*ハッピー星より着陸四日……
「ねぇ、今日は僕の家で勉強会しない?」
特に変わり映えのない学校生活の一日を終え、あくびをしながら帰路につく者や友達と競争しながら家へと走っていく者。門前が開放感で賑わう中、人の流れという川の真ん中に駐在する石のように止まる三人がいた。
昨日同様、勉強会を誘う来翔と、それに関心のなさそうなしずかと、少し気まずそうにする東。
「ごめん小鳥遊くん。お母さんが昨日のことでちょっと怒られちゃってさ。でも……昨日は、昨日は本当に楽しかったし、また久世さんと……君とで勉強会やりたい。っていうか、やらない?」
「おー、そう言ってくれて僕も嬉しいっ。説明のとき助かったし……やっぱり人、多いと楽しいでしょ?」
「それは……そう、だね。見えなかったものが見えるようになったっていうか……少しだけね」
頬を人差し指で掻きつつも、軽快に話してくる来翔へ少し照れ笑いを浮かべる東の表情は少し自然そう。
そんな二人の話を平然とした表情で眺めるしずかだが、実際は眼中にも入っていない。その脳内は名犬チャッピーが駆け回っていて忙しなくて、耳に入る会話は朧げだ。
「よかった。そういえば、直樹くんって兄ちゃんいるっけ?」
「じゅ、潤也のことか? ……いるけど」
「やっぱり? じゃあ……」
上から舞い降りてきた直感に従うまま聞いて見る来翔だったが予想は的中。
やや明るげだった東の顔に翳りが掛かって、メガネの奥の瞳はさっきとは打って変わり陰鬱としている。どこか後ろめたそうで、呼吸ひとつするだけで東の方は落ちていきそうだ。
だが、東の考えていたものは、
「──直樹くんに似てて、きっといいやつなんだね」
「え?」
後ろから押されたような衝撃だった。杞憂だった。
言葉を置くように空を見上げる来翔。何気ないようで、どこか迷いのない声。その響きが、東の胸の奥をジワリと打った。
優しげに贈られた来翔の虚をつく言葉に、東は面を食らって思わず眉を寄せてしまう。
「僕に……似て?」
「おん」
即答である。
喉を震わせ、おずおずと尋ねた東に対し、来翔はあっけらかんとした受け答えで頷いた。
「なんで……」
「ん?」
「なんで小鳥遊くんは……そんなこと言えるんだよ」
「だって僕の目の前にいるの直樹くんじゃん」
「え、は?」
あからさまに狼狽えて顎を落としかける東に腰に手をついて片眉をあげた来翔は呆れたように呟いた。
電気を通され感電したように固まる東は呼吸も忘れ、ただレンズ越しに映る来翔を見る。
「なんだよじっと見て。なんか変なこと言ったか僕が」
ぽかんと口を開けたまま見つめてくる東に、いよいよ耐えられなくなった来翔は不満げに口を曲げた。
夏の生暖かい空気に乗る来翔の生意気な声。東の鼓膜を揺らせば意識が引き戻され、疲れたようなため息をしてみせると、
「……ばかやろう」
罵倒が飛んだ。
「え!? なんで僕バカって言われるのさー」
「やっぱバカじゃん。ばか。バカ来翔」
「お前、バカっていいすぎだろ! バカっていう方がバカじゃんか! バカ直樹!」
足をバタバタと地面へ当たり、上昇する思いのままに腕をぶん回す来翔。
だが、東に──直樹に当たってくる来翔の言葉はくすぐったくて、さっきまでの強張りが嘘みたいにほどけていった。
「何回でも言ってやるよ。ははっ、バカ来翔」
小学四年生らしい、くだらないことで意地を張る来翔と直樹。いや意地を張っているのはどちらだといえば、間違いなく来翔の方だ。
そんな二人の姿。楽しげな空気に振り向かされつつあったしずか。少し汚れてはいるものの、その頬は柔らかく、助けそうな質感だ。それがほんの少しだけ、緩む。
「……ふふっ」
小さく、けれど確かにこぼれた笑い声。
なんて事のない事で言い合い、そして確かに笑う二人には届かず、時たま強く吹いた風によって連れて行かれていった。
*
*
「じゃあ勉強会はまた今度ね。また明日!」
「うん。二人とも、また明日。気をつけてね」
顔を綻ばせる直樹が別々の帰路へ別れてしまう前に、来翔としずかへ手を振って次に合うまじないをする。
手を振る来翔の横、顔を向けて少しばかり微笑むしずかに息を呑む直樹ではあったが、気を取り直し、帰り道に乗って歩いていった。
タコピーは、そんなありきたりな話。それでいて笑い合って話す光景を目に映していたのだ。
笑って、話す。
まりなちゃんのときに似ていたっピけど、来翔くんと東くんはずっと楽しそうだったっピし、強く触ることもしてなかった。
「どう? しずかちゃん」
唐突な来翔の問いに、肩に止まるタコピーとしずかはゆっくりと顔を向ける。
しずかの瞳にはいつも通りの静けさ。けれども、完全な無関心というわけではなかった。
「何が」
「直樹くんさ。ちょっとだけ、変わってきてるでしょ?」
歩くたびに小さくなっていく直樹の背負うランドセルをどこか遠い目で見る来翔。
来翔くんは、嬉しそうっピね。
みんなとたっくさん、おはなしして、痛くても、怖くても、話す。来翔くんは不思議っピ。
振り向いて、一緒に歩みを進めていくとき、地面に落ちる自己の影を眺めるしずかとは対称で、来翔はだんだんと顔を上げて、青色に黄色が差し込んでくる大空を仰ぐようにして笑った。
遠い目をする来翔の微笑みは温かく、どこか満ち足りているよう。
「変わらないことなんてないんだーって……ちょっとだけ、わかった」
その言葉に、しずかはほんの少し、歩く足を緩めた。
小さな沈黙の後、しずかは前を向いたまま、ふっと息を吐くようにして答える。
「……そうかもね」
それは、ありがとうでも、嬉しいでもない。
でも、肩に止まるタコピーにはわかる。しずかの唇が少し緩んで、わずかな弧を描いていることが。
和らげな面持ちを目の当たりにしたタコピーはぽっと頬を赤らめると顔を振って熱を逃した。
「タコピー?」
「な、なんでもないっピ! それよりも、来翔くんの家がぼくは気になるっピよ!」
気を取り直すようにしずかの細い肩から飛び降りて、来翔としずかの間に入るタコピーがわちゃわちゃと体を動かす。
しずかは思い出したように息を吸い込むと、思い悩みげに口を直線にした。
「今日はお母さんがチャッピーにご飯あげたと思うんだけど……」
「心配?」
「……うん」
そわそわとチャッピーのことが気が気でないしずかが視線を逸らして頷く。
肩を小さくすくめる来翔は顎に指を置いて考えると、名案ここに浮かんだのか指を鳴らした。
「じゃあさ、チャッピーを連れてくるとかどう? チャッピーが小さい頃、しずかちゃん、ぼくの家で遊んだこともあったし」
「…………。あったっけ?」「そうなんだっピか?」
「あったよっ」
可愛らしげに頭の上にはてなマークを浮かべるしずかへ、来翔が頭を抱えて根を上げる。
タコピーは知らないのは無理もないにしろ、忘却の彼方へゴーシュートするのは酷すぎると、来翔はため息と共に思う。
しかしながら今後の方針が決まれば進むべき道は決まった。
「じゃあ俺の家で勉強会は決まり!」
「あったねそういうの」
「忘れんなっ」
*
*
「そういえば、来翔くんのお母さんって家にいるんだっピか?」
「わうわう」
空の色も青色から黄色へ。本格的に夕暮れになる一歩手前に差し掛かったとき、タコピーが突然に言い出し、リードに繋がれたチャッピーもまた便乗するように声を上げる。
記憶にある限り、しずかの家では母親は仕事に出ていて家がガラ空きになっていたことをタコピーは知っていた。
「ここ最近……って言っても、もう結構前から帰るのが遅くなってる。だから、今母さんは家にいないかな」
「しずかちゃんのママみたいな感じだっピか?」
「うーん、なんか『かんりしょく』? みたいな感じなのさ、母さんの仕事の立場。だから、人とたくさん話さないといけないし……まぁとにかくすごいんだ」
忙しそうだっピ……!
タコピーの中に繰り広げられる妄想の類。それは一人のハッピー星人がセコセコと歩いてもう一人、また一人と聞いて、そして集めている光景だ。
「だから、夜遅くに帰ってくるのも当たり前。ご飯なんかも、僕が作ってるんだよ?」
多分、いやきっと来翔は畑で一生懸命に野菜のお世話をしているのだと思うと、タコピーは憧れと尊敬の念を宿ったような目で来翔を見上げた。
「すごいっピ! 来翔くんは食べ物を作ることがができるんだっピね」
「食べ物は作れないけど」
「え?」
みょんみょんと頭を揺らすタコピーの頭が柔らかさを忘れたように止まる。
来翔は小さく肩をすくめるとそっけなく答える。
「農家さんじゃあるまいし……普通に切ったり焼いたり、給食みたいなのができるだけだよ。美味しいかは、わからないけど……」
「それでも、料理を作れるなんて来翔くんはすごいっピ!」
ぴょんぴょんとアスファルトの上を跳ねてタコピーが気分を担ぎ上げると、来翔は納得のいかないような表情をして視線を前へずらした。
「全然だよ。もっと……頑張らないと」
「ピ?」
来翔くんはしっかり者なんだっピね……!
どこか重みを感じる言葉を綴る来翔の後ろ姿をタコピーは見上げて、眺めていた。
「お、そろそろだよ」
不意に声をあげた来翔に一同が指差す方へと意識が向く。
坂を少し下ったしずかな住宅街に、来翔の家──小鳥遊家がある。二階建ての一軒家で、壁はうっすらと青みがかった白。日に焼けて、ところどころにくすみがあるが、無理に塗りに塗り直す気配はない。
新築ではないにしろ、古びすぎてもいない──ちょうどいい生活の匂いの感じられる家がそこに構えていた。
「わんわん!」
「待ってチャッピー……!」
抑え切れなかったか、余裕を持って垂れていた赤いリードがピンと張りしずかの手から離れると、チャッピーは歩いてもすぐつく家へと我先にと言わんばかりに走っていく。
振り回されころびかけるしずかが、なんとか足を前に出して立て直すも、見上げた先のチャッピーは門をこえて庭へ入り込んでいった。
「よかった。まだ覚えててくれてたんだ」
「そうみたい。チャッピーがあんなにはしゃいじゃうなんて……来翔くんそういえば、犬、飼ってたよね。ロイって子」
頬をわずかに赤く染めるしずかが、安堵に胸を撫で下ろす来翔へと並ぶ。
二人はロイという名に覚えがあるのか和やかだが、たった一人首を傾げるピンクボールがいた。
「ロイ?」
「あー……タコピーには言ってなかったし、知らなくても無理ないや。僕の家でもチャッピーみたいなワンちゃん飼ってたんだ」
チャッピーと同じ生き物……きっとでかいんだっピね! 。
視線は自宅に向かったまま、タコピーには目を合わせない来翔は歩みを進め、敷地を跨いでいく。
隣を歩くしずかもどこか表情を和らげていて、目線は庭の方へと飛んだ。
すると、しずかが首を傾げる。
「ロイ、静かだね」
チャッピーと遊んでいるとするならば、きっとじゃれあって芝生を踏む音が騒がしくしていただろう。
だが、聞こえてくるのは一匹が走り回る音と、パンティング。
「実は、なんだけどさ……」
問いをかけられる来翔は言い淀み、重い息を芝生へと吐いた。
目を向ける先、尻尾を下げて鼻を使うチャッピーがそこにいた。
あれ? ロイいないっピ?
庭を張って入るタコピー。背後のしずかと来翔の視線をそのままにして、切り揃えられた緑の海を見渡す。
手入れの行き届いた庭。家の外壁のそばには『ロイ』と書かれた看板のある犬小屋が置いてある。しかし、中はもぬけの空で、寂しさだけがそこを通り過ぎた。
「死んじゃったんだ、ロイ。しずかちゃんがあまり来なくなって、今から二年前にね?」
健気にここにはいないロイを探し回るチャッピーを申し訳なく見つめる来翔が肩を落としながら言った。
どもりはない。ただ詳らかに淡々と述べた来翔に、しずかとタコピーは一瞬意識に空白が占有される。
笑顔だった。でも、下唇をわずかに噛む来翔の笑顔は寂しげで、だからこそしずかは反応につまる。
「…………。そっか……」
「そこまで心配しなくても大丈夫だよ、しずかちゃん」
来翔くんはロイが死んじゃっても、平気なんだっピね。
目尻を下げ、しずかに笑いかける来翔に、タコピーは新たな知見を得たような気がした。
そんな中、ずっとロイを探しても埒が開かなかったチャッピーがしずかと来翔の元へ歩み寄ってくる。
「くぅーん……」
耳をぺたりと伏せ、しょんぼりと尻尾を力なく下げるチャッピー。
伏し目がちに見上げられる来翔は翳りを被せた笑みを吐息と共にやめてしまった。
「ごめん。チャッピーも……ロイに、会いたかったよね……」
チャッピーの頭に手を伸ばす来翔の顔に力がかかる。そのままチャッピーの頬に来翔の左手があてがわれふさふさな毛並みを堪能すると思った。
しかし、来翔の手は毛並みに触れることなくチャッピーの目の前で握られ、力なく地面へと垂れた。
「…………」
「来翔くん、どうしたっピか?」
「いや」
タコピーに首を振って、垂れ下がる来翔の前髪。
来翔はそれを掻き上げて、違和感に頭を揺らすタコピーへと瞳を落とした。
「──大丈夫。全然……大丈夫だから。それよりも、家入ろう?」
*
*
チャッピーをロイの小屋近くのデッキに繋げたあと、来翔としずかとタコピーは玄関へと向かった。
細長いすりガラスがついた木目の入っている玄関ドア。
懐をまさぐり取り出した鍵を来翔は鍵穴に差し込むと、つまみとなったモノを捻り、ロックが外れる。
金属のリングが鍵を高い音を奏でると、抜き取った来翔が夏の気温によって温められたドアノブを握り込んで引いた。
「はいどうぞ。ちょっと散らかってるけど、気にしないでね?」
「……おじゃまします」
「おじゃまするっピ!」
ちょっとした段差を飛び越えたタコピーが家の中へと上がり込んだ。
しずかの家とはまた違った趣を感じる室内。壁は綺麗で、服をかけられるラックが置いてある。靴を脱ぐすぐそばには絨毯が置いてあって、その正面には二階へと通ずる階段があった。
それに、
袋が多いっピね!
しずかと来翔が靴を脱いで上がる中、タコピーは自身よりも積まされた大きくて透明な袋を眺める。
中身は銀色の缶や金色の缶、茶色の缶。そして緑色のガラス瓶や透明のガラス瓶といったものが中身の大半を占めている。
それが、二つにとどまらず、五や六つと数が多い。ピンク色の袋もそれなりだ。
他に目が移るものといえば、
この写真はなんだっピ?
触手を伸ばし、両手で持ち上げた写真立て。それには青い車の前で無愛想に二本指を立てる、今よりも小さい来翔の姿。小さな来翔の両肩を屈んで包み、微笑む女性の姿があった。
このヒトが、来翔くんのママなんだっピね。
とすると、このゴミは来翔と母親が作ったもので、とても仲良しなのだろう。と、タコピーは写真立てを元あったところに丁寧に置き直しながら思ってたりもする。
そうして、扉を開ける音がしてタコピーが考えに浸っていた意識を引き戻すと、来翔としずかがリビングへ入っていくのを目にして慌てて駆け寄った。
「ランドセルはどっかに置いててもいいから! 僕、ちょっと二階上がってるね!」
ドタドタと走っていく来翔はさっき通り過ぎたドアをもう一度潜ると玄関を通り過ぎた。そのまま階段の入り口へと駆け込んでいって、階段を登る音が一階の天井越しから向かってくる。
ガチャガチャと、あれでもないこれでもないという声が聞こえてくるのは、ランドセルの蓋を開けた来翔が次々に教科書を取り出しているのだろう。
「しずかちゃんはどうするっピか」
「わたしは……とりあえず」
広々としたリビングを、二年という長い間遊びに行かなかったしずかが見渡した。あるところから一階と二階を隔てる天井がなくなって吹き抜けとなったところにはプロペラが回っており、窓からは黄色の日差しが差し込んで部屋に光を行き届かせている。
この吹き抜けがあるのだからこそ、しずかの家に比べてみてもこんなにもリビングに奥行きがあるように感じた。
その下には背の低いテーブルが置かれており、上にはエアコンのリモコンやテレビのリモコン。あとはつまみの袋なりなんなりといったゴミの類が広げられていた。
とりあえずはと、しずかは描き殴られてボロボロとなったランドセルを近くのソファーの陰へ置いて、一際大きい窓へと駆け寄った。
そこはデッキに通ずる窓であり、しずかがいそいそと白色のつまみを下げてロックを外すと。
「チャッピー!」
「わん!」
引き違い窓を大っぴらに開け、チャッピーがしずかへ飛びついた。
遊んでいるしずかを見、そして二階から来翔が降りてくる足音を背景に、タコピーはポツンとリビングの真ん中に佇む。
「しずかちゃん、ランドセル置いたら手洗ってよー」
「えー、そんなこと言ってなかったし」
「だったら今言ったー」
開いたままの扉から教科書とノートを二冊ずつ持った来翔にしずかがにらみを訊かせる。若干の上目使いで。
そんなもの知らんぷりで来翔は歩みを進めると手荷物をしずかのそばへ下ろし、腰に手を当てる。
「はい、手を洗おう。タコピーもね?」
「ピ?」
ぼくも手を洗うんだっピ?
タコピーは自身の触手を床から離して、目の前のばす。
道路を歩いたためか少しだけ汚れていた。その触手に陰がかかると、タコピーは唐突に持ち上げられて、
「──洗おうね?」
「ピ!?」
*
なんやかんやなんやかんや。
冷たい水で洗って暴れるタコピーを力技で押さえ込んだ来翔がハンドソープで泡だらけにし、水責めにしたり、お菓子を広げたら全部タコピーに食われてしまい、チャッピーに咥えさせてぶんぶんふりまわされたり。
一波乱も二波乱あったが、ようやくと落ち着いた来翔としずかは勉強タイムへと洒落込んだ。
「ねー、この四角のやつどうやったらいいの?」
来翔が早々に宿題を片付け、教科書の中身を雑誌のように寝そべりながら眺めている。
そんなとき、四つん這いでずりずりと距離を詰めるしずかが、来翔と教科書の間に開いたノートを差し込んだ。
眉をひそめる来翔は拙く書かれたL字の図形を眺めると体を起こす。
「それはあれだよ。あのー四角をこれして、かくかくしかじかして……」
何言ってるかわかんないっピ……。
指示語しかない壊滅的な説明が来翔の口からとめどなく流れてきて、タコピーがチャッピーと一緒に首を傾げた。
「来翔くん、なに言ってるかわかんないよー」
タコピーの内心と同じことを代弁したしずか。
頬にかかった髪をそっと耳の後ろにかき上げると、眉をハの字にするしずかは来翔へと顔を寄せる。
「東くんなら、わかりやすいのに……もっとがんばって、来翔くん」
「えー、これ今度の面積のテストなのに……えーとつまり、分解したらいいんだよ。L字のやつを、細長い四角と小さい四角の組み合わせって考えたら……」
「あ……解けた」
「ね? ちゃんと説明したから」
「来翔くんの説明……めずらしくわかりやすかったよ」
「でしょー……ん? めずらしく?」
耳につつかれた言葉に腕を組んで唸る来翔をよそに、しずかはサラサラと宿題に式を書き殴っていく。
サラサラカキカキ。
タコピーは蝉の音が日常へと再び溶け込んでいくのを耳にしながら、文字が刻まれていくしずかのノートに覗き込んだ。
……ぼくにはむずかしくってわかんないっピね。
「タコピー、ちょっと邪魔」
「ご、ごめんだっピ!」
好奇心にノートに触手を乗せていたとき、上から集中を妨げられたしずかの声にタコピーが退ける。
介入しようにも書かれているものは自分にはとてもではないが解くこともできないタコピーはしょんぼりとして、触手を手持ちぶたさに床へこすった。
……床をこすっていた触手の下から、微かな振動が伝わってくる。
……なんだっピ、これ?
タコピーがそっと頭を上げると、遠くから「ゴォォ……」という低い唸り声のような音が窓の向こうから聞こえてきた。
その音は少しずつ近づいてくる。大きな生き物が道を這ってくるように。
しきりに外を気になり出すタコピーの横、来翔が耳がぴくりと動くと外の方へ顔が回った。
「母さん?」
「来翔くんのママが帰ってきたんだっピ!?」
いそいそとお花ピンを取り出すタコピー。
頭に刺して、伸ばした触手で窓枠まで小さな体を引き寄せると、タコピーは恐る恐る外を注視した。
後ろから駐車場へと入ったのは鮮やかな群青のボディを持つ五つのドアの車だ。背中に灯る赤い光はまるで瞳のようにしずかな感情をたたえた光だ。
「写真にあった車だっピ……」
「タコピー、隠れないとまずいんじゃない?」
「ピっ!? そうだなんだっピよ!」
首が痛くなる広大な空のような色に見惚れていたタコピーがしずかの一声で我に帰って、バタバタと床を触手で踏んで走り回る。
慌てれば慌てるほど、焦燥は時計の針を後押ししてくる。
窓越しから車のドアの開く音が聞こえ、その次には女のため息。
そして──
バタン……。
低く、重たげに閉まるドアの音が窓を叩いた。
「まずいっピ! 何か、何かないっピ!?」
「透明になれる道具ないの?」
「わかんないっピ。あ、これなら!」
床に散らばったモアイ像に似た何かやピンク色の携帯を手早く回収したタコピーがジャンプし──、
金属の擦れ合う甲高い音が外から届き、ガチャリと玄関扉が開放。ヒールの音が空気を突くと──、
「たっだいまーっ!」
張り詰めた雰囲気の糸ごとぶっ飛ばす快活な知らせが玄関廊下に響き渡った。