無機質な壁に囲まれた殺風景な一室。鍵のかかったこの部屋が、今の僕の全世界だった。
僕は硬いベッドに腰掛け、苛立ちのままに舌打ちをした。
あの女、ナスターシャめ。あっさりと投降るとは。子供たちの未来のため?反吐が出る。自らの理想を貫き通す覚悟もないまま、敵に尻尾を振るとは。
そして二課の連中。天羽奏とか言ったか。あの理不尽なまでの圧倒的な力。まるで、物理法則そのものを捻じ曲げているかのような、常軌を逸した暴力。あれは科学の領域ではない。神秘、あるいは狂気だ。
(英雄に、なれるはずだった……!)
歯軋りが脳に響く。僕の頭脳と、ソロモンの杖、そしてネフィリム。それらを組み合わせれば世界を意のままにできるはずだった。腐敗した権力を打倒し、新たな秩序を打ち立てる、新時代の英雄として、僕の名は永遠に語り継がれるはずだったのだ。
それなのに現実はどうだ。研究は取り上げられ、自由は奪われ、ただの戦争犯罪人として、ここで朽ちていくだけの未来。こんな結末、断じて認められるものか。
ガチャリ、と。重々しい鍵が開く音が、僕の思考を中断させた。
扉を開けて入ってきたのは、見慣れた白衣を纏った、しかし、その雰囲気は以前とはまるで違う、一人の女だった。
「なんのようですか、櫻井博士。……いや、今はこう呼ぶべきかな。――フィーネ」
苦々しい思いを込めて、僕は目の前の女を睨みつけた。彼女――櫻井了子は、そんな僕の視線を楽しんでいるかのように、優雅な笑みを浮かべている。
「取引よ、ドクター・ウェル」
「取引、だと?」
「ええ。あなたのその類稀なる能力を、日本政府が欲しがっているの」
了櫻井子の言葉に、僕は思わず鼻で笑った。
「ほう。この僕の能力を、ね。具体的には、どの部分ですかな?」
「貴方のリンカー生成技術。そして、聖遺物やシンフォギアに対する、その深い造詣。特に、マリアを始めとするF.I.S.装者の適合係数を、サンプルが少ない中であれほど引き上げた実績は、見過ごせない程の価値があると判断されたわ。貴方の力は、今後の国家防衛において、必要不可欠だとね」
なるほど、と僕は内心で頷く。確かに、僕の製薬技術、特にリンカーに関する知識は、この世界の誰にも模倣できない、唯一無二のものだ。ここまで引き出す能力を政府が欲しがるのは、当然の帰結と言えた。
だが、それがどうした。今更、誰かの下で、飼い殺しにされるつもりなど毛頭ない。
「……それで、僕に何をしろと?」
「協力を、と言っているのよ」
「断ります。僕は、誰かの駒になるために研究を続けてきたわけではない」
僕が吐き捨てると、櫻井了子は、心底楽しそうに、くすくすと笑った。
「あら、英雄になる気はない、と聞こえるけれど?」
「……何?」
「今回の騒動、そのシナリオを少し書き換えてあげる、と言っているのよ。F.I.S.と、その背後にいたパヴァリア光明結社の非道に、いち早く気づいた悲劇の科学者、ドクター・ウェル。彼は、その事実を世界に告発するため、マリアたちを利用し、内部から命がけで反旗を翻した……。どうかしら? なかなかの英雄譚だと思わない?」
僕の、英雄への渇望。この女は、それすらも見透かしている。不快感に、思わず舌打ちが漏れた。
「……くだらない。僕は、僕自身の手で、それを成し遂げるからこそ、意味があるのです」
「ええ、分かっているわ。だから、これはほんの始まりに過ぎない」
了子は、続ける。その瞳には、全てを見通しているかのような、深い光が宿っていた。
「パヴァリア光明結社が、このまま引き下がるとは思えない。あのトップの男、アダム・ヴァイスハウプトは、そういう手合いではないわ。いずれ、奴らは必ず、表舞台で何かをやらかす。その時が、あなたの本当の出番よ」
「……それで?」
「もし奴らが表に出てきた時、私たちが、いいえ、『貴方が』中心となって、彼らを打倒する。その功績の全てを、貴方が手に入れても構わない、と言っているの」
功績の、全て。その言葉は、悪魔の囁きのように、甘く響いた。だが、まだだ。まだ、足りない。
「だから、僕に協力をしろと……」
「それだけ、貴方の製薬技術は国家にとって魅力的なのよ」
了子は、そこでふっと一息ついた。
「先ほどの『英雄』という名の称号は、貴方への先行投資。二課、いえ、日本政府の全面的なバックアップで貴方の名声を世間に広め、恩を売ることで、フィーネの子供たちを完全にこちら側へ引き込むための、ね。これも、その一環というわけ」
「……」
「見返りは、それだけじゃないわ。貴方専用の、最新鋭の研究所も与えられる。そして、もし日本にとって有益なものを開発し、多大な効果が認められたなら、貴方の名は、英雄として、そして偉大な科学者として、後世にまで語り継がれることを、政府が保証すると言っている」
研究所。名声。そして、英雄の称号。
僕は、思考を巡らせた。このままここで腐っていくか。それとも、多少のプライドには目を瞑り、この女の差し出す手を取るか。
答えは、決まっていた。凡人として生き、忘れ去られるくらいなら、悪魔に魂を売ってでも、歴史に名を刻む道を選ぶ。
「……いいでしょう。その取引、乗って差し上げますよ。ですが、こちらにも条件がある」
「何かしら?」
「製薬開発には協力しましょう。しかし、それだけでは足りない。聖遺物、そしてシンフォギアに関する研究にも、僕を携わらせなさい」
「……いいわ。貴方のシンフォギアへの深い知見を考えれば、それは妥当な要求ね」
取引は、成立した。僕は、最後に、もう一つの、しかし最も重要な要求を口にした。
「それからもう一つ。新城優斗に、僕専用の食事を用意させなさい」
なんだかんだ、あの時無理やり食べさせられた、あの巨大なパフェの、脳が蕩けるような甘い味が、忘れられないのだ。
僕が二課に保護されてから、二日が経った。
コモドが休業になってしまい、手持ち無沙汰になった僕は、弦十郎さんに頼み込んで、二課の職員食堂でお手伝いをさせてもらうことになった。ここの調理師さんたちとは、以前から顔見知りで、すぐに馴染むことができた。
新鮮な野菜をリズミカルに刻み、大きな寸胴鍋でコトコトと煮込まれるスープの味を調える。この場所は、コモドとは違うけれど、誰かのために料理を作るという喜びに満ちていた。
仕込みを始めてしばらく経った頃、食堂の入り口が、にわかに騒がしくなった。
「うわー! いい匂いデス!」
「本当……お腹、すいてきた」
「マム、今日は何を食べるの?」
「そうですね…この、ハンバーガー野菜抜きを注文しましょう」
「はあ…あの時野菜を食べたマムは一体どこへ……」
やってきたのは、マリアさんたちだった。私服姿の彼女たちは、もうすっかり、普通の女の子たちと変わらない。特に、ナスターシャ教授は、以前会った時よりも、どことなく若返っているような気さえする。その足取りは、車椅子を使っていたとは思えないほど、しっかりとしていた。
談笑しながら入ってきた彼女たちの中で、切歌ちゃんが僕の姿に気づくと、ぱっと表情を輝かせ、まっすぐにこちらへ駆けてきた。
「やあ、切歌ちゃん。随分と元気いっぱいだね。何か、いいことでもあったのかい?」
「そうなんデス! なななんと! アタシたちも、学祭に行けることになったんデスよ!」
「変装しないとダメみたいだけど」
「学祭……? ああ、弦十郎さんから許可が下りたんだね。それはよかった」
全身で喜びを表現する切歌ちゃんの隣で、調ちゃんははしゃいではいないものの、その瞳は期待に満ちて、キラキラと輝いていた。
隣にいたマリアさんは行くのかを聞けば、マリアさんは、自分がしでかしたことの影響を考えて、最初は行くのを躊躇っていたらしい。
だが、セレナさんが、今の世間の情報はフィーネに同情的であることを伝え、「マリア姉さんと、一緒に行きたいな」と、可愛らしくおねだりしたそうだ。
「もちろん、優斗さんも一緒に行きましょうね」
と、セレナさんが、ちらちらと何故か僕を見るだけで、何も言わないマリアさんの代わりに、にこやかに言った。
「そうだね。せっかくだから、奏ちゃんたちも誘って、みんなで行こうか」
僕がそう答えると、マリアさんは、分かってはいたけれど、というように、少しだけ残念そうな顔をした。彼女の乙女心に、鈍感な優斗が気づくはずもなかった。
「――そういえば、優斗さん」
不意に、セレナさんがイタズラっぽく笑いながら、僕に尋ねた。
「優斗さんは、私たちのこと、『さん』付けで呼びますよね? 奏さんたちのことは、『ちゃん』付けなのに、どうしてです?」
「え? ああ、それは……奏ちゃんたちとは、もう付き合いも長いですし……。マリアさんとセレナさんは、僕と年も近いですから、なんだか、その……遠慮、しちゃって」
僕がしどろもどろに答えると、セレナさんは、さらに面白がるように、言葉を続けた。
「では、練習してみましょうか。ねえ、マリア姉さん?」
「ちょ、セレナ! あなた、何を……!」
「さあ、優斗さん。呼んであげてください。『マリアちゃん』、と」
「ええっ!?」
慌てて止めようとするマリアさんの両腕を、いつの間にか背後に回り込んでいた切歌ちゃんと調ちゃんが、がっしりと掴んで固定する。
「さあさあ、優斗さん!」
「早く、呼んで」
「デスよねー! 聞きたいデス!」
完全に、遊ばれている。だが、三人のキラキラした期待の眼差しに、僕は抗うことができなかった。
「……分かりました……。……ま、マリア……ちゃん」
僕が、顔を真っ赤にしながらそう呼んだ瞬間。
マリアちゃんの動きが、完全に停止した。そして、次の瞬間には、耳まで真っ赤に染め上げ、顔から湯気が出そうな勢いで、俯いてしまった。その反応が、なんだかとても可愛らしくて、僕も、つられて少しだけ笑ってしまった。
そんな僕たちを、少し離れた場所から見ていたナスターシャ教授が、本当に楽しそうに、微笑んでいた。
「とりあえず、何か食べますか? お祝いに、何でも作りますよ」
僕がそう提案すると、マリアちゃんたちは、待ってましたとばかりに、各々好きなものを注文していく。
注文を受け取り、キッチンに戻ろうとした僕の背後から、また、新しい声が聞こえた。
「じゃあ、私の分もお願いできるかしら?」
振り返ると、そこには、ウェルさんを隣に携えた、了子さんの姿があった。
「了子さん。それに、ウェルさんも」
ウェルさんが、僕たちと一緒に食堂にいる。その事実に、マリアさんたちが驚きの表情を浮かべているのを尻目に、僕は了子さんたちの注文を受け取り、再びキッチンへと向かった。
ナスターシャは、おとなしく席に着いているウェルの姿に一瞬驚いたが、了子から、彼との取引の内容を聞いて、全てを納得した。英雄という名の、首輪。実に、彼女らしいやり方だ。
マリアたちも、現段階では、ウェルに対して過度な悪感情は抱いていなかった。彼の本性をあまり知らない彼女たちにとっては、「目的のためなら手段を選ばない、ちょっと変なところがある科学者」くらいの認識だった。
むしろ、彼女たちの興味は、櫻井了子、その人に向けられていた。
レセプターチルドレンという悲劇を生み出す、元凶となった存在、フィーネ。もし、彼女が死んでいたら、その魂は、自分たちの中の誰かに宿っていたかもしれないのだ。
だが、実際に話してみると、彼女は、知的で、どこか品があり、それでいて、こちらの緊張を解きほぐすような、不思議な魅力を持った、大人の女性だった。
「了子さんは、どうして二課に?」
「奏さんたちとは、どうやって出会ったんですか?」
興味津々で質問を投げかけるマリアたちに、了子は、かつての自分に反発しながらも、必死に食らいついてき、時間と共に慕い出した頃の奏たちの姿を重ね、懐かしむように、そして優しく、一つ一つの質問に答えていった。
やがて、了子は、ナスターシャ、そしてウェルに向き直り、それぞれの今後の立場について、簡潔に説明を始めた。
「まず、ナスターシャ教授。貴女には、これまでのフィーネに関する全ての情報を提供してもらう代わりに、二課の特別技術顧問として、力を貸してもらうわ。もちろん、子供たちの監督役も、お願いするわね」
「……承知しました」
ナスターシャは、静かに頷いた。
「そして、ドクター・ウェル。貴方には、二課所属の特別研究員として、主に製薬開発部門を担当してもらう。もちろん、シンフォギアに関する貴方の知見も、大いに活用させてもらうわ。専用のラボも、すぐに用意させる」
「ふむ。まあ、当たり前ですね」
ウェルは、ふんぞり返って答えた。そして、マリアたちに向かって、尊大な態度で言い放つ。
「というわけです、諸君。これからは、この僕の偉大なる研究のために、せいぜい尽力してくれたまえ!」
「……やっぱり、変な人デス」
「うん、変な人」
その、全く悪びれない態度に、切歌と調が、ひそひそと囁き合う。マリアとセレナは、やれやれ、といった表情で、苦笑するしかなかった。
彼らが、本当の意味で二課に馴染む日は、そう遠くないのかもしれない。
その頃、二課の上にある、私立リディアン音楽院では、来るべき学園祭に向けて、生徒たちが活気に満ち溢れていた。
心地よい喧騒が学園を包む中、風鳴翼は、クラスの出し物で使う小道具の入ったダンボールを手に、廊下を歩いていた。
角を曲がろうとした、その瞬間。向かいから、慌てた様子の生徒が一人、飛び出してきた。
「おっと」
翼は、最小限の動きで、ひらりとそれを避ける。だが、飛び出してきた人物の方は、無理に避けようとして、盛大にバランスを崩し、すてん、と床に転んでしまった。
「――大丈夫?」
翼が、その人物に目線を向ける。そこにいたのは、雪音クリスだった。当たったお尻をさすりながら、顔をしかめている。
「いってて……。あ? …先輩かよ」
「ええ。怪我はない?」
翼は、そう言って、ごく自然に手を差し伸べた。クリスは、一瞬だけ躊躇った後、その手を掴んで立ち上がる。
「……悪ぃ。ちょっと、急いでて」
「構わないわ。よかったら、少し、手伝ってもらえないかしら?」
翼は、持っていたダンボールを示した。クリスは、「しょうがねえな」とぶっきらぼうに言いながらも、その荷物を半分、軽々と持ち上げる。そして、二人は、並んで廊下を歩いて行った。
翼の頼まれごとは、クリスが手伝ったことで、あっという間に終わった。今は、空き教室で、夕日が差し込む窓辺に並んで、とりとめもない雑談をしている。
「……それで、クリス。二課での生活には、もう慣れた?」
「……まあな。うるせえ奴(響)もいるし、おせっかいな奴(未来)もいるし、飯ばっか食ってる奴(響)もいるけど……」
クリスは、一度、言葉を切って、窓の外に視線を向けた。
「……まあ、悪くは、ねえよ」
その言葉は、ぶっきらぼうだったが、不思議なほど、柔らかく響いた。
翼が、そんな彼女の横顔を、どこか慈しむような、生暖かい目で見つめていることに気づいたクリスが、「なんだよ」と何か言おうとしたが、その言葉は、教室の扉が開く音に遮られた。
「あ、翼お姉様! こんなところに、いらしたのですね!」
入ってきたのは、翼のクラスメイトであろう、数人の女生徒たちだった。彼女たちは、翼の姿を見つけると、ぱあっと顔を輝かせ、駆け寄ってくる。
クリスは、一瞬、思考が停止した。
ぐるん、と、錆びついた機械のような音を立てて、彼女は翼の方を振り返った。
「――お、お姉、さまァ!?」
どうやら、風鳴家の令嬢である翼は、このリディアンにおいて、その気品と、時折見せる凛とした強さから、まさしく「高嶺の花」として、全校生徒の憧れの的となっているらしかった。
「ツヴァイウィングとしての活動が知られた時も凄かったですけど、シンフォギアのことが公になってからは、もう、ファンクラブの規模が大変なことになってて!」
クラスメイトの一人が、興奮気味に、クリスに力説する。
若干、引き気味のクリスは、「お、おう……」と、相槌を打つのが精一杯だった。
「クリスも、もっと学校で友達ができるといいわね」
翼は、にこやかにそう言ったが。
「……やっぱ、いいや……」
クリスは、どこか遠い目をして、ぽつりと呟いた。イチイバルの事がバレてこんな、雲の上の人のような扱いをされるくらいなら、今の、あの騒がしくて、おせっかいな日常の方が、よっぽどマシだ。
クリスの複雑な返事に、「?」と、翼は、心底不思議そうに、首を傾げるのだった。
無理矢理展開が続く、本話にぶち込む技量がない作者のQ&A
Q、これでウェル完全仲間入り?
A、はい。この先出番があるかは分かりません
Q、セレナはマリアをどうしたいの?
A、優斗とくっつけたいと思っています。自身は一歩引いていますが、異性の好みは姉と一緒です。
Q、マリア達は馴染んだの?
A、そもそものやったことがライブ占拠犠牲者なし、アジト即陥落、交戦全くなしなので、お互いの負の感情が貯まらず、自然と友好的になっています。
Q、お姉様?
A、お姉様。原作ほど近づき難い雰囲気はありませんので。ファンクラブは生徒だけじゃなく教師もいます。