そしてアイデアがほしいし、感想もほしい。なので小さなことから大きなことまで、どしどし作者に送ってください。
「で、ここで調味料をペースト状になるまで煮詰める事で、酸味も抜けて旨味だけが残るんだ」
カウンター越しに優斗はカウンター席に座る、私服姿の藤尭に向かって得意げに人差し指を立てる。
ふわりと二人の間に漂う甘いチョコケーキの香りが、男二人のマニアックな料理談義を優しく包み込んでいた。
「なるほどなぁ。けど、もう少しマイルドにしたほうがご飯に合うと思うけど、その辺はどうすればいいんだ?」
藤尭はフォークをケーキに刺したまま止め、真剣な面持ちで相槌を打つ。
現場での鋭い眼差しとは違う、趣味に没頭する一人の青年としての瑞々しい瞳がそこにあった。
「卵を加えるといいね。コクが増すし、口に入れた瞬間の辛みが抑えられて、本場の味に近づくんだ」
「……今日は中華にしてみようかな。聞くだけでお腹が空いてくる」
藤尭は最後の一口のチョコケーキを名残惜しそうに口に運ぶ。
舌の上でとろける甘さに、日々の任務で張り詰めていた肩の力が、しなやかに抜けていくのを感じた。
「あれ、朔也さんは今日は中華にするんだ? 本格的な物じゃなければ油は少なくできるけど……」
「油は処理が大変だからなぁ。……それとなく気になってたけどさ、優斗って人を呼び捨てにすることはあるのか?」
不意の問いかけに、優斗は拭いていたグラスを止め、視線を斜め上へと彷徨わせる。
穏やかな日常の中で自分が誰かをどう呼んできたか、古い記憶のページを一枚ずつ捲るように思い返した。
「うーん、呼んだことは無いや。……朔也さんはこれから、呼び捨てで呼んだほうがいい?」
「むしろお願いしたい方だよ。こっちが呼び捨てだからさ、それがどうにもむず痒かったんだよ」
藤尭は少し照れくさそうに鼻の頭を指で掻く。
任務を離れ、利害関係のない「友人」として隣にいたいという、真っ直ぐな欲求が言葉に滲んでいた。
「わかったよ、朔也……。あはは、なんだか少し照れるね」
優斗は頬を微かに赤く染め、困ったように、けれど嬉しそうに笑う。
敬称が無くなった事で垣根が消え、新しい絆が結ばれた温度が二人の間に心地よく広がる。
「おう。これからもよろしくな、優斗。……あ、そうだ。来る途中のスーパーで卵がセールやってたぞ」
「え、本当? でもクリスちゃんに、帰りに買ってきて貰うのも悪いしなあ……」
優斗は窓の外の空を仰ぎ、買い出しの手間を考えて少しだけ眉を下げた。
いつも誰かのために動く彼にとって、自分の都合で誰かを頼ることは、まだ少し抵抗を覚える。
「じゃあ、俺が代わりに買ってくるよ。そのかわり、さ」
「わかったよ。そのケーキは奢りにするよ」
「ラッキ、言ってみるもんだな」
藤尭は快活に笑い、軽やかな足取りで席を立つ。
夕暮れの光が差し込む店内に、二人の気兼ねない笑い声が温かく響いた。
「っていうことがあって。せっかくなので今日の晩ごはんは中華です」
「いや、見たらわかるけどよ……多くねえか?」
立ち昇る湯気と共に、ニンニクと胡麻油の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
クリスは炒飯と狐色の唐揚げ、春巻きにシュウマイを前に、空腹で鳴りそうなお腹を抱えて目を丸くした。
「いやー、あの後戻ってきた朔也と中華と言ったらコレ!っていう話題になっちゃってさ。……ほら、僕としても最近作ってなかったから、感想聞かせてほしいなーって」
「まあ、いいけどよ……。ったく、男同士で何盛り上がってやがんだか」
文句を言いながらもクリスは割り箸をパチンと割り、迷わず唐揚げに手を伸ばす。
学校の勉強とS.O.N.G.の訓練で使い果たした体に、優斗の作る料理の滋養がじわりと染み渡っていく。
「……ん! ……ふー、ふー、……あつっ、けど美味すぎだろこれ!」
「あはは、ゆっくり食べて。こっちの春巻きも皮がパリパリのうちにどうぞ」
優斗は満足そうに頬張るクリスを見て、細めた目をさらに優しく和ませる。
かつては口元を汚して食べるのが当たり前だったクリスが、今では背筋を伸ばし、綺麗に食事を楽しむ姿に積み重ねた月日を感じていた。
普段より多い量といっても、そこは食べ盛りにして若い二人。特にクリスは体を動かした日とのあって、大半はクリスの胃の中に消えていった。
30分も経たないうちにテーブルの上の食器の中身は綺麗さっぱり消えてしまった。
「あー、美味しかったー。久々にガッツリ食べるのも悪くねえな。……あ、今日はあたしが食器を洗っとくから、こっちにくれ」
「はい、お粗末さま。ありがとうクリスちゃん。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
カラン、と空になったスプーンが置かれ、クリスは甲斐甲斐しく皿をまとめ、洗面台に持っていく。
かつての孤独な放浪生活では考えられなかった、温かい食卓の記憶が彼女の荒んでいた心を、角のとれた丸いものへと変えていた。
「……ふんふーん、……あ」
「ん? どうかした?クリスちゃん」
皿を洗いながらふと前を向くと、リビングのソファに腰を下ろし、テレビを眺める優斗の無防備な後ろ姿が見える。過去の両親の姿と重なるシチュエーションに、いつか優斗に料理を作り、「美味しい、あなた」なんて微笑む未来を想像し、クリスは洗剤の泡を握りしめた。
(……って、何考えてんだあたしはっっ!)
「クリスちゃん? 顔、真っ赤だけど……?」
「何もねー!テレビ見てろ!って、ぶわっ!?」
恥ずかしさを誤魔化すようにクリスは勢いよく蛇口をひねる。勢いを増した水がスプーンに辺りクリスの顔面に直撃した。首を振って妄想と共に水を振り払う。
しかし冷たい水で冷やしても、恋心という名の高火力で熱された頬は、なかなか元の色に戻ってくれそうになかった。
「あはは!翼さん。それはいくらなんでも……」
テレビから漏れる青白い光が、ソファに並ぶ二人の影を壁に長く落とす。どうやら翼とマリアがクイズ番組に出場しているようで、翼が毎回クイズに答える内容が優斗のツボに入ったのか、普段はこらえている笑いを引き出している。
逆にクリスは、翼の回答に呆れたように、けれどどこか楽しげに鼻を鳴らした。
「……ま、翼先輩らしいっちゃあ、らしいけどよ。最近流行りのデザートが八つ橋って、いつの時代の話なんだ?」
『続いては流行語の問題です。個人やグループを応援する活動の中でも、特にお金を払ったりする行為を何と呼ぶでしょう?』
『応援している者への忠義、そして敬意……。金銭で表すものといえば!答えは、『お布施』ね!』
画面の中の翼は必勝を確信したような凛々しい表情で、力強く拳を握りしめている。
そのあまりに真っ直ぐな瞳に、司会者の困惑した沈黙が重なり、妙な間が生まれた。
『……残念! 違います!』
『ぐぬぬ……。何が違うというの……?』
『ふふ、翼は古風ね。正解は『スパチャ』よ! あまりの素晴らしさに、払わずにはいられない行動をそう表現するのよね?』
マリアは自信満々に胸を張り、カメラに向かって優雅な、けれどどこかズレた微笑みを向ける。
ステージ上で輝く歌姫としての面影はなく、今は「妹たちに教わった最新流行」を信じて疑わない
『……ブブーッ!! 残念、正解ではありません!』
『嘘でしょ!? きり……ゴホン、皆から聞いた話では、これが今の常識のはずよ!』
『正解は……『納税』。推しのグッズを買うことは、もはや義務。国に金を払うのと同じである、でした!』
『はあああぁ!? なんなのよその夢のない答えは!! 応援は義務じゃない、愛なのよ! 義務教育からやり直しなさいよこの番組!!』
マリアが台本を忘れんばかりの勢いで身を乗り出し、司会者に詰め寄る姿がアップになる。
呆れていたクリスも、その剣幕に「ひっ」と肩を揺らしたが、すぐに我慢できずに腹を抱えて笑い出した。
「あっははは! 納税って、あいつら、アイドルなのに税金扱いされてんのかよ!」
「……あはは、……あはははは……」
クリスの快活な笑い声の隣で、優斗は引き攣った笑みを浮かべ冷や汗をそっと拭った。
テレビのバラエティらしい冗談。けれど、優斗の脳裏にはそれ以上に笑えない現実が去来していた事を思い出させた。
(……笑えないよ。僕にとっては、全く笑い話じゃなかったよ……)
思い出すは、かつて銀行のATMで通帳を開いた時の、あの凍りつくような感覚。
優斗の将来を案じたキャロルとサンジェルマンが、独断で口座にねじ込んだ、多すぎる支援金。
(初めて見た時、記帳されたゼロの数を数え直して……三回くらい意識が飛びかけたんだっけ……)
優斗は震える手で温かいお茶を啜り、何とか自分の心拍数を正常に戻そうと深く息を吐いた。
「おい優斗、大丈夫か? なんか急に、魂が抜けたような顔してるぞ」
「ううん、大丈夫……。ただ、少しだけ善意という名の暴力を思い出しちゃって……」
心配そうに覗き込むクリスの瞳から逃げるように、優斗は再び画面に視線を戻す。
テレビの中では、クイズの突飛な答えに振り回されっているマリアが、視聴者の笑いを誘っていた。
「ごめん。ちょっと……身に覚えがあるというか、ちょっと前の事を思い出したというか……何というか。……クリスちゃんは、個人に納税なんてしちゃダメだよ?」
優斗はぎこちなく笑い、かつてキャロルやサンジェルマンが善意で口座にねじ込んだ重すぎる愛の記憶を、熱い茶と一緒に飲み下した。
「あたりまえだろ、誰があんなバカげたこと…………それよりさ」
クリスはフイと顔を背けたが、その耳元が林檎のように赤らんでいるのを、隣に座る優斗は見逃さなかった。
膝の上に置かれたクリスの拳がぎゅっと握りしめられ、生地が小さく音を立てる。
テレビから流れるクイズ番組の喧騒とは裏腹に、二人の間を熱を孕んだ沈黙が満ちていく。
「さっき、藤尭の奴と話したって言ってたな。……なあ優斗、いつからアイツのこと呼び捨てにしてたんだ?」
絞り出すような低い声が、静かな室内に冷たく響いた。
一緒に住んでいるクリスにはいつも丁寧な「ちゃん」付け。他者にも節度ある敬称を崩さない優斗が男相手とはいえ、特別に許した呼び方が彼女の胸の奥を焦燥でチリチリと焼き尽くしていた。
「えっ……? ああ、さっきの」
優斗はクリスのただならぬ気配に、少し言い淀む。
「……誰に対しても『さん』だったろ、今まで。……なんでアイツだけなんだよ」
顔を上げた彼女の瞳には、湿った嫉妬の炎が揺れている。
受け入れてくれる優斗への深い愛情ゆえに、優斗から向けられる感情を誰にも譲りたくないと、クリスの切実な独占欲がそこにはあった。
「いや、なんていうか……。朔也の方から『さん付けはむず痒い』って言われて、その場の流れでそうなったんだ」
じっとりと睨みつけるクリスの視線に、困ったように眉尻を下げ、優斗は頭を掻く。
しがらみを持たない友人への純粋な歩み寄りは、相手の立場を尊重する彼にとって他意のないものだった。
「ふん、どうせ男の知り合いが少ねえから、調子に乗らされたんだろ。……で、他にもそんな風に呼んでる奴はいるのか?」
ふてくされ、頬を膨らましたクリスは膝を抱え込み小さくまとまる。そして覗き込む様に上目遣いで射抜くような視線を向ける。
終の棲家と決めた場所で、誰にでも誠実な彼だからこそ「最初の特別」はできるだけ自分でありたかったという嫉妬が、胸を焦がしていた。
「うーん、思い出してみたけど、多分朔也が初めてだと思うよ。誰かを呼び捨てにするのって、なんだか背筋がそわそわするから」
優斗は視線を天井へ泳がせ、過去の記憶を辿るように指折り数える。
前世からも換算した高い精神年齢ゆえに染み付いた「敬称」は、響や未来たちへの彼の当たり前であり、尊重さを示した誠実さの証でもあった。
「……じゃあ、女はどうなんだ? 女の知り合いで、呼び捨てにしてる奴は……一人もいねえんだな?」
いてほしくない願ったクリスの一段低くなった声が、リビングの空気をピンと張り詰めさせる。
テレビの音を掻き消すほどにうるさいクリスの鼓動が、期待と不安が激しく交差していた。
「いないよ。女の人を呼び捨てにするなんて、僕にはハードルが高すぎるというか……。想像しただけで顔から火が出そうだよ」
優斗は赤面し、手でぱたぱたと顔を扇いで視線を逸らす。
女性を無造作に呼ぶ行為は彼にとって秘め事のように恥ずかしく、実は未来が密かに「呼び捨てにしてほしい」と願っていることに気づく余裕などなかった。
「だったら練習だ! ほら、あたしの名前を呼んでみろ。それも呼び捨てで、だ!」
クリスはソファの上で身を乗り出し、真っ赤な顔のまま距離を詰める。
「今押さなければ絶対呼ばない」と直感した彼女の勢いに、優斗は目を白黒させて背もたれに沈み込んだ。
「ええっ!? でも、クリスちゃんはクリスちゃんだし……。急にそんな」
たじろぐ優斗の鼻腔を、彼女から漂う微かな石鹸の香りがくすぐる。
焼き尽くすような強い意志を宿したクリスの眼差しに、彼の思考はゆっくりと麻痺していった。
「無理じゃねえ! あたしが良いって言ってんだから、文句ねえだろ! ほら、早くしろ!」
ぶっきらぼうなゴリ押しに観念し、優斗は喉のつかえを飲み込むように小さく深呼吸する。近い距離に、二人の間に爆発しそうな熱量が満ちていった。
「……わかったよ。………ク、クリス……」
優斗の唇から溢れたその響きは、甘く、そして残酷なほど真っ直ぐに彼女の鼓膜を震わせた。
名前を呼ばれた瞬間、クリスの思考回路に火花が散り、制御不能な独白が脳内を駆け巡る。
(……っ!?今、呼んだ……呼んだよな!?『ちゃん』抜き!呼び捨て!マジかよ!? いつもあんなに丁寧で、誰に対しても一線を引いてるアイツが、あたしの名前を、あたしだけの名前を……!っていうか声が!声がいつもより低いっていうか、耳の奥まで響くっていうか、何なんだよこの破壊力は!あーもう、あの野郎に先越されたのはムカつくけど、女の中で一番乗りはあたしだ!どうだ未来!あいつがずっと狙ってたポジションを、あたしが、この雪音クリス様が先に取ってやったぜ!やっほい!響の奴だってまだ『響ちゃん』なのに、あたしは『クリス』……!これってもう、実質……実質、け、けけけ結婚してるようなもんだろ!?いや待てそら待て落ち着けあたし!まだ名前を呼ばれただけだ、浮かれるな!でも優斗の顔、あんなに真っ赤にして……そんなに恥ずかしいなら呼ぶなよ……いや呼べ!もっと呼べ!あたしの名前を一生分呼び続けろ!この家、コモドがあたしの終の棲家なら、あたしの終わりの終着駅のアナウンスも、アイツの声であってほしいなんて……あぁぁぁ何を変なこと考えてんだあたしは!!)
「……もう一回。……もう一回呼んでくれ」
脳内のパニックとは裏腹に、唇から漏れたのは渇望に近い、掠れた声だった。
指先を強く握りしめ、熟れた果実のように熱を帯びた頬を隠すことも忘れて彼を見つめる。
「えっ、あ、うん。……クリス。……クリス……ごめん、やっぱり恥ずかしいからこの辺で止めても……?」
リクエストの意図を測りかねつつも、優斗は戸惑いながらその名を何度も口にする。
静かなリビングに、彼自身の声だけが何度もリピートされる奇妙な状況。
優斗は赤面しながら終わりの許可を取ろうとするが、目の前の少女の様子が明らかにおかしいことに気づいた。
「ふへ……ふへへへ」
呼び捨てられるたび、これまで守ってきた丁寧な距離感が崩れていく。普段は穏やかな優斗が名前を呼ぶだけで、どこか男らしく、力強く響く。
特に、優斗から初めを奪ったという事実が、彼女の理性を甘く焦がしていた。
「……クリス? 大丈夫? 変な感じになっちゃったけど……」
うっとりしたまま石像のように動かなくなった彼女の顔を、優斗は不安そうに覗き込む。
その時、彼の脳裏を過ったのは、かつて店の手伝いに来たオートスコアラー・ガリィの奔放な助言だった。
(……そういえば、ガリィちゃんが言ってたっけ。こういう時は、耳元で囁くのが効果的だって……)
その記憶の中のガリィは優斗を唆し、キャロルをからかう為ににそう説いていた。盗み聞きして若干期待していたキャロルが照れ隠しに彼女を叱り飛ばしていたが。
今のフリーズしたクリスを正気に戻すには、これしかないと優斗は無意識に思い至る。
彼は少しだけ腰を浮かせ、白い肌が眩しい彼女の耳元へと、ゆっくりと唇を近づけた。
「……クリス。聞こえてる?」
「ふえぇ……っ!?」
微かな吐息が耳朶をくすぐり、優斗の温かな体温が至近距離で伝わってくる。
身だしなみに気を遣う彼固有の爽やかな香りと、穏やかな体臭が混ざり合い、クリスの嗅覚を麻痺させた。
呼び捨ての破壊力に加えた禁断のゼロ距離囁きは、少女の処理能力を遥かに超える一撃となる。
「う……あ……っ!?…………きゅう……」
脳内で何かが決定的にオーバーフローし、目を見開いたまま全身から力が抜けていく。
そのまま口から魂が抜け出るような顔で、クリスは白目を剥き意識を手放してソファへとなだれ込んだ。
だらしなくも幸せそうな微笑みを浮かべた彼女の肩を、優斗は慌てて支える。
「ええっ、クリスちゃん!?あ、いやクリスかな!?ええと、しっかりして!」
唐突に気絶した同居人を前に、優斗は心底慌てふためき、必死にその名を呼び続ける。
だが彼女にとって、それはまさに致命的なまでの幸福だった。
「昨夜は驚かせてごめんね。……おはよう、クリス」
朝の光が差し込むキッチンで、制服に着替えて来たクリスに優斗が穏やかに声をかける。
トーストの香ばしい匂いと味噌汁の湯気が混ざり合い、いつもと変わらない朝が始まっていた。
「……お、おはよ。……っ」
クリスは視線を激しく泳がせ、手に持っていたスプーンを皿にカチリと当てた。
昨夜の余韻が抜けないのか、彼女の頬は朝日に照らされる前から林檎のように赤く染まっている。
「やっぱり、呼び方は戻したほうがいいかな? 無理をさせてしまったみたいだし」
「なっ、何言ってやがる! 戻す必要なんてねーよ! あたしが良いっつってんだ!」
優斗の気遣いに対し、クリスは立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出す。
器に盛られた朝食を猛烈な勢いで口に運び、恥ずかしさを飲み込むように喉を鳴らした。
「でも、さっきから僕と目が合うたびに顔を伏せてるし……」
「それは、その……慣れてねーだけだ! いいからそのまま呼べ!……行ってくる!」
最後は逃げるようにカバンを掴み、クリスは嵐のように玄関へと消えていく。
優斗はただ、「いいのかなぁ」と小さく呟き、彼女の背中に向かって小さく手を振ることしかできなかった。
あっという間に時間が過ぎて、ピークを過ぎた午後の穏やかな時間が流れる店内では、今日のお手伝いであるファラが椅子に深く身を沈めていた。
店内に流れるツヴァイウィングの旋律に耳を傾け、優斗の作った賄いのパスタを優雅に堪能している。
「お味はどうですか? ファラさん」
「ええ、相変わらず美味しゅうございますわ。それに、翼ちゃんの歌声に包まれてこの料理……まさに至福ですわね」
ファラはうっとりと目を細め、フォークを置いて静かに感謝を示す。翼を「剣ちゃん」と呼び慕う推し活に励む彼女にとって、ここは聖域に等しかった。
「そう言ってもらえると、作り甲斐がありますよ」
「ふふ、マスターがあなたを慕う理由が、改めてよく分かりますわ」
その時、カランカラン! と激しい音を立てて店のドアが勢いよく弾け飛ぶように開いた。
「ゆゆゆ、優斗さん! クリスを呼び捨てにしたって本当ですか!?」
小日向未来が、普段の深い慈愛を感じさせないほどの気迫を湛えて店内に踏み込んでくる。
走ってきたせいか、それとも別の激しい感情のせいか彼女の顔は真っ赤に上気し、肩で荒い息を繰り返していた。
「はぁ、はぁ。……未来、気持ちは分かるけど、早すぎだよぅ」
「ぜひゅー……ぜひゅー……。ごめん……優斗……。こいつらにバレちまった……ゲホッ」
遅れて飛び込んできた響と、もはや限界を超えた様子のクリスがソファに倒れ込む。陸上をリディアンに入ってからはやめたとはいえ、偶にランニングしている未来に追いつけなかったようだった。一般人の響はともかく、訓練しているはずのクリスが追いつけなかったのは、単純に素の身体能力が低いせいだが。
なけなしの体力の限界を迎えながらも、クリスは気まずそうに、けれどどこか勝ち誇ったような複雑な表情で優斗を見上げた。
「はは……。なんだか、大変なことになりそう………こんな事言ってはなんだけど、他のお客様がいなくてよかった……」
優斗は事の成り行きを察し、苦笑いしながら冷たい水を用意する。
心なしかのしのしと歩く未来の重く深い視線が、クリスに対して行った「呼び捨て」という重大な越境行為に対し、静かな、けれど逃げ場のない説明を求めていた。
「事情は……さっき話した通りなんだ。他意はなかったんだけど、驚かせちゃってごめんね」
優斗はカウンター越しに未来と響へ水を差し出し、申し訳なさそうに眉を下げた。クリスにはファラが水を差し出していて、受け取ったクリスは勢いよく煽っている。
店内に漂う、食後のファラの為に入れられたコーヒーによる、挽きたての豆の香りが少しだけ未来の尖った気迫を和らげる。
「……分かりました。でも、クリスだけ特別なんて私、納得できません!」
未来は差し出されたコップを握りしめ、優斗をじっと見つめる。その瞳には、隠しきれない独占欲が渦巻いていた。
決して、クリスの呼び捨てが羨ましい訳ではないはず。
「そうだよ、お兄ちゃん!私も呼び捨てがいい!『響ちゃん』じゃなくて『響』って呼んで!」
「ええっ!? 響ちゃんまで……。でも、二人とはずっとこの呼び方だったし、急に変えるのは……」
響が身を乗り出してリクエストを重ねると、優斗は困惑して視線を泳がせる。
長年親しんだ敬称を変えることへの抵抗感と、妹のように愛でてきた彼女たちの成長に対する戸惑いが、彼の胸をそわそわとさせた。
「ただ呼ぶだけじゃダメです。……その、クリスにしたみたいに、シチュエーションを込めて呼んでほしいです」
未来が顔を赤らめながらも、一歩も引かない構えでとんでもない提案を口にする。
その言葉に、ソファでぐったりしていたクリスが「!?」と顔を跳ね上げた。
「あらあら、いいじゃありませんか。優斗さんのその素敵な声で囁かれたら、きっと翼ちゃんの歌声のように心に響きますわよ」
「ファラさんまで!? ……もしかして面白がってません?」
「ほほほ。なんのことやら」
優雅にコーヒーを啜っていたファラが、小悪魔的な笑みを浮かべて未来の援護に回る。
風属性の自動人形らしい軽やかさで、彼女は優斗の背中を言葉の風でぐいぐいと押し始めた。
「……優斗、もう諦めて呼んでやれ。こいつら、リディアンでボロを出したあたしを一日中問い詰めやがったんだ……切歌と調の奴が呼び出しで来てねえが、後で優斗も問い詰められると思うぜ…」
「クリス……。大変だったみたいだね……」
クリスはげんなりとした様子で頭を抱えた。リディアンで逃げ場のないプレッシャーに曝された今日の疲労をため息と一緒に吐き出す。
彼女のあまりに悲壮な様子に、優斗はついに自身のこだわりを折る覚悟を決めた。
「私も準備万端です! さあ、いつでも来いー!」
「こ、こーい!」
「わかったよ……。二人とも」
腕を大きく開いて構えをとる響に、横で小さめに腕を開く未来が小声で続く。その姿を見て観念した優斗が、諦めたように肩を落として小さくため息を吐く。
その様子を見ていたクリスは、「あーあ……」と呆れたように顔を覆っていた。
「よろしいですか? まずは優斗さんがカフェオレを運び、テーブルに置くその瞬間に……。至近距離の耳元で囁くのです。『今日もリボンが似合っているよ、未来』と!」
監督を気取るファラの朗々とした指示に、未来は頬を林檎のように赤く染め、何度も激しく首を縦に振った。
「はいっ、完璧なシチュエーションです……! 優斗さん、お願いします、私、これだけで一生頑張れますから!」
「……本当にやるの? 恥ずかしくて、僕の方が先に倒れそうなんだけど」
瞳を潤ませて真っ直ぐに訴える最愛の妹分のような彼女の純粋な願いを、優斗はどうしても強く否定することができなかった。
響は未来の隣で「わくわくが止まらないよ!」と全力の笑顔を浮かべ、歴史的な瞬間の到来を心待ちにしていた。
「素晴らしいですわ! 未来さんは移動してもらって、優斗さんはカフェオレを作ってくださいね」
ファラは優雅に指揮を執る真似をし、推し活に励む時のような情熱的な瞳を輝かせた。
「ファラさん、流石に悪ノリが過ぎますよ。僕にはハードルが高すぎます……」
「優斗さん! 私は、全力で受け止める準備ができていますから……。さあ、お願いします!」
いつの間にか席を移動した未来は期待に胸を膨らませ、初めて出会った日から大切にしているリボンをそっと指で撫でた。
「……はぁ。わかったよ……じゃあ、行くね」
優斗は観念してカフェオレを入れた。トレイ上に乗せたカフェオレから立ち昇るミルクの甘い香りと共に歩き出す。
(……はあ、なんであたしはリディアンでボロを出したんだろうな…)
クリスはソファにもたれながら二人の様子を力のない目で見つめていた。
「お待たせ、……熱いから気をつけてね」
優斗はカフェオレをテーブルに置くと、吸い寄せられるように未来の耳元へ顔を寄せた。
(……っ!来る、未来にとっての歴史的瞬間が……!)
響は固唾を呑み、瞳を限界まで見開いて二人を注視する。
「……今日もリボンが似合っているよ、未来」
微かな吐息が耳朶をくすぐり、優斗固有の穏やかな体温が、至近距離で未来の肌を震わせた。
「ふぇひ……っ!?、ゆ、優斗さぁん……っ!」
未来は最愛の人から渡され、今も大切にしているチャームポイントを褒められた、囁きの直撃に頭の中が真っ白に染まっていく。それだけでなく、脳天まで痺れる呼び捨てゆえの低音の声、囁く為に近づいた優斗の体温がより未来の体を熱くさせる。
「……あ、やっぱり変だったかな。ごめんね、未来ちゃん……未来ちゃん?」
優斗は赤面して身を引くが、当の未来は幸せのあまり、魂が抜け、だらしない顔で石化していた。
「ブラボー!おぉ、ブラボー!! これこそが誠実な愛の形!翼ちゃんの新曲にも負けない感動ですわ!」
ファラは満足げに拍手を送り、店内の空気は甘く熱い温度で満たされたのだった。
「未来、大丈夫? ……あはは、本当に真っ白になっちゃったね」
魂が抜けたように幸福な余韻に浸る未来の肩を揺らし、響は困ったように笑う。
「さあ! 続いては響ちゃん、あなたの番ですわ! ステージの中央へ!」
「はいっ! 待ってました! それじゃあお兄ちゃん、行くよぉ!」
響は弾むような足取りで優斗の正面に立つと、躊躇いなくその腰に抱きついた。
天真爛漫な彼女らしい真っ直ぐな体温が、優斗の胸元にダイレクトに伝わってくる。
「わわっ!? 響ちゃん、ちょっと距離が近くないかな……?」
「ううん、これでいいの!……ねえ、お兄ちゃん。私のことも、呼んで?」
上目遣いで覗き込む響の瞳は、まるで宝物を見つけた子供のように澄み切っている。
響の子犬のような無邪気さに、優斗の心の防壁は脆くも崩れ去った。
「……そうだね。わかったよ。……響」
優斗はそっと手を伸ばし、響の柔らかい髪を大きな手でわしゃわしゃと優しく撫でた。
厨房での仕事で少しだけ硬くなった彼の指先が、響の頭に心地よい刺激と熱を伝えていく。
「えひひっ♪ ……あぁ、やっぱりお兄ちゃんの手はあったかいなぁ……」
名前を呼ばれた喜びと、頭を撫でられる安心感に、響はとろけそうな笑顔を浮かべる。
ドキドキと高鳴る鼓動を隠そうともせず、彼女は幸せを噛みしめるように優斗に身を委ねた。
「……あー、もう!見てらんねえ!昨日のあたしの時はあんなに渋ったくせに!」
二人の睦まじい光景に、ソファの隅で耐えていたクリスだが、昨夜に抜け駆けした事で持っていた罪悪感をほっぽり出し、嫉妬を爆発させて立ち上がる。
「あたしも混ぜろっ!今度は気絶なんてしねえっ!」
「ええっ、クリスまで!? ちょっと、皆落ち着いてよ……!」
詰め寄るクリスと、離れようとしない響、そしてようやく正気に戻り始めた未来。
コモドを包む熱気は夕暮れの穏やかな光を遮るほどに高まり、賑やかな喧騒へと変わっていく。
「ふふ、実に素晴らしい光景ですわ。これは翼ちゃんたちにも、すぐに報告しなくてはいけませんわね」
ファラが楽しげに通信端末を操作して録画している事を、優斗は知らない。
そして呼び捨てから始まったこの小さな波紋が、翼やマリア、そしてまだ見ぬ皆も巻き込む大嵐になることを、この時の彼はまだ知る由もなかった。