軋む音を立てて、キルアの足が一段一段と階段を踏みしめていく。
その背を追う三輪の目には、いつもの無敵の少年の姿はなかった。
白い肌は青白く、唇は血の気を失い、こめかみから頬、首筋にまで滴るような汗が伝っている。
その汗の量は異常だった。
「キルア、大丈夫……?」
階段を三分の二ほど登ったところで、三輪が小さな声で問いかけた。
キルアは振り向かず、手すりに縋るように体を支えながら笑みを浮かべた。
「問題ないよ。……これくらい、慣れてるし。」
笑顔の裏側にある苦悶を、三輪は感じ取っていた。
嘘だ。大丈夫なはずがない。
それでも、彼女はそれ以上何も言えなかった。
今、引き返すという選択肢が現実的でないことは、誰よりも三輪自身が理解していた。
やがて、二人は階段を登り切った。
そこにはテナント工事が途中で止まった、灰色の広大な空間が広がっていた。
天井の照明すら取り付けられておらず、淡い自然光が割れた窓から差し込んでいる。
等間隔に立ち並ぶ鉄骨の柱だけが、空間の構造をかろうじて保っていた。
その奥――
真っ赤な着物をまとい、腰を下ろしたまま静かにこちらを見つめている存在があった。
髪は腰まである長さで、艶やかで整っているにもかかわらず、彼女の放つ気配はまるで腐臭を伴う瘴気のようだった。
姿は人のようでありながら、人ではない。
そのオーラを受けた瞬間、三輪は立ち止まり、呼吸を詰まらせた。
(なんて禍々しい……)
声にならない恐怖が喉元をせり上がる。
これまでに見聞きしたどの呪霊とも比べものにならない、桁違いの重圧。
「ここまで妾に近づいた人間は……久しいな」
女――蠱紅は、まるで舞台の台詞のように、ゆっくりとした口調で言った。
その声は異様なほど美しく、だが底の底から冷気が染み出すような感触を伴っていた。
「こいつ……人間の言葉を喋ってる……」
三輪が息をのんで呟いた。
その言葉に蠱紅が目を細める。
「ふふ、妾は《蠱紅》と申す。言葉を喋るなど当然であろう。妾は……長きにわたり、呪いを食らい、育った者よ。」
「これ……お前がやってんの?」
キルアが自分の頭を指差し、怒気混じりに問う。
「いかにも。妾の術は精神に直接干渉する。して……お主、この世界の者ではないな?」
キルアはピクリと表情を動かしたが、答えなかった。
「妾の術にかかり、ここまで近づいた者は皆……正気を失った。妾にとっては、お主ほどの者の精神を喰らうことこそが、至高の悦楽なのだ。」
「……へっ。笑えねー冗談だな」
キルアはそう言いながらも、膝が小さく揺れている。
汗が床にポタリと落ち、染みになった。
蠱紅の視線がゆっくりと三輪へと移動する。
「その女子……妾の術には触れることすらかなわぬ。力の差は歴然……なれど、お主はどうする?」
三輪は唇を噛んだ。
鋭い言葉が、自分の無力さを突きつけてくる。
けれど、それでも――
(キルアは……こんな状況でも戦ってる。私が、逃げるわけにはいかない)
三輪の手が、柄にかかる。
「この程度で俺を止めたと思うなよ。」
キルアの声が響いた瞬間、足元に稲妻が迸る。
しかし、次の瞬間――
「――死ね」
蠱紅の指先がキルアを指した。
「うがぁあああああああああ!!!」
絶叫とともに、キルアが頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
「キルア!!」
三輪が駆け寄ろうとする。
「来るな……っ」
キルアが震える声で制止する。
その顔は血の気が引き、目は焦点を失いかけていた。
「ふふ……無駄だ。お主は妾に近づくことすらできまい。この距離で正気を保っていることが、もはや異常なのだ。」
蠱紅がゆっくりと立ち上がった。
その動作だけで、部屋の空気が一変する。
重く、粘つくような呪圧が空間全体を支配していく。
――この戦いは、今までとはまるで違う。
キルアの限界、三輪の覚悟。
すべてが試される、最終局面がいま幕を開けようとしていた。