戦士の見た目は金髪のチャラ男だ。
この夏で焼けたのか、最後に会った時よりも肌色が濃くなっていて、それが殊更“らしく”見える。
すこぶるイケメンというわけではないし、かといって不男というわけでもない。一般的な評価としては三枚目、という事になるだろうか。
そんな戦士の姿は、シンの目には「荒くれ者」という風貌に見えるらしい。“幼馴染”という関係にも関わらず、普段の装備を脱いで街を歩いていればそこら辺のチンピラと見分けが付かない、というのが彼の本音だった。
内心で思うだけならいざ知らず、本人にそれを伝えてしまうあたりが「人の情」を時と場合によって出し入れするシンらしい無神経さの表れなのだろう。
だが、戦士はその無神経さを、親しみゆえの“気安さ”と判断していた。
シンは素で配慮に欠ける上に傲慢で自分本位で、人を舐めているとしか思えない態度がデフォルトで……。
しかもタチが悪い事に金持ちの権力者であり、本人の腕っ節も強いという手が付けられない問題児なのだが……。
同時に。
誰を相手にしても態度を変える事のない公正さと、何の力もないガキ相手にも丁寧に言葉を尽くすような真摯さと、自然体で他者に施しを与える慈悲深さを持っている。
少なくとも、不必要に他人を傷つけるような性格をしていない。そんなシンが相手を雑に扱うというのは、ある意味では特別な対応をしていると考えられる。というのがそれなりの付き合いを経た上での、戦士なりの解釈だった。
「で、どうしてこんな所にいるんだよ……依頼はどうした?」
「依頼主がバカンスで一週間滞在との事なので、僕達も相伴に与って遊ばせてもらおうかと」
「遊びだぁ……?」
戦士が海の方へと視線を向けると、ちょうどアクアがざぶざぶと水の中へと潜っていく瞬間だった。顔を合わせるなり即座にリティーを戦士へと押し付け、一人で海へと走り出したあの魔法使いは、思ったよりも“良い”性格をしていた。
アクアは傍目に見ても浮かれていたし、実際に観光を楽しんでいるのは見れば分かる。
だが、その同行者はシンである。
シンといえば、ダンジョンに潜る事と強い装備を集める事しか考えていない生粋のダンジョン馬鹿だ。そのシンが“遊び”という名目で観光地のビーチに来ているというのは、戦士からすれば何処か違和感のある行動だった。
腑に落ちないという顔で首を傾げる戦士に、今度はリティーの方から質問が飛ぶ。
「戦士さんの方こそ、どうして此処に? 一人で寂しく海水浴ですか?」
「事実でも言っていい事と悪い事があんだろ!? いや……まぁ、こっちは遊びに来た訳じゃねぇんだけどよ」
ガシガシと頭を掻いた後、戦士はリティーの耳元へと顔を寄せる。
「実はな」
戦士が耳打ちをしようとした瞬間に、リティーは三歩後ろへと下がった。
「おい」
「近いです。セクハラやめてください」
「お前自分が男って事を忘れてンのか……!?」
リティーは見た目だけでいえば、誰がどう見ても年頃の美少女だ。いかにもといった風貌のチンピラが顔を寄せてきた事に対し、回避行動をとっても咎めるものなどいないだろう。
だが、中身は
生物学的に性別:女性であるのは自明だが、少なくとも公的な身分は男だし、母親の腹の中から出てきた時も男だ。
あからさまに避けられた事に、戦士は納得がいなかった。あと、内心ちょっとだけ傷ついていた。
ピクピクと瞼を痙攣させる戦士を見て、リティーは一つ頷いてから三歩近づく。
「安心してください、冗談です」
「お前……本当に、お前なぁ……」
「それで、どんな事情があるんですか?」
ぐいっ、と。先ほどとは逆に耳を寄せてきたリティーに対して、今度は戦士の方が一歩引きそうになり――気合いでその場に留まる。
それなりに顔を合わせて見慣れているとはいえ、リティーは間違いなく絶世の美少女と称するに相違ない顔立ちをしている。ついでにいえば、中身が男だと知っていても抗えない程の魅力的で豊満な肉体も兼ね備えている。
一般的な成人男性よりもやや高い身長の戦士からだとリティーを見下ろす体勢になるため……近づかれると、こう、黒ビキニに包まれた大きなメロンが迫力満点に迫ってきたように感じられるのだ。
気を抜けば一点に釘付けになりそうな視線を、気力と根性だけで逸らす。メスガキの巨乳を揉みしだいてやると公言し、常々無遠慮な視線でセクハラをかましている戦士だが、揶揄われた直後に無様な姿を晒すのはプライドが許さない。
先ほど引かれたことに文句を言った手前、近づかれて動揺した事だけは悟られたくなかった。
視線を虚空にさまよわせて「気にしていませんよ」といった態度を取りながら、脱線した話を元に戻す。
「俺がアウトラートに魚を仕入れにきてるのは知ってるよな?」
「はい。実家のお店で出す魚ですね」
「ああ……そんで、二週間くらい前か? 組合の方から依頼が来たんだよ。“最近になって村の漁獲量が減っている。原因を探し出してほしい”ってな」
「それは、調査の専門家にするべき依頼では?」
「俺もそう思ったんだけどよ……なんつうか、まぁ、付き合いもあって断れなかったんだけどさ……そんだけじゃなくてよ、出るんだと」
「出る?」
「沖に出た漁師達が、海の中に“巨大な影”が居たって言うらしいんだわ。今のところ襲われた話もないし、噂の範疇を出ていないんだけどよ……一応な、戦える奴がいた方が良いと思ってな」
その声に苦々しい思いを込めながら、戦士は相手の反応を伺った。その瞳には、薄らとした期待が混ざっていた。
「なぁ、どう思う?」
「どう、とは」
「分かってんだろ? 魔獣かどうか、って話だよ」
戦士はシンの事をそれなりに理解している。
一時期はパーティを組み、切磋琢磨しながらダンジョンで背中を預けた関係だ。シンが得体の知れない情報源を持ち、理解出来ない行動を取り、結果として全てが上手くいく。そんな理不尽な光景を、何度も見てきた。
そんなシンが、“問題が起きている”場所に“都合よく”観光目的で訪れている。何か知っているんじゃないかと思うのは、自然な事だった。
「この浜辺でも昨日から変な噂が出てんだよ」
「噂、ですか」
「なんでも、“人魚”が出るとか何とか。こっちも襲われた話は聞かないし、観光客はありがちな話題作りくらいに思ってるんだろうけど……な? タイミングが良すぎると思わないか?」
「つまり、それも魔獣か何かじゃないかと疑っていると」
「こっちに来たのは念のためだけどな。今日の漁はもう終わってるから、息抜きついでに水着で観光客に紛れて警備しているってワケ。流石に此処で帯剣するわけにはいかないしな」
装備なしで警備になるのかという疑問はあるが、そこは腐ってもアルファーの上位冒険者。シンの扱きによって戦う術を身につけ、ダンジョンから得た経験値によって身体能力を向上させた戦士が魔獣相手に後れを取る心配はない。
特に、この戦士は刃物の扱いだけではなく徒手格闘も鍛えられている。システム的に表現するのであれば、得意武器:短刀・拳という扱いになる。もちろん、相手や状況によって有利不利は変化するものだが……少なくとも、何かあった時に観光客を逃がす程度の時間は稼げるだろう。
戦士はチンピラにしか見えない容貌な上、下衆と言われても仕方のないセクハラヤロウではあるが、戦う術を持たない一般人を守ろうという義侠心は持ち合わせていた。
「それで、なんか分かるか?」
戦士は改めてそう尋ねながら、リティーの耳元に寄せていた顔を離し、正面側から彼女の顔を覗き込む。その際、しれっと上から谷間をチラ見するのも忘れない。
話を聴いたリティーは虚空に視線を彷徨わせ、焦点の合わない瞳を頻りに左右に動かしている。これは彼女が考え事をしている時の癖である事を、長年の付き合いから戦士は知っていた。
こうなってしまうと、いつ反応が返ってくるか分かったものではない。急かす事なく、結論が出るまで黙って待つ。
数秒程度の時間をおいてから、リティーは瞼を閉じる。
次に目を開いた時、その瞳は戦士へと真っ直ぐに向けられていた。
「説明しても良いのですが」
「……おう、そうしてくれや」
戦士がその瞳に怯んだのは、散々に振り回された過去の経験だけが理由ではない。ただただ純粋に、何よりも雄弁に語る彼女の瞳が持つ“得体の知れなさ”に恐怖を感じたからだった。
「その前に、約束してください」
「……何をだよ」
「何を聞いても、何を知っても
――――決して、僕の邪魔だけはしないと」
ゴクリ、と唾を飲み込む音が聞こえた。
戦士は、無意識のうちに一歩後ずさっていた。
ふっ、と。
戦士のその行動を見たリティーの、その体から発せられていた威圧感に似た気配が霧散する。戦士が瞬きをした次の瞬間には、そこには何時ものようにぼんやりとした瞳のリティーが立っていた。
「まぁ、戦士さんに僕の邪魔が出来るとは思いませんが」
「おい」
「身構えなくても、悪いようにはなりませんよ。そもそも今はまだ役者が揃っていませんからね、問題が起きようもありません」
「……やっぱり、なんか起きんのか?」
「結論から申し上げると、事件は起きますね。原因も分かっていますし、どのような結末を迎えるのかも何となく予想出来ます。ですが、大事にはしないと約束しますよ。此処には僕がいますからね」
表情に乏しくも、自信に溢れた宣言だった。
黒ビキニに包まれた胸を張り、腰に手を当てている。
さほど勢いのある行動ではなかったが、ばるんっと音が聞こえてきそうな動きで巨乳が跳ねた。
真面目な話をしていたのにも関わらず、ついつい視線を引き寄せられてしまうのが戦士の……いや、男の悲しい性だった。
おおっ……! と。
リティーに話しかけるのを諦めきれず、話が聞こえない程度の距離から二人の様子を見ていたナンパヤロウ達から、大きな歓声が上がる。ついでにいえば、母親らしき女性に連れて行かれた筈の少年が、真っ赤な顔で物陰からリティーの様子を伺っていた。あまりにも可哀想な事に、これが少年の性の目覚めだった。
そんな周囲の反応を無視して――ついでに自分も目が釘付けだった事を誤魔化すため――戦士は咳払いをしてから、真剣な顔を作り直してリティーへと念を押す。
「本当に、問題ないんだな?」
「ご存知かと思いますが、僕はこれでも錬金術師です。純粋な医療従事者ではありませんが、職業倫理というものがあるのです。意図的に誰かを犠牲にしたり、不必要に被害を拡大させるような真似は可能な限り避けるようにしています。そこは、信じていただければと思います」
「…………分かった。そもそもまだ被害が出てる訳じゃねぇしな、お前が問題ないって言うなら、そうなんだろうよ」
「ご理解いただけて良かったです」
口角をやや上げ、リティーは満足そうに頷く。
そのままくるりと背中を向け、首だけ動かして背中越しに戦士へと視線を送り、言葉を続ける。
「では、付いてきてください。場所を変えましょう」
「言い出しといてなんだが、説明はもう良いわ」
「おや、そうですか?」
「聞いちまうと、それはそれで面倒そうだしな……俺は俺で勝手に動かせてもらうわ、お前の邪魔になるかどうかは知らん」
「なるほど…………では、付いてきてください」
「話し聞いてた?」
「ええ、もちろん……ですが、折角なので手伝ってもらおうかと。どうせ暇でしょうし、連れの一人も居ないようですし、独り身は可哀想ですから」
「なぁ、もしかして俺に恨みでもあんのか?」
「いえいえ、そんなまさか」
言うやいなや、戦士の意思を無視してスタスタと歩き始めるリティー。その身勝手に先頭を歩く姿は、過去にダンジョンに潜った時に見慣れたものから変わらない。
相変わらず、女の姿だと尻が大きかった。ついでに言えば太腿も太いし、乳も大きすぎて胴の横にはみ出して後ろからも見えている。
誰よりも戦いに身を投げ出している癖に傷一つない背中が、意味不明なほどに扇情的だった。
だからという訳ではないが、戦士はリティーの後ろを付いていく事にした。この生き物が一度言い出したら、誰が何と言おうと意見を変えないのは身にしみて知っている。
それに、少し離れたところからリティーの後をついていこうとしてゾロゾロと行列を成しているナンパヤロウ共が被害に合うのを防がないといけない。という使命感も少しだけ感じていた。
あと、最後尾に混ざっている少年。
悪いことは言わない。
場所を変えるとは言ったものの、元いた場所から然程離れていない地点で二人は足を止めていた。
海に潜ったまま一向に帰ってくる気配を見せないアクアがいる以上は、勝手にその場を離れないのは当然のことなのだが。それはそれとして、戦士は拍子抜けしていた。
「で、何を手伝って欲しいんだよ」
「その前に、前提を説明させてください」
遠巻きにしているナンパヤロウ達の視線で地味に居心地の悪い戦士は、さっさと要件を終わらせて欲しかった。そんな気持ちを込めて話を促すと、リティーはいつものように説明を始める。
「まず、僕がこのアウトラートの観光地区でらしくなくも遊び歩いている理由についてですが」
「ああ、自覚あるんだな。そりゃそうか」
「結論から申し上げますと、強くなるためです」
「うわ出たよ、シン理論」
パーティを組んでいた時は主にシンの姿であったため、この何でもかんでも強さに結びつける意味不明な理論を、戦士は“シン理論”と呼んでいた。
過去には“給仕をすると強くなる気がするので、暫く戦士さんの実家で雇ってくれませんか?”という謎の申し出を受けた事もある。その後、一週間をメイド服で働いただけで新しい力を手に入れたリティーを見て、心の底から納得出来なかった気持ちは今でも鮮明に思い出せる。
「文句があるなら喧嘩上等ですが」
「ないない、ないから話を進めてくれ」
茶々を入れられたのが気に入らないのか、シュッシュと音を立ててシャドーボクシングで威圧してくるリティーと、それを宥める戦士。その背中からは、面倒臭いから早く終わってくれという彼の願いが見えない瘴気となって溢れ出している。
面倒事に巻き込まれたのを察して、戦士は早くもリティーに付いてきた事を後悔していた。
「今回は僕よりも、サマー・アクアさんを強くするのが主目的になっています」
「そのサマー・アクアさんとやら、海に潜ってから全然顔が見えないんだが……もしかして、溺れてないか?」
「いえ、彼女は水の魔法使いなので水中でも呼吸ができます。海に潜るのが楽しすぎて、浮き上がってくる気にならないだけかと」
「あっちもあっちで本当に人間か怪しすぎるだろ」
「水中で呼吸が出来るという点では魚人もそうですし、然程おかしな事ではありませんよ。まぁ、その特異性が故に魔法使いは恐れられているのですが。貴族として統治する立場としては、むしろ好都合でしょうし……別に良いのではないでしょうか」
シレっと開示された魔法使いの常識外の生態に対して、戦士は口では突っ込みつつも、その内心ではむしろ納得していた。
常識はずれのシンの仲間になるくらいだから、それくらいぶっ飛んでいる方が当然だと。どこか自分に言い聞かせるように、だけど、心の底からそう思った。
「今回の主役はサマー・アクアさんですが、僕が強くなれない訳ではありません。なので、今回は浜辺で遊ぶ事で強くなろうと考えています」
「こいつの強さに対する姿勢は尊敬出来るんだけどな、方法については一欠片も納得できねぇんだよな……」
「そうですか。ですが、強くなれますので……早速ですが準備しますね」
「うおっ……お? おおっ…………!?」
そう言ってリティーがとった行動に、戦士は驚きのあまり目を見開いた。
リティーは片腕を胸の下に回して乳を抑えると、もう片手を谷間へと突っ込んだ。
そのあまりにも大っぴらな行動に、周囲からは再度歓声が上がり、中にはスタンディングオベーションをしているナンパヤロウもいる程だった。
だが、その歓声はすぐに困惑のものへと変わり……最終的には誰もが絶句していた。
黒ビキニに守られたリティーの谷間から、ビーチパラソルが取り出されていた。
普通の水着と比べても露出度が高く、明らかに何も隠せないような場所から、どう見てもリティーの身の丈を超える大きさの物が、最初からそこにありましたと言わんばかりに出現している。
手品どころの話ではなかった。
観衆も自分が見たものが信じられないのか、各々が目を擦るなどの行動を取っている。中には腰を抜かし、砂浜に尻をついている者もいる。その一部は、立ち上がったままだったが。
相当注目されているにも関わらず、リティーは全く動じない。周囲の人々を背景か何かだと認識しているのではと思えるほどに、一切目もくれずに作業を進めている。
ビーチパラソルを設置し、人が三人ほど横になれそうなビーチマットを敷き、大きな浮き輪や飲み物をマットの上に置く。それら全てが胸の谷間から出現しているという事から目を逸らせば、実に手際の良い行動だった。
「それでは、戦士さんにはこれを」
「うおっ」
一通りの作業が終わってから、リティーは唖然としているままの戦士へと何かを投げつける。
気を抜いているとはいえ、戦士は冒険者だ。自分に向けて飛んでくるものに、わざわざ当たるような真似はしない。
パシッ、と。小気味いい音を立てて受け取ったそれは、液体の入ったボトルだった。
戦士は嫌な予感がした。
「お、おい……これ……」
「それは日焼け止めです」
「ああ、まぁ……見りゃわかるが……それで?」
「一人では塗れないので、塗ってください」
「――――お前本当にバカじゃねぇの!?」
戦士、魂の叫びだった。
これまでの人生で一番大きな声を出したかもしれない、それほど力強い叫び声だった。上級冒険者の本気の大声が衝撃波となり、浜辺の砂を軽く吹き飛ばす。
こりゃたまらんと、ナンパヤロウ達はその場から逃げ出した。
「バカとは何ですか、バカとは」
「いやっ……おま、流石にダメだろそれは!?」
「文句があるなら喧嘩上等ですが」
「上等だよ……! これをやらされるくらいなら理不尽にボコされる方がマシだって……!」
「なんですか。普段は胸を揉んでやるだの何だの言っているらしいじゃないですか、口だけですか?」
「正気か……!? 常々頭おかしいと思ってたけどな、限度があるだろ……!?」
それは、あからさまに挑発行為だった。
元が男だとしても、もう少し恥じらいとかあるだろ。
「そんなに嫌ですか?」
「嫌っていうか……あの、モラルとかよ……な?」
「はぁ、仕方ありませんね」
「ほら、あれだよ、どうしてもっていうなら嬢ちゃんを呼んできてやるから――」
「“挑発”」
「ふざけんなテメェ――――――っ!!」
本気の本気、全力の抵抗で“挑発”を跳ね除けようとする戦士。その甲斐あってか、リティーに向かって差し伸ばされる手は止まり、気を抜けば前に進もうとする足も強く砂を掴んでいる。
初めてダンジョンの50階層を越えた時よりも大きな危機感が、この土壇場で戦士を成長させていた。
なぜそんな危機感をバカンスのビーチで感じなければいいけないのか、それを考えている余裕はなかった。
「ぐ……ぐぐっ……こ、この偽メスガキがぁ……! 舐めた真似しやがって……っ! マジでさっさとムショにブチ込めよこんな奴……!!」
「おお、抵抗しますね。がんばれ、がんばれ」
「バカにしやがってこの野郎が……!!」
「今は性別:女性なので、女郎が正解ですね」
「女郎なら女郎らしく慎みをもてよ!?」
「ですが、中身は男なので」
「無敵かこいつ……!? ぐっ、か、体が……!!」
人相の悪い顔に鬼のような形相を浮かべ、力が籠って筋肉が隆起し血管がパンパンに浮き出た男が、大きな声を出して今にも少女に襲い掛かろうとしている。
現実はリティーが全て悪いのだが、周囲からすれば戦士が暴漢のように見えていてもおかしくない。
アウトラートは戦士にとって第二の故郷といってもいいほど、馴染みと付き合いのある場所だった。そんな場所で婦女暴行の騒ぎを起こしたとなれば、今後の活動に露骨に影響が出る。
見た目と実情のアホらしさとは裏腹に、かなりの死活問題だった。正直、ダンジョンの中での戦いよりも遥かに死の危険を感じ取っていた。
少しずつ前に向かおうとする体を、必死の抵抗で止める。戦士のそんな姿を、リティーは仰向けで横になりながらぼーっと眺めていた。両腕を枕のように頭の後ろで組み、一切隠す事なく肢体を晒している。
どういう感情なんだ? それは。
「負けるか――――っ!!」
「おお」
戦士が無理やり体勢を変え、リティーに背中を向ける。
それだけでも前例のない大健闘だが、抵抗はそこで終わらない。
「死ねや――――っ!!」
「あいたっ」
手に持っていたボトルを後ろへと気合いで放り投げ、それが運良くリティーの鼻頭に命中する。痛みで“挑発”の効力が弱まったのか、リティーに背を向けた戦士が勢いよく前方へ向けて走り出す。
「オオオオ――――――――!!」
叫び声を上げて走る彼の相貌はまさに悪鬼羅刹の狂戦士と称するのが相応しく、全身から湯気の如きオーラを出しながら浜辺を駆け抜ける。その体躯は普段より一回り大きくなって赤熱し、血液の過剰循環によって運動能力も引き上げられていた。
――NULLがバーサーク・ソルジャーのジョブを解放しました。
「やれば出来るじゃないですか」
去って行く背中と、脳内に流れるアナウンスを確認して。リティーはどこか満足そうに呟き、マットに背中を預け、目を閉じた。
遠くから、大きな水飛沫の音が聞こえる。
アウトラートの夏は、まだ、始まったばかり。