雲嶽山
儀玄は思わず背を伸ばし、軽くため息をつく。夜遅くまで青溟剣の封印の術式を構築していたため、肩と首が重く、指先は感覚を失いかけていた。
「あと少し」
青溟剣の封印のための術式完成まであと少しという所まできた。
「少し休んだら?」
声に応えるように、隣の部屋から儀降がやってきた。彼女もまた、疲労の色を滲ませていたが、瞳には揺るぎない集中の光を宿していた。
「⋯⋯そうですね」
儀玄は机に広げた術式図をじっと見つめたまま、ゆっくりと筆を置いた。
「少し、外の空気を吸いましょうか」
そう言って立ち上がると、儀降もうなずき、彼女らは静かに書院を出た。夜の雲嶽山はひんやりとした風が心地よく、空には満天の星が広がっている。
儀玄は石段に腰を下ろし、肩をぐるぐると回した後、天を仰いだ。
「こうして外に出ると、やっぱり少し落ち着く」
「うん。集中してると、どうしても自分の呼吸が見えなくなる。それにしても、こうして空を見ると⋯⋯人って小さいね」
儀降の声には、わずかに寂しさが滲んでいた。
儀玄はその言葉に頷きつつ、ふと語りかけるように呟く。
「兄様もこの夜空を見てるのだろうか」
「どうだろう。あそこは、ちょっと空が汚れちゃってるから」
儀降はくすくすと笑いながら言う。
「何だか⋯⋯私たちが兄様に拾われて、温かいご飯を食べた日のことを思い出す」
儀降はふっと目を細める。
「焼き魚に唐揚げ、味噌汁……今でも、あの味をはっきり覚えてる」
「最初の一口で涙を流して⋯⋯姉様の前で、恥ずかしいくらい」
儀玄はくすぐったそうに笑った。その笑みの中には、もうあの日のような空腹の影はなかった。
「でも、今思うと……あれが始まりだった気がする。ちゃんと『生きる』ってことの」
「ええ。私たちは、あの人に助けられて、ここに辿り着いた」
儀玄はそう言って、夜空の下に静かに立ち上がった。遠くの山々が黒い稜線となって月光に浮かび上がっている。ここ雲嶽山は、かつて彼女たちにとって未知の場所だった。それが今では、帰るべき場所になっている。
「ねえ、儀玄。もし術式が完成して、青溟剣の封印がうまくいったら——」
儀降は言葉を切り、少しだけ間を置いた。
「また、兄様と一緒にあそこの食堂に行こうよ」
「ええ、行きましょう。必ず」
その約束のような言葉に、儀玄は微笑を浮かべて頷いた。
「⋯⋯兄様、きっとまた“あの定食”を頼むんでしょうね」
「うん、絶対に。白米大盛りで、唐揚げに追いマヨして」
二人の口から、自然と笑みがこぼれた。その笑い声は夜の静けさに溶け込み、まるで雲嶽山そのものが彼女たちの過去をやさしく抱きしめてくれているかのようだった。
風が少し強く吹き、枝葉がさらさらと音を立てる。遠く、梟の鳴き声が一声だけ響いた。
儀玄はふと、空を仰いだまま小さく呟いた。
「黄嶺様、私たちは大丈夫です。あなたが託してくれたものを、きちんと繋ぎますから」
すると儀降も、その隣でそっと手を合わせるように目を閉じる。
「私たちがここにいる限り⋯⋯青溟剣も、この山も、ちゃんと守る」
それは決意であり、祈りでもあった。静かで穏やかな、けれど確かな想い。
しばらくして、二人はまたゆっくりと立ち上がり、書院へと戻っていった。窓辺には、先ほどまで広げていた術式図と筆が静かに待っている。
—その頃
ナハトの家ではゼーレとアテネが集まり、騒がしく夕飯を食べていた。
「ゼーレ! 俺の餃子だろそれ!」
「⋯⋯知らん」
「お前ら、もうちょい大人しく食えんのか」
「ンナナ〜(騒がしいね〜)」
ナハトはため息をつきながらも、どこか楽しげな表情で皿を引き寄せた。テーブルの上は、焼き餃子や麻婆豆腐、卵スープに白米と、まるで小さな食堂のような賑わいだ。温かい湯気と香ばしい匂いが、居間に満ちている。
「そもそも、なんで俺が作った分をお前らが平然と食ってるんだよ⋯⋯」
「作った者が⋯⋯最初に食べるとは⋯⋯限らない⋯⋯戦場でも⋯⋯守る者が最初に倒れる」
「兄貴、こいつ急に多弁になったぞ」
「飯の話をしてるんだけどなぁ?」
呆れ顔のナハトに、アテネはくすっと笑いながら箸を動かす。
「でも、ちゃんと作ってくれたんだね兄貴。しかも、こんなにいっぱい」
「お前が買ってきた材料のせいだろ。冷蔵庫が餃子と豆腐だらけだったし」
「だって、安かったんだもん」
アテネは悪びれもなく言いながら、もう一つ餃子を口に放り込んだ。ゼーレは黙々と食べているが、時折ちらりとナハトの皿を狙っているような視線を送ってくる。
「ゼーレ、視線がうるさい。ほら、もう一皿焼いてあるから」
「⋯⋯感謝」
無表情でありながらも、ゼーレはどこか満足げに新たな皿へと手を伸ばした。
そんな中、ラプターが机の下からぴょこりと顔を出し、餃子の匂いにくんくんと鼻を鳴らした。
「ンナナ!(一個だけほしい!)」
「ダメ。お前は油でベタベタになるから見てるだけな」
「ンナーッ!(差別だー!)」
いつものように、にぎやかで他愛のない時間が流れていく。
夕食の喧騒がひと段落し、皿の上の餃子が名残惜しげに数個だけ残されたころ、アテネがふと立ち上がった。
「ねえ、兄貴。今日はさ、みんなでデザート食べない?」
「デザート?」
「買ってきたんだよ。ほら、この『貴方の日常に刺激を!ニトロフューエル味アイス』ってやつ」
「バケモンみてえなアイスだな」
ナハトは呆れたように鼻を鳴らしながらも、冷蔵庫の方へ目をやる。ゼーレはというと、餃子の皿を抱えたままぴくりとも動かない。視線は定まっておらず、意識はすでに“次の飯”に向かっているらしい。
「あー⋯⋯食うかゼーレ?」
「⋯⋯食う」
ナハトが笑いながら立ち上がり、冷凍庫から器とスプーンを取り出すと、アテネがすでに小皿を並べていた。どこか楽しそうな表情を浮かべて。
「ねえ兄貴、こういう時くらいはさ、ちょっと“贅沢”でもいいでしょ?」
「いつも贅沢してる気がするけどな。まあ、いいか」
「ンナナ(変な色)」
器に盛られたアイスクリームが、湯気の立っていたテーブルに涼やかな存在感を添える。紫のジュレも、光を反射して淡くきらめいていた。なんだか、それだけで少し特別な気がする。
「ん〜〜、冷たっ。うまっ。やっぱこういうのは別腹だわ〜」
アテネが満面の笑みでアイスを頬張る。ゼーレも無言で口に運ぶが、その目がほんのわずか細くなった。ナハトはそれを横目に見て、にやりと笑う。
「地味に美味いのが腹立つな」
食後のひととき、特別なことは何も起きていない。ただ、こうして笑って、食べて、少しの風がカーテンを揺らしていく。外では夜虫が鳴いていて、空には雲ひとつない満月が浮かんでいた。
「……明日も、こうだといいね」
ぽつりとアテネが言う。
ナハトは、ふと静かに頷いて答えた。
「ああ、明日もちゃんと、飯がうまいといいな」
その言葉に、ゼーレも「⋯⋯そうだな」と小さく口を開いた。
誰も言わないけれど、それはたしかな祈りだった。戦いの日々の狭間にある、かけがえのない「日常」への。
そうして、ゆっくりと夜は更けていった。明かりが落ちて、カーテン越しに珍しく綺麗な空には、星がまたたき、ラプターの小さな寝息が響くころ、ナハトはふと窓の外を見上げた。
——儀玄たちも、今頃どこかで星を見てるだろうか。
そんなことを、少しだけ思いながら。
彼は椅子に身を預け、静かに目を閉じた。
夜は静かに、やさしく、今日という一日を包んでいった。
「旧都陥落の・Another」を書き終えてからの話なので、かなり先になりますが、他にもゼンゼロ小説を投稿しようと思っています。皆さんはどちらを見たいですか?
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時間をかけてもいい。どっちも書け