「英雄伝説」の残る世界にTS転生した 作:TF最新作待ってます
カード強盗の一件からおよそ1週間が経った。
時は夜。場所は湾岸沿いの廃工場。
月明かりすら届かない鉄骨の森の中、足音が一つだけ響いていた。
腐食したパイプに溜まる雨水、剥がれ落ちた塗装片、割れた床タイルが踏まれて軋む。
奥へ奥へ──誰も寄りつかぬ闇の向こうの開けた空間。
そこへ、ひとつの人影が足を踏み入れた。
強盗団のリーダーだ。
アナスタシアに鉄拳をもらったあと、保安局に連行される寸前に隙を突き、彼一人だけは逃げ延びていた。
祝福するかのように降り注ぐ月光に、口元がニンマリと弧を描く。
(ククク……チョロいもんだぜ。こうも簡単に逃げれちまうなんてよ)
追手のネオ・セキュリティは完全に撒いた。
息をひそめ、胸の奥で冷たい喜びを噛みしめた──そのとき。
──コツ、コツ……。
遠くから近づいてくる小さな足音が、静寂を裂いた。
(……! 誰だ!?)
闇の向こうから現れたのは、中肉中背の黒ずくめの怪人だった。
膝丈まであるロングコートの裾がゆらりと揺れ、深くかぶったフードの奥には、漆黒のフルフェイスマスク。
まるで生気のない漆の面に、月光だけがぼんやりと反射している。
肩のあたりには金属の留め具やコードらしきものが絡みつき、不自然に膨らんだシルエット。厚底のシークレットブーツで身長を盛っているが、元の体躯はやや小柄かもしれない。
「誰だテメェッ!!」
男は思わず声を荒げた。だが怪人は何も言わず、ただ指を鳴らす。
──パチン。
乾いた音が廃工場に反響する。
途端に、その足元から白い光の縁がすうっと音もなく広がり、円を描くように床を走った。
ただそれだけ。
壁も檻もない。ただの白い線。
男は戸惑いながら一歩踏み出そうとしたが──全身に鳥肌が走るような感覚と共に、何かに弾かれたように足を止められた。
(な、なんだ……!?)
真上から見れば「ただの白い円」。
だが正面から見ると、その円周上にわずかに漂う薄光が、あたかも淡い壁を立てているかのように見える。
男が顔をしかめ、声を荒げて問いただす。
「て、テメェ……何のつもりだッ!?」
フードの奥から、冷たく平板な声が返る。
「貴方のシンクロを
背筋を氷の指でなぞられるような、理屈を越えた恐怖が男を貫いた。
だがすぐに、自分が今日ネオ・セキュリティを返り討ちにしたことを思い出す。
引き攣った笑みを浮かべ、胸元のデュエルコートのスイッチを叩く。男のディスクが起動した。
「て、テメェが噂の『シンクロ狩り』ってか……上等だッ! この俺様がぶっ潰してやるッ!」
鉄骨の森に、モーメントの駆動音が響く。
対峙する“怪人”──アナスタシアは、一言も返さないまま、静かにディスクを構えた。
「クククッ! 《聖なるバリア -ミラーフォース-》と《トラップ・スタン》をセットしてターンエンドだ!」
──自信満々にカードを2枚伏せ、眼前の男が口角を釣り上げた。
つい先日のカードシップでのデュエルの、先攻1ターン目終了時と“まったく同じ”表情だ。
男の盤面は、3体のバニラシンクロとそれらを守る永続魔法《絶対魔法禁止区域》、そしてご丁寧に中身をバラしてくれた2枚の罠。
……こいつ、まだこんなデュエルをやっているのか。
マスク越しに、私はため息をつく。
イカサマで積み込んだ手札を最速で吐き出し、2枚の罠で安全圏を作って返しのターンでの圧殺を図る──
そこから何も変わっていない。
ターンが移る。
「……私のターン、ドロー」
硬質な声が工場の奥で響いた。
視線の奥で、ほんの僅かに息を呑む。
引き抜いたカードから脈動を感じた。
まるで「使え」と言われているかのような錯覚に──短く、吐息。
それは“とっておき”だった。
ジョニーにも、誰にも見せていない切り札。
フードの奥で瞳を細める。
「な、何モタモタしてやがる! 早く来いよ、『シンクロ狩り』ッ!」
男の声が苛立ちと恐怖で裏返る。
「……なら──お望みどおりにしてあげる」
低く応じると同時、私はその
瞬間、廃工場の闇が閃光で白く塗り潰される。
「──《アーマード・グラビテーション》を、発動」
数秒後──轟音と爆風が、全てを呑み込んだ。
──爆煙と粉塵の中、男のライフはゼロを示していた。
爆発で吹き飛んだコンクリ片が落ち着き、静寂が戻る。
白く発光していた円は、決着とともに消失した。
シンクロモンスターのカード? 消してやったよ。いつも通りに。
「ふひっ、……オレのたぁン、しんクロ召喚ンッ。あひっ」
奇声を発する男に一瞥もくれず、私は背を向けた。
焦げたディスクの残骸が、床に散らばっている。
……くだらない。
フードの奥で、冷たく吐き捨てる。
夜風が鉄錆の匂いをさらっていく廃工場を後にし、無言で歩き出す。
月明かりの下、街の外れの人目のない路地で足を止めた。
ロングコートの内から1枚の「カード」を取り出し、私はじっと見つめる。
枠内には、シスタースタイルの時の私の服装が描かれていた。
──私の衣服は、ただの布ではない。
デュエルモンスターズのフォーマットを応用した「白紙のカード」に量子化・記録することができ、カードの中に保管して持ち歩ける優れ物なのだ。
このおかげで必要なときに瞬時に取り出し、纏うことができるのである。前世では考えられない超技術だ。
ロングコートとフードの黒装束に指先でそっと触れる。
光が瞬き、そのままカードへと収められ──代わりにシスター風の服が身体を覆った。
フルフェイスのメットも同じくカードへと戻す。
鏡があれば、一瞬のうちに“怪人”から“似非シスター”に変わった自分を見られただろう。
これで、街灯の下を歩いても目立たない。
姿勢を正し、再び歩き出す。
足取りは一定で、速くもなく遅くもない。
ただ真っすぐに──帰るべき場所を目指した。
セーフハウスとして与えられたタワマンの一室に辿り着いた。
無機質な自動ロックの扉を開けると、ひんやりとした人工的な空気が迎えてくれる。
照明を点けるでもなく、そのまま奥の部屋へと進む。
ヘアバンドを外し、軽く頭を振って髪を整えると、小さく息をついた。
「……今日の任務、完了」
自分にだけ聞こえるくらいの小さな呟き。
けれど、こんな声さえも提出義務の課された「ログ」にはバッチリ残るわけだ。
……あー、ホントにやってられない。おうち帰りたい。でもここが私の家で……くそが。
ソファに腰を下ろし、スカートから通信端末を取り出す。
画面に未読の通知──エウレアからのダイレクトメッセージだ。
『次のお姉さんの出勤日にまたモールのショップに行きますから!
そのときはデッキ構築のアドバイスお願いします!! 約束ですよ!』
……エウレア・パステル。11歳。デュエルアカデミア初等部に通う女の子。
私から見れば、本当に「どこにでもいる普通の女の子」だった。
軽く言葉を交わしただけでも、真っ直ぐで、無垢な心根が伝わってくる……思わず守りたくなってしまうような子。
──それなのに、“この時代に生まれた”というだけで、彼女も破滅の未来に巻き込まれることが決まっている。
そう考えると、胸の奥が締め付けられる。
わかっている。エウレアはジョニーと違って、
つまり、どのみち機皇帝の襲撃が始まればエウレアは……。
……それでも、助けて良かったと思っている。
きっとこの気持ちは、間違っていない。
『わかった。約束ね』
淡白なメッセージに爆速でつけられた「
思わずプッと、声にならない笑いが漏れる。
こんな風に笑える日が来るなんて、思っていなかった。
……こういう日常だけが、ずっと続いてくれればなぁ。
と、そこでインターホンが鳴った。
思考が途切れ、顔を上げる。
一瞬の警戒──しかし、ドアを開けることに決める。
夜更けに訪ねてくる客など、“似非シスターのアナスタシア”にはいない。
つまり、それ以外の来訪者だ。候補は自然と限られてくる。
ドアを開けると、そこに立っていたのは瓶底眼鏡をかけた、長身の青年だった。
職員ID-01204。私の生活の監視者でありサポーター……として総帥が紹介してきた男。
青紫の前髪と金色の後ろ髪……見事に別れたツートンカラー。そしてレンズの厚い瓶底眼鏡。
黒を基調としたシックな装いは、奇抜な頭の主張を抑え、うまいことひとつのデザインとして全体をまとめ上げていた。
とはいえ、「秘密組織をやるつもりがあるのか」とツッコミたくなる外見なのは相変わらずだ。シスターモドキの私が言えた立場ではないが。
「こんな夜分遅くに何の御用で──って、ちょっ、あのっ?!」
私の声など無視してズカズカと入り込んできた。
玄関から廊下へ、足は止まらずやがて──キッチンへ。
慌ててその背を追いかける。やましいものなど何もないが、何をするつもりなのかサッパリ予想がつかなかったからだ。
これまで彼とは事務的なやり取りを通信でしてきただけだ。
どんな人物かなんてロクに知らない。知ろうともしてこなかった。
でも、まさかこんな「まるで意味がわからんこと」をしてくる奴だとは思っていなかった。
ガチャリ。冷蔵庫が開き、中を物色される。
次いで棚。
どちらも空っぽだ。何もない。
「……」
「何ですかID-01204、その目は」
謂れのないジトッした視線が突き刺さる。
眉をしかめ、唇はヘの字。いかにも不機嫌と言いたげだ。
「……提出されている視覚・聴覚ログの通り、お前は食事を一切取っていないようだな」
何だ、その発言は。
意図がわからない。
私が何も食べないのは、お前らにとって
だって、摂食機能に関して何の説明もしなかったのは、お前らじゃないか。
「だんまりか……その口はお飾りだったのかね?」
「この肉体は、戦闘維持のために調整されています。“空腹”という感覚はありません」
皮肉るような物言いに、定型で返す。
本気で相手してもどうせ無駄だ。これでいい。
「それで平気なつもりか?」
瓶底眼鏡の奥の目が、じっとこちらを射抜いてきた。
責めるでもなく、嘲るでもない。
……まさか、本気で問いかけているのか? 私に? ただの組織の一構成員が?
確かに、モールのフードコートから漂ってくる香りに、私の心は何度も揺さぶられた。
でも、蓋をしてきたのだ。他ならぬ彼ら「組織」の機嫌を取ろうと思って。必死に。
それなのに、何を今さら。
「……べつに。食べたくならないですし、食べ方も知らないですし。それだけのことです」
絞り出した答えに、ID-01204は短く息を吐いた。
「そうか。……ロジェ総帥は、お前に何も言わなかったというわけだな」
その声には、ここにいない人物へのかすかな苛立ちが混じっていた。
「ロジェ」……総帥の名前はそんなだったのか。あるいは、名の一部か。
いや、待て。それ以上に今、何かが
「私の見聞きした情報は、感覚記録モジュールを介して全て組織に送信されます。それはこの会話とて例外ではありません。
ID-01204──貴方、“そんな表情”で発話してしまって大丈夫なんですか?」
苛立ち──要は、彼は総帥への「不満」を漏らしたのだ。
そんな軽々に振る舞って怖くないのか? 不興を買えば最悪、粛清されるかもしれないというのに。
「ふん。何を言うかと思えば──管理コンソールを確認してみるといい。
“理解”するならそれが一番手っ取り早かろう」
「……? まあ、見てみますけど」
言われた通り、脳内の管理コンソールにアクセスする。
>
> status : disabled(※感覚記録モジュールは現在無効化されています)
> last_transfer : n/a(※最後のデータ送信記録は存在しません)
一瞬、目を疑った。
──オフになっている……!
あの、息をするたびに胸を締め付けていた監視が、今はない。
世界の輪郭が、少しだけ柔らかく見えた。
「あの、これはどういう──」
ガサリと音がした。
私の顔の近くに、彼の右手が突き出されていた。
その先には、小さな膨らみのあるビニール袋。
中には、カップ麺が入っていた。2人分。
「こんな物しかないが、まずは食べろ……。異論は却下だ、いいな?」
沸騰したお湯を入れてから、きっちり3分が経過した。
半分だけ開いていた紙蓋を完全に剥がし、箸を手に取る。
醤油ベースの香り。そこに混ざる胡椒やスープ粉末の匂いが、鼻腔を突き刺す。
ただのインスタント食品。それは頭では分かっているのに──胸の奥で、何かがチリ、と音を立てた。
少し縮れた麺を箸でつまみ、熱気を感じながら視線を上げる。
ID-01204は自分のカップを片手に持ったまま、私を無言で見ていた。
「さっさとしろ」と言いたげに、顎を少し動かす。
意を決して──私は麺を一口、すする。
熱い。
舌を覆う塩気、油、胡椒。
咀嚼した瞬間に広がる香り。
その刹那、脳裏に記憶が甦った。
──夜更けのワンルーム。
明かりもつけず、PCモニタの光だけで見ていた深夜アニメ。
その合間に、カップ麺のフタを半分だけ開けて食べていた、大学生の頃の自分。
あの頃は何もかも足りなかったけど、それでも「これがいい」と思えた。
熱さと、しょっぱさと、香りと。
こんなチープな味だからこそ、「思い出の中の自分」は満たされていたんだ。
──ああ。
これが「食べる」ということなんだ。
胸の奥に小さな熱が灯るような、懐かしさと切なさ。
それは、ただの戦闘機械では感じないはずの感情。
目の奥が少し熱くなるのを誤魔化すように、麺をもう一口、すする。
おいしい。すごく。
そこから先は、もう手が止まらなかった。
無心になって噛み、頬張って、飲み干した。
その間、彼は静かに見守ってくれていた。
「──精神状態は、パフォーマンスに大きな影響を与える」
空になった容器が2つ並んだ食卓に視線を落としていると、不意に彼が呟いた。
「だからこそ幸福感や充足感を与えるため、お前には『摂食機能』が搭載されていたのだ」
視線は私ではなく、どこか遠くを見ていた。
レンズの隙間から、切れ長の目つきが覗く。
その顔つきには、ちょっと既視感があるような……いや、きっと気のせいだろう。
「……他にも人間の生理現象に類似する症状が出た場合は、人間と同じようにしろ。お前にはそれが可能だ。理解できたか?」
多分だが、彼は心配……してくれていたのだろう。
おずおずと私は首肯した。
「まったく……
──は?
一拍置いてから、私は理解した。
……いや、脳裏に“思い出させられて”しまった。
実は……風呂場で、自分の身体をまさぐってみたことがある。
別にやましい意味じゃない……元が男だからこその、学術的興味だ。
「……見てたんですか」
「ああ。私にはお前の監視の任務が課せられているからな」
「いやあのそういうことじゃなくてェッ!!」
頭の奥がぐらぐらする。
見られていたのか? ……風呂場で念入りに洗うフリをして、自分の胸を揉んでたのも……??
いや、冷静に考えれば、そりゃそうだろ。この任務も始まって3週間が経っているのだ。でも! でもだよ……!!
「自己認識の向上に努める姿勢は認める。いい傾向だな」
「あの、もっと他に言うことないんですか??」
……いや、本当は理解してほしくなんかないし、指摘されたら死ぬほど恥ずかしいのだが。
「…………? 言っていることが理解できない。バグか?
ただ自己認識を深めていただけだろう。何を恥じる必要がある?」
──あ、この人……完全にそういうタイプなんだ。
思わず腰を浮かせかけていた体を、ゆっくりと沈める。
スン……とした顔のまま、ただ椅子に座り直した。
何とも言えない虚しさが、胸の奥にじんわりと広がる。
ここでは何もなかった。そういうことにしよう。
「……で、あの。
その……『感覚記録モジュール』、どうして今はオフになっているんでしょうか?」
数秒の沈黙のあと、小さな声で問いかける。
話題を変えようとしているのは、別に私情によるものではない。
元々、気になっていたことだからだ。嘘じゃない。
「……お前の精神の成長には、人間同様に『解放された時間』が必要だと進言した。
その結果、私と対面している間だけは記録をオフにできるようになった」
短く、それでもはっきりと告げられる。
進言、って──総帥に直接……?
そんな権限、普通はないはずだ。
いや、私が知らないだけかもしれない。
……でも。
だって、私が知る限り、ID-01204はただの「監視役」のはずじゃ──
唐突に疑念が膨らむ。
試しに、脳内の管理コンソールから組織のデータベースを検索してみた。
>
> result : no record found(※該当する記録なし)
……登録すら、されていない──!?
抑えきれず、問いを口にする。
「待ってください。
総帥に直接“進言した”って……貴方、ただの監視役じゃないんですか?
それに……組織のデータベースを調べても、貴方の記録が一切出てこない。
一体どういう立場なんですか……?」
一拍の沈黙のあと、瓶底眼鏡の奥で目が細められる。
「……気にするな」
低く、短く、切り捨てるように。
「気にするなって──」
「そういう立場だ。それ以上は詮索しないことだな」
あまりにも冷たい声音に、息を呑む。
壁を作られたような、そんな感覚。
……本当に、何者なんだ……この人は……。
胸の奥で、わずかにざらりとした疑問だけが残った。
しかし確かなこととして、彼は総帥に不満があって、私に寄り添ったスタンスを持ってくれているようだ。
理由はわからないけど、それがわかっただけでも十分に価値があると思える。
今夜はまだ踏み込みすぎるには早かったのだ。
ここで教えてくれなくても、いつか教えてもらえたら、それでいい。
だから代わりに、少し首を傾げて尋ねる。
「……それにしても、『ID-01204』って呼びにくいです。
何か、別の名前はありませんか?」
「……呼称など必要ない」
素っ気ない返事。
「今後、もしも『一般人』として行動を共にするシーンがあったら困るじゃないですか。貴方のことを『ID-01204』などと呼べば奇異の視線に晒されてしまいます」
思わず身を乗り出して迫る。
「……勝手に呼べばいい」
呆れたように吐き捨てられた言葉だが、案外悪くない手応えだ。多分この人、満更でもない。
腕を組んで考える。
瓶底眼鏡、施設内での白衣姿、不器用ながらも親身に接してくれる姿勢──
「──“先生”」
自然とその単語が口から漏れた。
先生……うん、先生だ。それが一番しっくりくる。
対するID-01204──
「出来の悪い生徒など受け持ちたくはないのだがね」
出来の悪い、か。
不本意ながら組織にはそれなりに貢献しているつもりだったのだが。
──と、そこで彼は椅子から立ち上がった。
「どこに行くんですか?」
「私には別でセーフハウスが設けられている。もうじき、感覚記録モジュールも再起動する頃だろう。ではな」
玄関へ向かう背を、思わず追いかけてしまう。
ドアノブに手をかけた彼の背中を見て、衝動のように声をかけた。
「先生」
「何だ」
……この人なら、言ってもいいんじゃないか。
この世界が迎える破滅の未来のことを。私が知っていることを。
けれど──ほんの数秒、迷った末に飲み込む。
まだ知り合って間もない。信じてもらえるかもわからない。
結局、当たり障りのない言葉を代わりに吐き出した。
「…………私、料理できるようになっておきます。だから、また来てください」
「考えておこう。それでは失礼」
バタン。ドアが閉まる。敷居の向こうにいた彼の気配がすっと消える。
先ほどまでの時間が嘘みたいに、部屋には静寂だけが残った。
……でも──交わした言葉も、共に過ごした短い時間も、ちゃんと胸の奥に残っている。
それが幻じゃなく、確かに「現実のもの」だったとわかる。
先生、次はいつ会えるだろうか?
監視から解放された、ほんのささやかな自由の約束。
それは、このクソみたいな世界での──新しい楽しみがひとつ増えた瞬間だった。