ありふれた癌 作:Matto
休憩から立ち直り、再び樹壁の通路を進んでいく。レーダー役として耳を尖らせるシアは、しかしその顔に何となく疲労感を滲ませていた。ずっと気を張る役回りだけに、疲弊も人一倍だろう。あるいは、大量のゴキブリの羽音を真っ先に聞きつけてしまったショックを、未だに引き摺っているのかも知れない。
しかし、その緊張は杞憂に終わった。程なく通路は行き止まりに辿り着き、そこに淡い光を放つ転移魔法陣が刻まれているだけだった。これが最後の罠か、それとも……一行は魔法陣の前にならび、息を揃えて踏み込んだ。
目も眩む輝きが一行を呑み込む――その光が晴れた先にあったのは、庭園だった。
淡い靄が陽光を受けてきらきらと輝き、整地された芝生が澄んだ水を流す水路によって区切られている。あちこちに刈り込まれた木々が並ぶ様は、整えられた庭園であり、つい昨日まで丁寧に整備されていたかのようだ。奥には円形の水路で囲まれた小さな島と、その中央に一際大きな樹、その樹の枝が絡みついている石板があった。
「ご主人様よ。どうやらここは大樹の天辺付近みたいじゃぞ?」
「いや嘘だろ。こんな高さなかったはずだろ」
庭園の端から外を見下ろしたティオの言葉に、慧斗はぎょっと目を剥いた。
雲海を見るには、標高千五百メートルを要する。地球の名峰の数々を見れば、飛びぬけて高いハードルという訳でもないが、しかし尋常な生物が生息していくのに適した環境ではない。気温や風量どころか気圧さえ根本的に異なる環境、大樹など言うに及ばずだ。そもそも樹壁の内側を探索していた一行が、『いつの間にか』程度の時間で大樹の天辺に辿り着くはずがないし、こんな風に体調に異変なく活動できるはずがない。
「――隠蔽……か、空間をずらしてる?」
ユエの推測に、明朗な回答を与えることができる者はいなかった。一流の魔法使いである彼女がそう分析した以上、この空間を構成する桁違いの技巧を信じるしかない。天之河や谷口などは、ただ圧倒されるばかりだった。
一方、慧斗はそれに異を唱えることなく、しかしどこか不満げな様子で腕を組んだ。
「……何だろうな、この……」
「どうしたんですか?」
「迷宮の壮大さと無法さに反する、罠の陰湿さというか何というか。こう……素直に賞賛できない感じ」
「……そうですね……」
しかめ面をする慧斗の言葉に、シアは何も返すことができなかった。迷宮の構造といい罠の完成度といい、確かに創設者の腕前がいかんなく発揮されているが、その構成は創設者ハルツィナの悪意を表すかのような悪辣ぶりだった。ミレディ・ライセンといいメイル・メルジーネといい、どうして“解放者”の構成員は人間性を疑うような悪意の持ち主ばかりなのだろうか。
それはともかく、一行はアーチを渡り、中央の島に踏み込んだ。石板の前に立つと、周囲が輝きを放ち、水路に若草色の魔力が流れ込んだ。水路そのものが魔法陣となっているのだ。蛍のような燐光がゆらゆらと立ち昇る中、一行は脳裏を走る疼痛にじっと耐えた。
やがて光が収まり、疼痛が止んだ。同時に石板に絡み付いた樹がぐねぐねと変形し、やがて一人の女の顔を形作った。
『まずは、おめでとうと言わせてもらうわ。よく、数々の大迷宮とわたくしの、このリューティリス・ハルツィナの用意した試練を乗り越えたわね。あなたたちに最大限の敬意を表し、ひどく辛い試練を仕掛けたことを深くお詫び致します』
「樹が喋った!?」
「落ち着けシア。いつもの『“解放者”のメッセージ』的な奴だろ」
女の声で喋り始めた樹に、シアが分かりやすく驚愕した。「謝るくらいなら最初からあんな罠仕掛けんな」と言いたくもなるが、しかし相手は故人の音声記録でしかない。慧斗はぐっと不満を押し殺し、一行に合わせて黙って続きを聞いた。
『しかし、これもまた必要なこと。他の大迷宮を乗り越えて来たあなたたちならば、神々と我々の関係、過去の悲劇、そして今、起きている何か……全て把握しているはずね? それ故に、揺るがぬ絆と、揺らぎ得る心というものを知って欲しかったのよ。きっと、ここまでたどり着いたあなたたちなら、心の強さというものも、逆に、弱さというものも理解したと思う。それが、この先の未来で、あなたたちの力になることを切に願っているわ』
力に――なるだろうか。罠に惑わされない心の強さというより、罠と承知の上で正しい行動を選択する理性が鍛えられたのは間違いないが。
『あなたたちが、どんな目的の為に、私の魔法―― “昇華魔法”を得ようとしたのかは分からない。どう使おうとも、あなたたちの自由だわ。でも。どうか力に溺れることだけはなく、そうなりそうな時は絆の標に縋りなさい』
神妙にうなずく天之河の横で、慧斗は内心「アホらし」と思っていた。『絆の標』どころか、最悪、その絆に亀裂を与えかねない罠を用意しておいて、このように人格者ぶることができる厚顔さは何とかならないものか。――ならないだろうな、と慧斗は思い直した。あのミレディ・ライセンを、あの鬱陶しい性格のまま、仲間として受け入れていた連中である。
『わたくしの与えた神代の魔法“昇華”は、全ての“力”を最低でも一段進化させる。与えた知識の通りに。
けれど、この魔法の真価は、もっと別のところにあるわ。
そこで初めて、慧斗は目の色を変えた。ユエも、リューティリスのメッセージが意味するところをすぐさま理解する。
『生成魔法、重力魔法、魂魄魔法、変成魔法、空間魔法、再生魔法……これらは理の根幹に作用する強大な力。その全てが一段進化し、更に組み合わさることで神代魔法を超える魔法に至る。神の御業とも言うべき魔法――“概念魔法”に』
誰かが息を呑んだ音が、いやに大きく聞こえた。
これこそが、ミレディ・ライセンの提示した「神代魔法をすべて集めろ」という言葉の意味――七つの神代魔法の先にあるもの。
『概念魔法――そのままの意味よ。あらゆる“概念”に干渉し、より深い事象への干渉を行う魔法。
ただし、この魔法は全ての神代魔法を手に入れたとしても容易に修得することは出来ないわ。なぜなら、概念魔法は理論ではなく“極限の意志”によって生み出されるものだから』
「――どう思う、このふわっとした感に紛れた底意地の悪さ」
「……ノーコメント」
改めて腕を組んだ慧斗の、むっつりとした言葉に、ユエは何も言い返すことができなかった。
ともあれ、慧斗がかつて抱いていた疑問は解けた。“解放者”たちがエヒト神の喉元に迫り、しかし敗走した理由……神の位階に指を掛けることはできても、そこから先に進み、神を倒すための手段には到達しえなかったのだ。
『わたくしたち、“解放者”のメンバーでも七人掛りで何十年かけても、たった三つの概念魔法しか生み出すことが出来なかったわ。もっとも、わたくしたちにはそれで十分ではあったのだけれど……
その内の一つを、あなたたちに』
リューティリスのメッセージとともに、石板がスライドし一つの羅針盤が出てきた。代表して慧斗が取り出したそれは、半透明の蓋の中に一本の針が固定されており、裏にリューティリス・ハルツィナの紋様が描かれている。
『名を“導越の羅針盤”――込められた概念は、“望んだ場所を指し示す”。
どこでも、何にでも、望めばその場所へと導いてくれるわ。それが隠されたものでもあっても、あるいは――
「――っ!」
天之河が分かりやすく息を呑むのに構わず、慧斗はただじっと羅針盤を見つめた。
本来の“解放者”たちの目的――『神を倒す』という悲願に基づいて作られたのであれば、彼らが想定しているのはエヒト神のいる時空、いわば“神域”を指していると考えるのが妥当だ。だがこの機能を応用すれば、このトータスでも、“神域”でもない、第三の世界“地球”への道筋をも明かすことができるだろう。
『全ての神代魔法を手に入れ、そこに確かな意志があるのなら、あなたたちはどこにでも行ける。自由な意志のもと、あなたたちの進む未来に幸多からんことを祈っているわ』
その言葉を最後に、リューティリスの顔は樹の中に沈み、庭園には沈黙が流れた。
「じゃ、あと一つか」
「――ん」
慧斗の、短く決然とした言葉とともに、ユエは静かに羅針盤を受け取った。その横顔は、お互いに、固い決意に満ちている。庭園の隅に現れた、地上へ降りるためのショートカットらしき魔法陣へ向けて歩き出す二人を、しかし天之河がおずおずと引き留めた。
「な、なぁ、穂崎。その……空間魔法と昇華魔法の組み合わせだけじゃ、駄目なのか?」
「駄目。ユエが過去試した限り、単独でも飛び越えられるかどうか怪しい」
「で、でも――試してみないことには……」
「ユエの魔力全部絞り上げてでも試したいならそう言え。つまり、俺がお前をブチ殺す」
「んな……!?」
「お前が言ってるのはそういうことだ。そういう迂闊さは、そろそろ直してもらいたいところだな」
天之河の提案を容赦なく切り捨てていく慧斗。元より、他者の都合よりも我欲で動く性分だ。僅かな希望にも縋りたい彼らの思いなど、逐一汲んでやることはできない。
「ただまあ、行先ならコレが示してくれる。あとは、『概念魔法』とかいう仰々しい代物を手中にすれば、その道をこじ開けることができる――はず、だ」
「自信なさげですね……」
「条件がいい加減すぎるだろ。なんだ『極限の意志』って。ふざけてんのか」
シアのツッコミに、慧斗はいよいよ開き直って不満顔を見せた。これまでの神代魔法では、散々理論だの適性だのを要求してきたくせに、ある意味大一番といえる“概念魔法”に限って曖昧で不確かな表現に逃げるのは、一体全体どういう神経なのか。
言いつつ、ずかずかと歩みを進めていく慧斗たちに、谷口が待ったをかけた。
「あ、あの、穂崎君は、その、帰るとき……えっと……」
「優先順位なら、語ったはずだ」
おずおずと躊躇いがちに声を掛ける谷口の問いを、慧斗は皆まで言わせず遮った。
「お前たちを地球に、元の生活に送り返す。ユエの人生を解放する。シアとティオの安泰を取り戻す。
――イコール、エヒト神をブチ殺して押し通る」
揺るがず、驕らず、ただまっすぐに突き進む。神であろうとなかろうと、邪魔するものは粉砕するまで。
そんな慧斗の力強い言葉に、ユエたちはふっと笑った。
「ぶれないね」
「なんか、勝手に達成してそうじゃないですか? 『極限の意志』っていうのも」
「ほほ、そう来なくてはのぅ」
前途は平らかではない。しかし、道筋は見えている。希望が見えた一行は、慧斗に続き魔法陣に足を踏み入れていった。
――ただ一人、慧斗の背中を見つめる天之河を残して。
◇ ◇ ◇
「そういえば」
魔法陣の光が晴れた先。大樹の根元に降りてきた一行の中、シアがふと口を開いた。
「どうしたの?」
「ケイトさん、あのゴキ――最後の罠、に引っかかりませんでしたけど。結局、何でだったんです?」
「何でだろ」
シアの問いかけに、慧斗はしばし考え込んだ。結果として最悪の事態は避けることができたし、望んで掛かるような魔法でもないが、理由が気になると言えば気になる。
「純粋な魔力耐性で言うなら、天之河も大概だと思うし……そもそも、耐性とかでどうにかできる罠であっていいとも思えないし……」
「バケモノだから効かないのかも」
「おいそろそろ怒るぞ。それか泣くぞ」
ユエの容赦ない一言に、慧斗はじっとりとした視線を向けた。やはりこの小娘、感情反転とかしていないのではなかろうか。
「……実は――ちゃんと効いてた、とか?」
「お前さては俺のこと相当嫌いだな?」
天之河の推測に、慧斗はじろりと睨んだ。と同時に、ユエたちも一斉に慧斗を睨んだ。
「だとしたら、私たちの事なんか何とも思ってなかったってことになりますね」
「最低」
「見損なったぞご主人様」
「ホラぁこういう流れになった!!」
「お、俺のせいじゃないだろ!?」
一斉に慧斗を糾弾するシアたちの言葉に、慧斗は天之河を怒鳴った。残念だが、慧斗の日頃の行いが悪いせいだろう。
茶番はさておき。
「まー真面目に考えるなら、
「三段?」
腕を組んで考え込んだ慧斗の一言に、ユエが首を傾げた。
「お前ら見えてなかっただろうけど、あのゴキブリ共、空中で魔法陣組んでたんだよ」
「や、やめて! 想像させないで!」
「間近で見せつけられた俺の身にもなれ」
蒼い顔でぶんぶんと想像を掻き消そうとする谷口をじろりと睨みつつ、慧斗は説明を続けた。
「で、一個目の派手な奴はブラフで、本命は陰に隠れてたんだけど――その前にもう一個、“ブラックパレード”を消し飛ばした奴があったんだわ」
「どういう魔法だったんですか?」
「さあ。結界を吹き飛ばす的な?」
「で、でも、鈴の結界は無事だったよね。穂崎君のが吹き飛ばされたのに、無事だったのっておかしくない?」
「ティオ先生、どっすか」
「ふむ、そうじゃな……精神干渉を遮断する魔法があると、罠の価値がなくなる。それを消すための魔法だったのかも知れぬのぅ」
「でも、ケイトもあの場にいた」
「だよなあ。本命の反転魔法も一緒に食らったはずだし……」
慧斗の振りに、しかしティオもユエも曖昧な答えを返すことしかできなかった。
複数の神代魔法を複合した、魔物もどきの慧斗による固有魔法“ブラックパレード”――どんな魔法が弱点たり得、相克に至ったのか定かではない。そもそも、そんな外法を想定できるような複雑な罠だったのだろうか?
「――もしやご主人様……あの時、魂がどこかに飛んでおったのではないか? “ブラックパレード”を引き剥がされた衝撃で」
「そんな物理的な話!?」
「じゃ、じゃあ、ここにいる穂崎は、いったい……!?」
「やめろ掘り下げるな、スワンプマンみたいな話になるだろ!」
ティオの大胆な予測は、しかし新たな疑惑を生み出すことしかできず、一行はぎゃーぎゃーと騒ぎながら大樹を離れていった。
――あるいは。
(もう、
死者の怨嗟と妄念、その集合体。何もかもどろどろに溶けた、個にして群の魂。一つの感情を軸にできない、反転させることのできない混沌。
◇ ◇ ◇
シアの案内のもと樹海の霧を抜け、フェアベルゲンの集落に戻ってきた一行。それを出迎えたのは、森人族の長老アルフレリック=ハイピストとその孫アルテナだった。
「おかえり、救世主たちよ。その様子だと、試練は乗り越えたようだな」
「ケイト様! ご無事で何よりです!」
慧斗たちを――いや慧斗個人を待ち詫びていたかのように、弾んだ声で出迎える二人に対し、当の慧斗はじっとりとした視線を向けた。
「長老御自らお出迎え? やめたほうがいいよ、そういうの」
「何を言う。このフェアベルゲンを救ったお前さんたちを、このまま放り出すわけにはいくまい」
「他の長老方はどうなのさ。言っとくけど俺、嫌われてる自覚ちゃんとあるよ?」
「何を言っているのか。他の氏族とて、お前さんに救われた恩は決して忘れん。本当ならば、盛大にもてなしてやるべきところだ。
お前さんたちも、羽休めの一時がいるだろう。恩返しの機会まで取り上げんでくれ」
慧斗の苦言に対しても、アルフレリックはあれやこれやと並べて躱していく。無償の好意も、その返礼の仕方も知らない慧斗は、無意識の焦燥を抱きながら、この老獪な人物を振りほどく方法を模索した。
ところが、そんな慧斗の背後からティオによる追撃があった。
「せっかくじゃ、厚意に甘えてもよかろう」
「あ?」
「ここまで強行軍だったのじゃ、ここで最後の一休みとしようぞ」
「あー……まあ、そうだなあ……」
ティオの諫言に、慧斗はぼりぼりと頭を掻きながら考え込んだ。
『概念魔法』という目標が見え、そこに至るまであと一ヶ所ということで、知らぬ間に気が逸っていたのかもしれない。大一番を前に、頭を冷やすにはちょうどいいだろう。
「まあ、そういうことだから。ちょっとだけ世話になるぜ、爺さん」
「……『爺さん』か。人間族にそう言われる日が来るとは思わなんだ。しかし、お前さんならば……」
「お、お祖父様! 気が早いですよ!」
「急に何の話をしてんだ」
慧斗の軽口に対し、アルフレリックはふっと眦の力を緩め、傍らのアルテナにばしばしと肩を叩かれていた。長老と呼ばれ、孫までいるような歳だから『爺さん』と呼んだだけで、特に含むところなど何もないのだが、二人は何を勘違いしたのだろうか?
そんなコントのようなやり取りを、ユエとシアがじっとりと睨んでいた。
「……ケイトさんのこういうところ、ちょっとイラっときません?」
「わかる」
「何が!?」
◇ ◇ ◇
その夜。
人間族と亜人族が対立している関係上、『人間族の勇者一行』はフェアベルゲンに受け入れられないのではないかと危惧していた天之河と谷口だったが、『ハウリア氏族による奴隷解放を支援したホザキケイトの仲間』ということで、無事(?)に歓待を受けることができた。『亜人狩り』が帝国主導で行われてきたこともあり、王国関係者である二人には縁遠い話だったというのもある。
『人間族(主にヘルシャー帝国)による亜人の隷属』という構図を、慧斗は見誤った。文明レベルや知識技術の差による民族単位での劣等、あるいは社会構造がもたらす人数の多寡の過剰な偏りが主因であり、個々人の
人相も種族も豊かな亜人たちに囲まれ、ある意味帝都以上に熱烈な歓迎を受けた谷口は、しかしその夜、眠れないまま寝床を抜け出した。単純に寝床が違うというのもある。
客室をそっと抜け、バルコニーに出る。自然の森に溶け込んだようなフェアベルゲンの建築は、夜の闇と街の灯りが調和して幻想的な光景を生み出していた。それにどこか温かみを感じるのは、彼女が日本人であるが故なのかもしれない。
ひやりと入り込む夜風が、寝間着の彼女の体をわずかに冷やす。ブランケットを纏いなおした彼女の視界の隅に、黒い服の人物が映った。はっと顔を上げてみれば――
「……穂崎君……?」
「よ」
武装を解いただけ、寝間着にも着替えていない慧斗が、バルコニーに体を預けていた。彼も谷口の存在に気付いたのか、いつもの仏頂面のまま片手を上げた。
「たまには、勘に従って生きてみるもんだな。当たるときは当たる」
「何のこと?」
「お前にちょっと用があったって話」
「す、鈴に?」
「明るい話じゃないぞ。だからこそ勘が当たった」
谷口の胸の中へ、びょうと夜風が吹き込む錯覚に襲われた。それに気付いたのかそうでないのか、慧斗は夜景に目を落としながら続けた。
「中村の話だ。これから
「――そ、それなら、鈴も話が……!」
谷口は姿勢を正して慧斗に向き直り、すぅと深呼吸をした。慧斗は彼女に正対すらしない。谷口は過去最大の勇気を振り絞って口を開いた。
「――……もし、もし恵里を連れて来ることが出来たら……その時は、恵里も一緒に日本へ帰して欲しい。お願い! お願いしますっ!!」
谷口はがばりと頭を下げた。慧斗はバルコニーに体を預けたまま、無言で夜景を見下ろしていた。バルコニーに吊り下げられた、風鈴のような飾りが夜風に揺られ、かたりと揺れた。
「無理」
「でも……!」
短く端的に、しかしはっきりと告げられた慧斗の言葉に、谷口は反射的に噛みついた。ここで彼の不興を買えば、恵里どころか自分すら危ない――そんな意識はまったく吹き飛んでいた。
そんな谷口に対し、慧斗は横目でちらりとだけ視線を向けた。
「正直なところ、俺と中村には縁がない。だから俺には、清水と同じ『裏切者』という認識しかない。
万が一、あるいは億が一、のっぴきならない事情があったとして――このまま大人しく地球に帰ることで、それが解決するとして――それでなあなあでは済まさせない。お前が許しても、俺が殺す」
「そんな……!」
「俺はセンセの懇願を振り切って清水を殺した。お前の懇願に従って中村を生かしてやるわけにはいかない」
慧斗の突き放すような物言いに、谷口は絶望の表情を浮かべた。自分に言い聞かせるように語る慧斗の胸中など、まるで慮ることができなかった。
――このくらいの恨み言は織り込み済みだ。殺害の理由を述べる必要性はあっても、惨殺の正当性を並べる資格はない。
「それに――もしかしたら、あいつは
「それは……どういう……?」
慧斗の謎めいた言葉に、谷口は首を傾げた。
「お前たちから、あいつについての話は聞いた。ただの降霊術じゃない、神代の魂魄魔法の位階に手を掛ける上位術を行使できるらしいな」
「う、うん……」
「ただそれは、あくまで降霊術の範疇だ。ユエの探知から逃げ果せる手段にはならない。それには、
そして俺が知る限り――魔人族でそれを習得しているのは、ただ一人。俺が殺した、フリードとかいう男だ」
フリード――王宮で一度だけ見た、あの恐ろしい魔人族。彼女たち『勇者一行』が倒すべきだったはずの、強大な敵。
「フリードは中村の目の前で殺した。たかが降霊術で、複雑な神代魔法を行使させることができるはずがない。だから、あいつが中村の逃走の手引きをできるはずがない。
だけど――もし、
慧斗の推測は、谷口の脳裏からあらゆる弁明を吹き飛ばした。それほどに、大胆な提言だった。
「あいつがフリードの魂を使って、その魂に刻まれた空間魔法を行使して逃げたのなら、話が変わる。奴はフリードに取って代わって、魔人族の旗頭になっている可能性が高い。
つまりあいつが何を求めようと、お前がどう応えようと、あいつは人間族の敵だ。明確な理由を以て立ちはだかる、俺の敵だ」
目も合わせずに淡々と語る慧斗の言葉を、谷口は理解できなかった。考えようとすることができなかった。脳が麻痺し、理解を拒んでいた。
「フリードが人間族と敵対する限り――中村がその魂を使い続ける限り――あいつの居場所は、もうガーランドにしかない。
俺とあいつの対決は避けられない。お前の願いは、どうやったって叶わない」
二人が立つバルコニーを、びょうと夜風が駆け抜けた。樹海の冷たい夜風は、彼女たちの心を凍えさせるだけだった。