『小鳥遊来翔はハナサナイ』   作:リクライ

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第五話 ケンカのわけ

 

 

「ご、ごめんっピ……」

 

 なぜタコピーの姿がしずかの姿でまりなの前に立っているのか。

 ことは少し前までに遡る。

 

 

 

 

 テッテレー!

 

「へんしんパレット!」

 

 時間は戻って、しずかとタコピーがトイレにいたときに遡る。

 タコピーが勢いよく懐から取り出したのはピンクの色をした折り畳みの携帯──のようなもの。蓋には星型の意匠が施されていて、ニチアサのアニメを見ている人であればこれが何らかのアイテムであるということはわかるだろう。それくらいにファンシーでシンプルなデザインだ。

 

「誰かの体の一部を取り込むと、このハッピー道具が使えるんだっピよ。しずかちゃん、何かないっピか?」

 

 頭を傾けるタコピー。

 言葉を聞き入れたしずかは少しの時間考えると、前髪に手を伸ばし、抜けそうなものを数本取った。

 

「そのしずかちゃんの体の一部を取り込んで……」

 

 指に摘まれた片手で数えられる程度の髪の毛をしずかが道具の蓋に乗せる。

 すると、蓋に刻まれた黄色の星に溶け入るように吸い込まれていく。黄色だった星は虹模様に色を変える。

 そこに、タコピーの触手が重なると──、

 

 ピッ──

 

「スイッチを押すっピと──」

 

 機械的な高音が一度鳴った。そのとき、タコピーの体に不思議なことが起こった。

 個室トイレに広がる眩い光。カメラ越しに映る太陽の閃光はタコピーから放たれるものであり、しずかの視界が光でいっぱいとなる。

 

「相手の姿に変身できるんだっピ!」

 

 煌々とした光から瞼を閉じて呻くしずかの耳に聞き覚えのある声がした。それはこの世に生まれ落ちて十二年付き合ってきた──しずか自身の声だ。

 光が収まるにつれ、しずかの目はタコピーのいた下の方へと視線が注がれる。

 そこにタコピーはいなかった。──二本の足があった。

 

「わ……」

 

 気だるげにしずかの顔が上へと昇ると、そこにはしずか自身の顔があった。とは言っても、晴れやかな顔で、テンションの高いところが違い。あとは全てしずかそのものだった。

 しずかの姿へと変貌を遂げたタコピーがニカッと相合を崩して、元気に二本指を立てる。

 

「しずかちゃんはトイレで待ってて! ぼくがおはなししてくるっピから!」

 

 快活に言葉を舌に乗せて飛ばすしずか(タコピー)が待たずして扉を開けるとそのまま外へと飛び出し、さっそくまりなとの仲直りに一躍買って出たのだった。

 

 その背中を諦観に色を沈ませる黒い双眸が、冷たく刺すように見ていることには気付かずに。

 

 

 

 

 ひどくさせないために、ぼくが仲直りさせちゃうっピ!

 

 人知れず意気込むタコピーは初めて話すまりなへと歩き始めた。

 肩にかかる髪を後ろへと払いのけるまりなの口角は上がっていて、とりあえずつかみとしては成功か。

 

「……なにその喋り方。変なのー」

 

 口元を隠して上品にするまりなの口調は至って普通だ。それどころか、来翔と話している時よりもどこか楽しげ。

 話の入りは大丈夫そうだと、安堵するタコピーの足は緊張を忘れ、ずいずいとまりなの前へと進んでいく。

 

「あっあのねまりなちゃん」

 

 来翔くんもまりなちゃんといっぱい仲良くおはなししてたんだから、きっと仲直りできるんだっピ。

 大変なケンカだって、ちゃんとおはなしすれば──

 

「ちょうどぼくも、おはなししようと思っててっピ──」

 

 きっと──

 

 パチンッ

 

 するすると抜けていく言葉。それが、乾いた音によって遮られた。

 

「────」

 

「いやキモいってその話し方。やめてって言ってんの」

 

 くるりと入れ替わるように、笑みから煩わしげに顔を歪めるまりな。視界の左端にはまりなの平手があって、顔が熱い。

 左からのぶつかった衝撃で視線が顔ごと逸れるタコピー──しずかは目を見開いて僅かに固まった。

 何が起こったのか。

 理解よりも先に、今にも崩れ落ちそうな足で地面に立って、恐る恐る顔を──、

 

「あ、ごめんっピ……」

 

 合わせ──

 

 パチンッ

 

 視界が大きくぶれて、膝が崩れ落ちる。しずかは二度も打たれて熱く焼かれる頬に手を当てて震えていた。

 

「急にアニオタか? ぼくとかピとか……。キモいのは知ってたけど、クソ男と被るしうざい。嫌だからやめてね」

 

「ご……ごめんなさ……」

 

「で話なんだけど」

 

 伏し目となるしずかが赤く腫れた頬に手を当てても見上げるも、言葉がそれを遮る。

 しずかを見下ろすまりなの黄色の双眸は冷たく、じっとこちらを見ていた。

 

 あれ?

 

「お前最近さあ、調子乗ってるよね。給食とか」

 

 話すっていうか……

 

「税金もろくに納めてないくせに」

 

 ほっべが熱いっピ。

 

「宿題もさあ、男の陰で自信満々に答えちゃって」

 

 ハッピー星では、あんなに強く相手を触ることはないっピ。

 

「インテリぶりたいの?」

 

 立てないっピ。なんか涙が──……

 

 じわじわと湧き出てくる、喉を絞って鼻の奥がつんと熱くなるものがしずかに襲いかかる。視界は歪んできて、瞬きするたびにそれは粒として固まり、頬を伝う。

 頭を揺らす動揺が小刻みに黒い瞳を揺らす中、しずかはその目で恐る恐る、頭上で何かを『はなし』ているまりなを見上げた。

 来翔とは違う、黒い感情に目を光らせるまりな。その二つ眼は獰猛で、まるで蛇にでも睨まれたようにしずかの体が動かない。

 

「何?」

 

「──ぇっ」

 

 思考が追いつかないまま、しずかを置いていって世界は、まりなは進む。まりなの靴底がもうしずかの目と鼻の先にあった。

 しずかの体は動かない。自分の体が、自分のものではないかのように小刻みにしか動けない。

 

「なんでもな──」

 

 怖い──

 

「あ゛っ……」

 

 靴底で片方の視界が埋まった瞬間、頭が後ろに持っていかれる。しずかの体は易々と後ろへと押し飛ばされ、倒された。

 体が上へはねる。顔が熱い。痛い。怖い。どうして。

 

「ちゃんと話聞こうよー」

 

「まりなちゃ……あの──」

 

 見上げ、黒い前髪が掃けた先にあったのは、すぐそこにまで差し迫るまりなの片足。それを見て、視界が奥へ引き込まれる感覚に陥る束の間、大きく小さな体がぶれ、地面に転がる。

 瞬間、呼吸が止まる。

 蹴り上げたまりなのローファーが、しずかの喉を突いたからだ。

 もはや痛いとも熱いともわからない。ただ呼吸ができず、次々と瞳から涙をこぼれ落とすしずかは陸に上がった魚のように跳ねていた。

 

「うっ、けほっこほっ……」

 

「気安く呼ぶなって!」

 

「うぁっ」

 

 手を地面に立て、起きあがろうとするしずかにまりなの後ろへ引かれた足が襲いかかる。

 つま先がしずかの額を打って、軽々と体を吹き飛ばす。力いっぱいに。加減なしに。

 

「感染るからアバズレが!」

 

「うぅ……こほっ、まり──ぅ……」

 

 倒れた身体。土の上に転がる身体。

 起き上がって、肺にわずかに残った空気で言葉を絞ろうとするしずかの、その脇腹に衝撃。

 ゴリッ、と鈍く圧されるような感触がしずかの体にのたうちまわり、吐き出しそうな息が喉の奥で詰まる。

 靴底がめり込む。肋が軋む。

 

 怖い怖いこわいこわい──痛い。

 痛い。痛い痛い。声が出ないっピ。

 つらい。泣きたい。逃げたい。

 

 体重ごとねじ込まれていた足が離れていく。涙と共に喉が詰まって、吸った空気が跳ね返った。

 しずかの口から小さな嗚咽が漏れ、胸が震え始める。

 待ち望んだはずの空気が苦しくて、黒くなりかけていた視界が一気に真っ白に染め上げられた。

 涙によって焦点の合わない視界。白飛びしている視界。

 その中には、アスファルトを直射して大気を揺らして真っ白にする陽光の中で、右手にピンクのリボンを伸ばす小さな後ろ姿が視える。

 

「しずかちゃ……」

 

 でも──

 

「まりなちゃん!!」

 

 強く瞼を閉じ、勢いよく地面から上体を離すしずかが叫んで、そして息を吸い込んだ。軋む肋を度外視にして、奥歯を噛み締めたしずかが目を見開く。

 迷う口。構わない。今ここで必要なのは、相手に話すことなのだから。

 

「あのねっ、まりなちゃんが……なんでこんなことするのかわからないけどっ。でも話せばきっとわかるはずだから……だから──っ!」

 

「お前にだけは」

 

 熱のこもった言葉がたった一つの、それも言いかけの言葉でかき消えた。

 今までの踏み込もうとした決意の足が、降ってくる視線に怖気付く。見上げた先にあったのは、熱を持たない瞳──氷のように澄んでいて、何も映さない。

 その冷ややかさが、しずかの背筋を撫でて痛みを忘れさせる。

 

「お前にだけは言われたくない。この人間のクズ」

 

「ぁ──ぇ──」

 

 蛇に睨まれたカエルのように体が動かせず黄色い瞳しか見れない中、まりなが近づいてくる。しずかの呼吸が奥へ引っ込んでいくのに比例して、まりなの右手が伸びてくる。

 

「い゛」

 

「男に寄生して生きているアバズレが道徳語ってる暇あるなら──パパを返してよ……」

 

 額に痛みが走る。

 前髪を掴まれた瞬間、首が勝手に引き寄せられ、無意識に瞼を強く瞑ってしまった。

 だが、逃げようとする間もなく、振り解こうとする腕が動く間もなく、顔が強引にまりなの間近へと引き寄せられる。

 真っ黒な色を声に滲ませるまりな。土に汚れたしずかの黒髪を力任せに引き上げ、もう片方の手でスカートのポケットを弄って出てきたのはシャープペンシル。

 それが親指で押され、先端の尖った芯を出すペンがしずかの片目へと定まった。 

 

「ま、まりなちゃん待って────ピ」

 

「だから」

 

 あ、これ。

 

 瞠目するしずかの目に映りこんだのは、極限にまで冷え込んだ黄色い瞳と、振り被る右手に握り込まれたペン。

 ──狙いは、片目。

 

「その喋り方やめろって──」

 

 迷いなく振り下ろされる寸前。空気が圧縮されるような、静かに爆ぜる音が、

 

 無理だ──。

 

 鳴った。

 

 

 

 

「タコピー?」「タコピー?」

 

 夕暮れ。身体をオレンジ色の陽光が身体を打つ中、しずかと来翔の声が重なり合う。

 優しく、心配するような二人の声にタコピーは吐き出された写真がついたままのカメラを、そっと下ろした。

 

「だ、大丈夫かよタコピー」

 

 カメラを撮る寸前のタコピーの態度の代わり具合に落ち着きを失う来翔が、そっとタコピーを抱き上げて暖かく撫でる。

 体が熱を失ったところから温まる感覚に陥るタコピーは左右に揺れるまま、触手の力を落とした。

 

「…………明日の、宿題の答えは──」

 

 

 

 

 次の日。

 登校し、小学校の門を越える子どもたち。夜を開け、路を歩き、友だちに挨拶を交わす言葉がそこら中で響く。

 その中、並んで歩くしずかと来翔。

 ハッピー花を頭に咲かすタコピーはしずかの肩に止まって、考えに後ろへと流れていく地面に目を沈ませた。

 

 なんで、あんなことするんだっピか?

 そうだ……確か──

 

『お前最近さあ、調子乗ってるよね』

 

『給食とか』

 

『宿題も男の陰で自信満々に答えちゃって』

 

 あれ?

 

 

 

 

「⑵は162です……」

 

「「おおーっ」」

 

 ぼくのせいだっピ?

 

 

 

 

「……じゃあ、行ってくるね」

 

 扉を開けて、俯いて顔に影を落とすしずかが歩いていく。まりなの待つ──体育館倉庫へ。

 タコピーは扉が閉まって見えなくなる小さなしずかの背中を追っていた。

 

 ぼくのせいで、しずかちゃんがひどい目に遭う。

 やっぱりぼくが、代わってあげるべきだっピ。

 

 黒くて丸い小さな目を瞑り、タコピーは身体をこわばらせる。冷たいタイルの感触が触手に伝わって、緊張に固まるのを弾くように。

 

 今度こそうまく仲直りできるかも! 早く行くっピよ。

 ──行くっピ。

 

 一歩。踏み出しかけたタコピーの触手が、

 

『──』

 

 止まる。伸ばしかけた触手は、結局伸ばしかける範疇にとどまるしかなくて、そっと引き戻した。

 目を、まりなの黄色い目を思い出してしまう。怒気をたたえた黄色い双眸を。

 

「……」

 

 怖くて、一歩も動けないっピ……。

 

「しずかちゃん……」

 

 窓から差し込む日がタコピーの背中を当てて、丸い影が落ちる。頬を伝って落ちてくる雫もまた床に、落ちる。落ちていく。

 

 助けたいのに、代わってあげたいのに……ぼくは、ぼくが意気地なしだから……。

 

「でも」

 

 だからは、やらない言い訳にはならない。

 

 せめて、できることをやらなきゃ──!

 

 タコピーの心に刻まれ、傷跡となって残り続ける恐怖心。深い爪痕だ。けれども、

 

「しずかちゃん」

 

 足を引っ張るものではない。

 懐から取り出した折り畳まれたピンクの箱。へんしんパレットを手にしたタコピーが扉を開け、廊下を走る。

 いや、もうタコピーではない。しずかが、足にしがみつく恐怖から逃れて廊下を走る。短い距離で息が切れる中でも息を吸って──

 

「せんせいっ、先生っ!」

 

 涙で視界が滲む。

 息が詰まりそうになるほど走って、それでも恐怖から逃げて、なおも前へ進んでいく足は止まらなかった。

 

「だれかっ! 体育館倉庫に……」

 

 瞬いて、まつげに乗る涙が弾ける。

 

「助けてええ──っ!!」

 

 

 

 

「なんなんだっピ……」

 

 しずかの姿を解いてお花ピンを頭に刺したタコピーは誰から見ても今や透明だ。だから体育館倉庫に向かう大人たちに紛れても何も異物感なんてものはわからない。

 そんなはずだった。先生が体育館倉庫に行って、立ち止まっているのだ。

 当然思うだろう。まりながしずかを叩いている。痛めつけている。早く止めろ。

 タコピーだって今すぐにでも飛び出して行きたかったのに、でもできなかった。

 

「まりなちゃんだって、ほんとはわかってるんでしょ!? こんなことしたって、なにも変わらないこと──」

 

「うるさい──ッ!! アバズレ女に誑かされたクソ男が、道徳なんか語ってんな!」

 

「ぅ──」

 

 言い争った後、肉を打つ鈍い音と共に少年の呻き声が響き渡る。吐き出された言葉が文字通り激怒の感情で顔を歪ませるまりなの蹴りで一蹴された。

 タコピーの目の前で、来翔が蹴り飛ばされる。あの刻のタコピーと同じように。

 土の上を転がりパーカーを汚す来翔が腹を抱え、うずくまる。だが、拳を地面に叩きつけると、唇を切って滲み出てくる血を袖でぬぐい、立ち上がった。

 

「まり……ちゃん」

 

「──ッ! 気安く、お前が……お前がその名前で呼ぶな!! クソ男が!」

 

「うぁ……」

 

 息を切らし、朧げに舌を回した来翔に息を呑むまりなが奥歯を噛み締めて叩く。来翔の左頬がなくなるくらい、何度も何度も情動を叩きつけて。

 

「あいつさえいなければ……」

 

「ひっ──」

 

「お前さえいなければ!!」

 

 手を土で汚して四つん這いになる来翔を吐き捨てるまりなが、尻餅をついて息の仕方を忘れたように震えすしずかに怒号を飛ばした。

 下唇を噛み締めて今すぐにでも飛びかかりかける身体を抑えるまりなが、震えて動けないしずかへじわじわと歩いていく。

 

「ま、って……」

 

 

 下からかかる声と足にかかる引く力が、眉間に深い皺を刻むまりなの歩みを止めさせる。

 

 

「まてよ……!」

 

 眉は吊り上がり、ゆっくりと後ろをみやるまりなの足元には、足首を掴む来翔がいた。

 息も絶え絶えで、弱々しい。しかし、濃色の瞳は霞むどころか、ますます光を宿すばかり。

 

「話せよ──ッ!」

 

「──っ」

 

「話せよ、全部! 俺たちは、友達じゃんか! 困ったこと、わかんないこと、なんだっていいんだよ! く……ぅ!」

 

 足を止めるまりなの背中に悪寒を感じるほどの視線。この惨状を見るタコピーは触手をわなわなと震わせて、物陰から顔を覗き込んでいた。

 

 どうして、どうして来翔くんはまりなちゃんとお話しすることができるんだっピ……?

 あんなに、怖くて痛いのに……どうして?

 

 めげず足を地面に突き立てて起き上がる来翔がまりなの両肩を掴む。

 タコピーは訳がわからずにいた。いっときはしずかの姿に化けてまりなの前に出て『おはなし』したのだ。だからこそわからない。

 傷ついてもなお、まりなに話そうとする来翔がわからない。

 

「──ちょっと二人とも、そこまでにしなさい」

 

 そこに、ただ傍観していた女教師が今になって横から槍を入れた。悠々と気だるげに、ぶっきらぼうに歩いて。

 俯いたままなにも言わないまりなと、両肩に手を乗せて見つめる来翔。二人が先生の手によって離れていく。切り離されていく。

 

「待って! まりなちゃん!」

 

「──違う」

 

 興味をなくしたようにふらりと離れていくまりなが呟く。

 なにも宿っていない声。それはさっきまで激情に駆られ声を荒げていたとは思えないほど、業火が鎮火していた。

 答えてくれた。しかしそれは、来翔の思っていた言葉ではなかった。

 小さく吐息する来翔へ、徐々にまりなが様相を見せた。

 

 ピッ……

 

 建物の影からのぞくタコピーの体が逃げようとして跳ねる。

 まりなの目は冷たかった。

 なにも映さない湖面のように、来翔の言葉一つにすら一滴の波紋も起きない。その黄色い双眸が、来翔へ氷柱を伸ばし、突き刺す。

 

「お前みたいなアバズレに寄生されるクソ男なんか、友達じゃなかったんだよ」

 

「…………ぁ、は?」

 

 来翔の伸ばそうとした左手は力が抜けて、地面にだらりと下がる。

 あんなにまで輝いていた来翔の瞳が嘘のように消え、瞬きだけが繰り返し起こった。情報過多に追いつこうとしているように。

 まりなが角を曲がる。みんなの目から見えなくなるそのときまで、ずっとまりなの目は冷たかった。

 落ちていく来翔の肩。それを影から顔を出すタコピーは見つめていた。

 

 来翔くんは……

 

 

 

 

 

「僕にできることがあったらなんでもいってよ」

 

 あれから何事かはあったものの、それっきりまりなの手によってものがなくなったりすることはおさまった。それでも次になればまた元通りになるかもしれないが。

 目を伏せるしずかと未だに痛む左頬をさする来翔。その正面に柔らかい、真面目な印象を与えてくれる少年がいた。

 

「……うん、東くん」

 

 青い半袖シャツにグレーの半ズボン。特徴的な黒フレームの眼鏡を身につける少年。東だ。

 隣にいる来翔に目を向けるものの、彼の黒い瞳はすぐしずかの方へと歩く。

 

「次の学級会の議題にしようか? 来週の水曜だから」

 

「うん。でも……」

 

 話を途中で区切り、口を結ぶしずかが意識を向けたのは左手を見て開けたり閉じたりする来翔だ。

 東もしずかの動きに釣られて、薄汚れた服となったパーカーを纏う来翔へと向かう。怪訝そうな色を浮かばせた。

 沈黙が風塵と共に連れて来られる中、来翔が二人の視線に気づくと、

 

「あ、ぁぁ、僕は全然全然。へーきだし、痛くないよ」

 

 あれだけ傷ついてもなお、頬の傷程度で済んだのは奇跡だろう。起こった時点で奇跡ではなくなったのだが。

 頭をかいて「へへ」と笑う来翔の眉間は皺が刻まれていて隠し切れてはいない仮初の笑み。

 東から貼り付けたような不器用な来翔の笑みを降りかけられたしずかはそっと目を地面に落として背を向ける。

 

「……じゃあ」

 

「ちっ、違う先生に相談するとかは!? 体育の保土谷先生とか。僕は児童会でよく会うから。あの人ちょっと怖いし──」

 

「ううん」

 

 続け様に思いつく限りの退路を提案する東の口を風に飛んでいくほどの弱々しいしずかの言葉が横入りした。

 しずかの背は歩いて左右に揺れるたびにどんどん小さくなっていって、その勢いはずっと続く。疲労が混じる来翔の吐息が聞こえても、しずかは振り返ることはない。

 

「どうせ──変わらないよ。…………じゃあね」

 

「…………。じゃあ……」

 

 手を振ることも叶わず、東はもう届くはずのない手を力なく下ろす。

 

「じゃあ、僕も……」

 

「待って小鳥遊くん。小鳥遊くんも何か、僕にできることなら……」

 

「大丈夫。大丈夫だから。ほら、ほっぺたのやつとか最初は痛かったけど今なんてヒリヒリするだけだしさ。それを言うんだったらさ、直樹くんだってしっかりしてよ」

 

「──ぇ、ぅ、うん。僕は学級委員長だし、ちゃんと期待に応えるよ」

 

 堅物な東の受け答えに「いや……そうじゃなくて」と自身の首をなでつける来翔が唸る。その反応に東が人知れず固唾を飲むと程なくして、来翔が頷いた。

 

「あんまりそういう期待とかじゃなくて、もっと……なんていうのかなぁ。そうっ、余裕持てよ」

 

「……はあ? こ、こんなボロボロなのに、『余裕』? ……そんなの、小鳥遊くんだから言えるんじゃないの? 僕は……そんなふうになれないよ」

 

「そりゃ、なんでもできるやつなんていないよ……別に誰かになる必要なんてないわけだし」

 

 カラカラと笑う来翔が目尻を下げて自分の胸に指を刺す。

 

「最初は真似っこでも、直樹くんの中には、本当の直樹くんがいるんでしょ。僕が僕なのと同じでさ、直樹くんだってほんとうはすごいじゃん」

 

「……うん。ありが、とう……小鳥遊くん」

 

 見た目は傷だらけで、殴打痕を隠すガーゼの貼られた左頬。体だってほんとうは傷んでいるはずだ。なのに、太陽のように眩しく感じる来翔の笑みに、東の肩に乗る力がスルリと抜けたようだった。

 両手で肩紐を掴んだ来翔は体を跳ねさせると、教科書と筆入れが中で暴れる音が鳴る。

 顔の締まりが緩み、少し憂う東は帰り道に足を乗せて、

 

「このあとさ、なんもない?」

 

「いや、今日はもう早く帰って勉強しないと」

 

「じゃあちょうどよかった!」

 

 オレンジの日に照らされる中でも一際キラキラと輝かせた瞳をする来翔が握り拳を天へ掲げた。

 突然の行動とテンションに怪訝そうに眉を顰める東であったが、帰ろうとする足を今一度来翔へ向かせた。

 

「いつもしずかちゃんといる公園があるんだけどさ。ほら学校行くまでの途中にある公園。あそこで三人で勉強会しようと思うんだけどどう?」

 

「う、うん……でも、僕なんか……」

 

 口ごもるのを見て、来翔はにっと笑って、軽く肩を叩く。

 

「なんだよ、ほんのチョッチ欲張るだけいいじゃんか。僕、説明苦手だからしずかちゃんも助かると思うし」

 

 眉を下げて困る来翔に東は目を見開くと、眼鏡を押し上げながらしばらく黙っていた。

 けれど、こくりと頷いて、少しだけ口元を緩む。

 

「……じゃあ、僕も」

 

「よし、決まり! へへっ……いこう!」

 

 爽快に花を咲かせる来翔は白い歯を見せてみせると焦り走りに東の隣につく。

 その様子を見て、東がためらいながら来翔と共に一歩を踏み出した。その足運びは普段よりも軽く感じた。

 少し急足で帰路を重ねる来翔と東。二人の背中には暖かに背中を押してくれる追い風がふく。

 

 

 

 

 

 

 

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