遠くでも聞こえてくるビニール袋の擦れる音が廊下とリビングを隔てる扉から聞こえてくる。
最中。タコピーは手をいじる来翔とヨレヨレの白い半袖シャツの裾を握るしずかの頭のてっぺんを、ひいてはリビングという広い部屋を見下ろした。
そう、タコピーは今、
パタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタ……
なんとか間に合ったっピぃ……。
懸命に動く小さい翼の生えたハッピー花となって空中からリビングを見下ろしていた。
安堵に存在すらしない胸を撫で下ろすタコピーはそのまま定点カメラのように空中を止まって、しずかが帰るタイミングを見計らう。
「あら? 見慣れない靴あるわ。らいちゃん、お友だちー?」
「そうだよ。友達が遊びにきてるのー!」
「らいちゃんのお友だちが家に遊びにくるなんてぇ、二年ぶりなんじゃなーい?」
「とっと……」と、玄関先で靴を脱ぐのに手間取る来翔の母が慌ただしくしながら、リビングにいる来翔へ軽快に舌を回す。
程なくして、広間の扉のノブが回ると現れたるは──、
「たっだいまー!」
「おかえり、母さん」
「お、おじゃましてます……」
片手に酒や瓶、野菜なり肉なりと入った袋を持った女性だ。
ネイビーのスーツにパンツスタイル。仕事終わりのためか、着崩していた。
髪は黒髪。肩にかかるほどに整え、センターで分けられた前髪は、しっとりと目尻を掠める。
美麗で整った面持ちを、部屋の明かりに負けないくらい明るい笑みを浮かべて、呆れたように笑う来翔と縮こまるしずかへ向けた。
「母さんだなんて、無愛想ねぇ。昔みたいに、ママって呼んでもいいじゃない?」
「えー、やだ」
「まぁ、らいちゃんったら、いけず」
ニコニコする来翔の母は次にしずかへ目を向けると、驚嘆して目を丸くした。
「あらー、しずかちゃんじゃない! 久しぶりー元気してた? 大きくなってぇ」
「ひさしぶり、です。来翔くんのお母さん」
唐突なテンションの上がりようで部屋の気温が上がったとさえ気がしてしまう来翔の母のありように、しずかは目を合わせられず引き気味だ。
そんなのお構いなしに来翔の母親は黒い二つ眼をしずかへと向けて、下から上へと舐めるように見る。
LEDなんて目ではないほどの明るさを見せていた来翔の母親が一変。眉をひそめてしずかの髪に触れる。
「あらら……ちょっとどうしたのよ。こんなボロボロで……」
「別に、なんともないです……」
「そんなことないわ。お風呂貸してあげるし、今から入ってきなさい。体ピッカピカになれば心機一転、気分爽快」
屈んで、膝に手をのせてしずかの顔を覗き込む来翔の母。すっかり歓迎ムードとなってしまって、しずかは今更引くにも引けない状況になりかけているのだが、来翔の母親としては特に気にしていないのだ。
「でも、チャッピーと私……遊びにきただけで……もう帰ろうとしてたとこで……」
「女の子とワンちゃんだけで帰るなんて、それこそ危ないわよ。そうね──今日は泊まって行きなさい」
*
ということで、しずかが小鳥遊宅に泊まることとなった。
だがまだ、やることは残っているのだ。
波乱はまだ続く。気を取り直そうと前髪を掻き上げた来翔は作戦責任者である母親へと歩み寄った。
「じゃあ母さん。あのゴミ、片付けてくれるよね?」
「げ」
来翔の指を刺す方向へ油の切れたようなぎこちない動きで首を回す来翔の親。その先は惨状が繰り広げられていた。
いつも使うだろう食卓テーブル。上はコーヒーの缶やら缶ビール、果ては食べてそのまま放置された食器が陣取る。
目の下が逃避したそうに跳ねる来翔の母親は引き気味に口角を上げて来翔へ顔を向き合わせた。
「あ、あれやるの? ママが」
「そうだよ?」
有無を言わせないようにゆっくりと顔をあげる来翔は笑顔だ。しかし、目が笑っていない。
当然として言い渡された母はギョッとして身を引いた。
「ママ、勉強は教えられても家事全般無理なのよ!?」
「そうだね。でも、この家は僕がいなくなっちゃったら今頃ゴミ屋敷なんだよ? それに昼ごはんとかぜーんぶレトルトで済ませるし。おかげで弁当作らないといけないし──」
言い出せばキリがない。
マシンガンのように過去のことを掘り返され、しかもしずかの前でさえも途切れない言葉の線。
目の前で繰り広げられる子から親への詰問に、しずかは居心地悪そうにあたふたと手を行き先を行方不明にさせる。
流石の文量。耐え切れなくなってしまった来翔の母は陥落し、
「はいっわかりました来翔副隊長!」
ピント張った右手をし、胸を張った綺麗な敬礼を披露した。
「よろしい」
「頼まれたゴミ袋はこちらに……」
「じゃあ早く手を洗って、早く着替えてきて。掃除はそれから」
「がってん承知のすけぃ!」
母親と子供らしからぬ受け答え。
来翔ママは洗面所で手早く手を洗い済ませると怒涛のコーナーダッシュを決めて階段へと走り向かった。
忙しない母の背中を物言いたげな目で見つめる来翔。ため息をつくと、来翔は蚊帳の外にされていたしずかへ目をやる。
「今からお風呂にお湯張るから……待っててね?」
「……うん。ごめんね、来翔くん」
「いや、別に気にしなくていいよ。母さんが言い出したことなんだしさ。それよりちょっとついてきてよ」
言いながら、しずかを連れて脱衣室に入っていく来翔。
そこを通り過ぎて、曇りガラスの折れ戸を手で押し開いた。
「ひさしぶりだから、もう一度説明するね」
ニッと笑いかける来翔はそばのボタンを押し、風呂場に灯を灯す。
照明は天井に埋め込まれたダウンライト。白く均一な光が浴室全体を照らした。壁は大理石調のパネル張りで、白とグレーのコントラストが落ち着いた高級感を醸し出す。
折戸のレールを跨いで足を床につけてみると、滑りにくいマット調のタイルが靴下越しに感じられ、湿った感じもしない。水はけも十分だ。
「しずかちゃん。風呂の温度はどれくらいの方がいいかな? 僕はいつも、四十度くらいにしてるんだけど」
「別に……来翔くんの好きにしていいよ」
「そっか。じゃあ優先にして……」
風呂場にやわらかな電子音が響き渡って二度。
手慣れた様子で操作盤を指先で軽くタッチする来翔は浴槽のへり──排水ボタンを押す。
「あとはこれをっと」
『お風呂のお湯はりを開始します』
操作パネルに再び手を伸ばし、タッチすると音声ガイドが静かに響いた。
すぐに配管の奥から空気の含んだような音が聞こえ始めてきて、水の流れ出す音が浴室に満ちる。
「だいたい十分くらいで湧くと思うから、ゆっくりしてて」
「お風呂だっピ?」
「どぅうぇああああ!?」
突如として耳元で囁かれ、来翔の悲鳴が風呂場を超えて家中に響き渡った。
鼓膜を突き通さんばかりの絶叫のうるささのあまり、しずかが眉を顰めて人差し指を耳の穴に突っ込む。
「来翔くん、うるさいよ。耳がキーンってなったし、タコピーがバレちゃう」
「あ、そうだった、しくった……」
「らいちゃーん! ちょっと大丈夫?」
やばい。
着替えを終えた来翔ママが来翔の悲鳴を聞きつけて階段を急いで降りる音が近づいてきた。
時間の猶予もなければ、むしろ走ってくることで短くなっていく猶予。
「どうするの来翔くん。このままじゃ、タコピーが保健所に連れてかれちゃう……」
「ピぃ!? それは困るっピ!」
「ちょ、黙れタコピー……! 母さんに余計怪しまれ……」
「この声しずかちゃんのじゃないわよね。安心してえ! ママが助けちゃうわ!」
「──ッ」「──っ」「──ピィ!?」
息を呑む来翔としずか。そして誰よりも声がでかく短く鳴くタコピー。
もう距離としては玄関廊下を歩いているところ。
流石にまずいと、急ぐ二人はどこか隠せないかとあれやこれやと画作して、しずかが桶を被せようとする。
「桶なんてどう?」
「でかした……! これで……ってぇ! タコピーがでかい! お前もうちょっと小さくなれ!」
「無茶言わないでほしいっピ、来翔くん! できないっピよおお……」
桶の中に押し込まれ、触手をばたつかせるタコピーが力いっぱいに塞ぐ来翔へ弱音を吐く。
上はバレるし、桶作戦もダメ。扉の後ろに隠すでは曇りガラス越しにバレてしまう。こういう時に限って、なぜタコピーはピンク色なのだ。タコならタコらしく、保護色くらい披露して見せろ。
バタバタ慌てる来翔とタコピーをよそに、しずかは傍に置かれたものを手に取った。
「これは……?」
「それなら! タコピー、ちょっと暑いかもだけど我慢してっ」
「最悪ゆでだこで済むから……」
「それは嫌だっピー!」
ガタガタと吐かすタコピーを無視する来翔はまとわりついて離れないようにする触手を振り払って浴槽に叩きつける。
続いて第二波。しずかが全力を持ってして浴槽のシャッター蓋をけたたましく閉ざした。
「大丈夫!? らいちゃん! しずかちゃん!」
「だ、大丈夫だよ! 母さん……って」
息を切らしてやってきたのは、髪を後ろに束ねて、半袖でTシャツと短パンというラフな格好となった来翔の母。
しかし、それだけで来翔の言葉が途切れるということにはならない。
両手に握り込まれたものが珍妙だったのだ。
「なんで……虫網?」
「近くにあったからよ。それより、なんともない? 二人とも」
声を落とし、風呂へと踏み入れる来翔ママは女を捨てたようなガニ股の歩き方。緊張感の宿る抑えられた凄みの声で言われても、取り消せるくらい無様な姿を二人に晒した。
「大丈夫です……来翔くんのお母さん、なんともないから」
「女の子の大丈夫はね、全然大丈夫じゃないものなのよ? さぁ、観念しなさい不届者!!」
無理であった。
しずかの抵抗虚しく、来翔の母親はズイズイと進展する。
絶対にバレたくない来翔としずかは二手にわかれて、視線を誤魔化した。
「そこかー!!」
声を張って手を伸ばしたのは、桶。
絶対に人は入っていないとわかっているのに、なぜに来翔の母はそこに手を伸ばしたのか。それは来翔としずかでもわからなくて、片眉をあげてしまった。
「そこか! ここか!」
だが、不発。網は天井と扉の裏で空振り、虚しい風切音と続々と傘を増す湯の音。そして、肩を上下する来翔ママの息遣いが響いた。
空振った場所はさっきまで来翔たちがタコピーを隠そうと睨んでいた場所。次々と潰されていく隠れ場所に、来翔としずかは人知れず固唾を飲む。
「おっかしいな。確かにここかなって思ったんだけど……最後は」
汗を手の甲で人拭いする来翔ママが最後に目を向けたのは──、
「ここしかないわね」
徐々に風呂場の気温が高くなり、空気に湿り気を帯びさせる大元──浴槽だ。
二手に分かれたしずかは浴槽の盾になるように立っている。そのため鋭い眼光を向けられたことでしずかの瞼は猛烈に瞬きを繰り返した。
「──退きなさい」
「いや、ここは何も……」
ガタ……ッ
「あ、あついっピぃ……」
瞬間、時が止まった。
あのバカタコピーと心中で歯噛みする来翔もまたマシンガンの如き瞬きをし、冷や汗が背筋を伝う。
固まる来翔としずか。そして疑念を確信へ変えた瞳を向ける来翔ママ。
三人の意識は同じく、浴槽の中へと潜り込んでいた。
「…………」「…………」「…………」
今、戦いの火蓋が切ろうとされた、その時。来翔が動く──。
「あ! あんなところにチャッピーが!」
「チャッピー?」
「しずかちゃんが釣れた!?」
「隙あり! もらったわ!」
「なんとお!?」
チャッピー囮大作戦がまさかの失敗。それどころか味方にまで被弾してしまうという誤射。
一瞬の隙を見逃さず、狭い時間に針を通す来翔ママがしずかを避け、そして蓋を吹っ飛ばした。
「ピいい!?」
「とおったどおお!!」
ゆでだこなりかけとなるタコピーの悲鳴より先に振るわれた網の方が早い。中空で半月を描く虫網はそのまま湯を叩く。
逃げる間もない。なすすべなく掬い上げられたタコピーはジタバタと暴れるものの、
「逃げても無駄よ!」
空で描く網の軌道はメビウスの輪の如し。
脱出は不可能。上下左右がごちゃ混ぜとなって目の位置にナルトを作るタコピーの運命は──
*
「へー、ハッピー星からはるばるここまでね……大変だったでしょー?」
「この星に降り立ったときは大変だったピ……」
意外! 普通に話していた!
ソファーで腕を組む来翔ママと背の低いテーブルの上で苦労をこぼすタコピー。あまりの自然な話ように、先程まで捕獲作戦の渦中にいたしずかと来翔は戸惑った。
さっきまで、たこ焼きにしたら美味しそうだとか、タコの刺身なんてお酒のつまみに合うだとか言ってタコピーを捕食しようとしていたのが嘘みたいだからだ。
「か、母さん。平気なの?」
「なに? たこ助のこと?」
「たこすけ……まぁタコにしか見えないけど」
その言葉は悪口ではなかったのではと頬を指でかく来翔。
すると、来翔ママに言われたことが引っかかったのか、タコピーはテーブルの上をジャンプして必死になる。
「たこすけじゃないっピ! ぼくにはしずかちゃんがつけてくれた──タコピーって名前があるんだっピよ!」
耳に通る。いや、通り過ぎる声を小さき身で張り上げるタコピー。
懸命になって伝えるハッピー星人タコピーに目を丸くする来翔ママはタコピーを持ち上げると、クッションのように腿の上に置く。
「へー可愛いじゃない。チャッピーにタコピー……ふふ、確かにしずかちゃんが付けそうな名前ね」
「ピぃ!」
癖になるのか、タコピーを両手で揉みほぐす来翔の母親の表情は優しげになる。
「あ、そうだわ。あたしったらタコピーちゃんに自己紹介されて、名前言ってなかったわね」
思い出した来翔ママはタコピーをソファーの座面に座らせると面と面を向き合わせる。
「小鳥遊澄佳よ。らいちゃんのママをやらせてもらってるわ。これからもよろしくね、タコピーちゃん」
差し伸ばされる来翔ママ──澄香の右手。
いつも触れる来翔やしずかの手に比べれば大きくはあるものの、威圧感といったものは感じられない。優しい手のひらをしている。
「こちらこそ、よろしくだっピ! 来翔くんのママ」
するりと伸ばされるピンク色の触手が血色の良いあたたかさのある手に包み込まれた。
そこに、
『お風呂が沸きました』
風呂場からお湯はりの終了の知らせが舞い降りた。
「さっそく沸いたわね。それじゃあしずかちゃん。お風呂に入って、パァーっと綺麗にされちゃいなさいな」
「じゃあ、入ってくるね? 来翔くん」
「聞かなくてもいいよ。好きなだけ入っててね」
*
しずかが風呂に入ってシャワーの音が聞こえ始めた頃。
「それにしてもぉ、よかったの? らいちゃん」
「なにが?」
イタズラな笑みを浮かべる母に来翔はぶっきらぼうに返事をする。
開けていないビール瓶やら日本酒と缶と開けて空になったゴミと選別して袋にぶち込んでいたときに、頭にタコピーを乗せた澄佳が来翔に聞いてきたのだ。
「いーぃやぁ? 昔みたいに、しずかちゃんとお風呂に入らなくてもいいのかなーって」
「ぶふぅうう!?」
唐突にネタを捩じ込まれた来翔が吹き出した。
「そ、それっ、僕がまだ二年の話じゃん!?」
「クフっ、顔真っ赤にして照れちゃってーかわいいわね」
上品に手を口に当てて笑みを隠そうとしても意地の悪い笑みは丸見えだ。
負けじと顔を真っ赤に染め上げる来翔が片付けの手を加速。誤魔化しにしか見えない手つきの速さだが、澄佳はあえてそこには触れなかった。
「来翔くんはしずかちゃんと昔から仲良しだったんだっピ?」
「そうよ? まぁ始まりは……デリケートなとこだから、あんまり触らないけどっ」
頭上から覗き込んできたタコピーに屈んだ膝を伸ばす澄佳。外見こそ若々しく見えても、やはり体は正直なのか腰を叩いた。
「昔から、らいちゃんとしずかちゃんは仲が良くってね。まぁ、らいちゃんがしずかちゃんをうちに連れてきたんだけど。ほんと、誰に似たのやら」
「ちょっと母さん! そういう話は」
「いいじゃないの。別に恥ずかしいことないじゃないし、ママ嬉しいのよ? らいちゃんに苦楽を共にする仲のいいお友達ができるの」
朗らかに様相を和らげて来翔に見せる澄佳の目はあたたかい。
そんな目で当てられては、来翔はなにも言えなくなって赤面する顔もだんだんとおさまっていく。
「苦楽を……」
「そう、和をもって尊しとなす。少しは素直になりなさい」
そういって、微笑む澄佳はソファーに寄りかかるしずかの赤いランドセルを見る。
微笑んでいる。けれど、その口元とは裏腹に、瞳の奥は曇っていた。押し隠すように、穏やかな表情は保っているものの、ふとした時に揺れるまつ毛が物語る。
「さ、辛気臭いのはここでチャラにしてぇ、ここはママに片付けを任せんさい!」
「えー? ほんとに大丈夫なの?」
「指定の袋に入れればいいだけでしょ? ちょっとだけがさつなママでも、これくらい余裕のよっちゃんよ」
「…………」
「なによーその憎ったらしい目。ここは任せてらいちゃんはこれをもって先に行けぃ!」
「先に行けってどこに……ていうかそれなに」
「これ? しずかちゃんの替えの服」
「え」
畳み掛けて言われて手渡されたのはどう見ても自分の服で──、
*
「え?」
扉の向こうから、シャワーの音が絶え間なく聞こえるなか、来翔の抜けたような疑問が口からこぼれ落ちた。
『……これ、俺の服だよね?』
『まあねぇー。あの汚れた服じゃ、ちょっちね。落ち着かないっていうかなんていうか。まぁそんなことだから』
『そんなことってどういうこと!?』
『がまんなさい、男の子でしょ? あ、それとも……』
記憶の中の母さんがより一層暗笑を深めると鼻息がかかるくらい近寄ってくる。
『しずかちゃんとお風呂に入りたくなった?』
『なっとらんわ!!』
あの人は本当に、人のことをなんだと思っているのやら。ため息を両手に抱える服に垂れながら、来翔は肩を落とした。
もう一度、来翔は服を確認してみる。
襟付きの黄色の服に水色の短パン。そして男物のパンツ。どう見ても自分の服だ。
「まぁいい。ささっと棚に服置いて、ちゃちゃっと服のこと伝えていけば、それで……」
脱衣所の扉をそっと開けた。
もわり、とした湯気が外気と混ざって、曇った空気が顔にまとわりつく。
視線を下に。床には、しずかが脱いだままの土汚れの目立つTシャツと、ハーフパンツ。そして──下着。
──女の子って、こんなガサツなのか? 母さんのこともあるし……仕方ない。
一瞬逸らした視線を床に戻した来翔。
心は平静。至って普通だ。そこになにかしらの感情など介在したりなどしない。疲れの含みを感じさせる吐息を落としながら、来翔は近くにかかっていた洗濯ネットを手にし、しゃがみ込む。
しずかの衣服を拾い上げ、そして洗濯ネットへと放り込みチャックを閉めれば、洗濯機へと放り込んだ。
「よし、これで。──っ」
叩きつけられる粒の音が鼓膜を突いた。
シャワーの音だ。
曇りガラスに当たった湯粒が、透明な筋を作って下へ垂れる。
そのすぐ向こうには、細い肩と、その肩にかかるくらいに伸びた髪のシルエットが──、
「いぃやぁ……ちょ、く」
狼狽えて、足がたたらを踏むまま来翔は飛び出した言葉を両掌で押さえ込んで、置いてきた換えの服へ振り返った。
「落ち着け……落ち着け僕。大丈夫、全然大丈夫だから」
「そこに誰かいるの……?」
「ちょ、待って!? 服、服届けに来ただけだから! た、棚の方に服置いておくから!」
すぐ背後。扉一枚越しからしずかの声が背筋を撫でつけられ、来翔が転けかける。
跳ね上がる鼓動と共に床を踏む足音もまた大きくなるも、なんとか琴線を取り戻した来翔は床に置いた服を拾い上げ、棚に置いた。
声を張って扉へと放った。目がいった。あった。
「来翔くん……なにしてるの?」
「うわ!? なんで顔出すのさ!」
近い。
浴室を仕切るすりガラスの向こう。輪郭がはっきりとしたシルエット。そこから来翔を覗くように、半開きの扉に映る黒い影からしずかの顔が生えていた。
肩にかからない触れそうな髪の先からシャワーの雫が床へ滴り落ちる。
漆器のように光を弾く黒い髪。こちらに向くしずかの顔、頬は水滴が輪郭をなぞっていて、ガラスのような透明感があった。隠しきれず、こちらを覗く小さい肩は白い泡を乗せていて、光を受けて乱射するのは磨き上げた宝石のように輝いている。
見えないものが、なぜか脳が補完してくる。見てはいないのに、隠すドアから見えた気がして息が止まる。──詰まる。
見えていない。見ていない。見えてたまるものか。
「どうしたの? 来翔くん。……そんな固まっちゃって」
「いや、別になにも」
「……そう」
髪を揺らすしずかが、顔を逸らす来翔を横目に扉を閉めた。
ガラガラと音が鳴った瞬間、音が踵を返して耳へと戻ってきて、来翔は息を吸い込む。その拍子に、鼻腔に液体石鹸の香りがこびりついてきた。
片手を顔に押し付けて、ずるずると胸へ撫で下ろす。
「──よし」
「来翔くんも、どう?」
「んーどうしよー──じゃない! いいわけあるかあ! もういいから、しずか、入れえ」
「この後、来翔くんも入るのか聞いただけなんだけど……」
「いいからっ、入れぃ!」
息が荒い。風呂の熱気とうちから湧き出てくる羞恥の炎が喉を焼いて、水分が飛ぶ。
しばらくして、シャワーの音がまた、曇りガラスの向こうで静かに響き始めた。