ナハトはトンファーを握り直しながら、ファーターを睨みつける。
「間に合わないって、さっきから何を⋯⋯どういう意味だよ」
ナハトの声は震えていた。怒りではない。焦燥と、理解の及ばぬ恐怖が混じっていた。
ファーターは肩で息をしながら、微かに笑った。だがその瞳には、悲しみが滲んでいた。
「お前は言ったな⋯⋯生見でそれほどの強さの俺ならホロウが克服できるって⋯⋯俺がホロウを克服? ははは、できるわけがないだろう?」
ファーターは笑みを浮かべながらも、まるで胸の奥をえぐり取られるような顔で、ナハトを見つめ返した。
「俺が言った“間に合わない”ってのはな、ナハト⋯⋯かつて、この星には本物がいたんだ。人類に希望を与えた虚狩りの英雄たちが」
重い言葉が、爆煙の余韻の中に落ちていく。
「ダークウォールを大きく後退させた、ヴァイク大佐、ダン中佐⋯⋯それに、ファルケンハイン傭兵団の長。天空を支配していたハイヴ・ロードホロウを消滅させたマルセルグループのCEO、サンブリンガー。そして、二度と出れないと言われたホロウの探索の礎を築いた導き手ジョイアス⋯⋯」
ナハトは言葉を失った。誰もが知っている名前だ。歴史に刻まれた英雄たち。そのすべてが、ホロウとの戦いの象徴だった。
「どうして今それを⋯⋯」
「分からないか? そんな彼らでさえ⋯⋯ホロウに勝てなかった。克服できなかったんだよ、ナハト」
ファーターは拳銃を下ろした。敵意ではなく、絶望を語る者の姿だった。
「なのに、俺たちみたいな凡人がどうして⋯⋯? 本当に勝てると思うか? 時間をかければ克服できる? それが間に合うとでも?」
「だったら、薬か」
ナハトの声は低く、鋭かった。
「お前は言ったな。薬で克服するって。⋯⋯そうやって、人間を弄んでまで、希望を繋ぐつもりか?」
ファーターは静かに頷いた。
「その通りだ。人間の身体はもう、ホロウに耐えられない。心も、精神も⋯⋯いつか喰われる。ならばこちらから、進化するしかない。克服できなければ⋯⋯この星は、すべてがホロウに呑まれる。宇宙に浮かぶエーテリアスのコアのようになる。静かに、確実に」
「じゃあ、それを止めるために、お前はその組織とやらに入ったのか」
ナハトは一歩、前に出る。その足取りには、怒りと哀しみが滲んでいた。
「本当にそれだけかよ。お前は、そういうやつじゃなかった⋯⋯短い間だった。けど、俺が知ってる、お前は」
ファーターの表情が、わずかに陰る。そして、ぽつりと、静かに吐き出すように言った。
「⋯⋯そうだな。確かにそれだけじゃない」
彼は拳銃を収め、ナイフを下ろした。戦う姿勢はとっているのに、その目は、過去のどこかを見ていた。
「俺は⋯⋯家族を、ホロウ災害で失った。妻も、子も⋯⋯抱き締める間もなく、目の前で殺された」
ナハトは、言葉を失った。
「助けられなかった。守れなかった。英雄でも、戦士でもない。何の力もなかった。あの日から、ずっと俺は⋯⋯あの時の自分を殺すためだけに、生きてきた」
その声には、怒りも悲しみも、全てを乗せた、むき出しの“人間”の痛みがあった。
「この身を薬に汚してでも、克服してでも、この星がホロウに呑まれる未来だけは⋯⋯俺は見たくないんだよ。二度と、誰にもあんな思いをさせたくないだけなんだ」
ナハトは何も言えず、ただファーターを見つめていた。
言葉では覆せないほどの重さが、ファーターの言葉の中にはあった。家族を失い、自分自身の無力さに打ちのめされ、それでも前に進もうと足掻いてきた男の覚悟が、そこにはあった。
だが——
「⋯⋯それでも、お前は間違ってる」
ナハトは、静かに、だが確かな声音で言った。
ファーターの瞳が揺れる。
「確かに、虚狩りたちでもホロウを克服できなかった。けど⋯⋯お前は知ってるだろ? あの人たちは、ただ“倒す”ことだけを選ばなかった。命を守る道を、築こうとしてた」
「ナハト⋯⋯」
「薬で人間を作り替えるなんて⋯⋯そんなやり方、希望じゃない。絶望の上に立つ未来なんて、誰も笑えねえよ」
ナハトの声には、震えがなかった。まっすぐに、ファーターを見据える目に、一切の迷いもなかった。
ファーターはナハトの言葉を静かに受け止めていた。
その表情には怒りも反論もない。ただ、深く刻まれた疲れと、それでもなお揺らぐ何かがあった。
「⋯⋯変わらないな、お前は」
低く、どこか寂しげに呟く。
「初めて人を殺した時もそうだった⋯⋯どれだけ絶望を見ても、それに屈しない。諦めない。お前みたいな人間が、もしこの世界の中心に立ってたら⋯⋯」
ファーターは静かに腰のホルスターから、小さな金属ケースを取り出した。
開かれたケースの中には、一本の注射器が収まっていた。
——ナハトの脳裏に警鐘が鳴る。
「なんだそれは⋯⋯ファーター⋯⋯ファーター!!」
「世界はここまで⋯⋯絶望に染まっていなかったのかもな」
「やめろおぉぉ!!」
ナハトが叫びながら前へ出ようとする。
だがファーターは一歩だけ、足を下げて距離を取ると、ゆっくりと注射器を構える。
「もし、お前が正しかったなら。俺がこの先、ホロウを“克服”じゃなく、ただ“支配されて”いくだけの化物になるのなら、その時は——」
ナハトの目を、まっすぐに見据えて言う。
「頼むぜ⋯⋯ナハト」
ファーターの指先が、ためらいなく注射器のプランジャーを押し込む。中の液体が彼の体内に流れ込んだ瞬間、彼の体がビクリと震えた。
そして——始まった。
皮膚が泡立つように脈打ち、血管が黒く浮き上がっていく。骨格が軋む音が空気を裂き、背中から異形の骨刃が突き出た。全身が異様な発光を帯び、肉体は蠢くように変形していく。
「っ、あ゛ああああああああああああっ!!」
絶叫。
その声は人のものではなかった。苦しみと憤怒、そして恐怖がない交ぜになった、絶望の断末魔だった。
ナハトは立ち尽くす。
目の前で、人だった存在が、一秒ごとに“それではないもの”へと変貌していく。
「ファーター⋯⋯っ!」
呼びかけても、もう返事はない。
変異は止まらない。肉体は異形の装甲に包まれ、眼窩からは燃え上がるようなエーテルの光が溢れる。背中からはエーテルで作られた天使のような羽が生え、腰からは先が尖った竜のような尾が生えている。腕は四本となり、鋭利な爪が生えている。牙を剥いた異形の口が開かれる。
ファーターは、エーテリアスと化した。
そして——ナハトを見据えた。
「⋯⋯⋯⋯ッ!!」
ナハトは奥歯を噛み締め、トンファーを逆手に構える。もう、その手は震えていない。
怒りと悔しさと、どうしようもない哀しみが、彼の中で火柱のように立ち上る。
「ふざけんなよ、ファーター⋯⋯!」
絞り出すような声が、静寂に響く。
「ホロウを克服するために、自分を捨てるだと? 人でなくなってまで、生き延びて、それが何になる⋯⋯!」
異形となったファーターが、咆哮を上げる。重力をねじ曲げるような圧が周囲に広がり、空気が震える。ナハトの足元の地面がひび割れ、後方にいたゼーレたちが一瞬だけ身構える
だが、ナハトは一歩も引かない。
「人であることを諦めた時点で、それはもう克服なんかじゃねえ! 俺は認めねぇよ、そんなもん!」
トンファーを地面に打ちつけ、起爆。衝撃波で自らを吹き上げるように、空中へ跳躍したナハトは——
「俺が、終わらせてやる⋯⋯!」
炸裂トンファーが火を噴く。
義尾が唸りを上げて伸びる。
ナハトの全身が、怒りと信念の塊となって、変貌したファーターへと突き進んでいく。
もはや言葉はいらない。
言葉など意味をなさない。
これは——止めるための戦いだ。
「旧都陥落の・Another」を書き終えてからの話なので、かなり先になりますが、他にもゼンゼロ小説を投稿しようと思っています。皆さんはどちらを見たいですか?
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