納合リコの腑に落ちない話 作:ホラー領域
「ひっとりでざんぎょーさびしいぃなぁ~♪っと」
夜が更けると、職場は妙に音がよく響く。私の音の外れた歌が室内を支配できるほどに他の音が弱いから。
蛍光灯の低い唸り。パソコンのファンの回転音。誰もいない通路から、不意に聞こえる足音のような気配。どれも弱くて、気になってしまう。
だからこうして歌でも歌って気を紛らわせているが……
「……ああもう、怖い」
雑誌編集者、納合(のうあい)リコ、二十八歳。
東京に出てきてからもう数年経つけれど、こうして深夜に会社に残っていると、いまだに都会の孤独に飲まれそうになる。
窓の外には、無機質なビルのガラス面が鏡のようにこちらを映している。たまに同じように明かりがついている部屋があるが今日はどこも暗いせいだ。
ビル風に舞う紙くずが、白い亡霊のようにふわふわと踊っているのが見える。空はすっかり濃紺に染まり、遠くのビルの赤い航空灯だけがリズムを刻んでいる。
そのチカチカとした明滅が、まるで誰かがこちらを呼んでいるようで……視界の端に入るたび、妙な焦燥感に駆られたので急いで窓のブラインドを閉めた。
最近は夜の空気も湿っていて、喉にぬるい膜が張りつくような感覚になる。
机の端に置いておいた缶コーヒーを煽る。眠気覚まし用に自販機で買ったそれはすっかりぬるくなっていて、苦味だけが舌に残った。
パソコンのディスプレイが青白く光る編集部。昼間は騒がしいこの空間も、夜はまるで別の顔を見せる。
机の上に散らばる校正刷り、使いかけの付箋、かすれたペン。いつもなら見慣れているはずの景色が、暗がりの中では異質に感じられる。
こういうときに限って、壁にかかった時計の針の音がやけに大きく聞こえるのだ。
――カチ、カチ、カチ。
ただ時間が進んでいるだけなのに、それがどこか不吉なリズムに聞こえるのは、私の気のせいだろうか。
こんな時間にオフィスに残っているのは、もちろん私ひとり。
社内チャットには、最後の一人だった校閲の先輩から「お先に!」とスタンプ付きのメッセージが届いたきり。
寂しい。帰りたい。
けど、電車の時間も忘れて黙々と作業するくらいには、私は今、追い詰められている。
きっかけは編集長の一言だった。
『リコ、お前ホラー苦手だろ。ちょうどいいな、読者投稿のホラー特集、任せるわ』
偶々企画担当の人の手が埋まってしまったらしい。
何が「ちょうどいい」なのか。
あのときは笑って済ませたけど、今となっては完全に罠だったと思ってる。笑いながら言えば何でも通ると思うなよ編集長。
それでも断れなかったのは、たぶん自分でもどこかで「怖がりな自分」に区切りをつけたいと思っていたからだ。
夜のオフィスでひとり、青白い光の中でホラー話を読む――こんな状況、をこなせればきっと自分は「怖がりだけど度胸はある自分」にランクアップできる。
既に、もうその判断を過ちだと思い始めているが……。
気分を変えようと立ち上がって、コーヒーを淹れ直しに給湯室へと向かう。
通路の照明は自動センサー式だ。私に反応して順番に灯っていく。
その一瞬の「暗闇からの点灯」が、毎回、心臓に悪い。光った瞬間、消えゆく闇の中に何かがいたような気がするから。
――ガチャン。
給湯室の扉の開閉音さえ、夜には異様に大きく響く。
裸電球一つで照らされているは空間は今にも物陰から誰かが出てきそうな気がして……。
「……やめやめ」
頬を軽くはたいて気持ちを切り替える。
マイコップにインスタントの粉とお湯を注ぐ。
安っぽくも香ばしい匂いが漂い、少しだけ心が落ち着いた。
でも、背中にはずっと“気配”がある気がする。
人の気配ではない。空気の向こう側に、何かこちらを見ているような感覚。
音もなく、ただそこにいる“何か”。
……考えすぎだ。違う。これは疲れてるだけ。
私は、自分に言い聞かせるように深呼吸をした。
そうしてデスクに戻ったとき。
「まだいたんですか? リコさん」
突然、背後から声をかけられて飛び上がった。
幸いにもコーヒーカップは机の上に戻した後だったからぶちまけることは避けられた。
「び、びっくりした……っ。ああ、後輩くんか……」
肩に力が入っていたのがわかる。リラックスしようとしても、脳が警戒を解いてくれない。
深夜残業中のオフィスに現れたのは、社内でも数少ない若手の後輩くん。歳は二つ下で、物腰がやたら柔らかい。
「あれ。後輩くんも残業?」
「あーいえ、僕は仮眠室で寝てたら終電にがしちゃって……」
折れ目がついてくしゃくしゃになった白いワイシャツからして薄々想像できてはいたが、なんともアホな返答が返ってきた。
あはは、と軽く笑いながら彼は頬をかく。一々所作がわざとらしいがそこがいいところ。今は心強い存在だ。
「ホラー企画、進んでます?」
「進んでたら、こんな時間に震えてないよ……」
パソコンの画面には、読者投稿型ホラー特集の応募ファイルがずらり。机の上にははがきも超たくさん。
企画そのものは悪くない。むしろ編集部内では好評だったし、応募数もそこそこ集まった。
問題は私自身。そう、私は――
「ホラーが苦手なんだよぉぉぉ……!」
頭を抱える私に、後輩くんが苦笑する。
「じゃあ、なんで担当に立候補したんですか」
「立候補してない! 怖がってる私を見て編集長が『お前にピッタリだな』って……あの人、絶対性格悪いよ!」
「あれ、そうでしたっけ……? まあ、いい機会ってことで」
他人事だと思いやがってぇ、と恨めしい声を出しながら私は後輩くんを睨んだ。
しかしいくらグチをこぼしても、パソコンの画面からは血の気が引くような文字列が消えてくれない。
血まみれの子ども。
人の形をした何かが、夜な夜な這い回るアパート。
呪いのノート、取り憑かれた鏡、耳元で囁く誰かの声――。
ああもう、ダメ。背中がぞわぞわしてくる。読みたくない。でも、読まなきゃ。企画は終わらない。
読者応募企画で怖いの貰いすぎて何も選べませんでしたなんて言ってみろ、そんな記者の存在そのものがホラーだ。
「でもやだなぁ……こういうのって、全部読む必要あるのかな」
「え、逆に読まないでどうするつもりだったんですか」
「いや、ほら、……怖くなさそうなのから選ぶとか……」
企画倒れのレベルじゃないでしょ。と一刀に切り伏せられるかような言葉を吐いて怯える私を見て、後輩くんは少しだけ真面目な顔になった。
「うーん……リコさん。こういうのって、
共感できる話のほうが怖さ、伝わりやすいらしいですよ?」
「共感……?」
その言葉が、やけに引っかかった。
「はい、なのでもう題名からして怖いってのよりは……一見怖くないけど共感できそうな話を選ぶといいかもですね」
共感できる、か。たしかに、得体の知れない“モノ”より、日常のズレのほうがずっとリアルで怖いかもしれない。
実際さっきの私だって単なる職場で怖がっていたのだから無理にホラーなものを選ばなくてもいいだろう。
「試しにリコさんが怖いなーって思うもの、教えてくれません? それと似ているような話を探していきましょう。
俺も始発まで暇なんで手伝いますよ」
「こ、後輩くん……!」
おお、となんと頼もしく素晴らしい後輩を持ったのだと思わず唸った。
そうだ。別に、血だらけの話じゃなくていい。私が本当に怖かったこと。わけがわからなくて、ずっと胸に残ってるあの感覚――。
そのとき、編集部の片隅に置いてある空気清浄機が、唐突にブオンと唸り声を上げた。
思わず肩が跳ねる。後輩くんが笑って言う。
「リコさん、気配に敏感すぎですよ」
「こういうときに限ってそういう機械って反応するよね!? 何が“微粒子”だっての……!」
我ながらちょっと情けないが、怖いものは怖い。
オフィスの天井の蛍光灯がチカ、と一瞬明滅した。何も起きていないとわかっていても、そういう小さなズレが神経を逆撫でする。
犬がいれば違ったかな。家では、ちっちゃいあの子が私がビビるとすぐに駆け寄ってくれるんだけど、会社に連れてくるわけにもいかないし。
ああ、思考がズレていた。今は仕事だと思い直し椅子に深く座った。後輩くんを見上げる形になる。
「……あのさ」
「はい?」
「後輩くんは、子どもの頃に変な経験したことってある?」
私の問いに、彼は「そりゃありますよ」とすぐに返してきた。
「でも、リコさんのほうが絶対たくさん持ってそうです」
「え、なにそれ。どういう意味?」
「いや……なんか、目つきというか、雰囲気というか……そういうの、呼び込みやすそうだなって」
その言葉に笑うべきか迷って、結局笑ってしまった。
「なんなの、それ……でも、まあ……確かにあるよ。変なこと」
一度パソコンの画面を閉じて、私は自分のマグカップに入れたコーヒーを一口。
熱くて、でもちょっと落ち着く。
そのとき、ビルの外から救急車のサイレンが遠く響いた。耳に刺さるその音に、一瞬現実感が削がれる。目の前の世界が、フィルム越しに見えているような感覚。
「今でも、思い出すんだ。あの、科学館の地下通路……」
夜のオフィスに、コーヒーの香りとキーボードの打鍵音が混じる。
静かで、不気味で、どこか懐かしい空気。
そうして私は、語り始めた。
忘れたいけど、どうしても腑に落ちない、あの出来事を――。
next 「科学館の地下通路」 7/2 0時更新予定
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なお本作は連載作品のため、このお祭りの対象外となります。
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