『小鳥遊来翔はハナサナイ』   作:リクライ

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第八話 苦一夜

 

 

 なんやかんや。そう、なんやかんやあった。

 あのあとのこと。

 脱衣所であったことに聞き耳を澄ませていた澄佳とタコピーが扉を開けた来翔によって雪崩れ込んできたり、顔を真っ赤にした来翔が叱責してゴミ投げを再始動したりと波乱万丈。

 そして片付けてしまえば、次にやってくるのは夕食の準備だ。

 一仕事終えればまた仕事と、忙しい来翔は大きめの頭巾を被り、大きめのエプロンを纏って腕によりを振るう。

 

「何を作ってるんだっピか? 来翔くん」

 

「塩鮭」

 

「鮭は、たしか魚だったピね」

 

「そうだよ。あとはこれを、あっためたグリルに入れたら」

 

 踏み台から降りて、四つの鮭の切り身をコンロの引き出し──グリルを引っ張り出し、並べる。

 皮目を上にし、中火に設定。壁にかかったタイマーを操作、七分にするとスタートを押す。

 

「来翔くんすごい……慣れてるっピね」

 

「いつもはこんな感じじゃないけど、今日は急だったからね。簡単なものにするさ」

 

「すごいもんでしょー。あたしが焼いたら全部まっくろくろすけになっちゃうんだから。あははっ」

 

 全くもって、あはは、で済まないことを笑い飛ばす澄佳がソファーへとずんだれる。

 澄佳のガサツさときたら頭を抱えたくなるものの、だからといって放り投げるようなことを来翔はしなかった。

 楽しいのだ。料理もそうだが、誰かのために、誰かのために行い、そして浮かんでくる笑顔を見ることが何よりも。

 誰もが平等に笑顔を享受できる。それはとても──

 

「いいじゃん」

 

「お風呂……」

 

 くぐもった声が脱衣所の扉越しから聞こえてきて、各々の目が歩いていく。

 カタン、と軽い音を立てて脱衣所の引き戸がわずかに開いた。そのわずかに開いた隙間から、湯上がりの湿った空気がふわりと漏れ出す。

 ゆっくりと引かれ、そこから姿を現したのは、

 

「ありがとうございました」

 

 黄色の半袖シャツに水色の短パン──どちらも来翔が棚に置いておいた服だ。明るい色合いが、普段の何処か影のある雰囲気をやわらげ、ほのかに女の子らしさを引き出している。

 髪は乾かしていないのだろう。しずかの身体がこちらに振り向くと同時に髪が頬を撫ぜ、水滴が襟元へ落ち、黄色を濃い色に染めた。

 首元がわずかに濡れていて、そこだけが張り付いたようになっているが、なんとなく、目を逸らしたくなる。

 

「服、ありがとう……来翔くん」

 

 小さく息を呑むようしてから顔を上げるしずか。ぎこちなような照れ隠しのような声。不思議な間があった。

 頬にはまだ風呂上がりの熱が残っていて、湿った髪がそれを強調するほかほかとした空気としずかの体温が、距離を超えて伝わる気がしてならない。

 

「全然大丈夫だよっ。それより髪、早く乾かさないと」

 

 開いたままの口を動かす来翔。盛り付けの手をわなわなとするさまは、照れを隠しているようだ。

 おっとりと小首を傾げるしずかは手に持つタオルを髪に押し付ける。

 

「いいよ、別に」

 

「いいわけないわ!」

 

 ソファーにどっかりと座り込んでバラエティ番組を眺めていた澄佳が、弾かれたように立ち上がると首をぎゅるんとしずかへ回す。

 勢いはそのままにして怒涛。颯爽と剣呑を同居させた空気を引き連れる澄佳は、きゅっと口を結んで固まるしずかの両肩を掴んだ。

 

「女の子はね、髪が命なの。こーんな綺麗な髪持ってるのに、しっかり手入れしないと勿体無いわ」

 

「え、まっ……」

 

「問答無用っ」

 

 発言はさせないとばかりに脱衣所に引っ張り込まれ、一瞬でしずかの声がフェードアウトした。

 すると、すぐさま低く唸る風の音が響き渡る。きっと鬼気迫るような表情をする澄佳が、しずかの髪をブラッシングしている真っ最中だ。

 

「女の人って、すごいね」

 

「なんだか来翔くんのママが怖かったっピ。もしかして……女の子は、──人間は髪がボロボロになると死んじゃうんだっピか……?」

 

「いや、髪で死ぬなんてないよ」

 

「よしっできた!」

 

「はや」

 

 あまりの速さに二文字しか言葉が出てこなかった来翔。

 直後、ガラララとけたたましく引き戸のレールが鳴くと、床に大小の影が照明によって落とされた。

 そこには、満足したと顔が物語る母の澄佳と、

 

「どう? らいちゃん。なかなかでしょ」

 

「どう、かな? 来翔くん」

 

 乾いた髪がサラサラと光を反射している。学校や先ほどまでとは、まるで別人のようなしずかの姿があった。

 来翔に借りたTシャツとハーフパンツは変わらない。けれど、あのしおれたような雰囲気から逆転して、まるで春風に当てられるニリンソウのように綺麗で可憐だった。

 

「か、うあ……うん。かわいいよ」

 

 言葉を迷い、どもりながら視線を惑わす来翔が気恥ずかしさを隠すように頬をかく。

 言ってしまってから、来翔は気まずくなって顔をしずかの茶色の目から逸らした。

 目の前のしずかは、何も言わずにバスタオルを握ったまま小さく笑った。

 

「……そっか。そんなの、来翔くんが初めてかも」

 

 だれも口に出せない雰囲気がキッチンを中心として漂い始める。しかしそれは緊張で張り詰めた空気ではない。

 言葉を介さなくても感じられる温かみがそこにあったのだ。

 

 程なくして、焼き上がりを知らせるタイマーが声を上げる。

 

 

 

 

 

「いっただっきまーす!」「いただきます」「いただきますだっピ!」「わん!」

 

「……いただきます」

 

 足並みを揃えて感謝する四者に遅れ、しずかが手を合わせて細い声を料理に落とした。

 しずかと来翔と澄佳とタコピーとチャッピー。五者はそれぞれ異なる食べ進め方をする。

 

「美味しいっピ!」

 

 脅威の吸い込みで食器で湯気だつ料理を一息に飲み込むタコピー。

 しずかから聞くところによると、目を離しているうちに落ちてる蝉を拾い食いしている、らしい。

 嘘か本当かわからない。ハッピー星人というのは基本的になんでも食べられるのだろうか。

 そしてその正面。

 

「うまいわぁあ。もうほんと、これのために生きてるようなもんよ!」

 

「母さん大袈裟だよ。別に大したことないしさ」

 

 シャケと肉じゃがをつまんでカラッとした笑みをする澄佳に、来翔が丁寧な所作で白米を食べて飲み込んで呟く。

 

「謙遜しなくていいじゃない。誇ってもいいわよ、これ。料理人目指してもいいんじゃないの?」

 

「料理人って……ただ焼いただけだよ?」

 

「バカ言わない。ただ焼いただけでこんなに美味しくなるんだったら、もうだれだってお店開いてるわよ。よっ、コック来翔!」

 

「やめてって母さん。食事中!」

 

 ガシガシと乱雑に髪を撫でつけられる来翔の眉は煩わしさにひん曲がる。

 無愛想な来翔の反応に動きを止める澄佳は離れると、はち切れんばかりの笑みは苦笑いに転じて食事を再開した。

 ニマニマと眺めるタコピーの隣、しずかは並べられた料理へ箸を伸ばす。

 

「あむ……おいしい……」

 

 しずかが、吐息混じりに漏らした。

 湯気がたちのぼる味噌汁の椀に顔を近づければ、ほんのりと香るだしが、しずかの鼻腔をくすぐる。

 

「……ふぅ、あったかい」

 

 じんわり染み渡る味わいに感嘆するしずか。

 するともう食べ終わったのか、いつの間にか缶ビールを手にした澄佳が手慣れた手つきでプルタブを片手で開けた。

 口元に持っていき、澄佳の鼻先が上へと向く豪快な飲みっぷり。

 

「んっんっんっんっ……ぷっはあああぁあ! くうう!! やっぱらいちゃんの作る料理とキッツイ仕事を終えた後のビールは合うのよねえ! ベエエストマッチ!」

 

「……ぁ」

 

「ねぇ……しずかちゃん引いてるよ、母さん」

 

「え?」

 

 もうすでに二本目に突入しようとする手を来翔が止めると、澄佳がちらりとしずかの顔を伺った。

 拙い手つきで茶碗を持ったまま、口を開けて固まるしずかが澄佳を見つめている。

 

「あ、ごめんねしずかちゃん。これもうママの癖みたいな感じなのよぉー」

 

「全然、気にしなくていいです。ただ、来翔くんのお母さん……前より飲んでる感じがして……袋とか」

 

 そう言って、玄関廊下に通ずる扉の方へ、山積みとなる酒やつまみ系のゴミへ目を向けるしずか。

 どこか心配の色を目に宿され、澄佳は払拭するようにビールを持たない手で左右に振った。

 

「変わんないわよ。あれ、ママがゴミ当番のときにうっかりしちゃって出し忘れちゃっただけだから」

 

「それを踏まえても多いってことじゃない? 母さん。健康診断大丈夫なの?」

 

 半目で突き刺される来翔の視線に、澄佳はニヤリと歯を光らせる。

 

「ノープロブレム。A判定よ?」

 

「うっそだー」

 

「ほんとよぉ」

 

「うそ」

 

「ほんと。こんなことに嘘言ったって、しょうがないじゃない」

 

 言われてみればそうだ。

 何を頑固になっていたかわからなくなってしまった来翔は「ふーん」と声を鼻に通すと肉じゃがを口に放り込む。

 

「いっつも空元気みたいな感じだし、ちょっと心配になったんだよ」

 

「あ、あらそうなの? ありがとね、らいちゃん」

 

「今度からもう少し不味く作ろうと思っちゃったし」

 

「やめて〜」

 

 目を細めたまま困ったように眉を歪める澄佳が泣きついて来翔の頭をよしよしする。

 そんなふんわりコントのようなものを、マイペースにしずかはご飯をつまみながら目にした。

 

「ふっ」

 

 口端に確かな微笑みを宿しながら。

 しずかが食卓のそばにあるデッキをみれば、奇跡的に残っていたドッグフードを無我夢中に貪るチャッピー。

 

「どう? しずかちゃん」

 

「……ぇ」

 

 不意に上から声がかかり、しずかは顔を上げた。

 太陽がそこに現れたかのような朗らかな笑みを浮かべる澄佳の顔がしずかの眼前にあった。

 

「──楽しいでしょ?」

 

「あ」

 

「こうやって、みんなと食事するの」

 

「は、はい」

 

 弱くても、確かな返事を真正面の澄佳に返すしずか。

 大きく口を開けて、目の前で白米を頬張った。

 

 

 

 

 食後、食器の片付けをし終えた来翔がエプロンを解くと、それを片手にかけて脱衣所に入っていく。

 

「じゃ、僕風呂入る。母さんはしずかちゃんとタコピーのこと、お願いね」

 

 首を後ろに回して引き戸に手をかけながら言う来翔に、ビール片手にソファーの背もたれに腕をかける澄佳が頷いた。

 

「まかせなさーい。ゆっくり入ってていいわよ」

 

「うん」

 

 パタン、と脱衣所の扉が閉まると、リビングにはデッキにつながる引き戸を開けてチャッピーを膝に乗せるしずかと、閉まった扉を見る澄佳、そしてクッションに半分埋もれたタコピーだけが残された。

 すでに壁のように背の低いテレビ前のテーブルに積まれた空き缶の列。その一番上に、澄佳は飲み終えた缶を重ねた。

 カラン、と軽い音がして、澄佳はより深くソファーの背もたれに沈み込む。

 

 脱衣所の扉の向こうからは、水の音が僅かに聞こえてくる。小気味のいい綺麗な歌声が響いても、シャワーの音がかき消した。

 来翔くんのいなくなったリビングは、不思議なほど静かだった。

 しずかは膝にチャッピーの頭を乗せたまま、時折視界に被る蚊取り線香の煙に目を移して、その背を撫でる。

 

「ねぇ、しずかちゃん」

 

 ふいにかけられた声に、しずかは顔を上げる。

 チャッピーの背を撫でるしずかの手が止まった。

 そこには、缶ビールを手にしたまま、どこか柔らかな眼差しを向ける来翔くんのお母さんの姿があった。

 

「らいちゃん、すごいでしょ」

 

「……うん。料理もできるし……優しいです」

 

「でしょー?」

 

 くつくつと笑いながら、澄佳はソファに肘をかけ、頬杖した。

 ビールを一口。少しだけ、間を置いてからポツリと続ける。

 

「小さいころね、ほんっとに大変だったの。ママやパパの歩く後なんて、てくてくてくてくついてきて、一人で転んで傷ばっか増やすの。その度に泣いて笑って、大変だったけど……楽しかった」

 

「小さい頃から……来翔くんはしっかりしてたんですか?」

 

「そうねぇ……」

 

 一口、ビールの淵に口をつける澄佳。考えるように扉の方へ目を歩かせると、物思いに耽るように息を吐いた。

 深い息を。

 

「今でこそ『しっかりしてる』って思われがちだけど、あの子ね……泣かなくなったの」

 

「……え?」

 

「泣かなくなったんだっピか? でも、泣かないのはいいことだって……ぼくは思うっピよ。みんなハッピーが一番なんだっピからね!」

 

 眉を落とし、しょうがないような優しげな笑みを浮かべる澄佳はタコピーの頭に手を置く。

 ポムっ、と軟い音が鳴るものの、澄佳は缶を片手に言葉を紡いだ。

 

「あたしの夫がいなくなっちゃった頃かな……そのときがきっかけ、だったと思う」

 

「来翔くんの、お父さん」

 

 お父さん、という単語に、しずかは反芻するようにゆっくりと喉を震わせた。

 聞いたことがある。来翔くんは、母さんと自分を捨てて、ある日を境に出ていったと。その話をする来翔くんは怒ってて、苦しそうだった。

 

「仲、悪かったんですか?」

 

「いーぃや? 全然全然。むしろラブラブだったわ。そんなとき、来翔が生まれて、自分たちの命より大切なものが増えた」

 

 しずかの疑問を片眉をあげて真っ先に否定する澄佳が缶ビールを回す。中にあるビールは後少しでなくなりそうだ。

 言い切った後、その残ったビールを一息に飲み込んで、澄佳はまた一つとビールを開ける。

 

「でも、英里……お父さん、いなくなってね……らいちゃんが泣かなくなった。それよりも、人一倍笑うようになって、あたしだけじゃなく、誰にだって話して、笑うようになった」

 

「すごいっピね! 来翔くんは。クラスの友達、東くんも笑っていたっピし」

 

「でしょ? でもね、話さないのよ? あの子」

 

 ビールを口に傾けながらタコピーへ横目で語る澄佳。

 飛び跳ねていたタコピーはそんな澄佳の言葉に口に触手を当てた。

 

「なにを話さないっピ?」

 

「ん? なんでそうまでして、頑張るのかーとかどうしてそんなことするのーとか。聞いても、『大丈夫だよ』って返されちゃって」

 

 来翔の返しに至らなさを感じたのか、澄佳は笑う。その笑みは思い出し笑いというにはあまりにも力無くて、自嘲しているように聞こえた。

 

「でもね……あたしには、あの子が無理しているように……ううん。無理してるの、きっと」

 

 無理をしてる。

 来翔くんは、あのとき叩こうとしてきたまりなちゃんから守ってくれた。先生とタコピーがくるまでの間、何度も叩かれて、痛そうなのに、それでもまりなちゃんにしがみついて。

 だからといって、そうまでしてなんで助けてくれるのか聞けなかった。聞いても変わらないだろうし……来翔くんは──来翔くんだから。

 

「あたしね、あの子のママとして、何もできてない。この両手で抱きしめてあげることもできない。……忘れちゃったのよ。あたしもそうで、らいちゃんも。あんなひどいこと……目の前で見てしまったんだから」

 

 缶で収まる手と薬指に嵌め込まれたリングのある手を澄佳は眺める。

 私にはわからない。私のお母さんは、朝に帰ってきたら布団に入って寝ていて、夜になったらお客さんを連れてお店に行っちゃう。家は私とチャッピーだけ。最近はタコピーも一緒にいる。

 来翔くんのお母さんは、すごい。お父さんがいなくても、来翔くんのことを気にかけてるし、真っ当なことしてお家を支えてる。やっぱりお母さんだよ。

 チャッピーの首に巻く腕を強め、頬を綺麗とは言えない毛並みに途端に湧いてきた寂しさを沈めるしずか。

 

「だからって……あの子に、らいちゃんにお父さんのことを言うなんて……あたしにはできない。あの子の生き方を曲げてしまったのは……他でもない、ママなんだから。──だからねしずかちゃん」

 

 寒々とした風景から引っ張り出されるような強い言葉。

 引き戻されるしずかは瞬いて、澄佳の瞳を見た。

 

「これは……あの子の友達のあなたとタコピーちゃんと……東くん? だっけ? とにかく、らいちゃんのこと、支えてあげてほしいの」

 

 言葉を止め、力ない瞳を下しながら、澄佳はタコピーを撫でる。

 

「あの子、これからもきっと……無茶に無謀を重ねると思うから」

 

「……」

 

 私は、来翔くんに一体……どう支えればいいの?

 わかんない。誰かを支えること、今まで考えたこともなかったし……来翔くんがどうしてそうするのかもわからない。

 来翔くんのお母さんは、私のお母さんよりもずっと自分の子供を見てるのに、なんでそんな悲しい目をするの。

 

 憂いに瞳を沈ませて、澄佳はビールを口に傾ける。

 そして、飲み終えた缶を目の前に積み上げられて壁となる缶たちへ仲間入りさせた。

 

「大丈夫だっピよ!」

 

「え?」「タコピー?」

 

 沈んでいた空気を活発な声で引き上げたのは撫でられていたタコピーだ。ぴょんと跳ねると、鎮座していた缶を騒々しく崩してテーブルの上に立った。

 

「ぼくがきっと、しずかちゃんと来翔くんをものすごい笑顔にして見せるっピから──!」

 

 ガラガラ、とテーブルから床に敷かれた絨毯へ落ちていくところ、タコピーはそもそも存在しない胸を張って、言い張った。

 言葉を投げられて目を見張る澄佳。パッチリとした目を瞬かせると、相好を崩してタコピーを突く。

 

「そうしてくれると、あたし助かるわ。できれば、らいちゃんとしずかちゃんを、心の底から笑えるようにしてね。タコピーちゃん」

 

「ピ!」

 

「……。さてとっ」

 

 足を振り上げて下ろし、ソファーから勢いよく澄佳は床に立つ。

 

「暗い空気はここまでにして、しずかちゃんもきっと困ってるんでしょうけど、大丈夫だわ」

 

「え」

 

「あなたは一人じゃない。ここにはあたしも、らいちゃんもタコピーちゃんもチャッピーもいるんだから。だから、そのランドセルのこと……辛くならないうちに吐き出しちゃいなさい? 話さないと、始まんないからねっ」

 

「始まらない……?」

 

「そうよぉー? 仲直りとか友達とか。しずかちゃんならほら、──恋とか!」

 

「──っ」

 

 突拍子もなく、澄佳が人差し指を伸ばした先にいたしずかは息を呑む。

 わざとらしく片目を閉じる来翔くんのお母さんに私は何も言えなかった。

 『恋』? 『恋』ってなに?

 来翔くんといると、ほっぺたがあったかくなって、安心する。膝の上で目を閉じるチャッピーを撫でているときみたいに。

 恋は、お母さんとまりなちゃんのお父さんが仲良くなるみたいなことなの?

 

「『恋』って、なんなんだっピ?」

 

「いい質問ね、タコピーちゃん! 恋ってのはねぇ、胸がドキドキしてあの子を離したくない、離れたくないってなることなのよ」

 

「ならぼくも同じだっピね! ぼくも来翔くんとしずかちゃんと、みんなともっと一緒にいたいっピから!」

 

「それはまた違うかも。恋とかじゃなくて、タコピーちゃんはみんなのことが好きなのね!」

 

 チャッピーの毛並みに思索を沈めるしずかをよそにして、澄佳とタコピーは騒ぎ立てる。

 やっぱりわかんない。けど、来翔くんがまりなちゃんのことを友達って言ったとき、チクチクするような気がした。

 学校はちょっと楽しい。タコピーと来翔くんがいるから。でもまりなちゃんはひどいことするし、嫌だ。

 どうして……来翔くんは──

 

「しずかちゃんっ」

 

「え」

 

 さっきよりも近くで発されたタコピーの声に、しずかの顔が上がった。

 思考の海に浸って、何か黒い感情が思考の海の中でトグロを巻く心象風景。それが一息に釣り上げられ宙吊りになって、しずかの目はひどく狼狽えた。

 

「しずかちゃんは来翔くんのこと、好きっピか?」

 

「…………」

 

 いつの間にか駆け寄ってきた見上げるタコピーが、しずかの二つ眼をじっと見つめた。どこか期待しているような目をして、黒曜石のように艶やかなものにして。

 

「そうなんじゃ、ない?」

 

 しずかはそう言の葉を落とした。

 

「しずかちゃんも来翔くんが好きっピか! よかったっピー!」

 

 何がいいの?

 初めて、かもしれない。こんなに誰かのこと考えるの。

 しずかの脳裏に浮かぶ、まだ平気だった頃。来翔がまりなと友達であって、しずかとも友達で、それだけだったとき。

 なんで、こんなことになっちゃったんだろ。

 ほんとは知ってる。でも自分じゃ何もできない。

 

「上がったよー」

 

「──っ」

 

 脱衣所の扉が静かに開いた先、タコピーと一緒にしずかが目をやると湯気を纏ったままの来翔がいた。

 濡れた髪はタオルで拭いた程度らしく、額のあたりで重たげに垂れてる。分けられてもいなくて、いつもと違う感じ。

 来翔くん、パジャマなんて着るんだ。私がいつも寝るときは、パジャマなんてない。いつものあの服。

 でも、なんだかしっかりした感じが抜けて、ちょっとだけ……かわいい。

 バスタオルを頭に擦り付ける来翔に、しずかはなんだか言いようのない温度を感じて、そっと目を送る。

 

「お? じゃあ次はママの番ね! っと、その前に……らいちゃんはしずかちゃんのこと好きなの?」

 

「──ぇ」

 

 ふいに自分の名が上がって、しずかは心臓が跳ねかけて驚きが口から飛び出しかけた。

 しずかのことはお構いなしに、澄佳はスッキリ上がりたての来翔に詰め寄って見せるも、当の本人は怪訝そうに眉を寄せて、前髪の奥から覗くまっすぐな瞳で見据えた。

 

「……。母さん酔ってる?」

 

「んぇー? ぜーんぜん、酔ってなんかなーぁいわよー?」

 

「はぁ……」

 

 あ、戻った。

 風呂上がりという心のすっきりとしたこの時にだる絡みしてくる澄佳に、来翔は重い息を吐きながら前髪を押し上げて元通りになる。

 髪は濡れているものの、いつもの来翔のようになってしまって、ほんの少ししずかは肩を落とした。

 

「で、どうなのよ?」

 

 バスタオルを持ち上げて、澄佳は来翔の髪を拭いながら問う。

 来翔はほんの一瞬だけ目を泳がす。けれど、すぐに目を伏せて、肩を落とすように吐き出した。

 

「……わかんないよ、そういうの」

 

 水が抜け、まとまりが小さくなる前髪が、濃色の瞳から退く。

 

「けど、僕は……大事だよ。みんなに笑っていてほしいし」

 

「……そっかあ」

 

 澄佳は、それだけ言ってから目を細めてから、

 

「このこのー!」

 

「うわっ!? ちょっと、頭燃える! やめ、やめろよー!」

 

「この子ときたらもー! かわいいんだから!」

 

 煙が出るくらい猛烈にタオルを頭に擦り付ける澄佳が笑って、それから嫌がる来翔の頭にぽんっ、と手のひらを優しくおく。

 優しく置かれた母の手の下、ほてった頭が少しだけ落ち着いた気がして、来翔は置かれた余韻のある場所へと自分の手を重ねた。

 

「じゃ、ママは入ってるわね。洗濯は任せてちょうだい?」

 

「酔ってんのに?」

 

「失敬な! これでも一人暮らしのとき、最初の一回くらいしかミスんなかったんだから。あのときはもう大変っ。泡だらけになっちゃって」

 

 言いながらにして笑いが禁じ得ない澄佳に来翔はタオルを顔に押し当てて呆れた。

 

「入ったら僕が洗濯しとくよ……」

 

「あらそう? じゃあいつものように、お願いするわね」

 

 そう言って脱衣所に向かう最中、来翔へ微笑んだ澄佳は引き戸に手をかけて閉めた。

 本を閉じたように、嵐が過ぎ去ったように広間に静けさが舞い戻り始める。

 シャワーの音が鳴り始めたとき、来翔はそっと小さく扉へと息を吐いた。

 

「髪の毛……乾かすか」

 

 手ぐしで濡れた前髪をかきあげながら、来翔は洗面所の方へと歩き出した。

 

 

 

 

 電気は落とされ、ベッドの中には来翔の体温だけがあった。

 ここは来翔の──いや、元は父親の部屋だったもの。父の痕跡をすっかり拭い取った部屋。今では全て、来翔自身のものになっている。

 棚にある本も、ファイルに挟んだプリントの置かれる机も、その脇に置かれたランドセルも。

 

「…………」

 

 目を閉じて、眠気の淵をふらふらと来翔は渡る。眠気はある。ただどこか落ち着かない。

 父さんは嫌いだ。何も言わず、消えたように僕と母さんから姿を消した。今、もしばったりと目の前であってしまったら、殴って修正したいくらい。

 でも、思い出す気も失せるくらい嫌いなはずなのに、なぜかこの部屋が落ち着く。

 どうして?

 

「すぅ…………」

 

 思い出す。記憶の棚を引き出せばいいという簡単なことなのに、引こうとする来翔の思考の手は重い。

 父さん。父さんって、どんな人──

 

「…………」

 

 ────

 

 翳る景色。つながる手自分の手には母の手と、もう一人の手があったような気がする。だが、雲を掠るように指は空を切って、来翔はそのまま眠った。

 暖かなものに包まれながら、首に下がる物を確かに感じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 きぃ……。

 

 

 寝静まった部屋に、扉の音が闇を引っ掻く。

 小さい人影。

 それが、ベッドの上で壁に向かって横たわる来翔へと、音を殺して近づいていく。

 

「…………」

 

 細く小さな手が、来翔の腹にかかる薄い掛け布団へと伸び、捲った。

 わずかにベッドに溜まった来翔の体温が外へと逃げ、そこに小さな人影の手がマットに沈み込み、来翔の体がほんの少し動く。

 乗り込み、そばに寝転んで、ベッドがわずかに沈んだ。

 

「……ん、なに……?」

 

 来翔は、ぼんやりと目を開ける。

 目の前は飾り気のない白い壁。闇色に沈んだ白い壁。

 いたって見慣れた壁。だが、自分の後ろに、ほんのりと暖かさがある。

 寝ぼけた頭がゆっくりと現実に歩み寄っていくにつれて、自分の後ろになにがいるのか気になって、来翔は横になった体を天井に向こうと足を──、

 

「……ごめん、起こしちゃった?」

 

「はっ、ちょ……っ」

 

 耳に掠めた掠れるような声。

 背中越しに感じていた気配は、しずかだった。

 

「……どうして……?」

 

「チャッピーが、いないから……。いつも、一緒に寝てるんだ」

 

「そっか……。なら、ロイの小屋で寝てるチャッピー、呼んで……」

 

「──いいの」

 

 起きあがろうとしたとき、小さな手が来翔のパジャマの裾を掴んで止めた。

 横腹に腕が通って、来翔はそのまましずかに寄せられる。

 

「……今は、いいの」

 

 しずかの声が、来翔の背中を滑るようにとどいた。

 そのまま、しずかの腕がそっとお腹の前に回り込む。

 

「──っ」

 

 きゅっ、とパジャマを握るしずかの細い指。

 横っ腹に感じる、細くて、それでいて柔らかい腕。しずかの額か頬かが、多分自分の背中に触れていた。

 小さい呼吸で膨らむ肩が擦れてきて、肌に伝わってくる。

 眠ろうにも、眠れそうにない。けれど、懐かしい感じがする。でもそれがなんで懐かしいかなんてわからなかった。そういえば、抱きしめられるなんて、いつから──、

 

「来翔くんは……」

 

「……」

 

「どうして、守るの?」

 

 ふいに、しずかがそんなことを聞いてきた。

 どうして。どうしてか。もしかして、しずかちゃんは……僕のことを──

 

「大丈夫だよ。僕は──大丈夫だから」

 

 別に気にかけてくれなくてもいい。こうするのが、自分にとって、僕にとって当たり前なのだ。

 だから心配しなくてもいい。

 言い聞かせるように。忘れかけていた何かに刻み、真新しくするように、来翔は心に波打つ言葉を反芻して、左手を握り込む。

 

「僕は……僕なんだ。しずかちゃんは、気にしなくていい。大丈夫だから……さ」

 

 誰にも見えないように、来翔は壁に微笑んで掠れた息を落とす。

 疲れたようなため息だ。まだまだこれからだというのに、なにが、疲れた、だ。やらないといけないこと、やるべきことがある。

 そのためなら、たとえ自分が、どうなってもいい。だって──

 

 大丈夫なのだから。

 

「…………」

 

「来翔くん……?」

 

 微かに瞳を開けて来翔の後頭部に話しかけるしずか。

 来翔は顔も向けず、規則正しい呼吸をしていた。

 来翔は、寝ていた。口元を固く閉ざして、体を丸めながら。

 

 

 

 

 

 

 

「いっただっきまーす!」「いただきます」「いただきます……」「いただくっピ!」「わふ!」

 

 日が部屋の窓に差し込み、朝を伝える。

 鳥たちがさえずり、巣を飛び立つなか、来翔たちは朝ごはんを食べる。

 

「ごちそうさまでした──っ」「お粗末さま」「ごちそうさま、来翔くん」「ごちそうさまだっピ!」「わん!」

 

 

 

 

 床へ避難させたゴミたちを袋に詰め込み終えた澄佳はスーツ姿に着替え、身支度を終えると、洗い終えた食器を拭く来翔へと歩いていく。

 仕事へと向かうのは誠に気苦労なことこの上ないことなのだが、澄佳の重い足取りは今は面影なく、用意された昼時の弁当を手に取った。

 

「毎度のことだけど、弁当ありがとね、らいちゃん」

 

 弁当をつまみ上げて両手でもつ澄佳は、小さい体でもどこかさまになっているエプロン姿の来翔へ唇をありがたさに和らげる。

 食器を拭く手は止めずとも、来翔は澄佳へと弾むような思いを宿らせた目をした。

 

「うん、母さん。仕事がんばってね」

 

「いうまでもなく、バシッと決めていきますがな! ──それで、どうだったの?」

 

「どうって、なにが?」

 

 溌剌とした態度に急ブレーキをかけて尋ねてきた澄佳に、来翔が拭き終えた食器を重ねる。

 拭き終えていない食器を手に取る。さっきのくだりから、澄佳の反応はわざとらしく、片側が壁に接したキッチンのカウンターに肘をかけた。しかもこちらを見る目が、なんというかむず痒い。

 だが、このとき来翔の頭からは抜け落ちていた。

 

「しずかちゃんと寝てたんでしょぉー?」

 

 とんでもない爆弾を抱えていたことに。

 

「ちょ!? あっぶな!」

 

 動揺が皿を跳ねさせ、耳を赤くする来翔が慌てて取りにかかり、捕まえる。

 硬直。皿を胸にまで引き寄せ、ほっと息を吐く来翔。だが、その顔には心の乱れようが明らかにされている。

 当然、息子の顔色ぐらい見分けることぐらいわけない澄佳はニンマリと口元に深く浮かび上がらせた。

 

「あららー? どうしちゃったんでしょーか?」

 

「いや、別にっ? あれは、しずかちゃんが入ってきただけで……ってなんでわかったの!?」

 

「そりゃ起こしに来てくれたとき、らいちゃんの部屋から、ねむそーなしずかちゃんが出てきたんだもん」

 

 薄々。というよりも、もはや濃々だ。

 取り繕えもできない来翔はなんとかかき消したいという思いが顕現したように皿を磨く速度が加速。

 摩擦で皿から湯気が幻視する澄佳だったが、来翔のびっくり仰天な様相を舐めるように見つめた。

 

「でもぉ、離れないところから見るに、らいちゃんもまんざらじゃないんじゃなーぁい?」

 

「母さん!」

 

「ふふっ、ごめっ」

 

 足を鳴らして口元をへの字にする来翔に舌を出してそこはかとなく謝る澄佳。

 三十路越えのてへぺろなんてどうかと思うところだったが、おちゃらけた急拵えの謝りに来翔はため息をついて、若干熱くなった皿を重ねる。 

 

「じゃあ、ママ仕事に行ってきまーすっ」

 

「行ってらっしゃーい」

 

 足運びを軽くして玄関へ向かっていった澄佳の背中に来翔が声を送る。

 車のドアが閉まり、エンジンがかかる。

 走り出してどんどん離れていく唸り声を背景に、エプロンの紐に手をかける来翔。

 

「来翔くんのお母さん、仕事に行ったの?」

 

 二階から降りてきたしずかが聞いてきた。いつものように肩にタコピーを乗せて。

 しずかの服装はいつもと変わらないものの、洗濯され、元の清潔さを取り戻した服を身に纏っている。

 エプロンと頭巾を片付け終えた来翔はソファーに預けられる二つのランドセルへと歩き始めた。

 

「うん。弁当もってスタコラサッサ」

 

「そっか。私たちも、いく?」

 

「ん。ちょうど皿拭き終わったしさ」

 

「じゃ、いこっか」

 

 ランドセルを背負う二人。

 外に出て、しずかは庭で走り回るチャッピーを連れてくると、振り返って待っていてくれていた来翔の隣に並び立つ。

 

「じゃあ、まずはチャッピーを家に戻してからか」

 

「うん」

 

「じゃあしゅっぱーつ」

 

「おー」「おー! だっピ」「わふっ」

 

 引率のように駆り立てた来翔に続いて、一同が青い空へ手をあげ声を上げる。

 そうして、通学路に一番乗りで足を進めるみんなであり、しずかにとっても初めてのこと。愁に沈んだ日々とは異なり、しずかの口角は僅かに緩んで微笑みを作った。

 

「そういえば、来翔くんはママと何を話してたんだっピ? 朝、ぼくが起きたとき一人だったことと、何か関係が……」

 

「んえ!? 全然っ、なんも関係ない……けど」

 

「来翔くんと一緒に寝てた」

 

「しずかちゃん!?」

 

「へぇー、二人はとっても仲良しなんだっピね! よかったっピよー!」「わん!」

 

 吸い込まれるような青の下、和気藹々とした空気が夏の空気に溶けていく。

 その歩いていくはるか先の地平線には、堂々とそびえる白い塔。夏空に一際大きな入道雲が立っていた。

 

 

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