立ち込める瘴気の中、キルアは朦朧とした意識の中で蠱紅を睨みつけていた。
視界はぼやけ、全身に力が入らない。それでも――
(三輪を守る。今は……それだけでいい)
背後から、小さく震える気配がする。
気配だけで、三輪が涙をこらえていることがわかった。
「三輪……自分を責めるなよ。あいつは、格が違いすぎる。」
キルアは背中越しに声を絞り出した。
「うん……」
か細い返事が返ってくる。
悔しさ、無力さ、自分の弱さ。三輪の心に渦巻くそれらの感情は、痛いほどキルアにも伝わってきた。
「このままだと埒が明かない。やれるだけやってみる。」
震える足に力を込め、キルアはぐらりと立ち上がる。
「もし、俺になんかあったら……その時はマジで逃げてくれ……」
「でも――」
「頼む!」
キルアは振り向き、初めて真正面から三輪に叫んだ。
「ここで三輪がやられちまったら、俺がここまで頑張る意味がなくなっちまう!」
三輪は、口を閉じた。
頷くことしかできなかった。
キルアの足元に電光が走る。
「ほう……まだ立つか。なかなかに精神力は高いようじゃな。」
蠱紅の声が空気を裂く。
「――神速」
風が引き裂かれ、空間が軋む音がした。
キルアの姿は消え、次の瞬間には蠱紅の顔面に鋭い蹴りが突き刺さった。
「ぐっ……!」
空中に浮き上がるようにして蠱紅の身体が吹っ飛ぶ。
無造作に倒れた着物の袖から、血のような黒い液体が滴る。
ゆっくりと、蠱紅が起き上がる。
「……おのれ。妾の顔を……傷つけよったな……」
目が見開かれ、唇の端がつり上がる。
その顔は、怒りを通り越した狂気に染まっていた。
「許さぬ……」
両手を胸の前で組み、禍々しい呪印が宙に浮かぶ。
「領域展開《紅塵蠱籠(こうじんこころう)》」
次の瞬間、世界が変わった。
天井が溶け、床は血の海と化す。
視界は真紅の霧に包まれ、鉄骨の柱は巨大な虫のように蠢き始める。
廃墟は、まるで肉の中へ入り込んだような異様な空間に変貌していた。
蠱紅は玉座のような「女座」と呼ばれる高さのある台の上に立ち、二人を見下ろしていた。
「領域内で妾が対象とした者は……妾の術式により“今まで受けてきた過去の痛み”、その全てを最大強度で想起させられる」
その声はもはや神の宣告のようだった。
「そしてその記憶は、脳に直接再生され……現実の激痛となって現れる」
キルアの目が見開かれる。
次の瞬間――
「うああああああああああああああああ!!!!!!」
絶叫。
喉が張り裂けるほどの、凄まじい叫び。
キルアの体が弓なりにのけぞり、目は白目を剥き、全身が激しく痙攣していた。
泡を吹き、両手で頭をかきむしる。
その爪が皮膚を裂き、血が滴る。
「やめて!やめてあげて!」
三輪はキルアの元へ駆け寄る。
その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
キルアの脳裏には――
かつてゾルディック家で受けた「訓練」と称された拷問。
焼かれ、針を刺され、電流を流され、毒を飲まされ、全身の関節を外される。
そしてそれを「強くなるため」と言い聞かされ、受け続けた過去。
そのすべてが、まるで今、同時に起こっているかのように脳へと再生されていた。
「キルア!!!!」
地面に崩れ落ちたキルアを抱きしめる。
彼の体は焼けるように熱く、恐ろしいほどに冷たかった。
「無駄じゃ」
蠱紅がゆらりと歩き出す。
「もうじきその男の脳は完全に破壊される。生きていたとしても、言葉も、意識も……すべて失われるじゃろうな」
にやりと、口角が異様なまでに吊り上がる。
三輪は震える手でキルアを強く抱きしめた。
――そして、ただ名前を呼び続けることしか出来なった。