ブラック企業から異世界転生したら、魔王軍の人材流出がもっとヤバかった 〜ハズレスキル「平時調整」で成り上がる〜 作:まよ
最前線・第六方面軍の野営地に、変化が起きたのは――ほんの“数通の紙”からだった。
「おい……なんだこの文書。転属願が“受理”されてる?」
「え? 冗談だろ? うちの中隊から出られるって、初めて聞いたぞ」
「しかも、“復帰の意思を確認する手紙が後日届く”って書いてある」
兵士たちは半信半疑だった。
何かの罠ではないか、そう囁く者もいた。
だが事実、それは本物だった。
数週間前、ひとりのトロール兵が記入して提出した“離脱申請書”――それが、正式に処理されていた。
「……もしかして、俺たち……“辞められる”?」
最初に口にしたのは、爬虫族の老兵だった。
かつて何度も死線を潜り抜け、今では“抜け殻のように生き残っている”と言われた男。
彼がその言葉を口にした瞬間、まるで凍った地に微かな亀裂が走るような静けさが、辺りを包んだ。
「“辞めたい”なんて言ったら、粛清されるって……ずっとそう思ってたけど……」
「もしかして、時代が変わったのか?」
「……いや、“誰か”が変えたんだよ」
それが誰かは、分からない。
だが、兵士たちは確かに“何かが動いている”のを肌で感じた。
その翌日、転属申請書の記入希望者が、規定の十倍に達した。
そして数日後――。
魔王軍本部・人事部の一室にて、カナス・アスカルトは報告書を静かに読む。
【前線兵より離脱希望者:計247名】
【うち、転属調整可能:41名】
【現地残留希望に変化:23名】
【理由:「希望があると分かったため」「将来的に再出発の目処が立つなら」】
カナスは、静かにペンを置いた。
変化は起きた。
それはまだ、さざ波に過ぎない。
だが、それは確実に“希望”という名の風を運び始めていた。
「……“逃げ道”があるだけで、人は踏みとどまれる」
誰も彼もが、辞めたいわけではない。
逃げたいと思っているわけでもない。
本当は――「居場所があると知りたい」だけなのだ。
だからこそ、《平時調整》は効いた。
スキルは人を救わない。
だが、“逃げ場の存在”は、人を立ち止まらせることができる。
「――さて。次は、“何を守るか”だ」
そのとき、扉が控えめにノックされた。
「入って」
姿を見せたのは、一人の青年だった。
制服から見て、彼は“現地応援部隊”の補佐官だろう。
「アスカルト主任……いえ、“仮設調整官”。報告に伺いました」
「肩書はどうでもいいわ。内容を」
「第七方面軍にて、“自発的申請による再配置”の事例が発生しました。しかも、三件です」
「理由は?」
「いずれも、“改善の兆しが見えたため”との記述がありました」
それを聞いたカナスは、初めて少しだけ、肩の力を抜いたような微笑を浮かべた。
「……そう。なら、“組織”はまだ死んでいない」
魔王軍という巨大な歯車。
その中で、無力とされてきた“人事”という小さなネジが、わずかに回り始めている。
誰も見ない、誰も気にしない。
だが、ネジが止まれば、組織は崩れる。
そして、今――誰もが気づかぬうちに、それを回している者がいた。
「始まったわね。改革じゃない。“業務改善”が」
“成り上がり”などではない。
彼女は、“仕組み”として正すだけ。
だが、それが一番恐ろしいことだと、支配者層はいつか気づくだろう。
――そして、そのときこそ“次の戦い”が始まる。
この夜。
カナス・アスカルトは、静かに目を閉じた。
――今日という日が、“静かなる革命”の第一歩として、歴史に残るとは、まだ誰も知らない。