔は、彼女たちが初めて見る、年相応のそれだった。
「ケイトさん、言ってたじゃないですか。『生きることは戦うことだ』って。でも、生きることって、戦うことって、それだけじゃないと思うんです。願いを果たすために戦うことも、アリなんじゃないですか?
少なくとも、私は欲しいです。ケイトさんと、皆さんと一緒に生きていく未来が」
ぽかんと見つめる慧斗に対し、シアは真正面から言い放った。
「ん。私も」
「無論、妾もじゃ」
「リリィだって、きっと願ってますよ」
ユエとティオの同意を受けて、シアが言葉を重ねる。
――あなたの罪も、あなたの後悔も、
理屈も何もない、ただの願望。だがそれが、慧斗の心に一筋の光を与えた。
「――……いい、のかな。そんな我儘が、許されるのかな」
「そのための旅だと思えば、いいんじゃないですか?」
乞い縋るかのような慧斗の言葉を、シアはきっぱりと肯定した。
共に欲しいと願っている。ヒトが寄り添う理由なんて、それだけでいい。
◇ ◇ ◇
その後、食事を摂り、睡眠で体力を取り戻し、起きた後のこと。
「……一晩ほど待ったはずじゃが……」
「……起きませんねぇ」
「ま、そういう罠だからな」
出口は相変わらず見当たらない。天之河と谷口は、相変わらず琥珀牢で眠っている。
よほど幸福な夢に浸っているのだろうか。夢だと解る傍目には滑稽だが、しかし嘲笑う資格など誰にもない。許されるのなら、誰だって幸福に浸りたいのだから。
とはいえ、夢は夢。そろそろ現実に戻り、道筋を切り拓かなくてはならない。
「どうする?」
「このまま放っとくわけにもいかねえし――起こすか」
「どうやってです?」
「こういう具合に――」
ユエとシアの問いに、慧斗はグレートソードをぐっと高く振りかぶると――
「――さっさと起きんかボケナスぅ!」
「ぎゃー!?」
天之河の琥珀牢に向かって、勢いよく振り下ろした。
シアの悲鳴をよそに、琥珀牢の表面がぎゃりりと斬り裂かれる。やがてその亀裂はびしびしと大きくなり、ついに琥珀牢が砕けた。ばかりと割れた黄橙色とともに転がり落ちた天之河は、すぐに目を覚ました。
「……あ? あれ、香織? 雫? ここは? 俺は、二人と……」
「ぶ、無事でよかったですねぇ……」
「夢を見せる罠に引っかかってたんだよ」
「そ……そうだったのか……」
急に現実に引き戻されたショックに、天之河はしばらく立ち上がることができなかった。およそ考えうる最悪の手段で叩き起こされただけに、後遺症がなくてよかったというべきか、どうか。
「み……みんなは、脱出できたのか……」
「まあな。あとは谷口が残ってる」
慧斗の何気ない返答に、天之河は分かりやすく落胆した。六人中四人が自力で突破できた試練を、自分は突破できなかったことに、後悔と恥辱があるのだろう。そんな彼の暗い気持ちは、眠り続ける谷口へとグレートソードを振りかぶる慧斗の姿によって粉砕された。
「――ちょ、待て、それで割る気か!?」
「そうだけど。というかお前もそうしたけど」
「危険すぎるじゃないか!!」
「じゃあお前がやってみ」
「えっ……!?」
急に無茶振りをされ、天之河の思考が空白で満たされた。当の谷口は、相変わらず昏々と眠り続けている。
天之河は慧斗を見た。「いいから早くしろ」と無言で急かされた。シアを見た。不安そうだが代案は見つからないようだった。ユエとティオを見た。黙って首を振っていた。
「――……ど、どうするんだ……!?」
「だから言わんこっちゃない」
「ケイトさん基準で言われても……」
「先っぽをちょっと斬り裂く感じでやってみ。それで破綻が始まるから」
閉口するシアのツッコミをよそに、慧斗に言われるがまま聖剣を構えてみるが――いや本気か? こんな力ずくで大丈夫なのか?
「――ふっ!」
聖剣が黄金の軌跡をたどり、ぎりりと琥珀牢に衝突した。表面を荒く削られた琥珀牢は、しかし相変わらず黄橙色を湛えている。谷口が起きる気配はない。
「……さすがに、浅すぎませんか?」
「ん。これじゃ綻びは起きない」
「そ、そんなこと言われても……」
外野の好き勝手な物言いに、天之河は困窮した。俺が悪いのか。本当に俺が悪いのか。それこそ神代魔法とか、何か複雑な魔術式とか、そういうギミックで対処するべきじゃないのか。
「じゃあ、こういう場合は――」
痺れを切らした慧斗が、今度は腰の剣鉈を引き抜いて構えた。天之河が傷付けた表面に向かって、剣鉈の刃先を向け――
「さっさと起きろ谷口ィィィ――!!」
「ギャーまた力技ぁ!」
ごり、と勢いよく突き立てた。
突き刺さった剣鉈越しに、慧斗の怒声が響く。谷口がはっと目を見開くと同時に、琥珀牢にびしびしと亀裂が生まれ、彼女はあっという間に解放された。
「は、はいぃっ! ごめんなさ――あ、あれ?」
「まったく世話の焼ける……」
「え? そんな、恵里はっ、恵里……」
「夢だ。お前にはこれから、泣くほど辛い現実が待ってる」
どうやら中村に関する夢を見ていたらしい。慧斗の無慈悲な言葉に、谷口は絶望の表情を浮かべた。
慧斗に掛けられる言葉はなかった。めりめりと音を立てて身を引き裂く樹壁の先に進み、現実を前に進めることしかできない。