ハッピーエンドに向かうには   作:内海空洞

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誤字報告ありがとうございました。

時系列は完全無視の短編を偶に投下します。Q&Aはしません。
本編が行き詰まったり、アイデアが急に湧いた時に投稿するかもしれませんね。




サイドストーリー
シュガー·スポット


 

「デスデース♪」

 

放課後の街は、夕暮れ前の穏やかなオレンジ色の光に包まれていた。

制服のスカートをふわりと揺らし、暁切歌の足取りは春の陽気に誘われるように軽快に跳ねていた。いつもなら隣には無二の親友である月読調の姿があるはずだ。しかし、今日は珍しく調が教員に呼び出され放課後の手伝いを頼まれてしまった。

 

一人での下校。少しだけ寂しさが胸をかすめるが、今の切歌にはそれ以上に胸を躍らせる目的がある。

向かう先は、路地裏にひっそりと佇む喫茶店『コモド』。そこには切歌が淡く、けれど大切に育てている恋心の対象――優斗が待っているはずだった。

 

「調がいないのは寂しいデスけど……今日は優斗さんと二人っきりでお喋りできるチャンスかもしれないデス!」

 

期待に胸を膨らませ、切歌は「コモド」の扉に手をかけた。カランカラン、と乾いたベルの音が店内に溶け込んでいく。

その瞬間、切歌を真っ先に迎えたのは、焙煎されたばかりのコーヒー豆が放つ、香ばしくも深い芳醇な香りだった。鼻腔をくすぐるその香りは、いつだって彼女の心を解きほぐしてくれる。

 

しかし、今日の店内の空気は、いつも流れている穏やかなBGMとは裏腹に、どこか落ち着かない慌ただしさを孕んでいた。

 

「……あれ? 優斗さん一人デスか? ミカやガリィはどうしたんデス?」

 

カウンターの向こう側。いつもなら文字通り、人形のように整った容姿のミカやガリィ達オートスコアラーの誰かが活発に動き回り、完璧な手際で片付けをこなしているはずの場所には店主である優斗が一人きりで立っていた。

彼は注文票とカップの間で忙しなく手を動かしていたが、切歌の声に気づくと、パッと顔を上げた。

 

「ああ、切歌ちゃん。いらっしゃい」

 

優斗は少しだけ額に汗を浮かべ、困ったように眉を下げて微笑んだ。その表情は少し疲れているようにも見えたが、瞳の奥にある芯の強さと優しさは失われていない。

 

「実はね、今日は二人とも急用で来られなくなっちゃって。……ごめんね、一人で回してはいるんだけど、今はちょっと手が回らなくて。注文、少しお待たせしちゃうかもしれない」

 

申し訳なさそうに言う優斗。その少し弱ったような、けれど誠実な微笑みを見た瞬間、切歌の胸の中に熱い何かが突き上げた。それは「客」としてではなく、一人の「暁切歌」として大好きな人を助けたいという、あまりにも純粋で真っ直ぐな衝動だった。

 

「それなら、暇を持て余したアタシが助っ人を買って出るデース! これでも人助けは得意なんデスよ。優斗さんのピンチはアタシが救うデス!」

「えっ、でも、切歌ちゃんにそんなことさせるわけには……」

 

優斗の制止が耳に入るより早く、切歌は勢いよく背中のカバンをカウンターの隅に置いた。

学校のブレザーを脱ぎ、袖をまくり上げる。彼女の瞳には戦場に挑む時のような、強い決意の光が宿っていた。

 

「いいのデス! アタシがやりたいからやるのデス! 喫茶店の店員、一度やってみたかったデス!」

 

切歌は半ば強引に、けれど弾けるような笑顔でカウンターの中へと潜り込んだ。

狭い通路ですれ違う際、優斗の体温が微かに伝わってくる。ほんの一瞬の接近に切歌の心臓は早くも「デスデス」と騒がしいビートを刻み始めていた。

 

 

 

 

 

「はい、これを使って。切歌ちゃんには少し大きいかもしれないけど」

 

優斗がカウンターの奥から取り出したのは、厚手の帆布で作られたシンプルなエプロンだった。使い込まれた風合いがあり、胸元には『Komodo』のロゴが丁寧に刺繍されている。優斗がいつも身につけているものと同じ、清潔な石鹸と染み付いた微かなコーヒー豆の香りがふわりと鼻をくすぐった。

 

「わあ、ありがとうデス! さっそく装備するデース!」

 

切歌は意気揚々とエプロンを頭から被り、腰の紐を背中に回した。しかし、慣れない作業に指先が思うように動かない。いつも調に手伝ってもらっているわけではないが、今日に限って、背後の紐はまるで生き物のように彼女の手をすり抜けていく。

 

「あ、あれ? ……おかしいデス。紐が変なところでこんがらがっちゃったデス……」

 

焦れば焦るほど、紐は指の間で複雑な知恵の輪のように絡まり、切歌の小さな指先に力が入る。背中でモゾモゾと動く彼女の様子を見て、優斗は声を立てずに小さく笑った。

 

「無理しないで。僕が解いて結んであげるから」

「ふぇ……っ!?」

 

優斗が、迷いのない自然な足取りで切歌の背後へと回り込んだ。

その瞬間、切歌の世界から雑音が消えた。背中に感じるのは優斗の体温。ほんの数センチの距離に大好きな人がいる。

優斗の指先が切歌の腰のあたりで繊細に動き始めた。絡まった紐を一本ずつ丁寧に、優しく解いていく。切歌の耳元には、彼の落ち着いた、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。

 

(……近いデス。近すぎるデス……!)

 

切歌は、制服の薄い生地越しに伝わってくる彼の「男の人」としての存在感に圧倒されていた。

そして何より、彼女の意識を支配したのは、自分の背後で立ち働く彼の手だった。

視界には入っていないはずなのに、紐を操る指先の節くれだった感触や掌の厚みが、触れ合う布を通じて克明に伝わってくる。細身なのにどこか力強く、温かい手。切歌にとってそれはどんな宝よりも魅力的で、同時に恐ろしく心拍数を跳ね上げる魔法だった。

 

(優斗さんの指……絶対、綺麗デス。アタシを受け止めてくれた時の、あの指先……。想像しただけで顔から火が出るデス……!)

 

切歌は自分の心臓の音が静かな店内に漏れ出しているのではないかと不安になり、思わず呼吸を止めて肩をすくめた。ドクドクと波打つ鼓動が喉の奥までせり上がってくる。

 

「……よし、解けたよ。後はこれをきゅっと結んで。……うん、よく似合ってる」

 

仕上げに優斗の大きな手がポン、と切歌の肩に置かれた。ほんの一瞬。けれど、その掌の重みと温かさは切歌の全神経をその一点に集中させるには十分すぎるほどの衝撃だった。

 

「ひゃうっ……ありが、とう、デス……!」

 

切歌の顔は、一瞬にして真っ赤な林檎のように染まった。優斗が正面に回り込んで彼女の様子を覗き込もうとしたが、切歌は慌てて下を向き、エプロンの裾をぎゅっと握りしめて誤魔化す。

 

「ど、どうしたの? 顔が赤いけど、熱でもある?」

「な、なんでもないデス! これは気合の現れデス! よーし、バリバリ働くデース!」

 

沸騰しそうな頭を振り切り、切歌は逃げるようにカウンターの端へと移動した。けれど、肩に残された手のひらの感触だけは、いつまでも消えずに熱を帯び続けていた。

 

 

 

 

 

 

その後、昼下がりの『コモド』は一時的なラッシュに見舞われた。

近隣の主婦層や、学校帰りの学生たちが次々と扉を潜る。切歌は教わったばかりの配膳をこなし、空いたテーブルを拭き、不慣れながらも一生懸命に店内を駆け回った。

 

「お待たせいたしましたデス! 特製ブレンド、ごゆっくりどうぞデス!」

 

元気な声と明るい笑顔。切歌の存在は忙しさに殺伐としがちな店内の空気をパッと華やかに変えていく。カウンターの奥で手際よくドリップを続ける優斗も、時折彼女の背中に向けて、頼もしい視線を送っていた。

 

ようやく客足が途絶え、一息ついた頃。

 

「優斗さん、コーヒー豆の補充、完了デース!」

「ありがとう切歌ちゃん。重かったでしょ?」

「そこは響さんお得意のへいき、へっちゃらデース!」

 

切歌は棚の奥からずっしりと重い豆の袋を両手で抱えて運んできた。ずり落ちそうになる袋を胸元でぎゅっと支え、一歩、また一歩と慎重に歩を進める。

 

「およ? およよ〜!?」

 

その時だった。

 

パチン、という乾いた音が静かな店内に響く。何事かと思えば、切歌のサイドの髪を留めていたお気に入りのヘアピンが彼女の激しい動きに耐えかねたのか、あるいは重い袋に押し出されたのか、鮮やかに床へと弾け飛んでしまった。

 

「あわわ、手が塞がってて拾えないデス! アタシのチャームポイントがピンチデス!」

「大丈夫だよ。僕がつけてあげるから、そのまま動かないで」

 

優斗がカウンターから出てきて、スッと膝をついた。床に落ちたピンを拾い上げると、ポケットから取り出した清潔なハンカチで細かな埃を払うように丁寧に拭き取る。その所作一つひとつに、彼の誠実な人柄が滲み出ていた。

 

優斗が立ち上がった次の瞬間、切歌の視界は優斗の胸元で一杯になった。

 

逃げ場のない至近距離。見上げればそこには優斗の穏やかな、けれどどこか熱を帯びた瞳が、真っ直ぐに自分を射抜いていた。

 

「少し、失礼するね」

 

低く落ち着いた声が、切歌の鼓膜を震わせる。

 

優斗が右手をゆっくりと伸ばした。

 

切歌の目は、釘付けになった。

 

(……優斗さんの、手……)

 

すぐ目の前に、大好きな「手」がある。コーヒーの染みが微かに残る指先、短く切り揃えられた清潔な爪。細身だが、力仕事もこなす男の人らしい節の強さ。それは切歌が今まで見てきたどんなものよりも美しく、抗い難い魅力を放っていた。

 

優斗の指が、切歌の柔らかな前髪をそっと掬い上げた。

ひやりとした指先の冷たさと、そこから伝わってくる芯のある体温。髪に触れる感触がまるで微弱な電流のように全身を駆け抜け、切歌の背筋をゾクゾクと震わせる。

 

(ふぇ……っ、指が、触れてるデス……! 優斗さんの指先、アタシの髪の中に……っ!)

 

優斗は慎重に、まるで脆い硝子細工を扱うような手つきで、ピンを元の位置へと留め直した。彼の指先が切歌のこめかみに僅かに触れる。その一瞬の接触で、切歌の思考回路は完全にショートした。

 

「できた。……よし」

 

優斗は満足そうに微笑むと、少しだけ顔を近づけて彼女の様子を確認した。

 

「やっぱり、切歌ちゃんにはそのピンが一番似合ってるよ。……うん、すごく可愛い」

「ぴえっ!? ……あ、あ、ありがとう、デス…デス……!」

 

至近距離で浴びせられた、あまりにも無防備で破壊力抜群の賛辞。

 

切歌はもはや「デス」を絞り出すのが精一杯だった。

自分の顔がさっきのエプロンの時以上に赤く、熱くなっているのが分かる。心臓の鼓動は早鐘のように打ち鳴らされ、もはや名乗り出た「助っ人」としての冷静さを保つことなど不可能だった。

優斗はそんな彼女の混乱に気づいているのかいないのか、また優しく微笑むと、軽い足取りでカウンターへと戻っていく。

 

残された切歌は、エプロンの裾を両手でぎゅっと握りしめ、自分に触れた彼の指先の残像をいつまでも脳裏に焼き付けていた。

 

店内の喧騒が潮が引くように去り、オレンジ色の夕刻が窓の外を支配し始めた頃。

看板を「CLOSE」にひっくり返す前の、少しだけ静かで親密な時間が『コモド』を包み込んでいた。

 

 

 

 

 

ピークタイムの嵐が過ぎ去り、店内には洗浄機が回る低い音と、遠くで鳴り始めた微かな雷鳴だけが響いていた。

 

「ふぅ……。ひと仕事終えた後のこの達成感、たまらないデス!」

 

切歌は額の汗をエプロンの裾で拭い、充実感に満ちた表情で店内を見渡した。カウンターの向こうでは優斗が使い終わった器具を丁寧に磨き上げている。その所作に切歌はつい手を止めて見惚れてしまいそうになるのを、ぶんぶんと首を振って打ち消した。

 

「いけないデス、最後までキッチリお手伝いするのが『暁切歌』という女デス……! よーし、次はあの棚の片付けデス!」

 

切歌が目をつけたのは、カウンター上部にある木製の棚だった。そこには普段あまり使われない大ぶりのキャニスターが並んでいる。

 

彼女はつま先立ちになり、指先を精一杯伸ばした。

 

「む、むむ……。あと数ミリ、あと数ミリが届かないデス……。アタシ、あと5センチ、いや3センチでもいいから身長が欲しかったデス……!」

 

プルプルと震える指先。あと少しで陶器の縁に触れそうだが、無情にもキャニスターは数センチの絶望的な距離を保っている。さらに深く踏み込もうと切歌が重心を前に預けた、その時だった。

 

「無理しなくていいよ。……ほら」

 

不意に、背後から大きな影が差した。

遮られた光の代わりに、切歌の全身を包み込んだのは、驚くほど近くに迫った優斗の熱だった。

 

「ひゃうっ……!?」

 

優斗が後ろから覆いかぶさるようにして、長い腕をすっと伸ばした。切歌の耳元を彼の穏やかな声が掠めていく。

次の瞬間、切歌の視線のすぐ先で優斗の手が動いた。

 

(……っ、優斗さんの、手……!)

 

カウンターを掴む時や、ピンを留めてくれた時よりも、さらに至近距離。

キャニスターを掴んだその手は、節くれだった骨格が浮き出し、陶器をしっかりとホールドする力強さに満ちていた。手の甲を走る一本の血管、そして自分よりも二回りは大きいであろうその掌の厚みが切歌の瞳を強く惹きつける。

 

気づけば、切歌は逃げ場のない空間に閉じ込められていた。

目の前にはコーヒー豆が詰まった棚。そして背後には、優斗の身体。

優斗は細身の印象が強いが、こうして密着してみると背中に伝わってくるのは驚くほど厚く、たくましい胸板の感触だった。

 

(……っ! 優斗さん、見た目よりずっと……がっしりしてるデス……!)

 

カチコチに固まった背中越しに彼の規則正しい、けれど力強い心臓の鼓動がドクドクと伝わってくる。振り返ろうにも、わずか数センチ後ろには彼の顎があり、動けば確実に鼻先が触れ合ってしまう距離だった。

「壁ドン」ならぬ、棚と人の間に挟まれた「棚ドン」。切歌は呼吸の仕方を忘れたようにただ目を見開いて立ち尽くすことしかできない。

 

「これだよね? はい、どうぞ」

 

優斗は軽々とキャニスターを下ろすと、それを切歌の手に持たせた。その際、彼の指先が切歌の手の甲に僅かに触れ、熱の塊が彼女の心臓を直撃する。

 

「怪我をしたら大変だからね。高いところにあるものを取る時は、必ず僕に言って」

 

優斗はあくまで自然に微笑みを浮かべて彼女を覗き込んだ。

だが、至近距離で見つめられた切歌の心拍数はすでに臨界点を超えていた。

 

「あ……ありが、とう、デス……」

 

どうにか絞り出した声は、自分でも驚くほど細く震えていた。

優斗が身体を離すと、冷えた空気が二人の間に流れ込み、切歌はようやく肺に酸素を取り込むことができた。

 

(……ズルいデス。優斗さん、あんなの反則デス……!)

 

赤くなった顔を隠すように、受け取ったキャニスターをぎゅっと抱きしめる。

背中に残った彼の鼓動と、網膜に焼き付いた大きな手の残像。

切歌の恋心は雨を呼ぶ湿った風に煽られるように、さらに激しく燃え上がっていくのだった。

 

 

 

 

 

「ふぅ……。本当にお疲れ様、切歌ちゃん。君のおかげで、なんとか無事に閉店まで漕ぎ着けられたよ。本当に助かった」

 

優斗がカウンターに手をつき、心底からの感謝を込めて微笑む。その穏やかな声色に切歌の疲れは一気に霧散していった。

 

「いいのデス、優斗さんのためならアタシ、火の中水の中デス!」

「ははは、頼もしいね。……そうだ、頑張ってくれたお礼に。これ、試作なんだけど、良かったら食べてくれる?」

 

優斗がキッチンから持ち出してきたのは、白い小皿に乗った、まだ湯気が立ち上るほど熱々のスコーンだった。表面はこんがりと黄金色に焼き上がり、芳醇なバターの香りがふわりと二人の間に漂う。

 

「わあ、美味しそうデス! 外はサクサク、中はフワフワなのが見ただけでわかるデス!」

「熱いから気をつけて。はい、あーん」

 

優斗はニコニコと笑いながら、一口サイズに切り分けたスコーンをフォークで刺すと、それを当然のような動作で切歌の口元へと差し出した。

 

「ふぇ……っ!?!?!?」

 

切歌の思考はその瞬間、真っ白なノイズの中に弾け飛んだ。

目の前にあるのは、焼きたてのスコーン。そしてそれを支えているのは、切歌が愛してやまない優斗の手だ。

フォークの柄を優しく、けれど確実に握りしめる長い指。わずかに浮き出た手の甲の筋。その指先が、自分の唇からわずか数センチの場所に静止している。

 

(あ、あ、あ、あーん!? これって、世に言う、あの……間接キスの前段階デスか!? それとも、もうアタシたち、そういう関係デスかー!?)

 

ドクドクと心臓がうるさく警鐘を鳴らす。あまりの衝撃に切歌が固まって動けずにいると、優斗は彼女の反応を「困惑」と受け取ったのか、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「……あ、ごめんね。強引すぎたかな。いつも響ちゃんや未来ちゃんにも、こうして試食してもらっているから、つい癖で……」

 

優斗の手が、ゆっくりと離れていく。

 

それを見た瞬間、切歌の心の中に「逃したくない」という本能的な焦りが芽生えた。響たちと同じなのは少しだけ悔しいけれど、今この瞬間、この手を受け入れられるのは自分だけなのだ。

 

「い、嫌じゃないデス! いただくデス! むしろ、いただくのがアタシの使命デス!」

 

離れかけた優斗の腕を追うように、切歌は雛鳥のようにそっと口を開けた。

優斗は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにまた優しく微笑むと、フォークをゆっくりと彼女の口の中へ滑り込ませた。

唇に触れるフォークの冷たさと、そこから伝わるスコーンの温もり。そして何より、優斗が自ら食べさせてくれれるという事実。

 

切歌は、そっと目を閉じて咀嚼した。

 

「……どう? 味、薄くないかな?」

「ふぉ、ふぉいひーデス……! 味がよくわからないくらい、甘くて……幸せな味がするデス……」

 

口の中に広がる濃厚なバターのコクと、ジャムの酸味ある甘さ。それを支えるほのかな小麦の甘み。けれど、切歌の味覚を支配していたのは、それ以上に甘く蕩けるような胸の奥から溢れ出す幸福感だった。

目を開ければ、そこには至近距離で自分を見守る優斗の顔。逆光の中で彼の輪郭が柔らかく光り、その優しい眼差しは切歌の魂の奥深くまで届いているような気がした。

 

(ああっ……もう、このまま時が止まればいいのにデス……!)

 

この光景、この香り、そして唇の端に残った微かな熱。切歌はこれらを一生忘れることはないだろうと、本能的に確信していた。

 

その時、店内の静寂を切り裂くように、気づかない程遠くで「ピカッ」と鋭い光が走り、続いて大きな雷鳴が轟いた。

 

 

 

 

 

客のいなくなった店内は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。

カウンターの隅に並んで座り、優斗が淹れてくれた食後のほうじ茶を啜る。立ち上る湯気の向こうで、優斗がふぅ、と小さく息を吐いた。

 

「改めて……本当にお疲れ様。切歌ちゃんのおかげで今日はなんとかなったよ、ありがとう。お礼は何がいいかな?」

「えへへ、いいんデス。アタシも楽しかったデスから!」

 

照れ隠しに茶托を指先でなぞっていた切歌だったが、ふと、隣でカップを持つ優斗の手に意識が吸い寄せられた。

カウンターの木目に置かれたその手。指の節がしっかりと浮き出し、手の甲を走る一本の筋が彼が日々重ねてきた労働の重みを物語っている。自分よりも二回り……いや、もっと大きく見えるその造形に、切歌は胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚に陥った。

 

「……優斗さんの手、やっぱりすごく大きいデス。アタシのと、全然違うデスね」

 

思わず零れた本音に、優斗は自分の右手を持ち上げ、まじまじと見つめた。

 

「そうかな? 毎日食器を洗ったり豆を挽いたりしてるから、少し荒れててゴツゴツしてるかもしれないけど。……もし良かったら、比べてみる?」

「ふぇっ!? ……い、いいんデスか?」

 

切歌は心臓が口から飛び出しそうなのを必死に抑え、恐る恐る、自分の小さな右手を差し出した。

導かれるように、優斗の大きな掌に自分の掌をぴたりと重ねる。

肌と肌が吸い付くように触れ合った瞬間、切歌の全身を心地よい熱が駆け巡った。

自分よりもずっと長く、節のしっかりした彼の指。自分の指先が、優斗の指の第一関節あたりまでしかないという圧倒的な事実。自分の手が、まるで彼の熱の中にすっぽりと飲み込まれてしまいそうな錯覚。

 

(……温かいデス。それに、すごく……『男の人』の手デス……!)

 

切歌は呼吸をすることさえ忘れ、自分の手のひら越しに伝わってくる彼の脈動に全神経を集中させた。

すると優斗は、重ねられた彼女の手を優しく見つめながら、静かに口を開いた。

 

「……本当だ。切歌ちゃんの手は、僕のと違ってすごく柔らかいね。……でも、今日一日一緒に働いてわかったよ。この手は、誰かのために一生懸命になれる、とても真っ直ぐな手なんだね」

 

優斗はそう言うともう片方の手を加え、彼女の小さな手を包み込むようにそっと握りしめた。

それは、今日一日自分を助けてくれた一人のパートナーに対する、最大限の敬意と親愛が込められた仕草だった。

 

「優斗、さん……」

「今日一日、この手に何度も助けられたよ。ありがとう、切歌ちゃん」

 

優斗の、芯のある穏やかな声。

「守りたい」という一方的な保護ではなく、一人の人間として、その献身を認めてくれた彼の言葉。その誠実さが、切歌の胸をどんな甘い囁きよりも激しく、熱く締め付けた。

 

「……っ、そんなこと言われたら、アタシ……っ」

 

言葉が続かない。

 

ただ、繋がれた手のひらから伝わってくる優斗の温度が逃げ場のない熱となって切歌の頬、そして耳の裏までを真っ赤に染め上げていく。

店内の静寂が、より一層深まり、二人の間には雨上がりの湿った空気のような濃密な沈黙が流れた。

その直後、窓の外で地響きのような雷鳴が轟き、それを合図にしたかのように、猛烈な雨が屋根を叩き始めた。

 

 

 

 

 

「……っ!?」

 

窓の外に目を向ければ、そこにはつい数分前までの夕焼け空の面影など微塵もなかった。バケツをひっくり返したような豪雨が視界を真っ白に染め上げ、遠くの景色を霧の向こうへと追いやっている。街灯の光が乱反射し、濡れたアスファルトの上で幾千もの火花が散っているようだった。

 

「わわっ!? うわわのわーデス! 天気予報じゃ今日は一日中、降水確率ゼロのピーカンだって言ってたのにデス……! 全然、予報が誤報で仕事してないデスよ!」

 

切歌は窓に駆け寄り、ガラス越しに荒れ狂う外の世界を驚愕の眼差しで見つめた。あまりの勢いに、軒下で雨宿りをすることさえ不可能に思える。

 

「そうだね。……これはちょっと、傘があっても歩けるレベルじゃないな。風も強くなってきたし、無理に帰ろうとすれば怪我をしかねないよ」

 

優斗は冷静に外の様子を観察すると、カウンターの奥にあるハンガーに手を伸ばした。そこには彼が肌寒い時に羽織るための、少し厚手のニットカーディガンが掛かっていた。

 

「少し雨が弱まるまで、ここで待っていきなよ。……はい、これ。冷えたら大変だから」

「ふぇっ? ありが、とうデス……」

 

優斗はそう言って、自分のカーディガンを切歌の華奢な肩へとふわりと掛けた。

彼が着ていたものだから当然だが、切歌にとってはあまりにも大きく、その袖は彼女の手先をすっぽりと覆い隠してしまう。

 

ずしり、という心地よい重み。

 

そして、鼻腔をくすぐったのは、切歌が愛してやまないあの匂いだった。

清潔な柔軟剤の香りと、染み付いた微かなコーヒー豆の芳醇な残り香。それは優斗という人間をそのまま形にしたような、この世で一番落ち着く魔法の香りだった。

 

「……送ってあげられなくてごめんね。でも、いい機会かもしれないね」

「……えっ?」

 

優斗はカウンターに軽く腰を下ろすと、少しだけ首を傾けて彼女を見つめた。

その瞳には、いつもの穏やかさに加えて、ほんの少しだけの「いたずら心」が宿っているように見えた。

 

「いつも賑やかな響ちゃんや、親友の調ちゃんと一緒にいる切歌ちゃんと、こうして二人っきりになれるのは珍しいから。……せっかくだし、雨が止むまでお話しでもして時間を潰さない? 僕も、もっと君のことを知りたいと思ってたんだ」

「……優斗、さん……?」

 

今、なんて言ったデスか?

 

心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃。それは、どんなノイズにも負けない強さで切歌の脳裏に響き渡った。

「君のことを知りたい」。その言葉は、彼も自分を一人の女性として見てくれているかもしれない……そんな甘い期待を抱かせるには、あまりにも十分すぎた。

 

聞き返そうとした切歌だったが、優斗はただ優しく、けれど確信を持って微笑むだけだった。

切歌は借りたカーディガンの袖を、萌え袖のようになった手でぎゅっと握りしめる。彼の体温が布越しにじわりと染み込み、先ほどまで繋いでいた手のひらの熱が、再び全身へと再燃していくのを感じた。

 

(……ズルいデス。そんな顔、ズルいデスよ……!)

 

外を叩きつける豪雨は、まるで世界から二人を切り離し、この『コモド』という空間を聖域へと変えてしまったかのようだった。

雨音が激しくなればなるほど、店内の静寂は深まり、二人の距離をより一層密接なものにしていく。

 

「……アタシも、デス。アタシも、もっと優斗さんと一緒にいたかったデス。……えへへ」

 

最後に小さく零れた本音は、雨音に紛れて消えてしまったかもしれない。

けれど、優斗の耳には届いていたようで、彼は満足そうに目を細めた。

切歌はスマートフォンを取り出すと、親友の調へメッセージを送り始めた。

 

『調、ごめんデス! 雨がすごいから、コモドで雨宿りしていくデス! 今日のアタシ、最高に幸せ者かもしれないデスよ!』

 

弾むような指先で送信ボタンを押し、切歌は再び、優しいマスターが待つカウンターへと向き直った。

窓の外の嵐はまだ止む気配を見せない。けれど、切歌の心の中にはどんな青空よりも澄み渡った、甘く暖かい光が満ち溢れていた。

 





おかしい……確かにここの切歌は手フェチになったけど、こんなになるとは……これもGeminiって奴の仕業なんだ。
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