ありふれた癌 作:Matto
慧斗の想像に反し、その光は何の違和感をも与えなかった。身体的痛覚も、魔力的異常も、一切知覚しなかった。
赤黒い光は、ほぼ一瞬で消失した。目を開けた慧斗には、異状ひとつ見当たらない。
「……ああ、ちくしょう……全員、大丈夫か?」
飛びかかっていた意識を気合で揺り戻すと、慧斗はぐるりと周囲を見渡した。全員、居る。怪我や異常を負った様子もない。しかし互いを見る表情に、何か違和感がある。その正体を推測している場合ではなかった。へたり込んだままの谷口が、呆然とゴキブリの群れを見上げていたのだ。
「あ、」
「おい谷口しっかりしろ! ユエ、すまん援護してやれ!」
熱に浮かされたかのように瞠目し、ゴキブリを見つめる谷口の目は、およそ正常な様子ではない。慧斗はその肩を揺すりながら、ほぼ反射的にユエへと声を掛けた。
ところが、
「指図しないで」
「えっ」
つっけんどんな物言いを食らい、慧斗の思考に空白が生まれた。
「いや文句言ってる場合じゃねえから! 谷口が倒れたらこの群れが――」
「死ね。こっち見んなロリコン」
「えっ」
反射的に顔を向けたその真正面から、ユエの罵声が浴びせられた。絶対零度の視線で慧斗を射貫き、憎々しげに睨んでいる。
えっ何事? 何があった? 慧斗は思わずシアとティオを見た。
「何じろじろ見てるんですか変態。殴り殺しますよ」
「えっ」
「嫌らしい目つきでこちらを見るでない。焼き殺してやろうか」
「えっ」
同じように睨まれた。慧斗はいよいよ混乱した。
「お、おい、お前たち、慧斗に何をする気だ! 慧斗に手を出す気なら俺も黙ってはいないぞ!」
「お前こそなんなの?」
そこに割り込んできた天之河に、慧斗は反射的にツッコんだ。甘いマスクがきらきらと輝き、慧斗に親愛の情が込もった視線を向けてくる。こういう馴れ馴れしい態度は、しかし慧斗の癪に障るものだった。
何が起きている? 何をされた? “ブラックパレード”の疲弊から立ち直れていない慧斗は、上手く思考が回せなかった。その様子に蔑むような視線をぶつけつつ、ユエはしばし考え込んだ。
「――……お前との、苦々しい記憶を浚うと……どうも、感情を反転させる魔法みたい」
「忌々しいが同意じゃ。強弱は、元の関係値に比例するのじゃろうな」
「うん解説ありがとう。もうちょっと言い方考えてくれると嬉しかった」
言葉の棘を隠しもしないユエとティオの台詞に、慧斗は顔をしかめつつ礼を言った。
どうやら先のゴキブリ魔法で、感情を反転させる呪詛を受けてしまったらしい。過去の記憶自体が操作されるわけではなく、親愛をもって交流してきた経験を思い出すことはできるようだ。とはいえ、人は感情に振り回されるイキモノであり、『今現在好きでもない相手と、過去に親密に接してきた記憶を掘り起こされる』という嫌悪感を煽るだけのようだが。
問題は、ただ一人取り残された慧斗だ。
「ケイトさ――この変態には、効いてないみたいですけど。何でですか?」
「黙れ小娘。こんなモノ理解できるはずがなかろう」
「あ゛?」
「お゛?」
「おいそこでメンチ切り合うのやめろよ! 話が進まないだろ!?」
「どこ見てるんですか/のじゃ、この変態」
「サラウンドで罵声寄越すのやめろ!」
双丘をぶつけ合わんばかりの勢いで睨み合う二人の姿は、好事家が見れば垂涎ものの光景だが……少なくとも慧斗にとっては、事態を停滞させる最悪の絵面でしかなかった。美女美少女から罵声を浴びせられるというのも、人によっては『ご褒美』なのかも知れないが、今の慧斗にとっては、鉄火場に晒されていない第三者だからこそ嘯ける世迷言でしかなかった。
「記憶、あるいは紡いできた絆を以て反転した感情を振り払い元に戻れるか、あるいは、悪感情を抱いたままでも今までの自分たちを信じて共に困難に挑めるか……そんなところじゃろ」
「……入口のアレ、そういう意味かよ……」
ティオの推測に、慧斗は渋面を浮かべた。思い返せば、「目の前の光景を疑え、仲間の姿に惑わされるな」と誘導しているかのような罠ばかり課されている。ただでさえ単独ではまず突破困難な試練を課され、心を通わせた仲間と協力して戦うことを前提としているのに、その仲間の絆をあの手この手で引き裂こうとするのだから、堪ったものではない。
「嫌らしい試練じゃ。
言いつつ、ティオは周囲を旋回するゴキブリの大群を見やった。げ、と慧斗は厭な予感を覚えた。『仲間内の感情』という複雑な条件に限定して操作するよりも、『単純に好悪の感情を反転させるだけ』の方が簡単だ。つまり今、この黒光りする群れに、生理的嫌悪を煽るゴキブリたちに向けられている感情は――
「……愛らしく見える」
「駄目だ終わった――!」
うっとりしたティオの表情に、慧斗は頭を抱えた。ただでさえ大火力を必要とするゴキブリ殲滅を、慧斗以外の誰も実行できないということになる。いよいよ絶望の淵に立たされた慧斗の肩を、天之河がぽんと叩いた。
「大丈夫だ、慧斗! 俺たちで何とかしよう!」
「お前もお前で馴れ馴れしいのなんなの?」
「……でも、どうしよう! あんなに愛しい生き物を、放っておけない――!」
「お前はお前で駄目なのかよ!」
「誰か集合体恐怖症とかいない!?」と言おうとして、無意味なことに気付いた。恐怖症など有していたところで、ここで反転し同じように陶酔してしまうのが関の山だ。仮に性愛症など存在していようが――ゴキブリ性愛症など想像したくもないが――、反転して恐慌に陥ってしまっては意味がない。本当にどうすんだよコレ!? とパニックに陥りかけた横で、谷口が熱に浮かされたような表情を浮かべ、ゴキブリたちに向かって手を伸ばした。
「あぁ、おいで――」
「バカ谷口やめろ――!」
慧斗の制止も虚しく、谷口はゴキブリたちを迎え入れるように結界を解いた。淡い輝きがはらはらと解け、代わりに黒光りする塊が一斉に包囲を縮めてくる。やんぬるかな、と慧斗は即座に構えた。
「汝幽き煉獄の主よ天と地を焼き尽くし万象轟く輝きをもたらせ、“蒼龍”!!」
舌を噛みそうな早口言葉の詠唱とともに、蒼光を纏う龍姿が現出した。ぐるりと周囲を巡る灼熱の蒼炎が、その口に咥えられた重力球によってゴキブリたちをかき集め、噛み砕くように焼き潰していく。焦げ臭い燃え殻がはらはらと落ちていく中、ユエが慧斗を睨み上げた。
「おい」
「『おい』じゃねーわ! 状況分かってんのか馬鹿共! 愛しかろうが恋しかろうが、放ってたら嬲り殺しなんだよ!」
「本望じゃない?」
「駄目だこいつ」
もう勘弁してくれ、と慧斗は本日何度目かの悲鳴を上げた。誰も知らぬ大樹の迷宮の奥底で、よりによってゴキブリに喰われて死ぬなど、冗談ではない。
「よーし分かったティオ、囮になれ。アレに蚕食されるなら本望なんだろ?」
「ほぅ? 妾に貴様ごときの肉盾になれと?」
「じゃあ想像してみ? あれに五体八つ裂きにされて、服も破かれてあられもない姿にされて、衆人環視の中で皮も肉も食い破られて、骨までしゃぶりつくされる末路を」
「――――」
慧斗の質問に、ティオは一瞬沈黙した。「そこまでは流石に嫌だ」という感情を引っ張り出したいところだったのだが――
「……悪くないのぅ」
「駄目だこいつ話にならん!!」
じゅるりと唾を呑むティオの姿に、慧斗は地団駄を踏んだ。元が元だけに、本当に反転しているのかどうかちょっと怪しい。いやそんなはずはない、と信じたいところなのだが……
ああもうしゃらくさい、と慧斗はグレートソードの鍔元に巻き付けられた鎖をぶんと振り回し、その先端を用いて“雷炮”を放った。ばちばちと迸る雷電が、ぐんと薙ぎ払われる勢いに沿って、中空のゴキブリたちを焼き払っていく。
「寝惚けてんじゃねーよバカタレ共! 脳味噌弄くられて知らない愛着抱かされたまま死ぬとか、そんな惨めな話があって堪るか!」
「……癪だけど、その通り」
「正論なのが憎たらしいですねぇ」
「いいから早く行って!!」
悲鳴じみた、というか悲鳴そのものを飛ばして駆り立てる慧斗に、ユエとシアはしぶしぶ従った。感情操作されているという自覚はあるようで、ティオや谷口も不承不承ながら迎撃態勢を整える。後には、天之河が残った。
「やめよう、慧斗! こんなの間違ってる!」
「間違ってるのはお前の脳味噌だよ!!!」
◇ ◇ ◇
ひとまず、戦闘行動が可能になったので問題なし――とはいかない。
まず単純に、数が多すぎる。絶え間なくぎちぎちと喚きながら羽搏くゴキブリたちは、とてもその数を数えていられない。というか目を凝らしている間に、背筋に悪寒が走る方が圧倒的に早い。いかに人外魔境の大迷宮とはいえ、どうやってこの数を養育してきたのだろう。それに思いを馳せるのも気が狂いそうだった。
加えて、慧斗以外の味方の火力が心許ない。魔力切れや疲労という意味ではなく、明らかに手を抜いているのだ。それも仕方ない、と自分に言い聞かせるのもいい加減飽きてきた。何しろ彼女たちの心理では、『とても愛らしい対象が、わざわざ群れをなしてまで迫ってきてくれるのに、右から順に滅ぼさなければならない』という状況だ。
さらに悪いことに、この群れは
「“雷炮”!」
鎖を用いて振り回されたグレートソードから雷電が迸り、ゴキブリたちの群れを薙ぎ払いながら炸裂した。数万ボルトの高圧電流がゴキブリたちに通電し、ばりばりとその体を透徹する。そうして生まれた空白は、しかし無数の後続たちによってすぐに埋められた。
いつまで続くんだ――といい加減疲労感に支配されつつある慧斗の背に、ぞわりと悪寒が走った。
「うぉっ!?」
咄嗟に身を屈めた慧斗の頭上を、ユエの“雷龍”が通り過ぎていく。重力球に吸い寄せられながらばりばりと噛み砕かれていくゴキブリたちの数は、果たして何千匹、あるいは何万匹か。最大効率で蹂躙していく死の輝きも、圧倒的な総数の前には力不足だ。
一方、あわや巻き込み事故というところだった慧斗を見ながら、ユエがちっと舌打ちをした。
「……むぅ、外した」
「殺す気かこのドチビ!!」
「……まさか。あの程度で殺れるはずない」
「こっわ、この子」
今までのユエの敵対者ってこんな気分だったのかな、と慧斗は場違いなことを考えた。見た目は美少女、視線は絶対零度、放つ魔法は必殺級。最期に見る光景としては上等な方だろうか。そんな生半可な気分では終わらせてくれない、凄絶な敵意を前に、慧斗の思考は吹き飛んだ。
大型個体の口腔から黒い霧のようなものが吐き出された。いやな予感を覚えた慧斗がその場を飛び退くと、黒い霧は射線上のゴキブリと樹壁を包み込み、ぐずぐずと腐食させ始めた。
「連中の吐く煙、腐食作用があるっぽい! 全員警戒!」
「……お前は大丈夫そう。性根が腐ってるから、きっと耐性がある」
「そろそろ泣きそうになるからやめて?」
これのどこが『ご褒美』なのだろうか? 鉄面皮のユエから容赦ない言葉責めを浴びせられる慧斗には、
その間も、絶えず攻撃が浴びせられ、猛烈な勢いでゴキブリたちが焼き殺されていく。墜落していくその死骸は、しかし片端から無数の仲間たちに貪られ、彼らの養分と糞尿に変わっていった。空中で交尾産卵までしているのか、その数が減る気配は一向にない。アクロバティック繁殖というべきか、そんなところで無駄にアクロバティックな
「再生までするなんて……ふふ、ますます素敵ですねぇ」
「……大丈夫。材料なんてなくても、私が再生してあげる」
「お前すごい怖いこと言ってる自覚ある?」
仲間の死骸を食らい、糞尿を撒き散らしながら数を増やしていくゴキブリたちに、シアもユエもうっとりとした視線を向けていた。「これ、魔法解除された後で黒歴史になるんだろうなあ」としょうもないことを考えつつも、慧斗は目の前の大群に思考を戻した。
(ああもう、補給が全然追っつかん……!)
魔力を全開放出する“ブラックパレード”を三度も四度も使い、彼の疲労と消耗はとうにピークを迎えている。対して、ゴキブリたちの攻勢に終わりは見えない。よくよく目を凝らせば、その密度が減少していることに気付くことができたかもしれないが、残念ながらそこまでの余裕はなかった。周囲を取り囲もうとするゴキブリたちを“爆導策”を焼き払いながら、慧斗はユエに向かって怒鳴り声を飛ばした。
「ユエ! “宝物庫”から魔晶石をいくつか頼む!」
「……おい、ケイト」
「何!? 罵倒なら後で頼む!」
「わかった、後にしてあげる」
「……んん?」
鉄面皮のユエが放つドギツイ罵倒など、いちいち聞いている暇がない――そうスルーしようとした慧斗は、しかし小さな違和感に思考を奪われた。何というか、あのユエにしてはちょっと手緩い。
「さっきまでは、どさくさに紛れて殺してやろうかと何度か思ったけど……今は、罵倒するだけで気が済むかも」
「ノイズ! ノイズが多い! 分かりやすく頼む!」
ユエの容赦ない言葉の数々に、慧斗は怒鳴り声を返した。嫌悪感だの何だのを混ぜられると、説明の要旨が分かりづらい。というかさらっと殺そうとしてたの!?
一方、そんな慧斗へ、まるで汚物を見るような視線を向けるユエは、はぁと大きなため息をついた。
「はぁ……さっきより、お前への嫌悪感が無くなってるってこと。あと、このゴキちゃんたちへの愛おしさも」
「……お、おう!」
相変わらず棘のあるユエの物言いに、慧斗はリアクションに迷った。つまり――ゴキブリたちが掃討されていくに伴い、連中が主体となって行使されている感情反転魔法の効果が弱まっている、ということだろうか。……本当に? 確かにシアやティオによる攻撃も遠慮がなくなってきているし、谷口による結界もより距離が遠くなっているが……肝心のユエ本人が嫌悪感たっぷりの罵声を浴びせてくるものだから、慧斗はいまひとつ判断しかねた。まあ、あの冷静なユエが魔法の影響を正確に分析しているのだから、間違いないと思っていいだろう。
「相変わらず頼もしくて助かる! 罵倒は後でゆっくり聞いてやるから、順調に頼むよ!」
「必要ない。今から
慧斗の呼びかけに、ユエは決然と返した。その短い言葉の意図を察した慧斗は、にっと不敵に笑うと、ひらりと中空に身を翻した。
「――当たるも八卦、当たらぬも八卦! 陰陽は表裏にて憂うこと勿れ!」
慧斗は中空から八つの雷電を放った。樹壁を縦断する雷電の柱が墜落し、ぎちぎちと角度を変えて八卦陣を描く。ゴキブリたちを焼く電撃の方陣はやがて火焔の波に代わり、ごうごうと火柱を上げて灼熱を振りまく。空中高く放り上げられた重力球が、火焔諸共ゴキブリたちを巻き込み、焼け焦げた臭いを撒き散らしながら黒い渦巻を形成する。
「仕込みは上々、前座はこれにてお仕舞い申す! これより真打のご登場、さあさ仕上げを御覧じろ!」
火焔と重力球に呑まれてぎいぎいと悲鳴を上げるゴキブリたちを背に、慧斗はだんと着地した。極太の火柱はぐるぐると旋回し、ゴキブリたちを巻き込んで大炎上する。火焔の渦が旋回し、迷宮中の酸素を焼き尽くさんばかりに燃え盛り、不快害虫たちを焼き尽くし続ける。それらを無制限に飲み込み続ける重力球が、やがて微小惑星のごとく巨大化し、臨界まで光を湛えた。
破滅をもたらす真球は、しかしユエの手の上でどくんどくんと脈動する蒼炎の塊に上書きされた。重力球に呑み込まれたゴキブリたちの悲鳴も、ユエによって掲げられる超高熱の恒星には届かない。ふわりとユエの手を離れ浮上していく蒼球が、やがて樹壁の空間を煌々と照らし尽くした。
「裁定――“神罰之焔”」
ふわり、と蒼光が広がった。音もなく熱もなく、ただ樹壁の空間を塗り潰すように広がっていき――
ばちり、と重力球が決壊した。
巻き込まれたゴキブリたちが一瞬で消し飛び、後には黒ずんだ霞だけが散った。蒼光のフレアが広がるごとに、悲鳴のひとつも許されずに、蹂躙の痕跡すら残されずに消滅していく。超高熱の連鎖爆発が音もなく拡散し、あらゆる命を呑み込んで蹂躙していく。
総身を焼き尽くす究極の光と熱は、しかし慧斗たちの五体に傷ひとつ与えず拡散していった。“神罰之焔”――最上級炎魔法“蒼天”による大火球を複数召喚し、限界まで圧縮した光と熱を、しかし魂魄魔法で対象を選別し、
ゴキブリたちに絶叫ひとつ許さない蒼炎のフレアが、樹壁の空間をたっぷり三度舐め、すっと音もなく消失した。後には、焼き尽くされた亡骸である黒い霞がはらはらと降りしきる。耳を覆うような不快な羽搏きの幻聴以外は、十数分前の沈黙がそのまま戻ってきた。
「……お……終わった、のか……?」
「……みたい、ですねぇ」
「つ、疲れた……」
天之河をはじめ、一同はどっと疲労感のままに座り込んだ。無尽蔵かと錯覚するほどのゴキブリの大群を、たった一つの魔法で綺麗さっぱり焼き尽くされては、達成感より徒労感が勝る。これだけ大掛かりな罠を凌いだのだ、当面は何も起こらないだろう。
一方、グレートソードを担ぎ直した慧斗の肩に、ユエがよじよじと登ってきた。
「お疲れさん。即興にしちゃ、上手いこと乗ってくれたな」
「ん」
「で物理的に乗っかってくるのやめて? 流れ的にどっちか怪しいからやめて?」
「ん。もちろん、愛情の証」
「色々限界の俺から血を吸い上げることがか!?」