その後、ガスマスクの男、ファーターからの襲撃はなくいつも通りの日常を過ごせていた。
取引所の午後は、珍しく穏やかだった。
ホロウから戻ったばかりのレイダーたちは、傷を負いながらもエーテル結晶を換金し、武器の手入れや修理のために露店を覗いていた。そんな中、ナハトたちは久々にゆっくりと腰を下ろし、談笑していた。
「いや〜、ゼーレが一撃であの個体を吹き飛ばした時は、ちょっと感動したね」
「⋯⋯あいつ⋯⋯弱い」
「いやいや、ファールバウティをぶっとばせる奴なんていないて」
アテネとゼーレが言い合いをする中、ラプターがテーブルの上で手をぴこぴこと振って、テーブルの上に置かれていた弾丸をいじっていた。
ナハトは静かに彼らのやりとりを眺め、久しぶりに心の底から笑っていた。
──その時だった。
取引所の入口がざわめき、数名のレイダーたちが目を向ける。戸口には見慣れない姿……いや、ナハトにとっては見慣れた二人が立っていた。
「儀玄? 儀降?」
ナハトは目を細め、立ち上がる。彼らの格好は普段の修行着ではなく、動きやすさ重視の簡素な装束。だが、表情には明らかな焦燥がにじんでいた。
「おいおい、美人なお姉ちゃん。一体どうし「兄様!」⋯⋯ぐばぁ!」
二人はナハトを見つけると、ナンパをしようとしたホロウレイダーを邪魔だと言わんばかりに、さも当たり前かのよう、吹き飛ばして、近づいてくる。
儀玄が駆け寄り、儀降がすぐに続く。周囲のホロウレイダーたちは一様にざわめき、警戒心のこもった視線を彼らに向けていた。
「どういうことだ、なんで二人がここに……」
ナハトが訝しげに言うと、儀降が一息に告げた。
「──宗主が倒れました!」
その一言で、空気が凍りつく。
「っ何があった」
「修行後、少し茶を淹れると言って庵に戻った後、倒れて⋯⋯今は意識がありますが、少し前まで呼吸が浅く、動くのもやっとの状態でした」
ナハトはすぐに荷物を掴み、言葉を交わす間も惜しむように動き出した。
「ゼーレ、アテネ、ラプター、行くぞ!」
◇
雲嶽山の一室。薄暗い障子から差し込む西陽が、畳の上を長く染めていた。
黄嶺は布団の上に横たわっていた。額には冷やした布が置かれ、呼吸はもとに戻ったが、時折咳き込んでいた。門下生の手厚い看病のもとにあったが、黄嶺は目を開け、ナハトを見て微笑んだ。
「⋯⋯やれやれ。そんな顔をするな。ちと、はりきりすぎただけじゃ」
「そんなわけあるか」
ナハトは低く呟きながらも、黄嶺の表情を見て、その虚勢だとすぐに見抜いた。
「外で待っててくれ。話がある」
儀玄と儀降、アテネとゼーレたちも、空気を察して部屋を後にする。ラプターだけが最後まで離れまいとしたが、ナハトに軽く促されると、渋々廊下へ出て行った。
静寂の中、ナハトは膝をついて黄嶺の顔を覗き込む。
「⋯⋯青溟剣の影響だな?」
黄嶺は黙って頷いた。嘘はつかない。それが彼の美徳だった。
「この間、茶を淹れてるときも、一瞬気を失いかけたことがあってな。もう、隠し通せる状態ではなかったのだろう」
「俺の知り合いに医者がいる。今からでも──」
「無駄だ⋯⋯わかっているだろう?」
黄嶺の言葉は、静かだが断固としていた。
「これは病ではない。呪いのようなものだ。あの剣を手にしてから、既に十年以上⋯⋯本来なら、もっと早く命を落としていたはずだったのだからな」
ナハトは言葉を失った。自分がもっと早く、青溟剣の事に気付いていればどうにかなったのではないか。嫌われてでも、使うのを止めるべきだったのではないか。いろんな考えが頭に浮かぶ。
「俺以外には言ってないのか⋯⋯」
「弟子に、老いと死を見せたくはなかった。それに⋯⋯自分の命が尽きようとしていることは、自分が一番分かっておる」
ナハトは唇を噛みしめた。
黄嶺は、わずかに手を伸ばし、ナハトの袖を掴む。その手には、かつて山中を駆け巡っていた頃の力強さはもうなかった。
「儀玄と儀降を、頼む⋯⋯」
その言葉に、ナハトは目を伏せる。
「⋯⋯ふざけんなよ⋯⋯俺はな。あの二人の未来を思って、あんたに託したんだぞ⋯⋯返してんじゃねえよ」
黄嶺は、弱く笑った。
「わかっておる。それでも⋯⋯最後まで、彼らを導けるのは、お主だけだと思ってな」
ナハトは黙ったまま、掴まれた袖に視線を落とす。
指先から伝わる微かな温もりが、かえって心を締めつけた。黄嶺の手は昔よりもずっと細く、力が抜けている。だが、その言葉の重さだけは、あの頃のままだった。
「お主は、わしにとっての光だったよ」
黄嶺はぽつりと呟くように言った。
「ホロウで死にかけていたお主を見つけ、救ったあの日から⋯⋯わしの人生には意味があった。お主が、生きて、道を選び、今ここにいる⋯⋯それで、充分じゃ」
「⋯⋯勝手に、そんな締めくくり方すんなよ
ナハトは嗄れた声で言う。
「俺がどれだけあんたに救われたと思ってる。ゴミのような生きてきた俺に、“ここにいていい”って言ってくれたのはあんただけだったんだぞ」
自分の言葉に、自分で驚くほど、ナハトの声は震えていた。
「儀玄と儀降のことも⋯⋯あいつらが、あんたに出会えてどれだけ救われたか。あんたがいなくなって、残された俺たちは、どうすりゃいいんだよ⋯⋯」
しばしの沈黙の後、黄嶺は深く息を吐き、静かに目を閉じた。
「⋯⋯悲しんでくれる者がいるというのは、幸せなことじゃ。だがな、ナハト。命というものは、いつか尽きる。大切なのは、残される者がどう生きるかだ」
「⋯⋯ああ、わかってるよ。そんなこと、頭じゃとっくに理解してる」
ナハトは拳を握りしめ、吐き捨てるように言う。
「でも心は、どうしようもなく叫んでる。“行かないでくれ”ってな⋯⋯」
その瞬間、黄嶺の手がナハトの手を軽く包んだ。
「⋯⋯お主が泣き言を言うとは、歳を取ったのう」
「泣いてねえ」
「⋯⋯そうか」
ふっと、黄嶺は微笑んだ。
「この先、儀玄と儀降には、お主が必要になる。彼らにはまだ知らぬ世界が多すぎる。戦場の本当の意味も、人の醜さも⋯⋯それでもなお、信じられるものを、見つけるためにな」
ナハトは小さく頷いた。
「⋯⋯あいつらが納得するまで、俺が傍にいる。もし、何かあれば導く。けどな──」
その視線に、鋭い意志の光が宿る。
「俺は、お前の代わりじゃない。俺は俺として、あいつらを見守る。それでいいな」
「ああ、充分じゃ」
黄嶺の目は、うっすらと潤んでいたが、その中に滲むのは悲しみではなかった。
「もう、心残りはない。これからの時代は、お主たちの手に託される⋯⋯」
言葉の余韻とともに、黄嶺は再び静かに目を閉じた。
その寝息は穏やかで、まるで風のように軽やかだった。
ナハトはしばらくその場に膝をついたまま、何も言わずに立ち尽くしていた。
障子の外から聞こえる蝉の声と、遠くから木刀の音が微かに響いてくる。
それは、黄嶺が愛した日常の音だった。
三日後──
第十一代目宗主、黄嶺は、朝霧の中で静かに息を引き取った。
誰にも看取られず、誰にも迷惑をかけず、まるで一筋の風のようにこの世を去った。
遺された者たちに、最期の瞬間さえも見せぬよう、あくまで己の美学を貫いたその去り方は、まさに黄嶺という人間そのものだった。
「旧都陥落の・Another」を書き終えてからの話なので、かなり先になりますが、他にもゼンゼロ小説を投稿しようと思っています。皆さんはどちらを見たいですか?
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時間をかけてもいい。どっちも書け