夜の帳が下り、雲嶽山の空気がひんやりと澄んでいた。
境内の一隅、庵の縁側に三つの影が並んで座っている。月明かりが障子の桟に淡く降り注ぎ、湯気の立つ茶碗を白く照らしていた。
静寂の中で湯を啜る音だけが響き、その静けさは、かえって深く染みわたるようだった。
儀降が茶碗を両手で包みながら、ふぅと小さく息を吐いた。
「──本日をもって、私、儀降は第十二代雲嶽宗家宗主となりました」
儀降は苦笑まじりにそう言い、茶碗を口元に運ぶ。が、その表情には緊張も固さもなかった。ただ、どこか受け入れるしかないというような、静かな覚悟が宿っていた。
「姉様、宗主になった実感は?」
隣で儀玄が問いかけると、儀降はわずかに間を置いて、目を細めた。
「正直、ない。ただ一つだけ、確かなことがあるとすれば──肩が、重い」
それを聞いたナハトは無言のまま、湯のみを持ち上げて口をつけた。温かい茶が喉を通っていくが、味を感じるよりも前に、胸の奥が少しだけざわつく。
──宗主としての儀式。
それは、古来から続く正式な引き継ぎの儀であり、先代の名を讃えると同時に、新たな導き手を世に示すものでもあった。
儀式の最後、青溟剣が儀降の掌へと渡された。
あの呪われた剣が、再び誰かの手に渡る瞬間を、ナハトはただ黙って見ていた。
「黄嶺様も、私たちには、あの剣の真実を隠していたつもりだったのでしょうが⋯⋯最後の頃、気づいていたんです。剣を抜いた後に、咳き込んでいたことも⋯⋯日に日に顔色が悪くなっていたことも」
儀降は、そっと自らの腰にある剣を見下ろす。
その鍔の奥に眠る、薄青色の刃──虚無を斬り裂くとされる、青溟剣。
「虚狩りの如き力。黄嶺様は、そう形容していた。あらゆる虚を、因果ごと断ち切る力。けれど、それと引き換えに、剣は持ち主の“生命の糸”を一つずつ食らう──まるで呪いのように」
儀降の声が静かに夜気に溶けたあとも、誰もすぐには口を開かなかった。
縁側には、月明かりと茶の香り、そして胸の奥を締めつけるような沈黙だけが流れていた。
ナハトはじっと儀降の腰に佩かれた青溟剣を見つめていた。その鍔に刻まれた古い呪紋と、薄青い刃を包む鞘の意匠──まるで冷気のように、あの剣が纏う瘴気が感じられる気がした。
「その剣は──絶対に使うな」
ナハトの低く、しかし確かな言葉が、縁側の空気を震わせた。
儀降が視線を落とす。儀玄も、ナハトを真っすぐに見ていた。
「⋯⋯でも、もし。もし“使わなければ誰かを守れない”ような時が来たら、どうするの? 剣を抜かなければ、誰かが──死ぬかもしれないような時が」
儀降の言葉には、ためらいと恐れ、そして責任の重さがにじんでいた。宗主となったばかりの彼女にとって、それは当然の葛藤だった。
だが、ナハトはその問いに、即座に返した。
「──そのために、俺がいる」
静かだが、明確な意思のこもった声だった。
儀降が驚いたように目を見開く。儀玄も息を呑んだ。
「俺は、ホロウレイダーだ。社会じゃ“犯罪者”だの“野良の処刑人”だの言われてる。世間の正義にも、法にも属してない。けどな──」
ナハトはゆっくりと、茶碗を畳の上に置き、二人に向き直った。
「俺は、“誰かが死ぬのをただ眺めてるだけ”の人間じゃない」
その声には怒りも悲しみもなかった。ただ、深い決意と過去から刻まれた覚悟だけがあった。
「危険な時は俺を使え。戦場で、守りきれないと感じたら、俺を前に出せ。俺はそのためにここにいる。お前たちが呪われた剣に手を伸ばすより、何百倍もマシだ」
儀降は言葉を失ったように黙っていた。
しばらくの沈黙の後──
「それに⋯⋯黄嶺からもお前らを託されたからな」
その横顔には、黄嶺から受け継いだ重みと、ナハトの言葉の温かさとが、同時に染み込んでいくようだった。
「⋯⋯ありがとう、兄様」
その一言に、儀降の宗主としての威厳ではなく、姉としての、そしてただの“儀降”としての柔らかさが滲んでいた。
「私たちは、まだ弱い。宗主なんて名ばかりで、黄嶺様のようにはなれない。だけど、誰かを守りたいって気持ちだけは、あの人に負けないつもり」
ナハトはふっと鼻で笑った。
「負けてもいい。黄嶺は黄嶺で、お前はお前だ。背負い込むな。少なくとも⋯⋯お前は一人じゃない」
その言葉に、儀玄が頷いた。
「うん。だから、私は決めた。今度こそ、あの剣の呪いを終わらせる。もう誰かが命を削る必要なんてない世界にする⋯⋯そのために、私は術式を創る」
その言葉に、儀降も顔を上げた。
「封印の術ね」
「うん。青溟剣を使わなくて済むように。⋯⋯たとえ使っても、呪いに蝕まれないように。黄嶺様の命でさえ縮めたあの剣を、あのまま次代に渡し続けるなんて、間違っている」
儀玄の声は震えていなかった。
眼差しには、確かな意志が宿っていた。
「⋯⋯私も協力する。宗家の記録、禁術書、何でも使って。術法の礎になるものは全部調べるわ」
儀降もまた、もう逃げるような顔ではなかった。
青溟剣を佩いてなお、その呪いに屈せず、未来を見据える“宗主”の顔だった。
「覚えとけ。封印が完成しても、完全じゃないかもしれない。だけど、それでも歩くってのは、信じるってことだ。誰かを、そして自分をな」
ナハトは夜空を仰いだ。
月は雲に隠れ、少しずつ空が深まっていく。
「この剣に終わりを与えることができれば⋯⋯宗主様の死も悲劇で終わらない」
儀玄の言葉に、儀降がゆっくりと頷いた。
「ええ。そうね。あの人の命を無駄にしないためにも、私たちが“止める”必要がある」
「⋯⋯止めるんじゃない。“超える”んだ」
ナハトの声は、どこか遠くを見ていた。
「呪いでも、宿命でも、古き教えでも──それを超えて、前に進んで初めて、“未来”って言えるんだ」
風が、縁側を撫でる。どこか懐かしい、木々の香りが漂った。
かつて黄嶺がそこに座っていた夜。
語られた理想。
戦った過去。
そして、生き残った者に託された願い。
「なら──ここから始めましょう」
儀降は静かに、だが力強く立ち上がった。
「第十二代宗主としてではなく、“雲嶽の意志を継ぐ者”として。青溟剣の封印を、私たちの手で完成させる」
「うん。私は術式の骨子を組む。黄嶺様の記録にもきっとヒントがあるはず」
儀玄が手帳を取り出す。
ナハトは、それを見守りながら最後に言った
「じゃあ、俺は──その剣が“本当に危ない時”に抜かれる前に、誰より先に動く役目ってことで」
笑い声はなかった。
けれど、どこか安堵のような、安心感が漂っていた。
縁側の夜は、静かに更けていく。
だが、その静寂の中に、三人が築いた小さな誓いの炎だけが、確かに灯っていた。
その頃——
ホロウの深層では血と煙と断末魔が渦巻いていた。
焦げた機械の匂いと、焼け落ちた人肉の臭気。かつては探索拠点だったはずのベースは、今や瓦礫の山と化し、そこにいたホロウレイダーたちは、ほとんどが斃れていた。
視界の奥に、灰色の外殻を持つ“ファーター”が静かに佇んでいる。
その姿は、まるで神像のようだった。人の形をしていながら、瞳は光も感情も持たない。右手に構えるは錆びた大型ナイフ、左手には50口径の拳銃が握られている。
「っ⋯⋯は⋯⋯は、ぁ⋯⋯っ!」
たったひとり、生き残ったレイダーがいた。
血まみれで膝をつき、肩を震わせながら立ち上がる。防弾ベストは焼け焦げ、左腕は根元から消し飛んでいた。息をするだけでも肺の奥が焼けつくようだった。
それでも、その男は立ち上がる。
震える足でファーターを睨みつけ、吠えるように叫んだ。
「何が、“始まりの主”だッ⋯⋯!」
ファーターは応えない。
ただ、こちらを見ている。光なき双眸に、判断も、怒りも、慈悲すらも宿っていない。
「何が、“ホロウを克服する者”だ! 何が、“正義”だよ⋯⋯お前ら⋯⋯」
レイダーは、怒りというよりも、嘆きのような声音で、血を吐くように言葉を吐いた。
「お前ら⋯⋯イかれてんだよ!!」
男は拳銃を抜き、ファーターに向ける。だが、その瞬間にファーターは目の前からいなくなる。そして、レイダーの首をナイフで切り落とす。
「⋯⋯弱い」
ファーターは辺りを見渡して口を開く。
「やはり⋯⋯お前だけだよ⋯⋯ナハト」
もうすぐだ⋯⋯もうすぐ、お前の命も体も全て手に入る。この街も雲嶽山も⋯⋯全てが灰と化す。
「楽しみだよ、ナハト」
「旧都陥落の・Another」を書き終えてからの話なので、かなり先になりますが、他にもゼンゼロ小説を投稿しようと思っています。皆さんはどちらを見たいですか?
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時間をかけてもいい。どっちも書け