ARMORED CORE VI SPIRITS 作:アユノシオヤキ
そこでのとある一幕⋯
⋯もう、ダメだな。死んだアイツの借金──俺はその連帯保証人だった。俺はバカだった。ろくな金も仕事もないまま、強化人間の実験体にされて、身体の半分が機械になっちまった。未来なんて見えやしない。今さら後悔したって遅い。とにかく、今は強い酒でも煽って、何もかも忘れたい。酔いが覚めたら考える。生きる意味も、これからのことも。⋯いや、きっとまた何も思いつかない。とにかく──金が欲しい。
何かひとつ、変えるだけの運が⋯どこかに転がっていやしないか。生きてる意味なんてもう分からない。⋯だけど、それでも金は欲しい。生きるには、まずそれが要る。
「マスター。ウォッカをショットで」
無口なマスターが無駄のない動きで素早く男の目の前にウォッカのグラスを置く。男はよく冷やされたウォッカの入ったショットグラスを一気にくいっと飲み干す。一気にあおったときのカーッとくる感じがやってくる。そして、のどごしの刺激を満喫したあとにくるなんともいえない清冽さやさわやかさがやってくる。酒はいい。酒はいつ飲んでも美味いし、いつだって俺に寄り添ってくれる。店内には、安酒と古い鉄と、時間の腐臭が混ざったような匂いが漂っていた。サングラスを掛けたその男──ジョン・メリエスは、無言でテーブルにうなだれた。カランッとバーのドアが開いた時のかすれたベルの音がする。新たな客の入店した音だ。
「そこの絶望してる兄ちゃん」
うなだれた頭を横に向ける。そこにはメガネを掛けた怪しい男がそこに立っていた。声的に俺よりも若い感じだ。
「⋯顔に出てるぜ、"もうどうにでもなれ"ってな」
「誰だあんた」
「俺か? 俺はカシハラ。"チャンスを売る男"さ。隣、いいかい?」
今はあまり思考をめぐらせたくない。
「ああ。いいぞ」
適当に返す。
「それじゃお隣失礼」
カシハラが隣に座る。
「チャンスを与える男だと?怪しさ満点の男の間違いじゃないか」
思考回路が停止しているので、思ったことが口に出てしまった。
「怪しい?そりゃあそうさ。俺みたいな男がマトモなわけないだろ?」
カシハラが開き直るように言う。そしてメガネをクイッとする。
「ま、そんな俺でも、一杯奢るくらいの甲斐性はある。どうだい、バーボンでも?」
「怪しさのバーゲンセールだが奢ってくれるのなら、有難く頂こう」
金がないから奢ってもらえるだけありがたい。貰えるものは貰っとけの精神だ。
「マスター、バーボンをロックで。二つな」
マスターが素早く、二人にバーボン入りのタンブラーを出す。ジョンは目の前のタンブラーに手を伸ばし、飲み込む。バーボンの甘くてスパイシーな味、そして少しバニラのような香りが広がる。
「ところでお前は俺にチャンスを与える男なんだろ?どんなチャンスをくれるんだ。カシハラさんよ」
ジョンがサングラスを下げる。カシハラの視線がわずかに止まった。──その目は、赤かった。
強化人間特有の、冷たくも燃えるような色。
「話が早くて助かるよ。」
カシハラがバーボンを飲みながらニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
「さて──チャンスの話だ。⋯辺境の惑星で、ちょっとした"お宝"が見つかるって話があってね」
「俺は情報屋をやっているんだ。なに、怪しげな話じゃない。俺の情報は精度に定評がある。
もちろん、有料だがね」
「ちなみにいくらだ?」
「一万。ポッキリ」
「高いな」
「高い? まぁ、そう思うなら仕方ない。ただ──それでお前の人生が変わるとしたら?」
どうせお先真っ暗なんだ。なんでもいいから希望と言えるものがほしい。それが例え怪しげな話でも。
「わかった、ただし正確性は保証しろよ。嘘だったらぶっ飛ばす」
懐が苦しいが財布から一万円を取り出しカシハラに手渡す。
「今どき現金だなんて珍しいね。毎度あり」
カシハラが貰った一万円をポケットに突っ込む。
「実はとある辺境の星系にある開発惑星で一攫千金のチャンスがある。それもあんたみたいな強化人間でもな」
一攫千金と来たか。確かに魅力的な話ではあるが⋯とにかく怪しい。
「そんな上手い話が辺境の星系で?ガセネタじゃないのか?」
「ああ、なんでもそれを手に入れさえすれば『脳を焼かれた強化人間でも人生を買い戻せる』なんてほどの富を得られるらしい」
「ちなみにそれは一体なんなんだ?」
「"コーラル"って聞いたことあるか? 焼けて消えたはずのあれさ。最近、また動きがあってね⋯」
「コーラル?それは確かだいぶ昔に全部焼けて無くなったんじゃなかったか?」
コーラル。多方面への応用が利く万能性から、人類文明の飛躍的な発展に寄与すると期待されていた万能物質だったが、半世紀前にそのコーラルが猛烈な炎と嵐を引き起こし、周辺の星系すら巻き込んで焼き尽くして、完全に焼失したと聞いたが⋯。確かその事件の名は「アイビスの火」だったっけか。あんまり覚えてない。なんせ半世紀前の話だから。
「いや。どうやら近年微量だが復活したとの情報だ。それに最近、星外企業の連中が嗅ぎつけてそこに進駐までしてるらしい。あの惑星封鎖機構がその惑星を封鎖しているにも関わらずだ。これはだいぶ信ぴょう性のある情報だぜ。」
つまりコーラルを見つけ出せれば巨額の富を得られる⋯。
「欲しいのは金だろ? だったら、耳を傾ける価値はあるぜ」
「もし行きたいんだったら、俺の知り合いに惑星の密航業者がいるんだが掛け合ってみるかい。今なら三万だ」
一攫千金。その言葉が脳裏によぎる。怪しいが、これは間違いなくチャンスだ。
「どのみちこのままじゃお先真っ暗だからな。一か八かに賭けるよ。よろしく頼む」
カシハラに財布から取り出した三万円を手渡す。財布はもうスッカラカンだ。
「決まりだな。幸運を祈る」
金のためだったらなんだってやってやる。俺は生きたいんだ。泥水すすってでも生き残ってやる。ジョンの目は赤く、そして燃えていた。どこまでも業火のように。生き残る──それだけが、目的だった。
それだけのはずだった。あの時までは⋯。
「独立傭兵ゴールド・スレイヴ。これは当社系列企業『シュナイダー』からの依頼です。作戦地点はベリウス南部、汚染市街。目標は当社と競合関係にあるベイラム系列企業『大豊』のMT部隊殲滅です。当社は汚染市街の調査採掘における⋯特にコーラル調査において優勢を確保する必要があります。これには、貴下のような独立傭兵の協力が不可欠です。『アーキバスグループ』は、貴下の奮闘に期待しています。ブリーフィングは以上です。⋯よろしくお願いします」
鉛色の雲の下、荒れ果てた大地を突き刺すようにして、巨大な柱が天を貫いていた。
それは一本ではない。遥か地平まで連なるように、ルビコン3にある各所に建造された数え切れないほどのメガストラクチャー(通称:グリッド)が天へと延び、その上には絡み合うように建造された人工構造物の集合体が広がっている。鉄骨がむき出しの足場、コンテナ群、崩れかけた通信タワーやプラットフォーム。それらが支柱の上に幾層にも積み上がり、あたかも"空中都市"のような様相を呈していた。グリッドの構造物の影が地上に
長く伸び、太陽の光さえ遮っている。ルビコンではごくありふれた光景だった。誰もがこの景色を気にしない。ただ、そこにあるだけの、"日常"。
だがその日──
一機の輸送ヘリがその空を裂いた。
ヘリの腹部の格納庫には、一機のACが静かに収まっていた。こいつの名を"ラストリゾート"と呼ぶ。真珠のような光沢を持つ赤色の機体色に武骨なフレーム。そしてシンプルな中量二脚アセンブル。武装は火力型リニアライフルにパルスブレード、そして右肩の六連装ミサイルと左肩の武器ハンガーにバーストライフル。全距離でオールラウンダーに戦える武器構成だ。今は冷たい金属音だけが、機内に響いている。その格納庫の中は赤色灯で、赤みを帯びた橙色に光っている。
ACのコックピット内での一幕⋯
ブリーフィングの録画を再び見直す。
この男。ゴールド・スレイヴはACのコックピットにもたれながら、ぼそりと吐き捨てる。
「⋯『よろしく』ねぇ。相変わらずアーキバスは怪しい臭いしかしねぇな」
コーラル。企業たちが我先にと血眼になって探している万能物質。しかし未だに、どの勢力も発見には至っていない。三年前。俺もコーラルに一攫千金を夢見てルビコンへ密航したが、未だ足取りひとつ掴めていない。一体お宝はどこに眠っているんだ。軽く舌打ちするようにそんなことを呟いていると、通信回線が自動で開く。柔らかく、それでいて芯のある女性の声が響いた。彼女「ナナミ・サザンカ」からの通信が入る。
「そりゃまあ、アーキバスだもの。信じるには、ちょっとした覚悟が要るわよね。裏で一体何を考えているやら」
「ちょっとどころか⋯命がいくつあっても足りねぇ連中さ。使い潰される気がしてならないぜ」
ナナミがクスッと笑うのがわかった。それは気休めのような、あるいは慣れきった戦場での"日常"の笑い。
「作戦、再確認しておくわよ。作戦区域はベリウス南部の汚染市街。目標は『大豊』のMT部隊。シュナイダーの情報じゃ、少なくとも確認されてるだけで十五機。でもたぶん、もっといるわ。⋯いつものことだけどね。⋯まあ、いつものように"もう少し多い"って思っててくれると助かるわね」
「結局いつもの"多めに見積もっておけ"ってことだな。了解」
「そういうこと。あとは市街地の構造物、特に建物の残骸が多くて視界が悪い。敵もそこに潜んでる可能性が高いから、油断しないこと。あと増援があると思った方がいいわ。⋯たぶん、BAWS製の四脚型」
「だいたい分かった⋯視界不良、敵多数、地形複雑。──つまり面倒な仕事だ。」
「そんなの、あんたの得意分野じゃない。気配消して背中ぶち抜くの、好きでしょ?」
「否定はしねぇ。だが、それで油断して何度も死にかけた」
「それでも毎回生きて帰ってくるじゃない。⋯ちゃんと、私のとこに」
「当たり前だ。俺はまだ、死にたくないからな」
一瞬だけ、沈黙。だが心地よい、戦友との沈黙だった。
「で、どうなの? 今朝の調子は」
「まあまあ。昨晩はちゃんと寝た」
「ふーん⋯それ、だいたい嘘ね。じゃあ今度、睡眠ログ見せてもらおうか」
「それは極秘事項だ。閲覧権限はない」
「またそれ言う⋯ま、いいわ。無事に帰ってきたら、考えてあげる」
通信の向こう、ふっと息をつく音が聞こえた。気遣いと信頼、そしてほんの少しの不安が混ざった音。
「⋯無茶はしないで。あんたが死ぬと、また活動拠点を探さなきゃいけないんだから」
「そうかい。だったら、せいぜい必ずに帰ってくるように祈っててくれ」
「⋯ああもう、ホントにそういうとこ」
そんなことを言っている間に作戦領域周辺の上空に到達。
「──作戦領域到達。投下準備よ。スレイヴ」
直後、輸送ヘリ内に警告音が鳴り響き始める。
後部ハッチが開き、格納アームがスレイヴのACを外へと押し出していく。
そして汚染市街が目前に迫り、空気が埃と焦げた金属の臭いを含み始める。外気が一気に吹き込む。そして灰色の世界が目の前に広がる。
「いい? 降下後は即戦闘になると思って。遮蔽物は多いけど、敵もその分潜んでる。
⋯スレイヴ、無事に帰ってきなさいよ」
「予定通りなら十分で終わる」
「その"予定"がいちばん信用ならないのよ!」
「ああ、わかったわかった。そろそろ下ろしてくれ。回収ポイントはいつものところな」
「⋯わかったわ。それじゃ行ってらっしゃい。スレイヴ」
「⋯行ってくる。生きて帰るさ」
「AC、──投下開始」
アームが解放され、重力に引かれてACが垂直に落下する。視界が揺れ、風圧が装甲を叩く。地上が迫る。ACの作戦遂行を補佐する戦闘コンピューターであるCOMが作動。逆推進とともにACが空中で姿勢制御を開始。着地と同時に、砂埃が巻き上がる。視界が一瞬、白んだ。
「メインシステム 戦闘モード起動」
COMが戦闘モードを起動。
「──さあ、仕事の時間だ」
爆風とともに、ACは地表へと降り立った。巻き上がる砂塵が、凄絶な戦場の始まりを告げる。
「ミッション開始。『大豊』のMT部隊を殲滅して」
「了解」
スレイヴは短く応じ、コックピットの操縦桿を握り直す。視界前方には、朽ちたビル群が立ち並び、灰色のコンクリートと鉄骨が瓦礫の山となって視界を狭めていた。彼の愛機《ラストリゾート》がブースターを吹かし、前方の敵部隊へ、瓦礫を蹴り上げながら突撃する。
「敵襲だ!ACが一機──!」
「識別信号確認。おそらくアーキバスの雇用戦力だ」
「ヴェスパーじゃないな⋯独立傭兵か」
「ならばやりようはある、迎撃に移る!」
「迎え撃つぞ!」
市街地の奥、くすんだ煙の中から次々と量産型のMTが姿を現した。ライフルにシールド。そして建物の屋上にミサイルやグレネードキャノンを装備したそれらが、群れをなして迫ってくる。
「敵は所詮、量産型のMTよ。とっとと排除して。だけど集団火力だけには注意しなさい」
「了解。量機が何機来ようと、まとめて相手するだけさ」
スレイヴが嘲笑混じりに呟く。機体のリニアライフルが咆哮を上げ、突っ込んできた一機のMTの胸部を貫いた。爆炎とともに装甲が千切れ飛び、黒煙が立ちのぼる。ライフルを持ってシールドを構えたMTたちが迎え撃つが、ミサイルの攻撃で蹴散らされ、かろうじて残った機体はパルスブレードでもれなくシールドごと切り裂かれた。
「ぐっ⋯このAC乗り、腕が違う!」
「数で押し切れ!攻撃を集中しろ!」
MTたちが周囲を囲み、一斉に火線を集中させてくる。地面が爆ぜ、ガラス片が宙を舞う。しかしスレイヴは、旋回とホバリングを繰り返しながら華麗にそれを躱し、リニアライフルとミサイルで反撃。その光景をナナミがモニター越しにスレイヴの動きを見て、息を呑む。四方から交差する火線。その中をラストリゾートは、機体色の効果で、まるで紅を纏い、踊るように動いた。はたから見たら残像が赤い尾のように伸びていく。また企業の都合で命を賭ける⋯もう慣れたけど、慣れたくなんてなかった。ナナミが一人、心の中でそんなことを呟く。
残り六機。
「独立傭兵がここまでやるとは⋯!」
「アーキバスめ、当たりを引きやがったか⋯!」
「だとしてもコイツは異常だ。強すぎる!」
MTの一機が後退しようとした瞬間、スレイヴの機体がその間合いを一気に詰める。ブーストで跳躍し、上空から振り下ろされたパルスブレードが、機体を真っ二つに裂いた。屋上のMTがミサイルやグレネードキャノンで迎撃するが、流れるように避けられ、リニアライフルとバーストライフルの斉射で、着実に撃ち減らされていく。ナナミは静かに息を詰めた。ラストリゾートの動きは、何度見ても信じられないものだった。映像越しですら、その殺気と緻密さが伝わってくる。さっきまで静まり返っていた汚染市街は、銃声と爆発音を響かせていた。
「目標、残りわずか──」
ナナミの通信が届くが、その声が終わる前に、センサーが反応する。
「⋯いや待って、スレイヴ。新たな敵影を確認。増援のようね」
スレイヴは舌打ちし、武装のリロードを確認しつつ視線を走らせる。
「おかわりのお出ましか。⋯どこから来る?」
ビル群の向こう、崩れかけた高速道路の下部をなぞるようにして、重量級の脚音が地面を響かせていた。次の瞬間、濁った排気煙の中から姿を現したのは、BAWS製の四脚型MT部隊。大型砲塔に、機体を覆う厚い装甲。目が合った瞬間、躊躇なくグレネードキャノンの砲口がこちらを向く。四脚型と共に来た増援の二脚MTが、シールドを構え、四脚型MTを守るように取り囲む。さらに、四脚MTを囮に、別働隊の二脚型が側面から回り込もうとしている。
「こちら増援部隊──敵AC確認。排除する!」
弾幕が雨のように降り注ぐ。地面が砕け、鉄骨が吹き飛ぶ。
スレイヴは瞬時に横へブースト回避。爆風に煽られながらも、瓦礫の上を
滑るように移動し、リニアとバーストのライフルの掃射。回り込んでくるMTを撃破する。さらに、四脚MTにリニアライフルを一射。有効射程じゃなかったため、四脚型MTの傾斜装甲に弾を弾かれる。
「⋯クソ重てぇのに、相変わらず火力だけは立派だな」
だが、やられる前にやるだけだ。
機体を滑空させながら六連ミサイルを放つ。火線が空を裂き、次の瞬間、取り巻きの二脚MTが爆発音を上げる。構えていたシールドが砕ける。隙を脱がさず、スレイヴが突撃し、リニアライフルとバーストライフルで取り巻きを一掃。
残り一機。四脚型MT。
四脚MTに肉薄し、チャージしたパルスブレードで切り裂き、機体内部からの発火。さらに、トドメにチャージしたリニアライフルを破損箇所に叩き込む。出力限界まで熱を帯びた銃口が唸りを上げ、まるで獣の咆哮のように弾丸を吐き出し、破損箇所に命中。四脚MTを爆発四散させる。
「ミシガン総長に⋯報告を⋯!」
敵機が最期の断末魔を漏らしながら、黒煙とともに崩れ落ちた。爆発音がコクピットを突き抜ける。
低音が内臓を震わせるような振動と共に響く。
「敵MT部隊、全滅を確認。⋯お疲れさま、スレイヴ。帰投して」
ナナミの声が、どこか安堵を帯びていた。
彼の機体の赤い残光がモニター越しにもまばゆい。
こんな戦場に、あの人は似合いすぎている。
ナナミは無自覚にそんなことを思ってしまった。
スレイヴは息を吐いた。焦げた装甲の匂いと、残骸から立ち上る熱気がコクピットを揺らす。
彼は短く答える。
「⋯ああ。帰ったら飯とシャワーだ。」
「その前に、身体のメンテの依頼しときなさい。あのマッド女、黙ってないわよ?」
「⋯了解。仕事完了だ──回収ポイントへ向かう」
戦場に吹く風が、巻き上がった灰と鉄の匂いを運んでいく。
死んだ都市に、赤いACのシルエットだけが、静かに、だが確かに残っていた。
グリッド135の最奥の普通は誰にも分からない場所。暗いトンネルを抜けた先に現れたのは、廃工場を改造した隠れ家だった。鉄骨が剥き出しの天井には、蛍光灯が不規則に吊るされ、薄暗い照明が部屋全体を病的な色調で染めている。スレイヴが扉を開けると、薬品と鉄とオイルの混じった独特の臭気が鼻を突いた。点滴スタンドの横で、女性が煙草を咥えながらデータパネルに目を落としている。
「来たわね、"壊れかけの機械"」
振り返ったのは、ミスティア・ピース。元アーキバス・コーポレーションの強化人間専門の科学者だったが危険思想と過激な手術で、アーキバスから見限られた過去を持つ。現在はこうやって強化人間の専門医(闇医者)をしている。部屋の奥、白衣姿の彼女が振り返る。顔色は悪く、目の下のクマがひどいが、鋭い眼光だけは衰えていない。
「久しぶりだな。⋯サボってたわけじゃない、ただ忙しかっただけだ」
ミスティアは煙草の火を机の上の灰皿で揉み消すと、手早くスレイヴの身体へと診断装置を繋いでいく。
「はいはい。企業の犬も忙しいのね。でもね、こちとら"お前ら"が壊れたら困るのよね。私の飯の種なんだから。黙って壊れてこられるのは営業妨害なの」
「言い方ってもんがあるだろ」
「ないわよ。人間やめた時点で、あんたたちは"機械"でしょ?」
ピッという音とともに診断が始まる。機械音と心拍モニターの波形がラボに響く中、ミスティアはコーヒーを片手に呟いた。
「ふぅ⋯やれやれ。ACとの接続用のコネクタ端子が錆びてるし、また駆動系が損耗してる。人工筋肉の電気伝達もノイズが走ってるし⋯しかも神経系の光ファイバーが数本断線してる。メンテナンスせずにこのまま戦闘続けてたら、半年以内に文字通り身体が"故障"してたわよ?」
「だったら直せ。⋯いつも通りな」
スレイヴが無愛想に返すと、ミスティアはニヤリと口角を上げた。
「⋯まったく、こっちの都合も考えてよね。──でも、そんな無茶するところ、嫌いじゃないわ」
ほんの一瞬だけ、ミスティアの目が優しくなったように見えた。まるで、機械の奥に残った"かつての人間"を見つけたかのように。スレイヴ側も、その一瞬の変化に気づきながらも、あえて何も言わずに目を逸らした。きっと彼女は、自分を"優秀なモルモット"としか見ていない。⋯そう思い込もうとした。たぶん、特別な感情は一切ない。それは科学者としての興味だろう。スレイヴは静かにそう思った。そして次の瞬間には、鋭利な医療器具が音を立てて展開される。
「じゃ、さっさと脱いで。メス入れるわよ。全身麻酔は在庫切らしてるから局所麻酔で我慢して」
「⋯容赦ねぇな」
スレイヴが僅かに顔をしかめながら、苦笑した。
「ま、アンタの体も私の作品みたいなもんだから。責任取って修理してあげるわよ。
ついでに、神経接続も微調整しておく」
照明が強くなり、スレイヴの身体に影が落ちる。
スレイヴは静かに診察台に腰を下ろし、ミスティアは無言で診断ログを見ながら、天井の補助アームを起動する。
「にしてもアーキバスが私を手放したのは失策だったわね。私ほどに強化人間のスペシャルリストはいなかったのに」
「⋯それはあんたが無茶な手術を施したせいだ。被検体が負荷に耐えきれず、神経系が焼き切れて、文字通り──耳から煙を吹き出して死んだ。しかも似たようなことを五回も繰り返した。危険すぎてクビにして正解だ。この"マッドサイエンティスト"め」
「自分がマッドサイエンティストなのは認めるけど、あれは私の手術の負荷に耐えられなかったあの"素材"が悪い。だから私は悪くない」
「またそれか。まあ危険だけど、腕だけは見込んでるよ」
人工筋肉の軋む音と、ミスティアの無駄のない動作が、地下のラボにこだました。
低く、機械が駆動する音。
──それは再び戦場に立つための、儀式の始まりだった。