訓練を終え、夕闇が迫る頃、雲嶽山の門下たちは本山へと戻ってきた。
山は夜の帳に包まれ始め、石畳に灯された行灯が、柔らかな橙の光を辺りに落としていた。かつては儀玄や儀降が何度も足を擦りむいた修練場の階段を、今では一歩一歩、凛とした足取りで登っていく。
「今日はよくやったな。しばらくは、自由にしていい」
黄嶺の言葉に、門下生たちは安堵のため息を漏らす。
緊張と興奮、そして初めての恐怖を味わった彼らにとって、今この瞬間の静けさは何よりも貴重だった。
それぞれの部屋で身を清めた後、儀玄と儀降は縁側に腰掛け、夜風に当たりながらぼんやりと空を見上げていた。
「⋯⋯あのエーテリアス、私たちだけじゃ危なかった」
「うん。でも、誰も死ななくて本当によかった」
二人の頬には、疲労の中にもほのかな充足の色が浮かんでいた。あれほど過酷な場所で、恐怖に飲まれず、仲間の指揮を執り、無事に帰ってこられた。
それは、彼女たちが修行によって得た知識と力、そして——誰かの背中を見て育ってきた証だった。
「そう考えると⋯⋯兄様は凄いな」
「ええ、毎日あんなのと戦って」
ホロウレイダーの死亡率は恐ろしく高い。理由は簡単、全てを自分でやらなければいけないからだ。
軍と違って支援してくれる部隊も補給もない。一度、ホロウに入れば自分で探索し、自分でマップを作り、自分で戦わなければならないのだ。そして、エーテリアスというのは人と戦うのとはわけが違う。
「理屈が通じないし、動きも読めない。何より——“生き物”じゃない」
儀降がぼそりと呟く。
エーテリアスは、人が理解できる存在ではない。
生物のように見えても、意志や感情の有無は不明であり、時に人間の恐怖や憎しみといった感情を反映したかのように、異常な行動を取ることさえある。
「兄様は、そんな中でも、ずっと生きてきた」
儀玄の声には、畏敬と微かな哀しみが混じっていた。
ナハトの戦い方は、鋭く、無駄がなく、容赦がない。しかしそれは、恐らく何千回と“死の近く”を通ってきた結果だろう。
彼が優しさを忘れていないのは奇跡であり、同時に、誰よりも多くの犠牲を見てきた証かもしれなかった。
「私たちも、あんなふうに戦えるように⋯⋯なれるのかな?」
「ううん、戦えるようになるだけじゃダメよ。兄様みたいに、“帰ってこれる”ようにならなきゃ」
夜風がふたりの白い髪をなびかせた。
彼女たちはまだ十代後半。
しかし、その背中には“誰かを導く責任”と“力を持つ者の覚悟”が、確かに芽吹き始めていた。
そして、二人の視線の先ではゼーレとアテネ、ラプターが幼い門下生に絡まれていた。
ゼーレの巨体を、幼い門下生たちは遊具のようにしていた。
「⋯⋯」
「ゼーレせんぱーい! おっきいー!」
「肩、のぼってもいい!?」
「⋯⋯好きにしろ⋯⋯」
まるで岩のように無表情で立ち尽くすゼーレの肩や腕には、次々と子供たちがよじ登っていく。時折、皮膚を引っ張られてわずかに眉が動くものの、彼は抵抗しなかった。むしろ諦めたように立ったまま、全身を提供しているようだった
「わああ、ゼーレ山だー!」
「次、てっぺんとったー!」
一方その脇で、アテネもまた囲まれていた。
「お兄さん! 剣の構え教えて!」
「こら、斧は危ないって!」
「斧じゃないよ! “戦斧”です!」
「⋯⋯このガキッ」
アテネは最初こそ面倒くさそうにしていたが、子供たちの純粋な目に根負けし、構えの基本を一つひとつ丁寧に見せ始めた。さすがに本物の斧は渡さず、木の枝で代用させながら「構えは姿勢から」と真剣な指導を続けている。
その輪の中心では、ラプターが地面に何かを描いていた。
「ンナナ(はい、ホロウ迷路完成)」
地面に描かれた複雑な線と矢印、落とし穴や裂け目のマークに、門下生たちは目を輝かせている。
「これ、ホロウの地図なの!? すごい!」
「ゲームみたい! 罠もあるの!?」
「ンナ!(実際に引っかかって死ぬよ)」
だが当然、彼の警告は誰にも理解されていない。ただ、可愛いマスコットのような扱いで、子供たちはラプターの頭をなでたりしていた。
——こうして、和やかな夜が過ぎていく。
◇
その賑やかな音から少し離れた静かな中庭で、ナハトと黄嶺は茶を酌み交わしていた。
「随分と、賑やかになったものだな」
黄嶺が、柔らかく笑って湯呑みを口に運ぶ。
「儀玄と儀降⋯⋯あの子たちは、強くなった。いや、それだけじゃない。強く、そして優しく育った。人を導くに相応しい心の器もある。——それは、お主のおかげでもあるのだろう?」
ナハトは湯をすする音を立てた後、少し間を置いてから答えた。
「違うさ。二人の心が元から強く、そして弱さを知っているからだ」
「そうかの。お主があの二人に背中を見せ、そして導いたからだとわしは思うがな」
「確かに俺は背中を見せた⋯⋯でも、それを見て歩いてきたのは、あいつらだよ」
言葉の端に、わずかな誇らしさと哀しさが滲んでいた。
——そして、しばし他愛もない会話が続く。訓練中の出来事、子供たちの笑い声、ゼーレが木の枝に引っかかって動けなくなったこと、アテネがマジギレしてラプターを追いかけ回したことなど、穏やかなやりとりが流れていく。
だが、ふいにナハトの瞳が真剣な色を帯びた。
「⋯⋯ひとつ、気になっていたことがある」
黄嶺が視線を向ける。
「今日のホロウから帰る時⋯⋯あんた、ほんの一瞬だけ、帰路を見失っていた」
「⋯⋯」
「ホロウの浅層。いくら地形が変化するとはいえ、あんたほどの術者が、あそこで“迷う”はずがない。老いのせいってわけでもないはずだ」
黄嶺は、視線を落としたまま、ゆっくりと湯飲みを置いた。
「気づかれていたか。⋯⋯さすがだな」
「ホロウレイダーは細かいところまで、気を使わないといけないからな」
しばしの沈黙ののち、黄嶺は背に背負っていた剣を、膝元に置いた。
柄に彫られた渦模様と、青い鞘の装飾。——それは、この雲嶽山の秘宝のような存在であり、人々を救う為に作られたという剣である。
「そいつは⋯⋯」
「《青溟剣》だ」
「⋯⋯それが原因か」
「この剣は、“力”を与える剣だ。虚狩りにも匹敵する戦闘力を一時的に得ることができる。だが、代償として“感覚”を奪う。あるいは記憶、寿命すらも——」
「⋯⋯なるほど、聖剣でなく呪剣だったか」
ナハトの声に、黄嶺は静かに頷く。
「今日、私は“記憶”を一時的に失った。道を思い出せなかったのは、ただの老いではない。青溟剣が、わしから一時的にそれを奪ったからだ」
その言葉に、ナハトの表情がわずかに強張る。
「⋯⋯そんなもの、今すぐ手放すべきだ」
黄嶺は静かに首を横に振る。
「できぬ。わしが持たねばならん。今の世に、この剣を制御できる者は限られておる」
ナハトは唇をかみしめ、低く言葉を吐いた。
「その代わりに、あんた自身が壊れていく。記憶や感覚、それだけじゃない。命だって——」
「わかっておるよ」
黄嶺の声は穏やかだった。
「それでも、持たねばならんのだ⋯⋯あの子たち、そしてこのエリー都を守るために」
夜風が、二人の間を流れていく。
「いずれ、わしはこの剣を手放す。その時——誰かがこれを継がねばならん。儀玄か、儀降か。どちらかが次の宗主として、この剣の重みを背負うことになるだろう」
その言葉に、ナハトの瞳が鋭く光った。
「冗談じゃない」
「ナハト——」
「そんな呪われた剣、あの二人に持たせてたまるか」
彼の声は、怒りを抑えた低音だった。
「どれだけ強くなったって、あいつらはまだ⋯⋯まだ、戦う理由を探してる段階だ。こんなものを背負わせて、何かを失わせるくらいなら、俺がやる」
黄嶺は、ナハトを静かに見つめていた。そして——ふと、苦笑とも、誇らしさともつかない微笑を浮かべた。
「⋯⋯やはり、お前は変わらんのう」
「⋯⋯あ?」
「己の背中で示し、己の傷で誰かを守ろうとする。昔から、そうだった。痛みに鈍いわけではなく、他者の痛みを優先するだけの男よ。⋯⋯ならば、その時が来るまでは任せる。お主がいる限り、あの子たちにはこの剣を使わせぬ」
そう言って、黄嶺はそっと青溟剣の鞘に手を添え、再び背に収めた。
「だが、ナハトよ。覚えておけ。この剣は、いずれ誰かが持たねばならぬ。たとえそれが呪いであろうとも、この世には“引き受けねばならぬもの”もある」
「それでも俺は、あの二人にだけは⋯⋯」
ナハトは言葉を濁した。だが、その瞳にははっきりとした決意が宿っていた。
「俺がいる限り、あいつらの未来を“代償”で汚させたりはしない」
黄嶺は、そんなナハトの姿を静かに見つめた。
そして、そっと目を細める。
「⋯⋯やはり、お主が一番のわしの弟子だよ」
「⋯⋯俺は門下生じゃねえよ」
二人は微笑む。
——長い夜の、ほんのひとときの静寂だった。
「旧都陥落の・Another」を書き終えてからの話なので、かなり先になりますが、他にもゼンゼロ小説を投稿しようと思っています。皆さんはどちらを見たいですか?
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時間をかけてもいい。どっちも書け