ありふれた癌 作:Matto
光差さぬ、薄暗い樹壁の通路を、ただ道なりに歩き続ける。次はどんな罠があるか、どんな魔物が出てくるか――警戒心と緊張感は、次第に徒労感へと変わっていった。それくらい、何も出てこなかった。
「う~む、何だか嫌な感じじゃの」
「うん。何だか、オルクスで待ち伏せされた時みたい」
「確かに……魔物の気配も全くないですねぇ」
あるいはこうして油断した時を待ち構えて、罠を仕掛けているかもしれない――一同は疑心暗鬼になり始めた。レーダー役のシアのみならず、ティオや谷口も不審の顔色を隠せない。とはいえ、前に進まなくては始まらない。
慧斗を先頭に進んでいく一同。やがて広い空洞に出ても、そこは何もないがらんどうだった。念のためシアを振り返ってみたが、彼女も何も感知できなかったようで、ふるりと首を振るばかり。このまま足踏みしていても仕方ないと、まず慧斗が踏み込んだ。
何も起こらない。魔物との戦闘にはもってこいの巨大空間へ歩みを進めても、魔物どころか魔法陣の影すら現れない。これも肩透かしで油断させるための前振りか――と思い始めた慧斗のその肩に、ばちゃりと液体が降り注いだ。
「……雨?」
そんなはずはない。ここは大樹の内側で、雨など降らないはずだ。それに、妙にどろりとしたこの感じは――
『蝪槭£!』
抜刀閃くように、慧斗は“ブラックパレード”を解き放った。黒々と溢れ出る亡者たちの行く先は、遥か彼方の天井。どろりと溢れ出る白濁の樹液へ、怨嗟の呻き声を響かせる亡者たちが殺到し、力ずくで塞いだ。
悪鬼のような形相の慧斗が天井を睨み上げるのを、一同は固唾を呑んで見守った。――果たして、何も起きない。どうやら降り注ぐ樹液を起点とする罠だったようだ。規格外の暴力の化身により、その思惑は根底から崩された。
あぁよかった、と一同が思わず脱力する一方、慧斗は天井を睨み続けていた。種が割れた以上、長居は禁物だ。慧斗自身の負担も決して小さくはない。「そろそろ解いていいよ」とユエが駆け寄ったが、慧斗は相変わらず天井を睨み上げている。――いや違う。視線を下ろさないようにしている。明らかに一同から目を逸らすために、首から上を自ら固定している。
『陦後¢縲ゅ%縺ョ縺セ縺セ蝪槭>縺ゥ縺上°繧峨?√&縺」縺輔→陦後¢』
「どうしたんでしょうか?」
「何か気になる?」
『縺?>縺九i縲ゅ%縺」縺。隕九s縺ェ縲りヲ九○縺、縺代s縺ェ』
異変に気付いたシアも駆け寄る。その歩みに合わせ、豊かな双丘がぶるんと揺れる。一瞬だけ気が緩んだのか、反転した目玉が思わずぐりんと動いたのを、慧斗は自ら天井に押し戻した。まるで眼球を直に抉り出し、天井に向けて固定したいかのようだった。
「よく分からぬが、ご主人様の負担が大きい。早く先に進もうかの」
「あ、あぁ、そうだな」
しっしっと追い払うようなジェスチャーを見せる慧斗に、事情が分からないながら、ティオが一同に声をかけた。見せつけるように露出した深い谷間が、僅かな木漏れ日に照らされてつやつやと輝いている。何が起きたんだろうと首を捻りながら、一同は慧斗を背に歩き出した。
一同が奥へ進み、たっぷり二十メートル。その距離ができるまで、一日千秋のような思いで待ち続けた慧斗は、天井を仰いだまま、緩慢な足取りで後を追い始めた。
彼らは知らない。
“ブラックパレード”に塞がれ、溢れている白濁の樹液が、強烈な媚薬であることを。
彼らは知らない。
“ブラックパレード”はもはや慧斗の魂の一部であり、つまり媚薬の作用を直に浴びているも同然であることを。
彼らは知らない。
ユエに飛びつきたい衝動に駆られていることを。シアやティオの豊かな双丘に目が吸い寄せられていることを。
彼らは知らない。
R-15規制程度では言及してはいけないアレコレを必死に抑えつけていることを。
知らない方が、いいこともある。
◇ ◇ ◇
再び樹壁の通路を歩くこと、数十分。一同の目の前に、またしても空洞が現れた。先ほどよりもずっと広い。直径にして、一キロメートル以上あるのではなかろうか。縦横無尽に走る維管束が、回廊のようなものを形成している。中央にまとまった大きな足場が形成されており、そこに渡れるようだった。
「大樹の洞、というところかの」
「……だろうな……」
「ケイトさん、大丈夫ですか?」
「……たぶん……」
「……?」
ひどく疲弊したような慧斗の様子に、シアたちは違和感を抱いた。先の樹液の間での不審な行動といい、何があったのだろうか?
それはともかく、と一同は中央の足場に向けて歩き出した。とその時、シアの兎耳がぴくぴくと反応した。不快な違和感を覚えたシアが、視線を空洞の底に向ける。僅かな木漏れ日さえ届かない暗闇は、がさがさと乾いた音を届ける。嫌な予感が早鐘のようにシアを突き動かした。空色の瞳を大きく開き、闇の底へと目を凝らす。
「ん~? 暗くてよく見えないで――……あの、ケイトさん」
「どうした」
「何だか、下から嫌な感じの音が聞こえてくるんです。でも私の目じゃ暗くて、正体が……」
言いつつ、視線が泳いでいる。まるでこの樹壁そのものから目を背けたいかのように、視線の遣り場を探して迷っている。慧斗は首を捻った。こと感知能力という点において、兎人族であるシアがずば抜けて高く、対して慧斗が秀でている要素はない。
「お前で見えんものが俺に見えるわけないだろ」
「でもほら、ケイトさん割と何でもありじゃないですか。“ブラックパレード”とか」
「――今お仕置き食らうのと後で食らうの、どっちがいい?」
「後でお願いします!!」
「急にどうしたのじゃ、シアよ」
不機嫌そうに顔をしかめた慧斗に対し、シアもまた必死に食い下がった。そうまでして見たくないものがあるのだろうか?
ともかく、罠の可能性があるなら調べないわけにはいかない。慧斗は目を凝らし、維管束の奥底に横たわる闇を見下ろした。奈落で得た技能『暗視』があれば、この程度の暗がりを見通すくらいは造作もない――のだが――
「――げ」
「どうしたの?」
「何か分かったのか?」
急激に顔色を悪くした慧斗の様子に、ユエと天之河が声をかける。慧斗はそれに答えず、きっとシアを睨みつけた。
「お前これよくも俺に押し付けたな!? 嫌がらせにも限度があるだろ!?」
「私だって直視したくないものはあるんですぅ!」
「口頭で言いやあ済むじゃねえか! 何だってわざわざ見せつけるんだよ!?」
「受け入れたくないんですぅ! 正直もうウサミミも限界なんですぅ!!」
ぎゃんぎゃんと罵声を浴びせる慧斗と、兎耳を覆い耳目を塞ぎながら叫ぶシア。傍から見る四人には奇怪なやり取りだった。二人の目に、いったい何が見えたというんだ?
「な、なんだ? 何がいたんだ?」
堪らず問いかけた天之河の言葉に、慧斗はようやく理性を取り戻し、しかしじっとりと恨めしげな視線を向けた。えっそんな視線を向けられる謂れなくない? 天之河は混乱した。いったいどんなおぞましい存在が、この暗闇に潜んでいるというのか――
「……ゴキブリ」
「え?」
「ゴキブリ。大量の」
「……え?」
「千とか万とかじゃない。たぶんもっと多い」
「…………え?」
苦虫を噛み潰したような慧斗の説明に、一同は思わず視線を暗闇に向けた。がさがさ、きいきいという耳障りな音が、いよいよ大きく耳を打つような錯覚に襲われた。暗闇の中に、艶めく照り返しがうごめいているかのような錯覚に襲われた。
「こ――これ……全部……?」
「たぶん。おそらく」
愕然とする谷口の呟きを、慧斗は不快感いっぱいに肯定した。背筋をなぞり上げられるような生理的嫌悪が一同の全身を支配し、我が身を掻き毟りたい衝動に駆られた。
「――ケイト、焼こう。焼き払おう」
「これ全部焼き払えるか。ちょっとでも漏らしたら、全部飛んでくるぞ」
「…………」
思わず口を突いて出たユエの提案に、しかし慧斗は実質的な否定を返した。高火力の魔法を連発できるユエ、ティオ、慧斗の三人がかりなら、あるいは全滅させることができるかもしれないが……なにぶん、数が多すぎる。直径一キロメートル以上の空間を埋め尽くしうごめくゴキブリの群れ、その総数は知れたものではない。もしも撃ち漏らし、生き残りが襲い掛かってきたら――想像するだけで、背筋にぞっと悪寒が走った。
「……とりあえず、落ちなくば問題あるまい。先に進んで、早々に攻略してしまえばよい。ここに止まっていたら、それこそ襲われるかもしれんしの」
「言うなよ今想像しちまったろ」
生理的嫌悪を必死に押し殺しながら、なるべく冷静に提案したティオの言葉に、慧斗はぐぐぐと顔をしかめた。地球やトータスの歴史を紐解けば、多くの地域で備蓄食糧への実害をもたらしてきたのも事実だが、単純に『不快である』という理由だけでここまで嫌悪感を煽ることができるのだから、凄まじい生態だというか何というか。
とはいえ、ここで足踏みしていても仕方ない。一同は維管束の通路へと踏み出した。縦横無尽に走る維管束をよじ登ったり、足場から足場へ飛び移ったり……足を滑らせて落ちないよう、全員が細心の注意を払って移動した。
たっぷり十分以上の時間をかけて、一同は中央の足場に辿り着いた。過度の緊張感で、その三倍は疲弊した気分だった。さてここからは、どう進むべきか……一同の思考は、しかし足元から響いてくる音に掻き消された。
ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ――と空気を細かく敲く不快な音の群れ。
一同は反射的に暗闇へと視線を向けた。ある意味この場で一番聞きたくなかった音、その正体を探ってしまった。そして、この場で一番見たくなかったものを目撃してしまった。
闇がうごめき、津波の如く押し寄せてくる。樹壁の隙間から降り注ぐ陽光に照らされ、黒い照り返しを見せつけながら羽搏いてくる黒い津波――無数のゴキブリの群れが、一同のいる中央の足場へとせり上がってくる。
「ギャアアアアアア!!」
「うぅおおおおおお!!」
「やぁああああああ!!」
「ひぃいいいいいい!!」
一同はハリウッド映画よろしく絶叫しながら、反射的に魔法を放った。
慧斗の“蒼龍”が、ユエの“雷龍”が、ティオのブレスが、天之河の“光波斬”が、それぞれに黒い津波へと衝突した。蒼光を纏う龍姿が、眩光を放つ龍姿が、漆黒の灼熱が、黄金の光波が、黒光りするGの大群を殲滅すべく炸裂する。現在のトータス最高峰といっても過言ではない超高火力、地上の軍隊ならば師団規模でさえ一息に吹き飛ばすことが可能な攻撃が、ただのゴキブリ駆除のために放たれた。
地図をも描き変えかねない攻撃の嵐が晴れた後――黒い津波は、何事もなかったかのように迫ってきた。まるで黒い飛蝗だ。かつて、そして現在も、農業に従事する共同体のほとんどが襲われてきた恐怖と絶望に、彼らは直面した。
「うぅ、――“聖絶”ぅ!」
谷口が半泣きになりながら詠唱を紡ぎ、柔らかな光が結界となって一同を包んだ。
刹那、ずどどどどどど――! と、およそ昆虫が衝突したとは思えない轟音が結界を呑み込んだ。黒光りする津波が結界の障壁へと衝突し、びりびりと衝撃を響かせる。群知能がもたらす質量攻撃は、個々の耐久限界を超える衝撃を伴って炸裂し、そのままぐるぐると結界を包み込んだ。体液を撒き散らして潰れる個体もいれば、外壁を這い回る個体もいる。
がさがさ、きいきい、ぎちぎち――一匹一匹は小さな雑音しか発することができなくとも、億へ届こうかという数が一斉に群がれば、この通り。他の音を知覚できなくなったと錯覚するほどに、大きく重く掻き鳴らされる不快な大合唱に晒され、最初に限界を迎えたのは谷口だった。
「――む、り」
「鈴ぅ! 寝るな! 寝たら死ぬぞ! 俺たちの精神がっ!!」
ひゅうとか細い息を吐きながら昏倒しかけた谷口を支え、天之河がその肩を揺らしながら叫んだ。ゴキブリの濁流に生身で投げ出され、抵抗もできないまま蚕食されるなど、想像するだけでおぞましい。薄皮一枚の先に迫る危機を遮るべく、慧斗が真っ先に動いた。
「お前らこのゴキブリと亡者の群れどっちに囲まれたい!?」
「何ですかその碌でもない二択!?」
「後者で!!」
「ユエさん!?」
「あい分かった豸医∴繧!!」
言うが早く、慧斗はずおと魔力を放出し、どろどろと黒い魔力の津波が足元から染み出した。ぎちぎちと軋む
「た、助かったぁ~……」
「……これも、なかなか地獄みたいな光景だけどな……」
「ケイト様々」
『郤上o繧翫▽縺九l縺ヲ繧九%縺」縺。縺ョ霄ォ縺ォ繧ゅ↑繧!』
へなへなと
「何だか、この迷宮に来てからこんなのばっかりですね……」
「今までの大迷宮以上に厄介極まりないのぅ……他の大迷宮の攻略を前提にしておるだけに、あるいは難易度も数段上に設定されておるのかもしれんな」
「ケイトが規格外で助かった」
「お主、ご主人様に全部押し付ける気か」
シアが餓者髑髏に怯えながらも安堵の様子を見せる隣で、ユエがあからさまに安心した表情を見せ、ティオにじっとりと睨まれていた。無数の亡者たちが、千万を遠く超えるゴキブリたちに集られ、ぎちぎちと噛みつかれながら受け止め、反撃で叩き潰していく――その様を視覚聴覚ではなく、魂で直に捉えさせられているのだから、慧斗自身の不快感は数倍に膨れ上がっている。
ともかく、一同の安全は確保した。問題は、ここからどうやってゴキブリたちの殲滅をするべきか。慧斗の“ブラックパレード”は絶対的な手数の増加に優れているものの、ヒトと同等以上の体格の敵を想定しており、一匹一匹は小さなゴキブリの群れを殲滅するのには向いていない。慧斗に魔力を供給し続け、亡者たちを疑似触媒として魔法を遠隔発動するしかないか――
変化が現れたのはその時だった。“ブラックパレード”越しにゴキブリたちを睨んでいた慧斗が、何かに気付いたかのように眉をひそめ、困惑の表情を浮かべ始めた。
『――縺翫>縲√∪縺輔°……蜀苓ォ?□繧? 縺昴≧縺?繧医↑?』
「……ケイト……?」
「外で、何か起きてるんでしょうか?」
ゴキブリの群れと相対している不快感ではない、明らかに別物の困惑の正体を、誰も推察することができなかった。人ならぬ怪物として化身し、言葉にならない歪んだ声を発することしかできない今の慧斗には、ゴキブリたちが編み出す異常を伝えるすべがない。どう考えても群知能の範疇を超える、高度な編隊飛行を警告するすべがない。
谷口の結界を囲うように対流する餓者髑髏が、がたがたと蠢き、歪んだ音を鳴らし始めた。
『マ』『ホウ』『ジ』『ン』
「……え?」
たどたどしく紡がれたその言葉に、慧斗を除く一同は目を点にした。まさか――ゴキブリに加えて、新たな魔法トラップが出現したのか?
――彼女たちの想像は正確ではない。
もはや仲間の援護を待っている場合ではない。どろどろと対流する黒い魔力から双頭竜の影が飛び出し、空中で旋回するゴキブリたちに向かって突撃した。直径にして十五メートル、およそ群知能による産物とは思えない複雑な紋章を形成するゴキブリたちを、超重量で強引に薙ぎ払う。果たしてゴキブリたちの編隊飛行は、双頭竜の突撃に轢かれて四散し――
赤黒い強烈な光が炸裂し、その勢いのままに“ブラックパレード”が引き剥がされた。備える間もなく真正面から魔力光を浴びせられ、強引に魔力を引き剥がされた慧斗は、思わず尻餅をついた。ただでさえ高負荷な魔力放出、それを中断させられた反動でくらくらと昏倒した慧斗に、
三つ目の魔法陣は、一同の足元――維管束が集まった足場の裏側。慧斗本人はおろか、その異状を察知して駆け寄ったユエたちも気付くことができなかった。谷口の結界が再びゴキブリたちに晒され、びっしりと密集する光景に気を取られ、視覚外の行動にまで意識を遣る余裕がなかった。
(――っそ三段構えかよ……!)
辛うじて意識を取り戻した慧斗の視界を、赤黒い光が呑み込んだ。