ナハトはゼーレとアテネ、ラプターと共にスラム街に戻ってきた。足元では、儀玄と儀降が身を寄せ合い、周囲を警戒しながら歩く。
五年という年月で変わるものがあり、変わらないものもある。スラム街は相変わらず変わらない。ここだけ、時が止まっているかのようだ。
路上の屋台では、違法な薬や裏ルートから流れてきた武器を売買し、道を歩いていればすぐに罵声や怒鳴り声、喧嘩の音が聞こえる。
もし、儀玄と儀降が二人だけでこのスラム街を歩けば、すぐに輩に絡まれるだろう。そうならないのは、ナハトとゼーレ、アテネの三人がいるからだ。
特に巨漢のゼーレを見た者たちは、いそいそと道をあける。
「ここは、なーんにも変わらないね兄貴」
「変わろうとしないだけさ」
ナハトたちがスラム街を歩くにつれ、通りの空気は徐々に荒んだものへと変わっていった。
血のにおいが残る石畳、焦げ跡の残る壁、ゴミと油と人間の生活臭が混ざった息苦しい空気。そんな中でも、ナハトたちの歩みは変わらない。ゼーレが前を歩き、ナハトは儀降と儀玄を庇うように中央、アテネは後方を警戒していた。
やがて、ナハトの住処に辿り着いた。スラムの外れ、崩れかけた集合住宅の一角。外壁には無数の落書きと、銃弾の痕が残っている。だが、その割に扉はしっかり補強されており、入り口付近にはラプター用の簡易チャージャーも設置されていた。
「んじゃ、兄貴、俺らはここで」
「バイバイ⋯⋯兄者」
「ああ、ゆっくり休めよ」
ゼーレとアテネに別れを告げたナハトたちは、静かに扉を開けて、ナハトの住処へと足を踏み入れた。
中は質素ながらも、外の荒れ果てた様子とは打って変わって、どこか落ち着いた空気が漂っていた。照明は黄色みのある柔らかなランプ。鉄骨剥き出しの天井から吊るされたコードが揺れている。
床は古びた木材に鉄板を敷いた即席のもの。壁際にはラプター用の補助設備と工具箱、ホロウ探索で集めた遺物を分別する棚が並び、奥の方には折りたたみ式の簡易ベッドが二つ置かれていた。
その傍には薄い毛布と、スラムの取引所で交換した端末スタンドが一つ。
「まっ、表街の家とは比べものにならないけど、我慢してくれ」
ナハトは笑いながら、家の奥へと進む。
「ここで、今日は休んでいい。鍵は内側からもかけられる。風呂は使えるけど、お湯は少しずつな」
ナハトはそう言って、小さなキッチンの方へ足を運びながら、儀降と儀玄の方を振り返る。
二人の少女は部屋の中をきょろきょろと見渡していた。最初こそ緊張していたが、天井から雨漏りしないことを確認した時点で、その顔が明らかにほころんだ。
「⋯⋯屋根がある」
ぽつりと儀玄が呟いた。妹の儀降は、ベッドの毛布を両手でぎゅっと掴んだまま、何かを堪えるように小さく息を吸った。
「ねえ、姉様⋯⋯ここ、あったかい」
「うん⋯⋯本当に、久しぶりだね。こんな風に、ちゃんとした場所で⋯⋯」
そのとき——
ぐうぅぅ〜⋯⋯と、部屋に不釣り合いな音が響いた。
二人のうちどちらかの腹の虫が、誤魔化しようもなく主張していた。
「⋯⋯あっ、ご、ごめんなさい!」
儀玄が顔を真っ赤にしてうつむく。儀降もつられて俯いた。
ナハトは少しだけ苦笑して、ベルトにかけた武器を外しながら口を開いた。
「肉まんだけじゃ、やっぱ足りねぇよな」
壁際のラックに、【炸裂トンファー】と【炸裂刺突剣】を丁寧に掛ける。金属同士がぶつかる音が、控えめに鳴った。どちらも、ナハトの愛用している武器である。
【炸裂トンファー】。内部に爆縮機構を仕込み、打撃の瞬間に局所的な炸裂を起こす対装甲兵器。近接格闘用でありながら、一撃で外骨格系の化物を叩き伏せる威力を持つ。
もうひとつは【炸裂刺突剣】。刃の内側に複数の炸薬カートリッジが内蔵され、刺突後に起爆する構造。盾や外殻を貫通した後、内部で破砕ダメージを与えるために設計されたものだ。刺したまま柄のスイッチを押せば、刃が外れ大爆発を引き起こすことも可能である。
「よし、今日は使わないな⋯⋯」
そう呟いて、ナハトは二つの武器を壁のラックに戻す。腰の回転式拳銃は念の為にそのままにしておき、対ホロウガスマスクは外し、フードは目深に被ったまま、替えのテックウェアを羽織る。
「表街に飯食いに行こう」
そう言ってナハトが立ち上がると、ラプターが小さく「ンナッ」と鳴いてついてくる。義尾——鋼鉄製の機械尾が、静かに床を滑る音を立てていた。
儀玄と儀降も素早く立ち上がる。今度は、何も言わずともナハトの背中についてきた。どこかに、まだ不安は残っている。それでも、少しだけ顔が和らいでいた。
スラムの夜は危険が多いが、ナハトがいれば誰も声をかけてこない。スラムの者たちも、ナハトのことは知っているのだ。ここで、絡んでもボロ雑巾のようにされ、義尾の攻撃で命を落とすか、最悪の場合は重傷である。スラムでは、命を落とすことよりも、ジワジワと死に近づく重傷の方が残酷なのだ。
つまり、喧嘩を売るには代償が大きすぎる。
裏通りを抜け、再び表街へと入る。夜のネオンと街灯に照らされた道は、スラムとは全く違う、まるで異世界のように整っていた。舗装された道、清掃された歩道、整然と並ぶ店舗。それでも、ナハトの存在は異質だった。
銀の尾。人工光学の右眼。フードの奥で鈍く光る瞳。
彼が「人間」であることを、周囲は疑わなかった。ただ、その身体に宿る異形性が、店に入った時に一瞬だけ客の視線を集めた。
——が、すぐにそれは消える。
皆、見慣れているのだ。機械種族、強化人間、義肢兵士。表街にも、異形はいる。今の世界において、異形であることは奇異ではあっても、異常ではない。
「ここだ」
ナハトが選んだのは、夜しか営業していない食堂だった。古いが清潔な店舗で、店主が一人で切り盛りしている。暖簾をくぐると、出汁の香りと鉄板の音が迎えてくれた。
「また来たな、兄ちゃん。今日は⋯⋯おや? 家族連れか」
カウンター越しに顔を出した店主の男が、やや驚いた表情でナハトを見る。
「⋯⋯まあ、そんなとこだ。三人。腹一杯になるだけ頼む」
ナハトの言葉に、儀玄と儀降は思わず顔を見合わせる。
「え⋯⋯でも⋯⋯お金は?」
「遠慮するな。人の好意は、遠慮しすぎると薄くなるぞ」
ナハトはそう言いながら、カウンターの隅に腰を下ろす。ラプターも「ンナッ」と鳴いてその足元にちょこんと座り込む。
少女たちは、ゆっくりと席に着き、やがて運ばれてきた夕飯——
白米、味噌汁、焼き魚に唐揚げ、小鉢に甘い玉子焼き、少しだけ贅沢な揚げ出し豆腐。
それらを前にして、最初の一口を食べた瞬間——
「⋯⋯っ、おいしい⋯⋯」
儀降の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「ねえ、姉様⋯⋯こんなごはん、いつぶりかな⋯⋯」
「分かんない。でも⋯⋯あったかい⋯⋯ほんとに⋯⋯」
その光景を前に、ナハトはただ黙って飯を食っていた。彼の目には、あまりそうした感情は見えない。けれど、背中がどこか優しげだった。
「お兄ちゃん、優しいんだね」
儀降が、米粒のついた口元でそう呟いた。
「違うさ」
ナハトは、湯気の立つ味噌汁をひとくち啜って、静かに言葉を返す。
「優しくないさ⋯⋯ああ⋯⋯優しかったら、俺はとっくに死んでる」
そう呟いたナハトの声は、どこか遠くを見ていた。
ナハトの言葉に、儀玄も儀降も何も言えなくなった。けれど、ふたりはそれ以上何も聞かなかった。ただ、それがナハトの中にある“生き延びるための答え”なのだと、何となく感じたのだ。
ラプターがテーブルの下で丸まりながら、時折尻尾をぴくりと動かしている。店内では、他の客たちも自分たちの飯に集中しており、ナハトたちの存在はもはや気にも留められていなかった。
店主が新しいお茶を注ぎに来た時、ふと目を細めてナハトに声をかける。
「変わらねぇな、お前は」
「変われるもんかよ」
短いやりとりだったが、その言葉の裏にある歳月と、共有した何かがにじみ出ていた。
食事を終えた後、ふたりの少女はお腹をさすりながら、どこかぽやんとした表情になっていた。体も心も満たされる、という経験がどれだけ久しぶりだったか、もう自分たちでもわからないほどだった。
「ありがとう、お兄さん」
「うん、こんなに食べたの、いつ以来だろう⋯⋯」
「⋯⋯礼はいい。今だけだからな」
ナハトは立ち上がりながら、フードの下で静かに視線を落とす。
——こんな日常は、長くは続けられない。
このまま彼女たちをスラムで育てることは、ただ同じ痛みを与えるだけだ。誰かを殺さなければ、盗まなければ、飢え死にするような生き方を⋯⋯もう、誰にも繰り返させたくない。
ふと、ナハトの脳裏に浮かんだのは、あの場所だった。
《雲嶽山》——身寄りの無いを子どもを助け、育て、正しい道を歩ませる優しい場所。
そこの、第11代目宗主、黄嶺ならこの子たちの面倒を見てくれるだろう。己の力を、誇りを、そして“生きるための型”を教えてくれた。戦いと同じくらい、言葉の重さを知っていた男。
——あの人のところなら、きっと育ててくれる。
ナハトの義尾が、コンクリートの床を静かに叩いた。
「⋯⋯近いうち、あの山に行くか」
ふたりの少女は、ナハトの独り言のような声を聞いて、目を瞬かせた。
「山? 山って⋯⋯どこ?」
「安心しろ。ちゃんとした場所だ。学べる、食える、眠れる。武器を持たなくても、生きられる場所だ」
ナハトは店の出口に向かいながら、どこか、少しだけ迷いのある声で続ける。
「俺には無理だった。でも、お前たちなら——」
続きは言わなかった。言えば、逃げ道がなくなる気がしたからだ。
外に出ると、街のネオンは一層きらびやかに夜を照らしていた。けれど、ナハトの義眼に映るそれは、どこか薄ぼんやりとして、現実味のない景色に思えた。
儀玄と儀降は、その後ろを歩きながら、ふたりだけでそっと話していた
「ねえ姉様、お兄さんって⋯⋯やっぱり優しいよね」
「うん⋯⋯でも、それを認めたら壊れそうな感じがする」
「だいじょうぶかな⋯⋯」
「だいじょうぶにするんだよ、私たちが」
そうして、四人——ナハト、ラプター、儀玄、儀降、そして無言の夜の空は、ゆっくりとスラム街へと戻っていった。
彼らの足元には、静かに、小さな未来が踏みしめられていた。
「旧都陥落の・Another」を書き終えてからの話なので、かなり先になりますが、他にもゼンゼロ小説を投稿しようと思っています。皆さんはどちらを見たいですか?
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