「しずかちゃーんッ!」
生い茂った森の中を来翔は走り続ける。
背中には青いランドセルはない。森に入る前、身軽になれば探しやすいと思って、木の側に来翔は置いていった。
そこから、二人とは離れたところから森へ侵入。普通なら迷うこと間違いなしのこの雑木林。だが、来翔は一直線に駆けている。
途中木の根が待ってましたとばかりに足を引っ掛けにかかるものの、来翔は身軽に飛び越えて土を蹴った。
木々が空を覆って、地平線に沈み込む太陽の光を塞ぐから視界が暗く、来翔の呼びかけは全て蝉の声によって遮られる。
「まりなちゃーんッ!」
森に入ったのを目にしたとき、二人の影は豆粒ほどだった。焦ってがむしゃらに一直線で向かおうとした来翔は、誰がどう見ても愚策だろう。
過去のことを言っても仕方がない。ただし、一直線に走って数秒。もうそろそろ見つかってもおかしくない位置なのに、来翔は一向に辿り着けないでいた。
「二人とも、一体どこに──」
「死んだに決まってんじゃん! バアアアアアアカ!!」
「────」
蝉の合唱を突き破って入ってくる声。甲高くて喚くような女の子の声。それが汗を拭って辺りを見渡す来翔の行き先を決定させた。
*
*
タコピーはただ、呆然としていた。ただ黒い目に、しずかとまりなを映していた。
最初はもしかしたらと思っていたのだ。
『しずかちゃんの♡ かわいいチャッピーのお話でもしようよぉ♡』
『……わかった』
しずかがやっと喋ってくれたのだ。いつも来翔と共に歩いて家に帰る通学路。今は訳あって来翔と一緒に帰ることはできなかったが、代わるようにまりなが現れたのだ。
これはチャンスかもしれない。元気になるのはまだ先の話になるかもしれない。でも、しずかとまりな。この二人が仲直りする機会が舞い降りてきたのだ。
しかし目の前はどうだ。
「お前にはパパもいない!」
口を挟んで割り込むこともできないタコピーはまりなの吐き出す雑言に小さい体をさらに縮こまらせてしまう。
怖いっピ……怖すぎだっピ……
「優しいママもいない!」
怖すぎて……一歩も……
へたり込むしずかに次々と口撃するまりな。
ついさっきまで通学路から外れ、見慣れない看板を越えるまでの態度はなかったかのよう。
「友達はクソの役にも立たないお前と同類のクソ野郎しかいない! ドブ犬も死んだんだよ!」
崩れていくしずかの様相。崩れていく、琥珀色したしずかの瞳。
何もできないしずかにまりなは口も手も止めない。
「ねぇ……」
まりなが悲壮に顔を歪めるしずかの顔を見下ろす。
「お前も死んで──」
「待って──ッ!」
この声……
鳴り響く蝉の声より一際大きな声が混沌とした舞台に轟かせた。
「……またお前かよ」
「また僕だ」
来翔くんだっピ──!
走ってきたのだろう。息も絶え絶えな来翔の額から汗が落ちてきて枯れ土を濡らす。
腕を木に押し付けて一休みし終える来翔は荒い息で上下する肩をそのままにしてまりなを。そしてその下にいるしずかを見つめた。
来翔くんなら、きっとしずかちゃんとまりなちゃんを仲直りできるっピね!
「また、なんでこんな……」
「あんたには関係ない」
「大アリだよ!」
木から体を起こし、幹に拳を叩きつける。
来翔のそばに立つ木がわずかに軋み、異変を察知した蝉が一斉に純恋歌を中断。血相を変えて飛び立つ。
「どうして、こんなことし……」
「知ってんの? こいつの生活費、どこから出てんのか」
「──っ、それは……しずかちゃんの母さんが稼いだお金だろ。多分、お店から──」
「うちのパパの財布だよ」
「────」
来翔の思考に入り込む空白。それはしずかの母親がどうやってお金を稼いでいるのかについての驚きではない。
来翔はわからないのだ。そこからどうしてしずかをこうして傷つける原因となるのか。
「──は?」
「まりなのパパが頑張って稼いだお金から! こいつはこうやって生きてんだよ!!」
「いっ」
「っ、やめろ……!」
止めようとする声は届かず、まりなの振り下ろした手はしずかの左頬を打つ。張り詰めた空気を断ち切るように、乾いた打音が虫の合唱に容赦なく突き刺した。
頬を抑えて地面に倒れ込んでしまうしずかをまりなは足蹴する。
「こいつが食べてるのも着てるのも、ここで平然と通ってるのも……全部全部! こいつの母親が男から吸い上げた金なんだよッ!!」
「なんだよそれ」
「なぁ、たぶらかされて、騙されたんだよ。お前も! この淫売のこいつに!」
「なんだよ、それ……!」
ピ……
途端、蝉に消えるはずの声が低い声で上書きされる。
まりなや倒れ込むしずかには俯いた来翔の表情は見えない。だがタコピーは見えていた。
こ、こ怖い……怖いっピ……
夜の空。どこまでも奥に引き摺り込まれる来翔の双眸がぎらつく。それは獲物を威嚇するような眼光ではない。ドス黒く、背中に氷柱を押し当てられたような温度だ。
顔面に血管が浮き出るほどに力がこもっていて、彼を突き動かす漆黒の衝動の歯止めは下唇を噛み締めること。
日も当たらず暗い影がその様相を隠しても、背中から溢れてくる感情とも言えるオーラが人知れず漏れていた。
数えるほど六。血が出るほど握り込んだ拳を解いた来翔にまりなが焦ったく首を傾げる。
そして、
「しずかちゃんはそんなやつじゃない!」
瞳を一度瞬かせ、空の肺に息を吸ってリフレッシュした来翔が叫んだ。
空を裂く叫び。一瞬、蝉の音が泣き止んだ。
「まりなちゃん、もうやめようこんなこと」
穏やかに、ほぐすように夏の温度の生っぽい温度とは違う芯の安らぐ、言葉。来翔は口元にうっすらと笑みを浮かべ、怒る気はない、眉間の皺を和らげるように言って歩み寄る。
「まりなちゃん、こんなこと……みんなにとって──」
「こんな? こんなこと? お前に……お前なんかに、何がわかんだよッ!」
それを、まりなは払い落した。
「まりなにはママがいてパパがいるんだ! パパもいない、ママにも構ってもらえないマザコンクソ野郎が、何口走ってんだッ!!」
「だからって! 自分も辛い思いをしたからって、それを他人に押し付けていいってことには──」
「うっさい──ッ!!」
「っ!?」
静かだった森に虫のさざめきが戻って、肉を打つ鈍い音が響く。叫び、尚も手を取ろうとする来翔の頬をまりなが打ったのだ。
頬の衝撃と脳を焼き付ける痛みに目を白黒させる来翔。驚愕に呼吸を止めかけるも、そんな来翔にまりなは左手の拳を振り上げて──
「──っ!」
肌を打つ乾いた音。しかしそれは、来翔の頭のてっぺんに目掛けて出た音ではなかった。
パシッと音のいい的中する音は来翔の頭上。来翔の手のひらがまりなの拳を受け止めていた。
が、
「か……!?」
しずかから足を外し、高く上げたまりなのつま先が来翔の腹を突く。
「邪魔なんだ、よ!」
ダメ押しというように、後ずさって足をもつれさせる来翔へ腹目掛けてまりなが靴底を叩き込んだ。
「パパもママも、元通りになる。あいつさえいなくな──」
「ダメだッ!」
蹴られ尻餅をつく来翔が、しずかを横目に黒く焦げた言葉を吐くまりなを遮った。
横走るまりなの目が止まり、気落ちのしない遡って歯向かう来翔の声へと目が落ちる。
「そんなこと言っちゃいけない! 他人も、自分も汚しちゃう言葉だよそれは!」
「チッ」
「まりなちゃ──は、が、ぁあ」
見上げる来翔にまりなが覆い被さって、彼の口から苦しげに呻く音が絞り出される。
来翔の細い首に伸びたまりなの両手。躊躇いという垣根を衝動が破壊し、赤くひりついたまりなの手に力がかかった。
「うるさい。寄生虫に憑かれたお前が、いまさら何言ってんだあ?」
「ま……ちゃ」
ギリギリと容赦なく力を込めて痙攣していくまりなの手と肩。
首を押さえつけられた来翔の体が、必死にもがく。土を踵で削って顔色を赤くするのが、いかに抗っているかを物語っていた。
た、たたた大変だっピ! 来翔くんがとっても痛そうだっピ!
早く、早く助けないと──そうだ、しずかちゃん!
「しずかちゃん! 早く、来翔くんを──」
そうである。そうであった。たとえ一人でも、二人になれば状況はうまくいくかもしれない。仲直りはできないかもしれないが、少なくともこのまま来翔が傷付けられ続けるわけにはいかなかった。
が、
「しずか、ちゃん?」
──しずかはそこにいなかった。
なんで、どうしてだっピ!?
しずかちゃんはどこに行って──
つぶらな瞳に焦燥感を宿らせるタコピーが切迫した状況を映しながら辺りを見回した。あるのは木。来翔とまりな。木、木、木。日差し。人影。
人影。両手を振ってがむしゃらに日のある方へ走る人影。
じわじわと離れていって、決して日差しでも消えることのない影を纏う少女の影が小さくなる。
しずかが──逃げていたのだ。
「しずかちゃん──っ!」
聞こえるはずもない、タコピーの声。蝉と風に吹かれ蠢く木々の葉っぱの掠れる音でかき消えてしまった。
どうすれば……どうすればいいんだっピか……?
早く……
そうだ、ハッピーカメラを使って、また戻れば──
触手を頭にネジネジと押し付けて思考を巡らせて搾り出そうとするタコピー。
だが、こうしている合間にも、
「ぅ……ぉぇ……」
「お前のせいで、全部お前のせいで寄生虫……駆除できないじゃん!」
次第に抗う力を見せなくなっていく来翔にも関わらず、まりなの手が汗ばんだ肌にめり込んでいく。
体を巡る命の奔流が止まり続けて赤らんでいた来翔の顔色はだんだんと紫へと変色して、時間を削っていた。ただ、来翔の色濃い紫色の瞳だけが、痛烈に顔を歪めるまりなを見つめていて、
──っ。
タコピーに重なる、これから森を抜けるであろう少女の影。薄れゆく視界の中、消え入る意識の中、来翔はよそ見をして。
「よが……た、ぁ」
笑っていた。
『空って、自由なのかな……』
『だって、ハッピーカメラだから』
『タコピーをはなせぃ!』
『──いなかったよ。あんな人』
『きみは、一人じゃないから』
来翔くん……しずかちゃん……
『チャッピーがいれば、私は大丈夫──』
『何があったって、平気なの』
『どんなに痛いことや……』
『──つらいことだって……』
そだっピ。
このまま……見たまま隠れてるだけじゃ、
そうだ。そうなのだ。ここでタコピーが動かないでどうする。このままいけば、あるのは二人のいなくなる、あったはずの虚像。
畳で横たわる、繋がった手の二人。
し、し、し、死、死、死──
きっと同じだっピね。
いやっピ。
ぼくは、しずかちゃんと来翔くんともっと、
──一緒にいたい。
「なに笑ってんだよ! クソが!」
「うっ」
「お前もそうやって、まりなの味方じゃなくなんのかよッッ!!!!」
勇気を出さなくなきゃ──!
「来翔くん!」
「──っ」
大きく張り上げる高い声に来翔の掠れかける目が見開かれる。
来翔の視界に朧げに浮かび上がるピンク色の鮮やかな彩度。
タコピーは飛び上がって、思考が衝動を飛び上がらせた。今度こそ、この進み続ける時間の中でタコピーは大きな一歩を踏み出して宙へと飛び出したのだ。
今度こそぼくが、
突然の外野の声に首にかかる手が緩み、来翔の上にまたがるまりなの顔が持ち上がる。
タコピーの影は、すでにまりなにかかっていて、
助けてみせるっピ──
「んぅ゛──っ!!」
「きゃっ!?」
タコピーの手に掴まれるハッピーカメラ。大気に全部晒されるまりなの額に当たる寸前、絞り出される唸り声が引き裂いた。
まりなの目に映る情景が勢いを増して横に伸び、身体が地面へ転がる。
そして、
「えうああっ!」
「ピ──!?」
起き上がる勢いで振り下ろされた来翔の右手がタコピーに襲いかかった。
当然飛び上がってあとは落ちるだけのタコピーに回避する術は持ち合わせていなく、パタパタ翼なんて瞬時に取り出せもできない。
手のひらがピンクボディに当たって形が歪む。振り抜かれた手は地面へと向かい粉塵が小さく舞う中、タコピーは森の出口へと飛んでいった。
*
*
「ゲっホ……ゲッホ、ゲホっ──う」
何か手に、当たった気がする。
朦朧とした意識が呼吸をすると共に水面下から浮かび上がってくる。首で止まっていた血がこれでもかと身体中の管を駆け巡っていって、息は陸にも関わらず溺れかけた。
喉元はヒリヒリと熱く、咳き込むごとに針が刺さっているよう。
首に手を当てる。熱を持った首筋はさっきまで締め付けられていた手形がくっきりと見ていなくてもわかりそうだった。
首。
首?
咳ずくごとに鮮明になってくる意識と視界。掻きむしっても掻きむしっても、来翔はまるで生命の一部であったネックレスが見当たらなかった。
ど、どこにいった……?
僕の、僕の僕の僕の僕の僕の僕のボクのぼくのぼクの僕ノ──
探して掻いて探って弄っても、来翔の指は虚空を切る。
なら、どこに──、
「あ? なにこれ」
とぐろを巻いてぐるぐると巡り巡る思考に割り込んでくる大事な声。不機嫌さはそのままでも首を傾げる余裕を持ったまりなの声が来翔の耳にふいに飛び込んだ。
飛び跳ねる来翔の首。見上げたその先には、重力に引っ張られてだらりと垂れ下がるネックレスが、木漏れ日に当てられて白金に輝くところだった。
「待って……まって、かえせよ!」
「なに? これがほしいの? へぇーえ! きれいじゃん」
怪訝そうに眉を歪めるまりなが吐き捨て、立ちあがろうとする来翔の肩を靴で押し除ける。
まるで戦利品とばかりに暑苦しい空気を涼しげに切り裂く白金を見とめるまりなに、来翔は途方もない井戸に落ち込んでいくのを感じた。
ま、待って……それがないと──
『お前とはもっと……もっと、一緒にいたかった』
なんだ、これ。なんなんだこれ。
なんの、誰の声だよ。
聞きたくない。聞きたくない。
突如として入り込んでくる、安心する低い声。それは母とは違う、もう片方の手で繋いでいたものだったはず。
来翔はわからない。どうしてこんなに悲しくて、自分が嫌いになってきて、全てが空虚にずれて見えてきてしまうのか。
来翔はわからない。どうしてそれが白金のそれが、一角獣の刻まれたそれが何かの形見のように見えてしまうのか。
「それは……っ僕のだ……」
「近寄んな」
血がぐるぐると駆け巡って体は暑かったはずだ。しかし、叫んだと思った来翔の声はついさっきまでの鬼気迫るような声とは全く違い、面影がない。
指は雲を切るように掴めず、来翔の手はまりなによって叩き落とされる。
目の焦点がふっと失われ、キラキラとした夜空の目は雲に隠れたように闇を映し出して宙を舞う。口元は半ば開いて、微かな息すら来翔には重く感じている。
まるで、支えを全て取り払われた人形のように、表情は呆然と空虚に沈んだ。
「おねがい、します。それ、がないと……それがないと、ぼくは…………」
「なに? 返して欲しいの?」
「……っ」
こくこくと、ぎこちない動きでまりなへ頷く来翔。
来翔の目はまりなを映してはいない。左右に揺れる朝焼けの雪を彷彿とさせるネックレスが、霞んだ瞳を覗き込んだ。
ふらふらと揺れる力に従って振れる様はまるで古ぼけた振り子時計のようで、時間を刻んでいる。
衰えていく白の振り子。それが勢いよく引き上げられて──
「ふふ、いやだ♡」
蜘蛛の糸が目の前で切られ、落とされ、引き上げられ、来翔の視線が釣り上げられる。
見たことがない、まりなの表情だった。
「力づくで奪えばいいじゃん♡ え、できないの? ざっこーぉ♡」
膝を折って屈んでくるまりなが、来翔の空っぽな濃色の瞳を覗き込んだ。
目一杯に入り込んでくるまりな。緩やかに持ち上がった口元。その笑みは優しさなんてなく、むしろ冷たさをはらんだ熱を帯びている。
細められた瞳の奥には、来翔の反応を観察し、弄ぶことそのものに酔う光。
頬に浮かぶかすかな紅潮は、快感が内側から滲んでいるだけだ。
「かわいそーなクソ虫♡ 逃げられて一人だけにされるとか、お前のママも、こんな感じだったのかもね♡」
「……は? ぅ────」
明け透け──否、ボロボロで糸で取り繕っただけの、実は穴だらけだった来翔の胸中に入り込んだ棘。入り込んで、目の奥が、鼻の奥がつんと痛くなるとき、背景がブレた。
いや、背景ではなく。
「じゃあねー」
来翔自身が、横になったのだ。
来翔の頭、横っ面を蹴り抜いたまりなが手を振って離れていく。
体の中が冷えたようにかじかんできて、来翔の体が起き上がることはない。ただ、最後の抵抗のように手だけが小さくなっていくまりなの背に重ねて。
重ね、て──
バタっ……